森本悟郎のエッセイ その後・第3回
木村恒久⑶ 二つの表現と陰の師
「木村恒久バイオグラフィー」(『WINDS』1988年8月号)によれば、10歳になるかならないかという頃から、近所の印刷屋に足繁く通い、そこにあったドイツの雑誌『ゲブラウスグラフィック(Gebrauchsgraphik)』やアメリカ(木村さんの記憶違いで、イギリスかもしれない)の雑誌『コマーシャル・アート(Commercial Art)』を耽読していたという。そして大阪市立工芸学校に進んだ木村さんはバウハウスを手本にしたデザイン教育と出会った。さらに戦時中、木村さんの精神的支えとなっていたのがアメリカに亡命したバウハウス出身の画家・デザイナーであるヘルベルト・バイヤー(Herbert Bayer)の著作だった。後の自由でユニバーサルな感覚はこの間に醸成されたのだろう。
戦後、グラフィックデザイナーとして出発したとき、バウハウス理論が木村さんの強力な武器となったであろうことは想像に難くない。そしてバウハウスを出発点にしたことによって、作家には二つの表現可能性が備わることになったのである。
一つは幾何学的、構成的なデザイン手法であり、もう一つがフォト・モンタージュである。前者は1970年頃までのスタイルであり、後者は1968年頃から始まって、結果木村作品の代名詞にまでなった。
例えば木村さんが装丁した、中平卓馬さんの初写真集『来るべき言葉のために』(風土社、1970年)は円と矩形による幾何学的デザインであり(この時のエピソードを南伸坊さんが『モンガイカンの美術館』で紹介している)、この頃が幾何学的デザインとフォト・モンタージュとの端境期だったとみられる。ちなみに木村さんは『APARTMENT』(写真通信社、1978年)はじめ5冊ほど石内都さんの写真集装丁を手がけているが、幾何学的デザインは姿を消し、表紙には著者の写真を使っている(前回の「1ミリずつ」というのはこの頃の話)。
’68年、テレビ番組の展覧会ドキュメンタリーを通じて、ジョン・ハートフィールド作品をまとめて見た。これがきっかけで制作方法をフォト・モンタージュに切り替えたとは木村さんの証言で、ハートフィールドからの影響は誰もが認めるところである。しかし戦中に影響を受けたであろうヘルベルト・バイヤーこそ、フォト・モンタージュを試み、構成的デザインの名手でありながらシュルレアリスティックな作品でも知られた作家ではないか。バイヤーという受け皿があってのハートフィールド体験だったはずだ。彼は木村さんの陰の師であり、その存在なくして木村恒久という特異な作家は生まれなかったのではないか、とぼくは考えるのだがいかがだろうか。
(もりもと ごろう)

ヘルベルト・バイヤー シルクスクリーン版画「幾何学模様」

木村恒久ポスター「Nippon Kokan」1960

木村恒久装丁「中平卓馬『来るべき言葉のために』1970」

木村恒久装丁「石内都写真集 APARTMENT」1978
■森本悟郎 Goro MORIMOTO
1948年愛知県に生まれる。1971年武蔵野美術大学造形学部美術学科卒業。1972年同専攻科修了。小学校から大学までの教職を経て、1994年から2014年3月末日まで中京大学アートギャラリーキュレーター。展評、作品解説、作家論など多数。
木村恒久⑶ 二つの表現と陰の師
「木村恒久バイオグラフィー」(『WINDS』1988年8月号)によれば、10歳になるかならないかという頃から、近所の印刷屋に足繁く通い、そこにあったドイツの雑誌『ゲブラウスグラフィック(Gebrauchsgraphik)』やアメリカ(木村さんの記憶違いで、イギリスかもしれない)の雑誌『コマーシャル・アート(Commercial Art)』を耽読していたという。そして大阪市立工芸学校に進んだ木村さんはバウハウスを手本にしたデザイン教育と出会った。さらに戦時中、木村さんの精神的支えとなっていたのがアメリカに亡命したバウハウス出身の画家・デザイナーであるヘルベルト・バイヤー(Herbert Bayer)の著作だった。後の自由でユニバーサルな感覚はこの間に醸成されたのだろう。
戦後、グラフィックデザイナーとして出発したとき、バウハウス理論が木村さんの強力な武器となったであろうことは想像に難くない。そしてバウハウスを出発点にしたことによって、作家には二つの表現可能性が備わることになったのである。
一つは幾何学的、構成的なデザイン手法であり、もう一つがフォト・モンタージュである。前者は1970年頃までのスタイルであり、後者は1968年頃から始まって、結果木村作品の代名詞にまでなった。
例えば木村さんが装丁した、中平卓馬さんの初写真集『来るべき言葉のために』(風土社、1970年)は円と矩形による幾何学的デザインであり(この時のエピソードを南伸坊さんが『モンガイカンの美術館』で紹介している)、この頃が幾何学的デザインとフォト・モンタージュとの端境期だったとみられる。ちなみに木村さんは『APARTMENT』(写真通信社、1978年)はじめ5冊ほど石内都さんの写真集装丁を手がけているが、幾何学的デザインは姿を消し、表紙には著者の写真を使っている(前回の「1ミリずつ」というのはこの頃の話)。
’68年、テレビ番組の展覧会ドキュメンタリーを通じて、ジョン・ハートフィールド作品をまとめて見た。これがきっかけで制作方法をフォト・モンタージュに切り替えたとは木村さんの証言で、ハートフィールドからの影響は誰もが認めるところである。しかし戦中に影響を受けたであろうヘルベルト・バイヤーこそ、フォト・モンタージュを試み、構成的デザインの名手でありながらシュルレアリスティックな作品でも知られた作家ではないか。バイヤーという受け皿があってのハートフィールド体験だったはずだ。彼は木村さんの陰の師であり、その存在なくして木村恒久という特異な作家は生まれなかったのではないか、とぼくは考えるのだがいかがだろうか。
(もりもと ごろう)

ヘルベルト・バイヤー シルクスクリーン版画「幾何学模様」

木村恒久ポスター「Nippon Kokan」1960

木村恒久装丁「中平卓馬『来るべき言葉のために』1970」

木村恒久装丁「石内都写真集 APARTMENT」1978
■森本悟郎 Goro MORIMOTO
1948年愛知県に生まれる。1971年武蔵野美術大学造形学部美術学科卒業。1972年同専攻科修了。小学校から大学までの教職を経て、1994年から2014年3月末日まで中京大学アートギャラリーキュレーター。展評、作品解説、作家論など多数。
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