「静寂の光に包まれて-木坂宏次朗の世界」

島 敦彦


 穏やかな春の午後、京都市北区にある木坂宏次朗のアトリエを訪ねた。入口は当初は土間だったところを自ら板張りにしたというが、天井も低く、さほど広くない二部屋に加えて、奥に倉庫のような小さな部屋があった。そこには描きかけのまま、寝かせてある作品が何点も見られた。室内の作りがちょっと隠れ家のようで、何となく木坂らしい(と書いたが、初対面だ)感じがした。
 壁にかかった作品やしまってある作品を順次見せてもらいながら、木坂の話を聞いた。彼の口からたびたび出てきたのは、イギリスの詩人、劇作家であるT・S・エリオット(1888-1965)の詩『四つの四重奏(Four Quartets)』だったが、私は読んだことがなかった。木坂はエリオットの詩に触発され、そこに登場する「At the still point」という言葉を、この数年の自作全体の基本的な主題に据えている。
 この詩集は、エリオット後年の代表作で、四章からなる。このうち、第一章の「バーント・ノートン」(かつて火事に見舞われたことから「バーント(焼けた)burnt」を冠した英国のカントリーハウスの名前)に、「the still point」が何度か出てくる。岩崎宗治の訳(岩波文庫)では、「静止の点」だが、木坂は「静止点」と訳す。ここでいう「静止点」とは、単に何かが静かに止まっている状態ではなく、訳注によれば、「独こま楽の中心のように、動いているでもなく、静止しているでもなく、運動と静止を止揚した点」であり、「無時間と時間の交差の点」なのである。
 エリオットの詩が、木坂にとって特別な存在であるらしいことは充分感じたものの、今はこれ以上触れず、むしろ木坂の作品を何よりもまず直視したい。
 彼の作品は、卵テンペラによる絵画と木炭による素描に大きく分けられる。テンペラとは、混ぜ合わせるという意味のラテン語テンペラーレ(Temperare)に由来するが、乳化作用を持つ卵黄を固着剤に利用する技法を卵テンペラと称している。乾燥が早く、すぐに塗り重ねられ、いわゆる油彩画よりも経年劣化が少ない点が特徴である。
 木坂は、面相筆(極めて細い筆)で、何度も何度も線を塗り重ねて、画面全体を覆い尽くす。遠くから見ると、幅広の筆で色彩の諧調を整えたかに見える場所も、近くでよく観察してみると、一筆一筆、縦方向に細い線が描かれ、その集積があって初めてその色調の変化が生まれているのが分かる。乾くのが早く、重ね塗りしても絵具が混じらないテンペラの特性を遺憾なく発揮している。
 卵テンペラによる絵画の多くは、木のパネルに綿布を張り、石膏で下地を整え、あらかじめ墨で真っ暗な闇の状態を作り、その上にセルリアン・コバルトの青色を少しずつ上塗りして、徐々に明暗の調子をつけていく。暗闇から光が生まれるようになるには、かなりの時間を要するようだ。とりわけ、暗い下地は明るい色をどれだけのせてもすぐに吸収されてしまい、なかなか明るさを確保できないものだ。
 画面の形状は、縦長、横長、二種類あるが、どちらも画面中央あたりに水平線と思しき線が、時にくっきりとに茫洋と立ち現われる。世界各地の海景を撮り続けている杉本博司の写真をどこか髣髴させるが、杉本の場合は撮影場所が具体的に特定される(実際には分かりにくいが)のに対し、木坂の絵画はむろん写真ではないし、写真を元に描いているわけでもない。かといって、普遍的に共有される海のイメージでもない。あるいは一日の始まり、たとえば夜明けや朝焼けのようでもあり、逆にほとんど太陽が沈んだ時間帯のわずかに残る光の残影のようにも見える。しかし率直に言って、こうした平凡な形容では説明しがたい、どこでもないどこかとしかいいようがないところが、木坂の絵画の不思議な魅力である。
 木坂の卵テンペラには、もう一つの連作〈Small Voice〉がある。木のパネルに寒冷紗を膠にかわで張り、やはり石膏で下地を作るが、こちらは暗色ではなく明るい地にセルリアンの青(あるいはヴァーミリオンの赤)による線が重ねられる。淡い調子の中に水平線らしきものが登場するのは同じだが、そこに虹を思わせる弓型の形状が加わる。この形は、それ自体を描いたものではなく、その周囲に線をやはり縦方向に描き続けた結果、塗り残された白地の部分なのだ。この連作もまた単純には形容しがたい、無時間的かつ匿名の光景として浮かび上がる。
