「瀧口修造とマルセル・デュシャン」第6回
土渕信彦
6.デュシャンとの出会い(1958年)
今回は1958年の欧州旅行と、その際のデュシャンとの出会いについて述べる。第29回ヴェネチア・ビエンナーレの日本代表兼審査員を務めることとなった瀧口は、5月25日、羽田空港を出発した。副代表は東野芳明と福沢一郎だった。ビエンナーレ後も各地を回り、10月12日に帰国した。主な旅程は以下のとおり。慶應義塾大学アート・センター編『瀧口修造1958―旅する眼差し』(慶應義塾大学出版会、2009年10月)を参考にした。
5月25日、羽田発(図6-1)。26日~30日、ローマ滞在。
5月30日~6月18日、ビエンナーレで任に当たる(図6-2,3)。
6月18日~7月9日、フィレンツェ、ミラノなどを巡る。
7月9日~8月4日、パリ滞在。
8月4日、ミシェル・タピエの車でスペインに向かう。
8月6日~13日、バルセロナに滞在。
8月9日、ポルト・リガトにダリを訪問。10日、ダリの家でデュシャンと出会う。
8月13日~21日、マドリッド滞在。
8月21日、パリに戻る。
8月27日~10月5日、ベルギー、オランダ、スイスの各地を周る。
10月5日、パリに戻る。8、9日の両日、ブルトンを訪問。
10月10日、パリ発、12日、羽田着。
図6-1
ローマ行きエール・フランス機内にて(撮影者不詳)
図6-2
日本館前で(撮影者不詳)
図6-3
ビエンナーレ開会式で(辻茂、小野田ハルノと共に。撮影者不詳)
生涯で初めてのこの欧州旅行では、各地の美術館・画廊などを訪れたほか、多くの美術家・美術関係者や在欧邦人とも面談する機会に恵まれた。例えばフォンターナ、ムナーリ、サム・フランシス、スーラージュ、タピエス、ダリ、ミショー、ヨハネス・イッテン、フェリックス・クレー、ブルトンなど。避暑で留守だったミロには会えなかったが、総じて収穫の多い旅となった。後に開花することになる色々な種も播かれた。詳細は上掲書や『コレクション』1巻をご参照いただきたい。ただ、ビエンナーレの審査員としてフォンターナに投票した事実は、見落とされがちなので、ここで触れておきたい。
フォンターナは当時すでに、空間主義(スパツィアリスモ)の主唱者として注目される存在だった。しかしビエンナーレでは、カンヴァスを用いても油彩絵具は使わないためか、カンヴァスに穴を穿った衝撃が大きすぎたのか、「彫刻と絵画のジャンルの真空地帯」(後出「フォンターナ訪問記」)に入ってしまい、カタログでも、絵画ではなく彫刻の部に掲載されていた。瀧口は逆にその平面の「微細微妙な絵画的感覚」(同)の真価を見抜き、(彫刻の部に加え)絵画の部でもあえてフォンターナに一票を投じたのだった。フォンターナも「自分を支持してくれたのは日本の代表だけだ」といって喜んだという。7月5日、ミラノのアトリエを訪れた際に、作品も贈られている(図6-4)。帰国後、「フォンターナ訪問記」(「三彩」59年4月)を発表し、画集『フォンタナ』(みすず書房、64年10月。図6-5)を刊行することになる。
図6-4
フォンターナの陶板作品。年代不詳(瀧口修造旧蔵)
図6-5
瀧口修造編著『フォンタナ』(みすず書房「現代美術」25、64年10月。表紙はこの画集のために送られてきた作品)
さて、ここから本題に入る。ブルトンとの面談と並んで、その後の人生を変えることになったのが、ダリの家でのデュシャンとの出会いである。この発端は美術評論家ミシェル・タピエ(1909-87)の誘いだった。一緒にバルセロナに行き、アントニオ・タピエスのアトリエを訪ねることとなったのである。
タピエはいうまでもなくアンフォルメルの主唱者で、「具体」を(アンフォルメルの好例としてだが)高く評価して、国際的に紹介したことでも知られる。画家ロートレックの母はタピエの大叔母で、つまりロートレックの従甥に当るという、名家の出の評論家である。そのタピエに導かれて画家の出身地アルビを通るのは魅力的に思われ、ダリとも親しいと聞いて期待も抱いたようである。ベルギー・オランダから戻った東野芳明・出光孝子夫妻も合流し、タピエのシトロエンに同乗して、8月4日の朝、パリを出発した(図6-6)。
