小林美香のエッセイ「母さん目線の写真史」 第16回

奈良原一高 「王国」

_SL500_AA300_(図1)
『王国―沈黙の園・壁の中』
( ソノラマ写真選書〈9〉1978年)
表紙


私が客員研究員として勤務している東京国立近代美術館で、奈良原一高「王国」展(会期2014年11月18日~2015年3月1日)が開催されています。今回はこの展覧会のご案内を兼ねて、作品の概要と出品作品の一部をご紹介します。「王国」は、奈良原一高(1931- )の初期の代表作で、トラピスト男子修道院(北海道当別)で撮影された〈沈黙の園〉と和歌山女子刑務所で撮影された〈壁の中〉の二部で構成されています。1956年から1958年の間に撮影され、雑誌『中央公論』1958年9月号のグラビアと写真展で発表された後、写真集『王国』(映像の現代〈1〉中央公論社、1971)、『王国―沈黙の園・壁の中』( ソノラマ写真選書〈9〉1978年)(図1)として刊行されました。この写真集の表紙に使われている写真は、トラピスト修道院の墓地で、修道士が「夜」を意味する手話をしているところを捉えたものです。

『王国』というタイトルは、アルベール・カミュの中篇小説集『追放と王国』(1957) に由来し、奈良原は、同書におさめられた一篇「ヨナ」の結びにある以下の一節を、作品発表時に引用しています。
 「その中央にヨナは実に細かい文字で、やっと判読出来る一語を書き残していた。が、その言葉は、Solitaire(孤独) と読んだらいいのか、Solidaire(連帯) と読んだらいいのか、分からなかった。」
この一節は、奈良原の写真に照らし合わせると、修道院と刑務所という二つの異なる空間の中での人の存在のありようと響き合い、外の世界から隔絶された状態という「孤独」、閉鎖的な空間の中で生活を共にする者同士の「連帯」を思い起こさせます。

写真集『王国―沈黙の園・壁の中』(図1)には、領域、領土を意味する「Domains」という英題が添えられています。この英題は、修道院と刑務所は空間としてのありように見る者の意識を導くものであり、写真のシークエンスを辿っていくと、建物の壁面や扉、窓枠や格子のような空間を分節する要素が繰り返し現れて、それぞれの空間の特徴とその関係の中で修道士や受刑者の存在が描き出されていることがわかります。

1471321_866402866727165_2926252340266480939_n(図2)
ポスター
〈沈黙の園〉より
トラピスト修道院の建物と修道士のシルエット


10801680_865900086777443_8912025558535736976_n(図3)
チラシ
〈沈黙の園〉より
トラピスト修道院の建物を遠景に、修道士に曳かれる乳牛


10325243_10205631674774920_7666543644562678539_n(図4)
カタログ表紙
〈沈黙の園〉より
修道院の中で扉の前を横切る修道士たち


写真集『王国―沈黙の園・壁の中』の構成をほぼ踏襲する形で構成された今回の展覧会では、ポスター(図2)、チラシ(図3)、カタログの表紙(図4)で、〈沈黙の園〉から選ばれた写真が使われています。〈沈黙の園〉から〈壁の中〉へとたどる順路になっていて、作品点数も〈沈黙の園〉の方が〈壁の中〉よりもかなり多いため、作品全体の中で〈沈黙の園〉の方が印象として目立っているように感じられるかもしれません。しかし、〈壁の中〉の女性受刑者をとらえた写真は、人間の存在やその内なる声を生々しく伝えるような力強さを具えており、その力強さこそが「王国」という作品の根幹を成していると言えるでしょう。
奈良原は受刑者たちのプライバシーへの配慮から、写された人物が誰かが特定できないように受刑者を顔や体の一部分だけ、あるいは背後から撮影しています。断片的に捉えられた身体のディテールやその所作が、個々の人物の存在感や、生々しさを際立たせているようにも思われます。たとえば、独房の扉の開口部から内側を覗く監視人の強い眼差しを捉えた写真(図5)は、扉の枠の形(漢字の「目」の字にも似ています)と相まって、見る者を掴むような強いインパクトを具えています。この写真は、瞼をおさえて手話をする修道士の写真(図1)と呼応するような関係にあり、『中央公論』に掲載されたルポルタージュや、写真集『王国 沈黙の園・壁の中』では、(図1)の写真と(図5)がそれぞれのシリーズの導入に位置づけられています。

