現代日本版画家群像 第11回
島州一と野田哲也

針生一郎


 一九六〇年代には、ビデオ・カセット、有線テレビ、コンピュータ、電子リコピー、電子計算機、レーザー光線、教育機器など、エレクトロニクス・メディアが多様化した一方、版画ではガリ版の原理にもとづくシルクスクリーン技術の発達によって、写真の転写がいちじるしく容易になった。マス・メディアの複製機能をそのまま模倣するポップアートが出現し、「メディア・イズ・メッセージ」というマクルーハン理論がもてはやされたのも、この時代である。デザイナー粟津潔は「複々製に進路をとれ」「ものみな複製ではじまる」とこの時代相を要約したが、そういう方向をもっとも典型的に体現した版画家としては、島州一があげられるだろう。
 島州一は一九三五年、東京に生まれたが、彼の一族は日本最初の図案工房、島丹精堂を経営している。先祖は代々飯田藩のおかかえ絵師で、祖父は四条円山派を学んだのち、東京美術学校図案科に入り、父も弟も同じ学校の同じ科を出たという。そういう家系のせいか、敗戦後まもない一九四八年、中学一年の彼は、カウボーイ・ハットの男の写真に、赤地白抜きのレタリングを組みあわせた、『ライフ』誌の表紙に魅了され、父にたのんでしばらく同誌を定期講読したらしい。もっとも、州一は長男でありながら、デザインよりは油絵に志して、多摩美大油画科に進み、そこで講師の中山正にすすめられてリトグラフに手を染め、在学中から集団「版」の結成に加わる。
 ところで、島州一の仕事が注目をあびたのは比較的おそく、一九六〇年代末である。六八年まで藤沢に住んでいた彼は、水平線の表現に苦しんだ末、花札の坊主のパターンを借りて、しょせん現実とフィクションとしての絵画は、次元が異なることを確認したという。六九年の個展では、カルピスの商標である黒人の扮装で画廊に坐っていたが、その行為をとおして絵画やデザインの概念をこえた、観衆と作品のコミュニケーションの実態を感得したらしい。だが、決定的な衝撃は、全共闘運動のピークをなす東大安田講堂の攻防で、それが奇妙にも「ライフ」誌のモチーフをよみがえらせたという。より正確にいえば、完壁な情報管理にもとづく民衆弾圧の事態が、「決定的瞬間」の神話に支えられた事実信仰をうちくだき支配体制の投げつける情報を自由に再編して、ゲリラ的に投げかえす姿勢をみいだせたわけだろう。
 一九七〇年初頭に制作された彼のシルクスクリーン作品では、野性の悲しみにみちたアフリカ・カモシカの背後に、大きな日の丸をあしらい、ベトナム戦争の犯罪性を示すソンミ村「ミライの虐殺」のタイトルと、「LIFE」から両端の活字を消した「IF」を配している。これが発端で「ライフ」誌の表紙を使った、日付のある作品がしばらくつづく。七一年毎日現代展でコンクール賞を受賞した《月と企業》は、幅二メートルにおよぶ大作で、黄色い布にアポロ号船長の月着陸の光景をシルクで刷り、その上に「ライフ」誌発表のアメリカ企業ベスト一〇〇社名を刷りこんだ、アクリル板をボルトでとめたものだ。
 そのころから、島州一は物神化された情報にたいして、オブジェ化された映像を投げかえすため、さまざまの立体作品をこころみている。たとえば、蒲団に花嫁衣裳の女と「ホワイト・ハウス・ブライド」のタイトルを刷りこみ、金網をかぶせて板でかこんだ作品とか、米中会談の両主役ニクソンと周恩来の顔を、椅子と折り曲げた蒲団に刷りこんだ作品とか、あるいは小石に周恩来やソルジェニーチンの顔を刷りこみ、材木にシャーリー・マクレーンの顔をならべた作品とか。七二年のサンパウロ・ビエンナーレには、布に天体気象写真を刷りこんでまるめ、二〇〇個のキャベツを床にならべた。
 「ライフ」誌は一九七三年、思いがけなく廃刊になったが、そのころ島州一は十人の作家が一ヵ月間自宅やアトリエを使って、日常生活をそのまま作品化するこころみに参加する。そこで彼は県営団地の自宅部分の外壁を黄色に塗り、毎日窓に黄色い蒲団をほすことにし、そのプロセスを記録した写真をふくめて作品とした。だが、一週間後に県庁によびだされて、壁の復元を命じられ、この作業は中止せざるをえなかった。同じころ、彼が文章をのせたミニコミ誌が、ワイセツのかどで警視庁に押収され。発行者に罰金が課せられる事件もあって、芸術家もいやおうなく「制度」のなかに生きていることを痛感させられる。しかもそれ以来、彼はますます家や国という制度にたいして、版画というもうひとつのシステムによって、批判と抵抗をつづける決意を固めたという。
