久保エディション第3回~吉田克朗
(現代版画のパトロン久保貞次郎)


1984年3月27日東京湯島のホテル、東京ガーデンパレスで「久保貞次郎 美術の世界」出版記念会が盛大に開催されました。当日の司会は亭主が務めたのですが、多くの人々がスピーチした中で忘れられない場面があります。
既に南画廊の志水楠男さんは亡くなっており、並み居る画商たちを代表して東京画廊の山本孝さんが祝辞を述べました。
「久保先生からは長年にわたり、数多くの作品を買わせていただきました。しかし、今日にいたるまで私どもの東京画廊からはただの一点も買っていただいたことはございません。」
場内爆笑、大画商山本さんの面目躍如でした。
これじゃあ、どっちが画商だかわからない、いかにも久保先生らしいエピソードといえるでしょう。

「支持することは買うことだ」を信条とした久保先生ですが、義理買いはせず、どんなに付き合いがあっても好きな画家以外は買わなかった。
東京画廊から買ったことがないということは、東京画廊の作家たちーー斎藤義重李禹煥関根伸夫はじめ「もの派」の作家たちーーとは無縁であった(と最近まで亭主は思っていました)。

久保エディションについては、この連載第1回桂ゆきの項で詳しく述べましたが、久保先生が直接版元となってエディションしたもの、制作された版画を全部数まるごと(または大半を)買取ったものなど、久保先生の支援がなければ誕生しなかったであろう版画作品のことをここではいいます。
第2回は瀧口修造の詩による版画集『スフィンクス』をご紹介しました。
第3回として本日ご紹介するのは吉田克朗です。
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吉田克朗
「Work "46"」
1975年
リトグラフ
イメージサイズ:44.8×29.3cm
シートサイズ :65.6×50.4cm
Ed.100  サインあり

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この作品が久保エディションだと知ったときはさすがに驚きました。
久保先生から「もの派」や吉田克朗さんの話など聞いたことがありませんでしたから・・・

ただ吉田さんは「もの派」の作家としては珍しく早くから版画制作に取り組んでいましたから、版画の専門家である久保先生の視野に入っていたことは間違いありません。
吉田さんは1970年の「第1回ソウル国際版画ビエンナーレ」で受賞し、1973年に文化庁海外芸術研究生としてロンドンに滞在したときにはフォト・エッチングの技法を学び、帰国後数多くのエッチングの作品を制作しています。
亭主は吉田さんのエディションもしていますが(シルクスクリーン)、むしろ吉田さんの先輩である関根伸夫の版画作品を大々的にエディションしていました。
吉田さんはやんちゃな弟分という感じでまさかあんなに早く逝かれるとは思ってもいませんでした。

吉田克朗
1943年 埼玉県生まれ。1968年多摩美術大学絵画科卒。斎藤義重教室で学ぶ。
1968年から70年代にかけて、「もの派」の中心作家として《Cut-off》シリーズをはじめとする物性の強い立体作品を制作。1968年第8回現代日本美術展、69年「現代美術の動向」展、70年「現代美術の一断面」展、71年「パリ青年ビエンナーレ」などに出品した。
また、1969年から風景や人物のスナップ写真を使ったシルクスクリーン(後にフォトエッチング)による版画の制作を始め、70年第1回ソウル国際版画ビエンナーレで大賞受賞。以後、72年クラコウ国際版画ビエンナーレほか国内外の版画展に出品。1973年-74年文化庁芸術家在外研修員としてイギリスに滞在。さらに1980年代からは絵画の制作を始め、平面的な色彩の《かげろう》シリーズ、黒鉛と指を使った《蝕》シリーズほかを制作した。1982年鎌倉中央公民館の壁画を制作。1997年から武蔵野美術大学教授を務めた。
1999年死去。

「私が私自身の肉体をことさら強く意識してきたのは、幼い頃から病弱だったことによるのかも知れない。13歳の頃あやうく一命を落すところを救われ、また人生で最も多感な人格形成時の18歳からの2年間の闘病生活。このことが私の私以外のもの(人や物や風景や)を見る目を、ほんのちょっとずらしたのだと思える。幼い頃の臨死体験は肉体の脆さを自覚させたし、あの2年間に及ぶ病院生活が再度自分の肉体の脆さと、闘病に敗れて死んでゆく同じ棟の知人たちの葬儀に臨んだあのむなしさが、私の視覚を常に自分の肉体からしか他を見ざるを得ないような視覚に形作ったのだろうと思える。そんな所から私は作品を作っている。」
(吉田克朗「わたしのかたち」『版画年鑑1999』阿部出版より)