cont_2290_1(図5)
〈壁の中〉より
扉の開口部から覗く監視人


cont_2282_3(図6)
〈壁の中〉より
廊下にまかれた水


narahara-domains(図7)
〈壁の中〉より
乳児を抱いて廊下に佇む受刑者


IMG_2665(図8)
『中央公論』
(1958年9月号)掲載
「王国」〈壁の中〉


受刑者の写真の中には手や腕の所作を捉えたものが多いのですが、その中でも強い印象を残すのが、独居房の扉の下の開口部から、受刑者が腕を伸ばして器に入っている水を廊下にまいている様子を俯瞰するような角度から捉えたものです。(図6)あたかも、扉の中に閉じ込められた受刑者の内なる声が廊下に散った水飛沫の形として表れているかのような激しさを感じさせます。 獄中での受刑者の生活の場面を捉えた写真の中でも、(図7)のような赤ん坊を抱いて廊下に佇む受刑者の写真を目にすると、一母親としては、この母子の来し方行く末の思いを巡らさずにはいられません。『中央公論』1958年9月号に掲載されたグラビア(図8)では、揺り籠の中に眠る乳児たちを捉えた写真に次のような文章が添えられていて、当時の刑務所内の状況を伺い知ることができます。

「現在五名の乳児が母親とともに、獄窓の生活を送っている。母親が作業に出ている間は舎房の一室の託児所にあずけられる。休憩授乳時間に母に抱かれてはしゃぐ乳児の無垢な笑顔に、生きる喜びと悲しみを同時に痛く感ずるのは親のみではあるまい。連れ子以外に所内で一〇名近くが産まれ、母親が釈放される時以外にも満一才引取り、乳児院移送等により出所する場合がある。」

今回の展覧会に出品されている〈壁の中〉の作品の中でも、刑務所内での育児の様子が伺われる写真は(図7)の一点のみです。廊下の先の方から、奈良原が向けたカメラを無心に見ている赤ん坊の眼差しに、刑務所という領域の外、その先の時間にいて写真を見ている自分自身の存在が照らし出されているようにも感じられるのです。
こばやしみか

◆ときの忘れもののブログは下記の皆さんのエッセイを連載しています。
 ・大竹昭子のエッセイ「迷走写真館 一枚の写真に目を凝らす」は毎月1日の更新です。
 ・新連載frgmの皆さんによるエッセイ「ルリユール 書物への偏愛」は毎月3日の更新です。
 ・石原輝雄のエッセイ「マン・レイへの写真日記」は毎月5日の更新です。
 ・笹沼俊樹のエッセイ「現代美術コレクターの独り言」は毎月8日の更新です。
 ・芳賀言太郎のエッセイ「El Camino(エル・カミーノ) 僕が歩いた1600km」は毎月11日の更新です。
 ・土渕信彦のエッセイ「瀧口修造とマルセル・デュシャン」は毎月13日の更新です。
 ・野口琢郎のエッセイ「京都西陣から」は毎月15日の更新です。
 ・故・木村利三郎のエッセイ、70年代NYのアートシーンを活写した「ニューヨーク便り」は毎月17日に再録掲載します。
 ・井桁裕子のエッセイ「私の人形制作」は毎月20日の更新です。
 ・故・難波田龍起のエッセイ「絵画への道」は終了しました。ご愛読ありがとうございました。
 ・小林美香のエッセイ「母さん目線の写真史」は毎月25日の更新です。
 ・「スタッフSの海外ネットサーフィン」は毎月26日の更新です。
 ・森本悟郎のエッセイ「その後」は毎月28日に更新します。
 ・植田実のエッセイ「美術展のおこぼれ」は、更新は随時行います。
  同じく植田実のエッセイ「生きているTATEMONO 松本竣介を読む」は終了しました。
  「本との関係」などのエッセイのバックナンバーはコチラです。
 ・飯沢耕太郎のエッセイ「日本の写真家たち」英文版とともに随時更新します。
 ・浜田宏司のエッセイ「展覧会ナナメ読み」は随時更新します。
 ・深野一朗のエッセイは随時更新します。
 ・「久保エディション」(現代版画のパトロン久保貞次郎)は随時更新します。
 ・「殿敷侃の遺したもの」はゆかりの方々のエッセイ他を随時更新します。
 ・故・針生一郎の「現代日本版画家群像」の再録掲載は終了しました。
 ・森下泰輔のエッセイ「私のAndy Warhol体験」は終了しました。
 ・ときの忘れものでは2014年からシリーズ企画「瀧口修造展」を開催し、関係する記事やテキストを「瀧口修造の世界」として紹介します。土渕信彦のエッセイ「瀧口修造とマルセル・デュシャン」、「瀧口修造の箱舟」と合わせてお読みください。

今までのバックナンバーはコチラをクリックしてください。

●今日のお勧め作品は奈良原一高です。
narahara_07_gos2奈良原一高
写真集〈王国〉より
《沈黙の園》(2)
1958年 (Printed 1984)
ゼラチンシルバープリント
Image size: 47.8x31.5cm
Sheet size: 50.8x40.6cm


こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください