「ウォーホル 東京の夜と朝」
中谷芙二子


(草月・一九七五年二月号より再録)

 マリリン・モンロー毛沢東、ニクソン、ジャッキー・ケネディ、リズ・テーラー、ローシェンバーグなど、多くのスター、芸術家、政治家の肖像画を描いたアンディ・ウォーホルが、彼の日本での個展で最新作「いけばな」シリーズ一〇点を披露したことは、昨秋の美術界でもちょっとした話題になった。そのアンディ・ウォーホルが、今度は勅使河原蒼風氏の肖像画を描きたいというのである。
 さっそく勅使河原霞さんにお願いし、来日したウォーホルと蒼風さんの顔合せの席をもうけていただいた。この現代芸術の巨匠お二人の出逢いを機会に幾多の伝説につつまれたアーティスト・ウォーホルの知られざる側面、日常を垣間見てみよう。
 目だたないサファリ・カットの黒っぽい上着に、細かい水玉模様の細めのネクタイ。絵具のついた靴だけが控え目に絵描きを主張している。髪は真白、眉毛も真白。一九二八年生まれとも三二年生まれともいう。「僕はいつも神秘なままでいたい。自分の生い立ちは話したくない。だからいつも聞かれるたびに違った答えをするのだ。」
 しかし現実の彼はシンプルそのもの。多弁ではないが、実に率直に見たこと感じたことをことばにする。彼はシンプルでありたいと願う。そして「機械になりたい」とさえいう。機械は人間より問題が少ないという単純な発想からなのだ。しかし、このことばが現代芸術の個性神話を解体してしまうのである。彼の魔力はこのシンプルの構造にある。禅がひとつの論理ならば、彼の短絡回路もそれに近いものだろう。時には禅問答のように、こちらが気張れば肩透しを食う。
 「日本では僕がイエスと答えるのをみんなが期待するから、僕はイエスと答える。そうするとボブ(ウォーホルのインタビュー・マガジン編集長)がアンディが“イエス”というのはこういう意味だと説明してくれる。このシステムは悪くないから、これからも使おうかな」と、気が向けば自分の言動のカラクリまでも気安く話してくれる。
「日本のシンプルなところ、日本人のシンプルな考え方、こなし方が好きだ」と彼はいう。箒を片手に長い柄つきの塵取りで、いとも簡単に、それゆえにほとんどエレガントに道端のごみを拾っている清掃夫を見かけて、「ニューヨークでもあれをすべきだ。そうすれば町がきれいになる。」そして「ここでは人びとがまだまだ働こうという気になっている。ニューヨークの人たちは、もう誰も何もしたがらない。」ともいう。
 “シラケの王子”と呼ばれたウォーホル。しかし本当にシラケた人がこんなことをいうだろうか。
 新橋の料亭“K”へ着くと、もう蒼風さん、奥様、霞さんがお待ち兼ねだった。ウォーホルは手みやげに持参したマン・レイの肖像画のポスターを「あとでサインしましょう」といって手渡す。お酒が運ばれ、早速「いけばな」の話になる。「いけばなに興味をもたれた動機は」との蒼風さんの問に、「ビューティフルだから」とひとこと。
 本当にそれ以外に意味はないのである。彼の題材は、彼の選択以前にすでに選ばれている。人びとによって、事実によって。日本人のあらゆる階層の生活の中で、いつもスターの座を失わずにいるのは「いけばな」なのだ。“いつも床の間という最上の場を与えられているではないか”ととぼけて答えるウォーホルの声が聞こえそうだ。彼はただ、その単純な事実を表面化しただけに過ぎないのだろう。彼は自分を媒体(メディア)と思っているのだから。
「日本のどこが気に入りましたか」とい蒼風さんの問に、ウォーホルは少し考える風だった。「お寺を訪ねると必ず菊があって、懸崖の菊が素晴しかった。特に僕は白い菊が好きでした。」
 つぎつぎに運ばれてくる美しいお料理に、ウォーホルは素朴に感動し、器の美も見逃さない。「すべての人がアーティストだ」と感じ入る。中でも最も美事な生造り(いけづくり)の大皿が運ばれると「これは芸術だから食べられない」と真顔になる。実は彼はナマの魚だけは好きではないのだと、隣りに座った編集長が教えてくれる。
 勅使河原宏氏が出席できなかったことを残念がり、「あれ程よい映画を作ったグレート・フィルム・メーカーなのに、もうやめてしまったのですか。“砂の女”はニューヨークでもヨーロッパでも大成功だったのに。また作るのでしょうね」と熱心に問う。
 新しい草月会館完成の折には、現代美術の展示会場ができることを蒼風さんから聞いて、ウォーホルは大変喜んだ。そして「あらゆる世界の流行が忽ち日本にとり入れられるのに、現代美術だけがどうして日本で流行らないのだろう。」と不思議がる。
 二人展の提案がでると、話ははずんだ。ウォーホルも蒼風さんも、是非とも実現させたいと協力を約束し合う。ニューヨークのメトロポリタン美術館で蒼風さんの個展ができたら素晴しい。お手伝いしましょう、とも彼はいった。
 日本料理は本当に好きらしい。ほとんど全部平らげてしまう。石焼ステーキを神戸で食べ、その石の保温の妙に感心したという。最近はロングアイランドのモントークの別荘で夏を過ごすことが多いが、来夏は石焼きを試すのだと嬉しそうに話す。焚火のあと、どうしていつまでも温もりが残るのか、と子供心に不思議に思っていたという。
 本当に無垢(ナイーヴ)な人なのだ。すべてを受け入れシンプルに徹することによって禅の修業をしてしまったような人なのだろう。十九年前に日本を訪れて以来、いつも日本風になろうと努力していると来日のことばの中でも語っている。
 地唄舞が披露された。「黒髪」である。“扇子を落した瞬間のえもいわれぬ美しさ”をウォーホルは静かに語る。蒼風さんがそれを、一瞬忘我(無の境地)に入った“恋う心”と説明されると、「ビューティフル」。彼のお得意のことばだ。
 芸者さんがタバコの薄紙をこよりにしてバレリーナを、チリ紙を結んで松茸を作る。「誰も彼もみんなアーティストだ。みんな映画に撮るべきだ」と何度も繰り返す。彼の一五〇篇にものぼる映画作品の多くは、こうした現実の在るがままの姿を映し撮ったものである。
 「初めて日本へ来たとき竜安寺の石庭を見て、そこからヒントを得て“エンパイア”など一連の作品を作ったのです。」
 “エンパイア”と題された映画は、ニューヨーク摩天楼のスター、エンパイア・ステート・ビルを、日没から明け方まで、延々八時間、据えっぱなしのカメラで撮った作品である。台本があって演出をするという映画の一般通念どころか、映画は動くもの、という基本概念の土台までも裏返しにしてしまった現代映画史上の試金石といわれる作品である。
 余興がひと通り終ると、ウォーホルは「今度は僕がアートをする番だ」といって立ち上り、白い襖をバックに蒼風さんの顔写真を撮り始める。メガネをかけた顔、はずした顔、手にポーズをつけたもの。蒼風さんの写真嫌いは有名だが、ウォーホルはなかなか出来栄えをよしとしない。肖像画を描くとき、普通一〇〇枚ぐらいのカラー・ポラロイド写真を撮るという。カメラの色調を調節しながら四〇枚ほど撮る。次は霞さんである。前夜ほとんど徹夜で草月展のいけこみをされていたはずなのに、疲れの片鱗も見せない。素晴しい写真が次々とポラロイドから出てくる。一枚できるごとにウォーホルは、じっくりと手にとって見、考え、微妙な調整をしながら再びシャッターを切る。
 晩餐のあと、青山のクラブに立寄った。ナイトクラブはあまり好まず、家で寝ていた方がいいといっていたウォーホルだが、お花でいっぱいのこのクラブは大いに気に入って「ニューヨークへ帰ったらフラワー・クラブを開こう。グッド・アイディアだ」と喜ぶ。
 九州旅行や草月展でお疲れの蒼風さんは、途中でそっと席を立たれた。蒼風さんがお帰りになったことに気づいたウォーホルは、「日本へ来て今夜が一番楽しかった。お礼を言いたかったのに」と残念がった。「座を白けさせては、と気遣われたのでしょう」と説明する。彼はゆっくり頷き「僕もいつもそうするんだ」。アンディはよくパーティに出かけるが、いつも片隅に座って何も語らず、いつの間にか消えてしまうという伝説がある。その晩、彼は人を見ているのが好きなんだといってなかなか帰ろうとしなかった。
 翌日昼の出発をひかえて、是非草月展を見たいというので、朝八時すぎ、霞さんが会場へご案内する。朝のいけ替えの最中だった。ウォーホルはひとつひとつをゆっくり見て廻りながら「ビューティフル」を連発する。「古都」の書が描かれた蒼風さんの金屏風に特に感銘し、宏さんのつぼ、霞さんの大作にみとれながら「なんと才能に恵まれた一家だろう。彼らにはファミリーがあるのか」と、まるで天才は一代で終わるのが世の常なのだとでもいいたげであった。
 いけている人ひとりひとりに、目で敬意を表しながら次へと進む。「あなたの芸術と共通するところがあるのでは」との質問に、「どんなアーティストがこれまで試みたよりも、もっと素晴しい“生きた彫刻”だ」と答える。彼は、いけられた花ばかりでなく、いける人、そしていける作業を通して自然と対話する人びとの心を、ひとつの“生きた彫刻”として飽かず眺めていたのに違いない。
なかや ふじこ