図6-6
旅の途中で、左から東野芳明、出光孝子、ミシェル・タピエ(撮影:瀧口修造)
瀧口はすでにタピエの「別の美学について」を翻訳していたし(「みづゑ」56年12月。図6-7)、57年の来日の際には会談もしていた(いわゆる「アンフォルメル旋風」の端緒となった「世界・今日の美術」展に、タピエは出品・協力していた)。「実験工房」の画家福島秀子の位置付けを巡り、「アンフォルメル」のレッテルを警戒する瀧口との間で、議論もあったようである。58年に再来日した際には、5月に開催された日本代表歓送会にタピエも顔を出し、ビエンナーレの会場でも再会していた。今回は1000㎞もの道のりを自ら運転して案内しようというのだから、戦略家で仕掛人だったタピエだけに、何か思惑があったとも考えられるが、純粋で素直な親切心だったのかもしれない。いずれにしろ、5~6歳年長の瀧口に一目置いていたことは確かだろう。
図6-7
瀧口訳、タピエ「別の美学について」(「みづゑ」1956年12月号。左頁左上はミショーの、右はトビーのタピエ肖像。左下はタピエ近影、撮影者不詳)
好意はありがたかったに違いないが、タピエスと落ち合う国境の入口を間違えて迷ったり、パンクしたタイヤの交換に手間取って夕立に見舞われたり、果てはホテルがどこも満室で、車中で一夜を明かす羽目に陥ったりと、なかなかの珍道中だったようである。ようやくタピエスと電話が繋がり、迎えに来てもらって国境を越え、8月6日にバルセロナに到着した。タピエスはこの年のビエンナーレで新人賞を受賞しており、瀧口ともすでに面識があった。17年後には二人で詩画集『物質のまなざし』(ポリグラファ社、75年夏)を共作することになる。バルセロナ滞在中は(ダリ訪問後も)タピエスのアトリエに逗留し、主にガウディの建築を見て歩いている(図6-8)。
図6-8
アントニオ・ガウディ「サグラダ・ファミリア教会」(撮影:瀧口修造)
タピエがフランスに帰るというので、8月9日、タピエスの車で国境近くのフィゲラスまで送ってもらい、二人と別れてタクシーで約40㎞離れたカダケスに向かった。どのホテルも満室だったが、運よくダリの家(図6-9)の向かいの、ポルト・リガトでただ1軒の小さなホテルに、1室が1晩だけ空いていた。荷物を解いて、夜8時過ぎにダリを訪ねた。応接間に通されて待っていると、やがて日焼け顔に例の髭を生やしたダリが現れたのだが、握手を交わすとそのまま引っ込んでしまった。すぐに戻ってきて、面食らっている出光に向かって、手にしていた一輪の白い花を差し出したという。ダリから「この人はあなたのお父さんか?」ときかれた東野が、「精神的には」と答えたので、さすがのダリも「うむ……」といったきり、二の句を継げなかったそうである。
図6-9
ポルト・リガトのダリの家(撮影:瀧口修造)
瀧口は1930年代から、ダリの「非合理性の征服」や「ナルシスの変貌」などを翻訳・紹介し(「みづゑ」36年6月、同38年6月)、図らずも当時のダリ風絵画の流向を招いた張本人でもあった。ダリがシュルレアリスムを除名された後もその動静を丁寧に追い、単行本『ダリ』(アトリヱ社、39年1月)、「アメリカに渡ったダリ」(「セルパン」39年7月)、「ダリの近況」(「みづゑ」同年同月)などを発表している。このときも、訳したばかりの『異説・近代藝術論』(紀伊國屋書店、58年6月。図6-10)を献呈すると、「いい本になった」とご満悦で、『わが秘められた生涯』の翻訳も催促された。話しているうちに、ダリも戦前の交流を想いだしたようで、打ち解けてきた。進行中の作品が並べてあるアトリエに案内されて、出来上っている写実的な小品を次々に見せられた。帰り際に顔を出した夫人のギャラと握手して、ホテルに戻っている。