 複製機能による版画の拡大という点では、関西に住む下谷千尋も砂、木の葉、水の上などに文字を刷りこむ作品で注目された。そして七〇年代後半には、下谷も島もともに外国に滞在する期間が多かった。その後、二人がどんな作風に転じたか、わたしにはつまびらかでないが、いずれにしろ、ジャンルの破壊、版画の領域の拡大という六〇年代風冒険神話が閉塞した現在、版画表現の新しい核が求められていることは事実だろう。島州一についていえば、複製機能の拡大のほかに、日常性への下降、今日のフォークロアへの探求といった、これまでの作品に内在する諸要素が、どんな新しい総合をみいだすかに、わたしは興味をもっている。
 一九六十年代末に出発した版画家のうち、写真の転写による日常生活の記録に徹している、代表的な作家の一人が野田哲也である。横尾忠則の項ですでにふれたように、一九六八年の東京版画ビエンナーレで、グラン・プリを受賞した二枚一組の作品が彼のデビュー作となった。それは熊本の彼自身の家族と、婚約時代の現夫人ドリットの家族の記念写真を、木版とシルクスクリーンを併用して版画化し、日本人とイスラエル系ユダヤ人の家族の生活様式の対照をきわだたせたものだった。このとき以来、彼の全作品は“Diary”というシリーズに属して日付をもち、しばしばモデルの人物の名前と生年月日、性別の記号まで書きこまれている。
 野田哲也は一九四〇年、熊本県の不知火に生まれ、彼の生まれる前年に夭折した異色画家野田英夫は、母方の伯父にあたる。東京芸大油画料に進んだが、大学院時代に講師の小野忠重について木版画をはじめ、人物や室内風景を大胆に抽象化したり、書のような太い線を構成したりする試作をこころみていた。六七年にはすでに人物とさまざまのパターンを組みあわせ、人体各部の説明を英語や日本語でガリ版刷りにした作品が生まれ、六八年春の版画協会展には、和紙に木版や渋紙の型で古典的な椅子を刷り、そこに斜めに横たわる女性をシルクで刷った作品をだして、会友賞に推されている。
 野田はデッサンをするように、自分の家族や身辺の風物を自分で写真にとって転写する。「実は油絵から本格的に版画に志すことになった動機のひとつに、この写真の応用があった。画面の中に写真を使えば、当然その定着に製版が必要となる。製版をすればとりもなさずその版で刷版ができ、それも複数刷版が可能になるのであった。そこで最初の刷版でできたイメージがつまり『原画』で、つぎからできるイメージが単なる複製でしかないとは一概に言えるわけはないはずで、私はいわゆる『複数原画』についても真剣に考えるようになった」(「みづゑ」一九七三―一)
 一九七〇年から七一年にかけて、野田哲也は結婚したドリットとともに、アメリカ、ヨーロッパ、イスラエルを旅行した。この旅によって、日常体験の記録という方法の枠はいちじるしく拡大し、国連広場、グリニッチ・ヴィレッジ、黒人のデモ隊と警官隊の衝突、大統領候補の選挙演説、知人たちとの出会い、空港待合室などがとりあげられた。だが、写真の映像はあくまで彼にとってデッサンないし表現の素材にすぎず、そこから版をおこし、刷るためには、さまざまの選択、工夫、構成が加えられていることを、みのがすわけにはいかない。和紙のやわらかいテクスチャーの上に、家具や衣服のガラは木版で、人物はシルクといってもガリ版と同じ謄写ファックスにローラーで刷り、しばしば写真の一部を大きく白抜きにして線描を加えたり、構図上部を大きくあけたり、色彩をあざやかに対比したりし、リトグラフの作品も少なくない。みずから「絵日記」だといいながら、一作一作に精妙な絵画的構想をつみかさねて、単なるドキュメンタリーとは別のものにしているのだ。おそらく、記録性と絵画の虚構性のあいだの無限の中間領域に、彼の版画の一見単純でありながら、つきない魅力があるのだろう。
 ドリット夫人とのあいだにこどもが生まれて以来、野田哲也の作品は大部分このこどものさまざまな姿態とおむつや玩具などの記録を主題としている。だが、主題の限定にもかかわらず、彼の創意はいよいよ奔放自在で、幼児の上半身にかさねてガラスヘのいたずら描きを大写しにしたり、おねしょのしみが大きく地図のようにひろがる蒲団を、頭からかぶってたつ幼児のユーモラスな姿をとらえたりしている。わたしは野田家を訪問したことがないが、彼は現代版画センター主催のシンポジウムでも、「美術手帖」(一九七四―一二)の手記でも、育児や洗濯に毎日忙しく、そのあいまを縫って制作している、と語っていた。このまめまめしい主夫ぶりの強調には、家庭の日常性を重視する彼の思想がこめられていると同時に、意図せざるユーモアの起爆力がある。
 むろん、その間に野田哲也は母校である東京芸大に迎えられて助教授となり、女子美大にも出講し、さらにいくつかの国際展に出品したり、回顧展をひらいたりもしている。だが、それらの社会的、芸術的行動にもまして家庭生活に根拠をおき、国際結婚の契約関係をこえたアイデンティティの根源をみつめようとする姿勢は、その日常経験をすべて対象化し、抽象化する制作上の意欲とあいまって、独特な思想にまで結晶しつつあるようだ。

