石田了一さんは亭主にとって40年来の盟友である。
現代版画センターをつくったとき亭主が最初に頼った久保貞次郎先生は小コレクター運動、創美運動に関わった作家や刷り師、名うての版画コレクターたちを多数呼んできてくれた。
名人刷り師・岡部徳三さんもその一人だったが、岡部さんがまた二人のお弟子さんを連れてきてくれた。ひとりはTさんと言ったが亭主の依頼した刷りをやる間もなく自死してしまった。もう一人が石田了一さんだった。
弱冠20代で既に宇佐美圭司さんのシルクスクリーンを南画廊のために刷っており、「ぼかし(グラデーション)の石田」という名声を得ていた。亭主との初仕事は森義利。合羽摺りの名人作家が石田さんの腕に舌をまいたのをみて、亭主は心強い相棒を得たと直感した。
刷り師と版元(画商)という関係はやがて温泉の師匠と弟子という関係になり、今日に至っている。
先日、石田さんと飲みながら光嶋裕介さんの新作についての相談をし、さらに数年後の石田工房45周年に何かやりたいねという話をして、おいしい蕎麦で仕上げてわかれた。
翌朝、自宅のパソコンをのぞいたら偶然とはいえ、石田さんがらみのメールが届いていた。
以下、発信者のご了解を得て、全文を転載させていただきます。
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はじめまして、日置と申します。
私は現在、東京都東大和市に住んで7年になります。
7年前は国分寺市(最寄り駅は国立駅)に10年間住んでおりました。
ふと久しぶりに、ある検索をしておりましたら、こちらのブログに出会いました。
そして、とても衝撃を覚えました。
http://blog.livedoor.jp/tokinowasuremono/archives/51704574.html
7年前、私はこの場所から東大和市へ移転しました。
そうです、まさしく私は、『恋するマドリ』のロケ地、そして石田先生が住まわれた、ハウスに10年間住んでおりました。
私が入居したときの住居マップには『石田』と名前が入っておりました。
間違いありません。
そして、移転後に映画ロケのことを知り、子供とロケ現場を見学させてもらいました。
それが私の自慢であり、今でも時々、この地を訪れることがあります。
こちらのブログに出会い、ウォーホルの作品が生まれた場所であったことに驚き、私たちの思い出いっぱいの10年の生活に、さらに色付けされたように思います。
私たちが、あの場所を決めたときは、石田先生が住まわれなくなって数年後だったと思われます。
その間は、放置されていて、窓ガラスが割れ、かなり汚かったです。
家を見学に行ったときに大家さんが「リホームする予定だから綺麗にしますよ」と言って、綺麗にして住まわせてもらいました。
『恋するマドリ』のロケ後、新たな入居者が入り、現在も住まわれております。
おそらく、ウォーホルの作品が生まれたことも知らずに・・・・
ということで、この感激をどこに伝えるべきか考えましたが、まずはブログを書かれた方に、と思い、メールさせていただきました。
石田先生にはお会いしたこともないのですが、マドリで繋がったことが嬉しく思います。
いつかお会いできたら、家や部屋のことお話したいです。
このような情報を発信していただいたワタヌキ様に感謝いたします。
ありがとうございました。
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映画「恋するマドリ」
かつての石田了一工房があった家が撮影に使われた。

1983年当時の国立の石田了一工房。
ここでアンディ・ウォーホルの「KIKU」「LOVE」連作が刷られた。

アンディ・ウォーホル「KIKU3」
1983年 刷り:石田了一

草間彌生「靴をはいて野にゆこう」
1979年 刷り:石田了一
草間さんの初めての版画(レゾネ番号1)も上掲国立の家で刷られた。
石田さんの最初の自宅兼工房は中野刑務所の近くの小さなアパートの一室だった。
1979年に国立のハウスに移り、1994年まで15年間にわたり暮らし、その後、府中に工房が移りました。
現代版画センターをつくったとき亭主が最初に頼った久保貞次郎先生は小コレクター運動、創美運動に関わった作家や刷り師、名うての版画コレクターたちを多数呼んできてくれた。
名人刷り師・岡部徳三さんもその一人だったが、岡部さんがまた二人のお弟子さんを連れてきてくれた。ひとりはTさんと言ったが亭主の依頼した刷りをやる間もなく自死してしまった。もう一人が石田了一さんだった。
弱冠20代で既に宇佐美圭司さんのシルクスクリーンを南画廊のために刷っており、「ぼかし(グラデーション)の石田」という名声を得ていた。亭主との初仕事は森義利。合羽摺りの名人作家が石田さんの腕に舌をまいたのをみて、亭主は心強い相棒を得たと直感した。
刷り師と版元(画商)という関係はやがて温泉の師匠と弟子という関係になり、今日に至っている。
先日、石田さんと飲みながら光嶋裕介さんの新作についての相談をし、さらに数年後の石田工房45周年に何かやりたいねという話をして、おいしい蕎麦で仕上げてわかれた。
翌朝、自宅のパソコンをのぞいたら偶然とはいえ、石田さんがらみのメールが届いていた。
以下、発信者のご了解を得て、全文を転載させていただきます。
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はじめまして、日置と申します。
私は現在、東京都東大和市に住んで7年になります。
7年前は国分寺市(最寄り駅は国立駅)に10年間住んでおりました。
ふと久しぶりに、ある検索をしておりましたら、こちらのブログに出会いました。
そして、とても衝撃を覚えました。
http://blog.livedoor.jp/tokinowasuremono/archives/51704574.html
7年前、私はこの場所から東大和市へ移転しました。
そうです、まさしく私は、『恋するマドリ』のロケ地、そして石田先生が住まわれた、ハウスに10年間住んでおりました。
私が入居したときの住居マップには『石田』と名前が入っておりました。
間違いありません。
そして、移転後に映画ロケのことを知り、子供とロケ現場を見学させてもらいました。
それが私の自慢であり、今でも時々、この地を訪れることがあります。
こちらのブログに出会い、ウォーホルの作品が生まれた場所であったことに驚き、私たちの思い出いっぱいの10年の生活に、さらに色付けされたように思います。
私たちが、あの場所を決めたときは、石田先生が住まわれなくなって数年後だったと思われます。
その間は、放置されていて、窓ガラスが割れ、かなり汚かったです。
家を見学に行ったときに大家さんが「リホームする予定だから綺麗にしますよ」と言って、綺麗にして住まわせてもらいました。
『恋するマドリ』のロケ後、新たな入居者が入り、現在も住まわれております。
おそらく、ウォーホルの作品が生まれたことも知らずに・・・・
ということで、この感激をどこに伝えるべきか考えましたが、まずはブログを書かれた方に、と思い、メールさせていただきました。
石田先生にはお会いしたこともないのですが、マドリで繋がったことが嬉しく思います。
いつかお会いできたら、家や部屋のことお話したいです。
このような情報を発信していただいたワタヌキ様に感謝いたします。
ありがとうございました。
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映画「恋するマドリ」
かつての石田了一工房があった家が撮影に使われた。

1983年当時の国立の石田了一工房。
ここでアンディ・ウォーホルの「KIKU」「LOVE」連作が刷られた。

アンディ・ウォーホル「KIKU3」
1983年 刷り:石田了一

草間彌生「靴をはいて野にゆこう」
1979年 刷り:石田了一
草間さんの初めての版画(レゾネ番号1)も上掲国立の家で刷られた。
石田さんの最初の自宅兼工房は中野刑務所の近くの小さなアパートの一室だった。
1979年に国立のハウスに移り、1994年まで15年間にわたり暮らし、その後、府中に工房が移りました。
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