図6-10
瀧口訳、ダリ『異説・近代藝術論』(紀伊國屋書店、58年6月)
翌朝、ホテルから見た海岸の光景は、ダリの絵の背景を想起させた(図6-11)。ダリの家で会った心理学者ルメゲールの勧めで、近くの小山に上って見下ろすと、岬の裏側の光景は、パリで観たばかりの映画「黄金時代」の光景そのままだった。ダリの家も遠望された(図6-12)。その午後、ダリに別れの挨拶に行くと、思いがけずデュシャンに出会ったのだった。この場面については、以下に瀧口自身の文章をいくつかご紹介する。ちなみに東野夫妻は挨拶に同行しておらず、この邂逅に立ち会っていない。自身もデュシャンその人に会う機会を逃したことになって、東野は後々まで残念がっている。
図6-11
ポルト・リガト海岸(撮影:瀧口修造)
図6-12
ダリの家の見える風景(撮影:瀧口修造)
「翌日帰ろうとタクシーを待たせているとき、遠くのテラスにダリの姿を見たので走って別れを告げに行くと、入れ入れという。意外、そこにマルセル・デュシャンが来ていた。いやはや遥るけくも来たもの。予定よりおくれたのでマジョルカ島のミロに会えないのが心残り。明日のエール・フランスでマドリドに行くつもりです。」(8月12日付け綾子夫人宛て絵葉書。図6-13,14)
図6-13
8月12日付け綾子夫人宛て絵葉書(慶應義塾大学アート・センター編前掲書所収の複製)
図6-14
同(裏側)
「タクシーで帰ろうとしてダリの家を眺めるとテラスからかれの半身が見えたので、私は駆けだしていって別れをつげた。すると玄関へ出てきて、『はいれ、紹介する人がある』という。思いがけぬダダの元老マルセル・デュシャンがテラスの籐椅子にかけてにこにこしていたのである。私に向って、『あなたはシュルレアリスムに関係した詩人か?』ときいたら、そばからダリが『日本の』とつよく附け加えた。私は意外な遭遇に下手なフランス語が体をなさず、デュシャンになんとなく『あなたの芸術……』といいかけて慌てて、「ノン!」と打ち消したら、かれはにこにこしながら頷くので私たちの会話は笑いのまま終ってしまった。まったくデュシャンのは『芸術』ではなかったのである。かれは『私は英語で書く』といってサインしてくれた。」(「ダリを訪ねて スペインのちぎれた旅行記」「藝術新潮」、58年12月。下はこのときの両者のサイン)
図6-15
デュシャンのサイン(たしかに“for dear”の個所は英語である)
図6-16
ダリのサイン
「ダリのアトリエで一夜をすごし、翌日の午後別れを告げにゆくと、偶然マルセル・デュシャンに紹介された。デュシャンは近くのカダケス海岸に滞在していたのだが、ふと考えると、このカタロニアの一角のポルト・リガトで、ダリとギャラ夫人、デュシャン、そして一日本人の出会いはなんとも奇異な情景というほかはなかった。デュシャンはもう70歳をこえた老人であったが、物しずかで、にこにこしているだけである。慌しい時間に、私たちは二言三言話を交わしたにすぎないが、言葉のはしにふと『あなたの芸術……』といいかけて、思わず『ノン』とうち消してかれの顔を見ると、かれはうなずきながら笑っている。私もつい笑ってしまって、会話は象徴的な余韻をのこしたままで終りになった。私はその籐椅子にダダの歴史、20世紀芸術のふしぎな人物が坐っているのを眺めるばかりであった。」(新潮社版『幻想画家論』あとがき、59年1月。図6-17)
図6-17
瀧口修造『幻想画家論』(新潮社、59年1月)
