春の陽気が訪れた某月某日、42年間、社長と連れ添ったSが静かに我が家を出ていった。
もっといていいんだよと声をかけたかったのだがぐっと抑えた。
社長が初めて一人暮らしを始めた22歳のときに来たそうだから、付き合いは亭主よりはるかに長い。
入院するような大病はもちろん、風邪ひとつひかずただ黙々と社長に仕えてくれた42年間だった。

息子が500円玉貯金をためて苗場のマンションをキャッシュで買ったのはずいぶん前だが、それに触発されて社長もせっせと500円玉をあつめ専用の缶に貯金していた。おかげで買い物をするときに釣銭で500円玉をもらえるように小銭計算する癖がついた。
「ちょっと溜まったので冷蔵庫を買っていいかしら」と社長がいう。
そこで遂に生涯二度目の買い物、冷蔵庫を新調することになった次第です。
Sすなわちお役御免になった冷蔵庫のメーカーはサンヨー。昔の家電というのは丈夫で長持ち、本当に頭が下がる。

新婚生活は大橋のエレベーターのない五階建マンションの五階だったが、狭い階段をひーひー言いながら社長の兄たちが持ち上げてくれた。
その後、亭主の波乱の人生につき合わされ、猿楽町、鉢山町、江古田、新座、、、とこの冷蔵庫は文句一ついわずついてきてくれました。
冷蔵庫
長い間ご苦労さまでした。

戦後の日本の家電をはじめとする電気製品の優秀さはメーカーのたゆまぬ努力の賜物ですが、陰の功労者は『暮しの手帖』の商品テストだったことは異論がないでしょう。
去る3月23日亡くなった大橋鎭子さんと名編集者・花森安治の二人がつくった雑誌が『暮しの手帖』でした。
メーカーの圧力に屈したくないからと広告を一切とらず、直接購読を主とする経営で妥協のない「商品テスト」を徹底的に繰り返し、その結果を誌面で実名で公表、メーカーを震え上がらせた。

1954年(昭和29年)の初の商品テスト「日用品のテスト報告その1 ソックス」では子ども用のナイロンの靴下と、ナイロンを補強した木綿の靴下を買い集め、3カ月間、小学生と中学生の女生徒に毎日はかせた。洗濯方法も回数も一定にして試験した。そして、「アナはあかない」「色はみなはげる」と報告した。
人間による、くりかえしのテスト方法は、暮しの手帖のテストの原型となった。
伝説的な商品テストと言われるのが石油ストーブだ。英国製の「ブルーフレーム」(アラジン社)を抜群の1位に推した。ブルーフレームだけは倒しても火がストーブの外にもれなかった。この石油ストーブのテストは、商品テストというものの価値を世に知らしめた。メーカーは指摘された欠点を改良することで世界に通用する商品をつくりだしていったのである。

花森さんが亡くなった後も、その志を大橋鎭子さんが継いで頑張っておられました。
亭主も幾度かお宅で、お話をうかがったことがあります。

亭主が『暮しの手帖』のファンになったのは、1960年代にある女性から次のような話を聞いたからです。
彼女は学生時代、一人住まいの北海道出身の老婦人の家に下宿していた。老婦人は花森さんのファンでもあったのでしょう、アルバイトで『暮しの手帖』の宛名書きをしていた。担当は北海道地区で毎月雑誌の発行日近くになると、封筒と宛名リストが老婦人のもとに届けられる。毎月のことだからほとんどの宛名は覚えていてすらすらと書ける(もちろん手書き)。しかし新規の購読者のリストが届けられると、その老婦人は古新聞を使って何度も何度もその新しい宛名に慣れるまで練習を繰り返す。一通書いて何円の僅かなアルバイト代、老婦人は一通宛名を書くごとに自分も『暮しの手帖』の一員であることに誇りを感じていたに違いない。
それが購読者に届けられたとき、美しい宛名文字にきっと読者は『暮しの手帖』の志を感じたことでしょう。
花森さんと大橋さんはスタッフばかりでなく、末端を担う宛名書きの人たちにまで心底から信頼されていた、うらやましく、亭主は組織はかくあるべしと思ったことでした。
時代は移り、『暮しの手帖』も全盛期の勢いはないようですが、二人の志はきっと受け継がれていくに違いない、ご冥福をお祈りする次第です。