連日の猛暑、広島での豪雨の惨事には言葉もありません。
被災された方々には心よりお見舞い申し上げるとともに、犠牲者の皆さんのご冥福をお祈りいたします。
一人でも多くの方が救出されることを祈らずにはおられません。
画廊は今日も明日も開廊しています。
店番はスタッフの新澤にまかせ、亭主は本日横須賀で開催されるジョナス・メカスの映画上映会に参加します。
詳しくはコチラをお読みください。
メカスファンの皆様にお目にかかれるのを楽しみにしています。
現在開催中の「銀塩写真の魅力 V展」より植田正治作品のご紹介です。
植田正治
「浜の少年」
1931年(Printed later)
ゼラチンシルバープリント
20.2x30.1cm
サインあり
「浜の少年」は、1931年(昭和6年)の作品です。つまり植田正治が18歳ごろに撮った写真ということになります。白い半袖シャツに半ズボンの少年が立っている同タイトルの作品がありますが、その少年と同じモデルのようです。近所の子供をよくモデルにしていたそうなので、きっとその口でしょう。日焼けした、もう海の男になることを決めているような風貌なのに、カメラを向けられて、ちょっとはにかんだ顔が印象的です。しかし、左側に大きく空間をとることで、単なるポートレイトではなく、少年のその後を予感させるような写真になっていて、植田少年の早熟さを感じさせる貴重な一枚です。
植田正治にとって砂丘は、「どこをどう撮っても写真になる」「巨大なホリゾント」であり、オブジェとして群像を配するには格好の場所でした。
1939年の『少女四態』『群童』、翌年の『茶谷老人とその娘』など、戦前からすでに砂浜を舞台として撮影していましたが、1949年の鳥取砂丘での撮影会で撮影場所としての砂丘に魅せられたことから《砂丘劇場》が始まります。
奥行きのない平坦な画面構成のシュルレアリスムを思わせる作品は、そのオリジナリティが世界的に評価されています。
植田正治
〈砂丘モード〉より
「砂丘D」
1983年
ゼラチンシルバープリント
イメージサイズ:25.0x23.3cm
額装サイズ:55.7×43.5cm
サインあり
「砂丘D」は初めて撮影した商業写真群の中の一枚です。当時、最愛の妻に先立たれた植田正治が失意の中、息子の提案によってデザイナー菊地武夫の秋冬コレクションを撮影したものです。
砂丘をバックに展開される大胆な空間構成のモード写真は当時たいへんな反響を呼び、新しい写真表現として注目を集め、植田は復活し活動の場を広げていきました。
どちらの作品も、時代が移り変わっても尚その輝きを失うことなく、私たちに新鮮なインパクトを与えてくれます。
■植田正治 Shoji UEDA(1913-2000)
1913年、鳥取県生まれ。15歳頃から写真に夢中になる。1932年上京、オリエンタル写真学校に学ぶ。第8期生として卒業後、郷里に帰り19歳で営業写真館を開業。この頃より、写真雑誌や展覧会に次々と入選、特に群像演出写真が注目される。1937年石津良介の呼びかけで「中国写真家集団」の創立に参加。1949年山陰の空・地平線・砂浜などを背景に、被写体をオブジェのように配置した演出写真は、植田調(Ueda-cho)と呼ばれ世界中で高い評価を得る。1950年写真家集団エタン派を結成。
1954年第2回二科賞受賞。1958年ニューヨーク近代美術館出展。1975年第25回日本写真協会賞年度賞受賞。1978年文化庁創設10周年記念功労者表彰を受ける。1989年第39回日本写真協会功労賞受賞。1996年鳥取県岸本町に植田正治写真美術館開館。1996年フランス共和国の芸術文化勲章を授与される。2000年歿(享年88)。2005~2008年ヨーロッパで大規模な回顧展が巡回、近年さらに評価が高まっている。
◆ときの忘れものは「銀塩写真の魅力 V展」を開催しています。
会期=2014年8月20日[水]―8月30日[土]
12:00-19:00 ※会期中無休
銀塩写真のモノクロームプリントが持つ豊かな表現力と創造性をご覧いただくシリーズも5回目となります。本展では下記出品作家の作品25点をご覧いただきます。
出品作家:ボブ・ウィロビー、ロベール・ドアノー、エドワード・スタイケン、ウィージー、ジェリー・N・ユルズマン、鬼海弘雄、西村多美子、小林紀晴、中藤毅彦、大竹昭子、楢橋朝子、植田正治、細江英公、五味彬、小栗昌子、百瀬恒彦