「ダリの家で出会ったもうひとりの珍客はダダの先駆者マルセル・デュシャンであった。私はこの老人と珍妙な会話を交わしただけで別れなければならなかった。タクシーがホテルで待っていたのである。私はダリの家に入るときはカメラを遠慮してもたなかったのだが、デュシャンと会ったときだけはちょっと惜しいことをしたと思った。ダリの写真は多くの写真家が撮っているし、写真ならカダケスに住むシネアスト、デシャルヌから貰ってくれと、ダリもいっていたが、デュシャンにはサインを貰っただけで別れるのは惜しい気がした。ところが今年の4月号の『アート・ニューズ』誌に珍しくマルセル・デュシャンを賛えるダリの一文が載っていて、それに昨年の夏、ダリ家のベランダで私が会ったときと同じ場所で同じ格好をしたデュシャンとダリの夫人ギャラの写真がのっているではないか。わたしはぜひデシャルヌにこの写真を記念に1枚所望したいものだと思っている」(「アルバムからの3つの話」「美術手帖」、59年8月。なお『コレクション』1巻では、写真を所望する相手が「デュシャン」となってしまっている)
言及されているロベール・デシャルヌ撮影の写真は、後に他の多くの写真とともに「ローズ・セラヴィ’58~'68」(「遊」5号、73年1月)に転載されている(図6-18)。
図6-18
ダリの家で、左よりギャラ、デュシャン、ダリ(撮影:ロベール・デシャルヌ)
以上のとおり、タピエに誘われて日程を固めたこのスペイン紀行では、アクシデントに見舞われ、偶然も重なった。途中で迷っていなかったら、タイヤがパンクしていなかったら、ポルト・リガトのホテルに空室がなかったら、帰り際にダリの姿が眼に入らなかったら、デュシャンとの遭遇もなかったかもしれない。瀧口自身も不思議さを感じていたようで、サインした後も一向に話の止まらないダリに、やっとのことで「さよなら」をいって石段を駆け下りる自身の姿を、おとぎ話の主人公に喩えて、「魔法の山を逃げ降りる少年みたいではないか?」と語っている(前出「ダリを訪ねて」)。(続く)
(つちぶちのぶひこ)
●今日のお勧め作品は瀧口修造です。
瀧口修造
「II-8」
デカルコマニー、紙
Image size: 11.0x8.5cm
Sheet size: 13.7x9.8cm
※II-7と対
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※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください。
土渕信彦
6.デュシャンとの出会い(1958年)
今回は1958年の欧州旅行と、その際のデュシャンとの出会いについて述べる。第29回ヴェネチア・ビエンナーレの日本代表兼審査員を務めることとなった瀧口は、5月25日、羽田空港を出発した。副代表は東野芳明と福沢一郎だった。ビエンナーレ後も各地を回り、10月12日に帰国した。主な旅程は以下のとおり。慶應義塾大学アート・センター編『瀧口修造1958―旅する眼差し』(慶應義塾大学出版会、2009年10月)を参考にした。
5月25日、羽田発(図6-1)。26日~30日、ローマ滞在。
5月30日~6月18日、ビエンナーレで任に当たる(図6-2,3)。
6月18日~7月9日、フィレンツェ、ミラノなどを巡る。
7月9日~8月4日、パリ滞在。
8月4日、ミシェル・タピエの車でスペインに向かう。
8月6日~13日、バルセロナに滞在。
8月9日、ポルト・リガトにダリを訪問。10日、ダリの家でデュシャンと出会う。
8月13日~21日、マドリッド滞在。
8月21日、パリに戻る。
8月27日~10月5日、ベルギー、オランダ、スイスの各地を周る。
10月5日、パリに戻る。8、9日の両日、ブルトンを訪問。
10月10日、パリ発、12日、羽田着。
図6-1ローマ行きエール・フランス機内にて(撮影者不詳)
図6-2日本館前で(撮影者不詳)
図6-3ビエンナーレ開会式で(辻茂、小野田ハルノと共に。撮影者不詳)
生涯で初めてのこの欧州旅行では、各地の美術館・画廊などを訪れたほか、多くの美術家・美術関係者や在欧邦人とも面談する機会に恵まれた。例えばフォンターナ、ムナーリ、サム・フランシス、スーラージュ、タピエス、ダリ、ミショー、ヨハネス・イッテン、フェリックス・クレー、ブルトンなど。避暑で留守だったミロには会えなかったが、総じて収穫の多い旅となった。後に開花することになる色々な種も播かれた。詳細は上掲書や『コレクション』1巻をご参照いただきたい。ただ、ビエンナーレの審査員としてフォンターナに投票した事実は、見落とされがちなので、ここで触れておきたい。