*画廊亭主敬白
ウォーホルを同時代的には知らない、亭主が30年前何をしたかも知らない、そんなスタッフSの昨日のレポートはなぜか好評で、アクセスも多かったようです。
森美術館で開催中のウォーホル展の関連イベントで、大丸展から9年後の1983年に亭主がエディションした「KIKU」シリーズについておしゃべりしました。おかげで昔(30年前)の記録を引っ張り出したりしていろいろ思い出すことになりました。
亭主が主宰していた現代版画センター企画「アンディ・ウォーホル全国展 1983-84」について、このブログでも少しづつ紹介しましょう。(乞うご期待、といきたのですが・・・・・)
上掲の中谷さんの文章は、1975年に『草月』誌に掲載され、1983年に亭主が刊行した「アンディ・ウォーホル全国展 1983-84」カタログにも再録させていただいたものです。今回あらためて著者のご許可をいただき掲載させていただきました。

1974年の東京・神戸の大丸での大展覧会から40年、ウォーホルと交友した人たちもだんだん少なくなってきました。
ウォーホルと親しく、今も世界各地で「霧の彫刻」を展開している中谷芙二子さんは、1938年札幌に生まれ、1970年大阪万博で「霧の彫刻」を発表。以来多くの人工霧を使った環境作品やモニュメントを発表し、音楽家、舞踏家と霧を使ったコラボレーションを行っています。
またビデオギャラリーSCANを主宰し、日本におけるビデオアートのパイオニアとして活躍してきました。1993年には吉田五十八賞特別賞を受賞しています。

◆ときの忘れものは2014年4月19日[土]―5月6日[火 祝日]「わが友ウォーホル~氏コレクションより」を開催しています(*会期中無休)。
ウォーホル展DM
日本で初めて大規模なウォーホル展が開催されたのは1974年(東京と神戸の大丸)でした。その前年の新宿マット・グロッソでの個展を含め、ウォーホル将来に尽力された大功労者がさんでした。
アンディ・ウォーホルはじめ氏が交友した多くの作家たち、ロバート・ラウシェンバーグ、フランク・ステラ、ジョン・ケージ、ナム・ジュン・パイク、萩原朔美、荒川修作、草間彌生らのコレクションを出品します。

本日のウォーホル語録

<肖像画にとりかかるときは、まず、その人物に薄化粧をする。そうすると、その人の日焼けとか何かを隠せるんだ。メイク・アップは単に日焼けを隠すため。それからポラロイド写真を撮る。ポラロイドは、顔のしわを省いてくれ、顔をある意味で単純化する。少なくとも5巻のフィルムを使う。そうするべきではないのかもしれない。一枚だけにしとくべきなのかも。名カメラマンは、2、3ショット撮るだけだ。それでこそ優れていると言える。ぼくは何枚も撮る。これもことの全体の一パート(一部)だから。人々は期待している。どんなに照明が明るくて、フラッシュをたいて、キツかろうが、彼らはそれが好きだ。ぼくはみんながすばらしく見えるように努力を払う。何人かはそのことでぼくを悩ませるけれども。「いったいぼくの大きな鼻はどこへ行った?」とか何とか言って。もしそうしたければ、彼らの望むように戻してあげるけれど。
―アンディ・ウォーホル>


4月19日~5月6日の会期で「わが友ウォーホル」展を開催していますが、亭主が企画し1988年に全国を巡回した『ポップ・アートの神話 アンディ・ウォーホル展』図録から“ウォーホル語録”をご紹介します。