森本悟郎のエッセイ その後・第7回

立石大河亞(1941~1998)(2) 流転し大河となる


立石さんは1941年福岡県伊田町(現・田川市)生まれ。武蔵野美術短期大学在学中の ’63年、第15回読売アンデパンダン展に「共同社会」を出品すると、針生一郎さんが新聞紙上で絶賛、にわかに注目を浴びる。以後、中原佑介・東野芳明氏ら当時気鋭の評論家たちから企画にラインナップされるなど、美術家としてのキャリアを歩み始める。次回読売アンデパンダン展にネオン絵画「富士山」を出品するため、卒業後ネオン会社に就職するも、’64年1月その中止が決まると翌月会社を辞め、3月にはひと世代年長の中村宏さんと〈観光芸術研究所〉を創設する。
「共同社会」はパネルに時計の文字盤や玩具、流木などを整然とコラージュしたもので、以後の作品とはいささか印象を異にするが、アンデパンダン展以後はもっぱら絵画制作を行う。それは通俗的かつキッチュな作品で、「立石紘一のような」(’64)では旭日や20世紀フォックスのタイトルばりの3D文字・富士山などをグラフィックに構成したもの、そして映画「駅馬車」の1シーンや太陽・富士山・瀑布・複葉機・五重塔など異質なモチーフを組み合わせるとともにそれぞれの残像を描くことで動きを導入してみせた「汝、多くの他者たち」(’64)、さらに西郷隆盛像・ハチ公像・東京タワー・東京駅・土木工事など東京に関わる象徴的イメージを並置した「東京バロック」(’63-’64)、SF的風景画を伴った「明治百年」(’65)など、ごく短期間に様々な表現を試み、またこの頃から漫画を描き始めている。
漫画は立石さん理解に欠くことのできない要素で、中学生時代には『漫画少年』に投稿し入選するなど、漫画家を夢見ていたこともあった。’67年1月から『毎日中学生新聞』に「コンニャロ商会」の連載(2年間)が始まり、翌年には雑誌連載も増え、プロ漫画家として地歩も定まった。ところが ’69年、そのすべてを抛ってミラノへ移住する。
ミラノでも絵画制作を続け、ヨーロッパでいくつも個展を開いているが、併せてイラストレーションの仕事に就いている(最初はオリベッティ社のエットレ・ソットサス工業デザイン研究所の嘱託、’81年からファブリ社専属)。この間に創始したのが漫画のように画面を分割し、ストーリー性のある〈コマ割り絵画〉である。さて、イラストレーターの仕事が順調になると、またしても自己危機を感じ、’82年、13年ぶりに帰国する。
以後、絵画・漫画・絵本・陶など多彩な仕事をこなし、転居を繰り返した。筑豊を出てから、生涯に少なくとも22回転居している。名前も立石紘一(誕生は真珠湾攻撃から12日目。たぶん〈八紘一宇〉から名付けられたのだろう。次男で紘一なのだ)からタイガー立石、立石大河亞と変えた(絵本では終生タイガー立石)。立石さんは安定することに危機を覚え、自らをカテゴライズする(される)ことを嫌ったのだと思う。だから易々とジャンルを越え、越えることでより豊かな表現を獲得することができた。そんな立石作品の先進性と豊穣さが、もっともっと知られる日が来るであろうことをぼくは信じている。

02_共同社会「共同社会」
1963年/1993年(再制作)
ミクストメディア
青森県蔵


03_立石紘一のような「立石紘一のような」
1964年
水彩
高松市美術館蔵


04_汝、多くの他者たち「汝、多くの他者たち」
1964年
油彩
千葉市美術館


05_東京バロック「東京バロック」
1963-64年
油彩
高松市美術館蔵


06_明治百年「明治百年」
1965年
油彩
青森県蔵


07_ミクロ富士「ミクロ富士」
1984年
油彩


もりもと ごろう

森本悟郎 Goro MORIMOTO
1948年愛知県に生まれる。1971年武蔵野美術大学造形学部美術学科卒業。1972年同専攻科修了。小学校から大学までの教職を経て、1994年から2014年3月末日まで中京大学アートギャラリーキュレーター。展評、作品解説、作家論など多数。

*画廊亭主敬白
森本悟郎さんがキュレーションした中京大学アートギャラリーにも縁の深い赤瀬川原平さんが10月26日亡くなられました。
慎んでご冥福をお祈りいたします。
akasegawa_nezisiki赤瀬川原平
「ねじ式」
1969年
シルクスクリーン
51.7x75.5cm
Ed.100 Signed

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