昨年の大震災の復興もままならぬうちに2012年が暮れて行きます。
毎年この時期になると、お客さまなどお世話になった方のご家族からの喪中はがきが少なからぬ数、届きます。
亭主が美術界に入ったのは1974年ですから、その頃のお客様でいま100歳を超える方もいらっしゃいます。
残念ながら鬼籍に入られた方も多い。
皆さんのご冥福をお祈りするとともに、いくつか記憶に残っていることを書いておきましょう。

●1月21日アートディレクターだった石岡瑛子さんが死去。
1月31日のブログに書きましたが、生前ウォーホル展への原稿依頼や、『資生堂ギャラリー七十五年史』関連のインタビューでお世話になりました。

●2月6日写真家の石元泰博先生が亡くなりました。
石元先生には大変ご迷惑をおかけしてしまった苦い思い出があります。
石元煙突1984年にある企画で石元先生に写真のエディションをお願いしました。2点の作品をプリントしていただいたのですが、それを発表するかしないかのうちに倒産してしまった。せっかくの先生の厚意を無にしてしまい亭主の人生の中でも痛恨の事態でした。


●3月6日ヴァイオリニストの諏訪根自子さんの訃報を新聞で知り、驚きました。
恩地諏訪根自子お目にかかったことはありませんが、創作版画ファンにとっては恩地孝四郎の「あるヴァイオリニストの印象(諏訪根自子像)」で忘れがたい方です。
日本の版画史に残る名作であり、諏訪さんの演奏とともにこの肖像(木版)もますます評価が高まるに違いありません。

●3月8日森ビル会長の森稔さんが死去、森美術館の創設者として現代美術にも大きな貢献をされました。
磯崎新先生が1998年8月から1999年9月にかけて書簡形式の連刊画文集『栖 十二』を制作しました。それは古今の建築家12人が設計した「栖」について語る12章のエッセイと、12点の銅版画よりなり、12の場所から、12の日付けのある書簡として限定35部制作され、35人に郵送されました。森さんはその35人の書簡受取人のお一人でした。

●3月30日華道家の中川幸夫先生が死去されました。
故郷に帰られてからはお目にかかることはありませんでしたが、昔私どもの展覧会に幾度かいらっしゃり、音楽会でお会いしたこともありました。花の汁を使った紙作品なども制作されていたので、いつか機会があれば展覧会をしたいと密かに思っていたので、残念でなりません。

●4月13日元理論社社長の小宮山量平さんが死去。
今江「あのこ」編集者として良心的な本を出し続け、出版文化の振興に大きな貢献をされました。
絵本『あのこ』(今江祥智 文 宇野亜喜良 絵)は亭主の愛読書で、戦後すぐの山あいの疎開地を舞台に幻想的に描かれた馬と少女、そして少年の切ない物語。この本が1970年に出版されたときは100冊近くを買い、もう在庫切れだというのを理論社の倉庫まで探してもらって買占め友人知人に配りまわりました。
亭主が詩画集『少年』(松永伍一 詩 吉原英雄 画)を刊行したときには小宮山さんが展覧会に来られて『あのこ』の話をしたことを懐かしく思い出します。

●7月23日日大教授、建築史家の藤谷陽悦さんが死去。
銀座モダンと都市意匠
藤森照信先生と植田実先生の監修で亭主が手がけた『銀座モダンと都市意匠』展図録(1993年3月16日~4月3日 資生堂ギャラリー)には藤谷さんの研究論文「夢と消えた大船田園都市構想」と、藤谷さん編による詳細な「銀座建築年表1869年~1989年」が112~136頁にわたり収録されています。まだ58歳という若さでしたのに惜しまれます。

●12月1日ワタリウム美術館館長の和多利志津子さんが死去、12月3日のブログにも書きましたが、直前まで海外旅行するなどお元気だったようです。日本の現代美術シーンになくてはならない存在となったワタリウムをつくった功績は大きなものがあります。


年末、いくつかの画廊の閉鎖のニュースも聞きました。
京都から下向(?)して東京のアートシーンに新風をふきこんだ「ニュートロン東京」が2012年末でギャラリー活動を終止したのはまことに残念でした。ときの忘れものから歩いて7~8分のところにある瀟洒なギャラリーはいつも若い人たちの熱気にあふれていました。京都のアートフェア開催を主導するなどした若いオーナーの石橋さんの今後のご活躍に期待しましょう。

調べもの好きの亭主にとって衝撃だったのは、資生堂ギャラリーに次ぐ古い歴史を誇る新宿の紀伊國屋画廊が2012年12月25日で閉廊になったことです。
これについてはいつかきちんと書いてみたいのですが、日本のアートシーンを80数年間にわたり伴走してきた老舗ギャラリーの閉鎖は残念でなりません。