被災された方々には心よりお見舞い申し上げるとともに、犠牲者の皆さんのご冥福をお祈りいたします。
一人でも多くの方が救出されることを祈らずにはおられません。
画廊は今日も明日も開廊しています。
店番はスタッフの新澤にまかせ、亭主は本日横須賀で開催されるジョナス・メカスの映画上映会に参加します。
詳しくはコチラをお読みください。
メカスファンの皆様にお目にかかれるのを楽しみにしています。
現在開催中の「銀塩写真の魅力 V展」より植田正治作品のご紹介です。
植田正治「浜の少年」
1931年(Printed later)
ゼラチンシルバープリント
20.2x30.1cm
サインあり
「浜の少年」は、1931年(昭和6年)の作品です。つまり植田正治が18歳ごろに撮った写真ということになります。白い半袖シャツに半ズボンの少年が立っている同タイトルの作品がありますが、その少年と同じモデルのようです。近所の子供をよくモデルにしていたそうなので、きっとその口でしょう。日焼けした、もう海の男になることを決めているような風貌なのに、カメラを向けられて、ちょっとはにかんだ顔が印象的です。しかし、左側に大きく空間をとることで、単なるポートレイトではなく、少年のその後を予感させるような写真になっていて、植田少年の早熟さを感じさせる貴重な一枚です。
植田正治にとって砂丘は、「どこをどう撮っても写真になる」「巨大なホリゾント」であり、オブジェとして群像を配するには格好の場所でした。
1939年の『少女四態』『群童』、翌年の『茶谷老人とその娘』など、戦前からすでに砂浜を舞台として撮影していましたが、1949年の鳥取砂丘での撮影会で撮影場所としての砂丘に魅せられたことから《砂丘劇場》が始まります。
奥行きのない平坦な画面構成のシュルレアリスムを思わせる作品は、そのオリジナリティが世界的に評価されています。
植田正治〈砂丘モード〉より
「砂丘D」
1983年
ゼラチンシルバープリント
イメージサイズ:25.0x23.3cm
額装サイズ:55.7×43.5cm
サインあり
「砂丘D」は初めて撮影した商業写真群の中の一枚です。当時、最愛の妻に先立たれた植田正治が失意の中、息子の提案によってデザイナー菊地武夫の秋冬コレクションを撮影したものです。
砂丘をバックに展開される大胆な空間構成のモード写真は当時たいへんな反響を呼び、新しい写真表現として注目を集め、植田は復活し活動の場を広げていきました。
どちらの作品も、時代が移り変わっても尚その輝きを失うことなく、私たちに新鮮なインパクトを与えてくれます。
■植田正治 Shoji UEDA(1913-2000)
1913年、鳥取県生まれ。15歳頃から写真に夢中になる。1932年上京、オリエンタル写真学校に学ぶ。第8期生として卒業後、郷里に帰り19歳で営業写真館を開業。この頃より、写真雑誌や展覧会に次々と入選、特に群像演出写真が注目される。1937年石津良介の呼びかけで「中国写真家集団」の創立に参加。1949年山陰の空・地平線・砂浜などを背景に、被写体をオブジェのように配置した演出写真は、植田調(Ueda-cho)と呼ばれ世界中で高い評価を得る。1950年写真家集団エタン派を結成。
1954年第2回二科賞受賞。1958年ニューヨーク近代美術館出展。1975年第25回日本写真協会賞年度賞受賞。1978年文化庁創設10周年記念功労者表彰を受ける。1989年第39回日本写真協会功労賞受賞。1996年鳥取県岸本町に植田正治写真美術館開館。1996年フランス共和国の芸術文化勲章を授与される。2000年歿(享年88)。2005~2008年ヨーロッパで大規模な回顧展が巡回、近年さらに評価が高まっている。
◆ときの忘れものは「銀塩写真の魅力 V展」を開催しています。
会期=2014年8月20日[水]―8月30日[土]
12:00-19:00 ※会期中無休
銀塩写真のモノクロームプリントが持つ豊かな表現力と創造性をご覧いただくシリーズも5回目となります。本展では下記出品作家の作品25点をご覧いただきます。出品作家:ボブ・ウィロビー、ロベール・ドアノー、エドワード・スタイケン、ウィージー、ジェリー・N・ユルズマン、鬼海弘雄、西村多美子、小林紀晴、中藤毅彦、大竹昭子、楢橋朝子、植田正治、細江英公、五味彬、小栗昌子、百瀬恒彦
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