フォンターナは当時すでに、空間主義(スパツィアリスモ)の主唱者として注目される存在だった。しかしビエンナーレでは、カンヴァスを用いても油彩絵具は使わないためか、カンヴァスに穴を穿った衝撃が大きすぎたのか、「彫刻と絵画のジャンルの真空地帯」(後出「フォンターナ訪問記」)に入ってしまい、カタログでも、絵画ではなく彫刻の部に掲載されていた。瀧口は逆にその平面の「微細微妙な絵画的感覚」(同)の真価を見抜き、(彫刻の部に加え)絵画の部でもあえてフォンターナに一票を投じたのだった。フォンターナも「自分を支持してくれたのは日本の代表だけだ」といって喜んだという。7月5日、ミラノのアトリエを訪れた際に、作品も贈られている(図6-4)。帰国後、「フォンターナ訪問記」(「三彩」59年4月)を発表し、画集『フォンタナ』(みすず書房、64年10月。図6-5)を刊行することになる。
図6-4フォンターナの陶板作品。年代不詳(瀧口修造旧蔵)
図6-5瀧口修造編著『フォンタナ』(みすず書房「現代美術」25、64年10月。表紙はこの画集のために送られてきた作品)
さて、ここから本題に入る。ブルトンとの面談と並んで、その後の人生を変えることになったのが、ダリの家でのデュシャンとの出会いである。この発端は美術評論家ミシェル・タピエ(1909-87)の誘いだった。一緒にバルセロナに行き、アントニオ・タピエスのアトリエを訪ねることとなったのである。
タピエはいうまでもなくアンフォルメルの主唱者で、「具体」を(アンフォルメルの好例としてだが)高く評価して、国際的に紹介したことでも知られる。画家ロートレックの母はタピエの大叔母で、つまりロートレックの従甥に当るという、名家の出の評論家である。そのタピエに導かれて画家の出身地アルビを通るのは魅力的に思われ、ダリとも親しいと聞いて期待も抱いたようである。ベルギー・オランダから戻った東野芳明・出光孝子夫妻も合流し、タピエのシトロエンに同乗して、8月4日の朝、パリを出発した(図6-6)。
図6-6旅の途中で、左から東野芳明、出光孝子、ミシェル・タピエ(撮影:瀧口修造)
瀧口はすでにタピエの「別の美学について」を翻訳していたし(「みづゑ」56年12月。図6-7)、57年の来日の際には会談もしていた(いわゆる「アンフォルメル旋風」の端緒となった「世界・今日の美術」展に、タピエは出品・協力していた)。「実験工房」の画家福島秀子の位置付けを巡り、「アンフォルメル」のレッテルを警戒する瀧口との間で、議論もあったようである。58年に再来日した際には、5月に開催された日本代表歓送会にタピエも顔を出し、ビエンナーレの会場でも再会していた。今回は1000㎞もの道のりを自ら運転して案内しようというのだから、戦略家で仕掛人だったタピエだけに、何か思惑があったとも考えられるが、純粋で素直な親切心だったのかもしれない。いずれにしろ、5~6歳年長の瀧口に一目置いていたことは確かだろう。
図6-7瀧口訳、タピエ「別の美学について」(「みづゑ」1956年12月号。左頁左上はミショーの、右はトビーのタピエ肖像。左下はタピエ近影、撮影者不詳)
好意はありがたかったに違いないが、タピエスと落ち合う国境の入口を間違えて迷ったり、パンクしたタイヤの交換に手間取って夕立に見舞われたり、果てはホテルがどこも満室で、車中で一夜を明かす羽目に陥ったりと、なかなかの珍道中だったようである。ようやくタピエスと電話が繋がり、迎えに来てもらって国境を越え、8月6日にバルセロナに到着した。タピエスはこの年のビエンナーレで新人賞を受賞しており、瀧口ともすでに面識があった。17年後には二人で詩画集『物質のまなざし』(ポリグラファ社、75年夏)を共作することになる。バルセロナ滞在中は(ダリ訪問後も)タピエスのアトリエに逗留し、主にガウディの建築を見て歩いている(図6-8)。