DSCF2415_600島州一
「愛」
1974年
シルクスクリーン
30.0×28.0cm
Ed.100
サインあり

こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから

野田哲也野田哲也
「Diary Nov. 18th '76(a)」
1976年
木版、シルクスクリーン
47.2x36.8cm
Ed.100
サインあり

(はりゅう いちろう)
*版画センターニュース(PRINT COMMUNICATION)No.78より再録
1982年3月 現代版画センター刊

◆故・針生一郎の「現代日本版画家群像」は「現代版画センター」の月刊機関誌「版画センターニュース」の1979年3月号(45号)「第1回 恩地孝四郎と長谷川潔」から1982年5月号(80号)「第12回 高松次郎と井田照一」まで連載されました。
ご遺族の許可を得て再録掲載します。30数年前に執筆されたもので、一部に誤記と思われる箇所もありますが基本的には原文のまま再録します。

針生一郎(はりゅう いちろう)
1925年宮城県仙台市生まれ。旧制第二高等学校卒業、東北大学文学部卒業。東京大学大学院で美学を学ぶ。大学院在学中、岡本太郎、花田清輝、安部公房らの「夜の会」に参加。1953年日本共産党に入党(1961年除名)。美術評論・文芸評論で活躍。ヴェネツィア・ビエンナーレ(1968年)、サンパウロ・ビエンナーレ(1977年、1979年)のコミッショナーを務め、2000年には韓国の光州ビエンナーレの特別展示「芸術と人権」で日本人として初めてキュレーターを務めた。2005年大浦信行監督のドキュメンタリー映画『日本心中 - 針生一郎・日本を丸ごと抱え込んでしまった男』に出演した。和光大学教授、岡山県立大学大学院教授、美術評論家連盟会長、原爆の図丸木美術館館長、金津創作の森館長などを務めた。2010年死去(享年84)。

◆ときの忘れもののブログは下記の皆さんのエッセイを連載しています。
 ・大竹昭子のエッセイ「迷走写真館 一枚の写真に目を凝らす」は毎月1日の更新です。
 ・新連載・石原輝雄のエッセイ「マン・レイへの写真日記」は毎月5日の更新です。
 ・新連載・笹沼俊樹のエッセイ「現代美術コレクターの独り言」は毎月8日の更新です。
 ・新連載・芳賀言太郎のエッセイ「El Camino(エル・カミーノ) 僕が歩いた1600km」は毎月11日の更新です。
 ・故・針生一郎の「現代日本版画家群像」の再録掲載は毎月14日の更新です。
 ・井桁裕子のエッセイ「私の人形制作」は毎月20日の更新です。
  バックナンバーはコチラです。
 ・森下泰輔のエッセイ「私のAndy Warhol体験」は毎月22日の更新です。
 ・小林美香のエッセイ「母さん目線の写真史」は毎月25日の更新ですが、今月4月は休載します。
 ・「スタッフSの海外ネットサーフィン」は毎月26日の更新です。
 ・新連載・森本悟郎のエッセイ「その後」は毎月28日に更新します。
 ・植田実のエッセイ「美術展のおこぼれ」は、更新は随時行います。
  同じく植田実のエッセイ「生きているTATEMONO 松本竣介を読む」は終了しました。
  「本との関係」などのエッセイのバックナンバーはコチラです。
 ・飯沢耕太郎のエッセイ「日本の写真家たち」英文版とともに随時更新します。
 ・浜田宏司のエッセイ「展覧会ナナメ読み」は随時更新します。
 ・深野一朗のエッセイは随時更新します。
 ・「久保エディション」(現代版画のパトロン久保貞次郎)は随時更新します。
 ・「殿敷侃の遺したもの」はゆかりの方々のエッセイ他を随時更新します。
 ・君島彩子のエッセイ「墨と仏像と私」は終了しました。
 ・鳥取絹子のエッセイ「百瀬恒彦の百夜一夜」は終了しました。
 ・ときの忘れものでは2014年からシリーズ企画「瀧口修造展」を開催し、関係する記事やテキストを「瀧口修造の世界」として紹介します。土渕信彦のエッセイ「瀧口修造の箱舟」と合わせてお読みください。

今までのバックナンバーはコチラをクリックしてください。