図6-8アントニオ・ガウディ「サグラダ・ファミリア教会」(撮影:瀧口修造)
タピエがフランスに帰るというので、8月9日、タピエスの車で国境近くのフィゲラスまで送ってもらい、二人と別れてタクシーで約40㎞離れたカダケスに向かった。どのホテルも満室だったが、運よくダリの家(図6-9)の向かいの、ポルト・リガトでただ1軒の小さなホテルに、1室が1晩だけ空いていた。荷物を解いて、夜8時過ぎにダリを訪ねた。応接間に通されて待っていると、やがて日焼け顔に例の髭を生やしたダリが現れたのだが、握手を交わすとそのまま引っ込んでしまった。すぐに戻ってきて、面食らっている出光に向かって、手にしていた一輪の白い花を差し出したという。ダリから「この人はあなたのお父さんか?」ときかれた東野が、「精神的には」と答えたので、さすがのダリも「うむ……」といったきり、二の句を継げなかったそうである。
図6-9ポルト・リガトのダリの家(撮影:瀧口修造)
瀧口は1930年代から、ダリの「非合理性の征服」や「ナルシスの変貌」などを翻訳・紹介し(「みづゑ」36年6月、同38年6月)、図らずも当時のダリ風絵画の流向を招いた張本人でもあった。ダリがシュルレアリスムを除名された後もその動静を丁寧に追い、単行本『ダリ』(アトリヱ社、39年1月)、「アメリカに渡ったダリ」(「セルパン」39年7月)、「ダリの近況」(「みづゑ」同年同月)などを発表している。このときも、訳したばかりの『異説・近代藝術論』(紀伊國屋書店、58年6月。図6-10)を献呈すると、「いい本になった」とご満悦で、『わが秘められた生涯』の翻訳も催促された。話しているうちに、ダリも戦前の交流を想いだしたようで、打ち解けてきた。進行中の作品が並べてあるアトリエに案内されて、出来上っている写実的な小品を次々に見せられた。帰り際に顔を出した夫人のギャラと握手して、ホテルに戻っている。
図6-10瀧口訳、ダリ『異説・近代藝術論』(紀伊國屋書店、58年6月)
翌朝、ホテルから見た海岸の光景は、ダリの絵の背景を想起させた(図6-11)。ダリの家で会った心理学者ルメゲールの勧めで、近くの小山に上って見下ろすと、岬の裏側の光景は、パリで観たばかりの映画「黄金時代」の光景そのままだった。ダリの家も遠望された(図6-12)。その午後、ダリに別れの挨拶に行くと、思いがけずデュシャンに出会ったのだった。この場面については、以下に瀧口自身の文章をいくつかご紹介する。ちなみに東野夫妻は挨拶に同行しておらず、この邂逅に立ち会っていない。自身もデュシャンその人に会う機会を逃したことになって、東野は後々まで残念がっている。
図6-11ポルト・リガト海岸(撮影:瀧口修造)
図6-12ダリの家の見える風景(撮影:瀧口修造)
「翌日帰ろうとタクシーを待たせているとき、遠くのテラスにダリの姿を見たので走って別れを告げに行くと、入れ入れという。意外、そこにマルセル・デュシャンが来ていた。いやはや遥るけくも来たもの。予定よりおくれたのでマジョルカ島のミロに会えないのが心残り。明日のエール・フランスでマドリドに行くつもりです。」(8月12日付け綾子夫人宛て絵葉書。図6-13,14)
図6-138月12日付け綾子夫人宛て絵葉書(慶應義塾大学アート・センター編前掲書所収の複製)
図6-14同(裏側)
「タクシーで帰ろうとしてダリの家を眺めるとテラスからかれの半身が見えたので、私は駆けだしていって別れをつげた。すると玄関へ出てきて、『はいれ、紹介する人がある』という。思いがけぬダダの元老マルセル・デュシャンがテラスの籐椅子にかけてにこにこしていたのである。私に向って、『あなたはシュルレアリスムに関係した詩人か?』ときいたら、そばからダリが『日本の』とつよく附け加えた。私は意外な遭遇に下手なフランス語が体をなさず、デュシャンになんとなく『あなたの芸術……』といいかけて慌てて、「ノン!」と打ち消したら、かれはにこにこしながら頷くので私たちの会話は笑いのまま終ってしまった。まったくデュシャンのは『芸術』ではなかったのである。かれは『私は英語で書く』といってサインしてくれた。」(「ダリを訪ねて スペインのちぎれた旅行記」「藝術新潮」、58年12月。下はこのときの両者のサイン)
図6-15デュシャンのサイン(たしかに“for dear”の個所は英語である)
図6-16ダリのサイン
「ダリのアトリエで一夜をすごし、翌日の午後別れを告げにゆくと、偶然マルセル・デュシャンに紹介された。デュシャンは近くのカダケス海岸に滞在していたのだが、ふと考えると、このカタロニアの一角のポルト・リガトで、ダリとギャラ夫人、デュシャン、そして一日本人の出会いはなんとも奇異な情景というほかはなかった。デュシャンはもう70歳をこえた老人であったが、物しずかで、にこにこしているだけである。慌しい時間に、私たちは二言三言話を交わしたにすぎないが、言葉のはしにふと『あなたの芸術……』といいかけて、思わず『ノン』とうち消してかれの顔を見ると、かれはうなずきながら笑っている。私もつい笑ってしまって、会話は象徴的な余韻をのこしたままで終りになった。私はその籐椅子にダダの歴史、20世紀芸術のふしぎな人物が坐っているのを眺めるばかりであった。」(新潮社版『幻想画家論』あとがき、59年1月。図6-17)
図6-17瀧口修造『幻想画家論』(新潮社、59年1月)
「ダリの家で出会ったもうひとりの珍客はダダの先駆者マルセル・デュシャンであった。私はこの老人と珍妙な会話を交わしただけで別れなければならなかった。タクシーがホテルで待っていたのである。私はダリの家に入るときはカメラを遠慮してもたなかったのだが、デュシャンと会ったときだけはちょっと惜しいことをしたと思った。ダリの写真は多くの写真家が撮っているし、写真ならカダケスに住むシネアスト、デシャルヌから貰ってくれと、ダリもいっていたが、デュシャンにはサインを貰っただけで別れるのは惜しい気がした。ところが今年の4月号の『アート・ニューズ』誌に珍しくマルセル・デュシャンを賛えるダリの一文が載っていて、それに昨年の夏、ダリ家のベランダで私が会ったときと同じ場所で同じ格好をしたデュシャンとダリの夫人ギャラの写真がのっているではないか。わたしはぜひデシャルヌにこの写真を記念に1枚所望したいものだと思っている」(「アルバムからの3つの話」「美術手帖」、59年8月。なお『コレクション』1巻では、写真を所望する相手が「デュシャン」となってしまっている)
言及されているロベール・デシャルヌ撮影の写真は、後に他の多くの写真とともに「ローズ・セラヴィ’58~'68」(「遊」5号、73年1月)に転載されている(図6-18)。
図6-18ダリの家で、左よりギャラ、デュシャン、ダリ(撮影:ロベール・デシャルヌ)
以上のとおり、タピエに誘われて日程を固めたこのスペイン紀行では、アクシデントに見舞われ、偶然も重なった。途中で迷っていなかったら、タイヤがパンクしていなかったら、ポルト・リガトのホテルに空室がなかったら、帰り際にダリの姿が眼に入らなかったら、デュシャンとの遭遇もなかったかもしれない。瀧口自身も不思議さを感じていたようで、サインした後も一向に話の止まらないダリに、やっとのことで「さよなら」をいって石段を駆け下りる自身の姿を、おとぎ話の主人公に喩えて、「魔法の山を逃げ降りる少年みたいではないか?」と語っている(前出「ダリを訪ねて」)。(続く)
(つちぶちのぶひこ)
●今日のお勧め作品は瀧口修造です。
瀧口修造「II-8」
デカルコマニー、紙
Image size: 11.0x8.5cm
Sheet size: 13.7x9.8cm
※II-7と対
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