 こうした一連の卵テンペラ作品は、木坂が1993-96年に滞在制作したフィンランドで模索しながら描いた横3mの大作《Finlandia》(1995年 fig. 1)ののびやかな水平線上の広がりにその淵源を求めることができる。題名は言うまでもなく、フィンランドの作曲家シベリウスの交響詩に由来する。しかし、近年の作品では画面内の諸要素が整理され、以前しばしば見られたやや過剰な抑揚がほとんど姿を消し、より静謐で深遠な印象を与える方向に向かっている。
 ちなみに海外の研修先にフィンランドを選んだのは、木坂によれば「寒く、暗く、知らない国」であったからとのこと。しかも、首都のヘルシンキではなく、フィンランド中部にあるユヴァスキュラと呼ばれる、多くの人には知られていない湖水地方(小都市ながら、伝統文化があり、純粋なフィンランド語を話す、またビジネス、観光の街でもあるという)で、約三年暮らしたのである。
 「静止点」の連作でさらに見逃せないのは、紙に木炭で描く(あるいは胡粉、または木炭の粉をふりかけて定着させる)ドローイングの数々だ。卵テンペラと並行して描かれるこれらのドローイングの中央部分には、きまって木製の車輪を思わせる形状が登場する。こちらは、車軸の部分を中心にまるで回転して見えるものもあれば、車軸だけを残して車輪の大半が木炭の粉にまみれて消え入りそうなものなど、車輪と車軸、背景の闇(胡粉の場合は白地だが)とのコントラストがとても映像的に展開する。車輪の形状が、今ではデジタル化の波に押され、ほとんど目にしなくなったフィルム映写機のリールに似ている点もそう思わせる理由かもしれない。
 木炭のドローイングの描き方には二通りある。細く尖らせた木炭で縦方向に線を何度も重ねて描いたもの、これは前出の卵テンペラによる絵画とほぼ同じ手法だ。一方、車輪の形状を厚紙で精巧な立体模型にして、それを紙の上にかざしてさらに上方から胡粉、または木炭の粉をふりかけるものがある。こちらはいわばステンシル(孔版)のようなやり方で、紙面に定着させるのだが、木炭による黒地に胡粉をかけたものと白地に木炭をかけたものとの二種類がある。この立体模型と紙との距離、それをかざす角度によって、胡粉ならびに木炭の定着の具合にいろんな変化をつけられるのである。
 またこれらとは少し作風が異なるが、鎌倉時代の僧である明恵上人や平安時代の僧である空海の手紙の一部、先史時代の壁画(ラスコーなど)を木炭の線で描いたものがある。これらも実は、エリオットの前出の詩に触発されたものだ。第四章「リトル・ギディング」に登場する「ダンテらしき亡霊」とエリオット自身が対話する光景を思い描いた際に、木坂なりに時空を超えて対比すべき対象として選ぶにいたったのだという。
 卵テンペラの絵画と木炭によるさまざまなドローイングは、それぞれどのような関係を結ぶのか。両者は、共鳴する部分もあれば、時に折り合わない部分もあるだろう。木坂の仕事は、その振幅の中で揺らぎながら、今まさに始まったばかりである。今回の個展は、およそ10年ぶり、初めてご覧になる方も多いだろう。どんな印象を持たれるのか、楽しみだ。
 木坂がかつて経験した北欧の白夜、スウェーデンやフィンランドでしばしば訪ね題材にしたことのある先史時代の壁画、あるいは関西とフィンランドで手がけた舞台美術の経験、などなど、彼の作品について語る材料は、エリオット以外にも実はまだまだある。しかし、目下のところそうした手がかりはそっとそばに置き、何よりもまず木坂の作品の前にしばし佇むことをお勧めしたい。

しま あつひこ

Finlandia600
fig. 1
木坂宏次朗 Kojiro KISAKA
Finlandia
卵テンペラ
Egg tempera
100.0×300.0cm
1995

●図録刊行のご案内
表紙『木坂宏次朗展 AT THE STILL POINT』図録
2015年
ときの忘れもの 発行
16ページ
25.7x18.2cm
執筆:島敦彦
掲載図版:17点
デザイン:北澤敏彦(株式会社DIX-HOUSE)
税込864円 ※送料別途250円

島 敦彦(しま あつひこ)
1956年富山県生まれ。早稲田大学理工学部金属工学科卒業。1980-1991年富山県立近代美術館、1992-2015年国立国際美術館に勤務。2015年4月から愛知県美術館館長。榎倉康二、内藤礼、小林孝亘、O JUN、畠山直哉、オノデラユキの近作展のほか、「瀧口修造とその周辺」(1998年)、「絵画の庭̶ゼロ年代 日本の地平から」(2010年)、「あなたの肖像̶工藤哲巳回顧展」(2013-2014年)を担当した。

1_ReprosKojiro01_MG_7413_WRK_FIN_M
1. 木坂宏次朗 Kojiro KISAKA
Still Point
2010
卵テンペラ/木パネル、綿布、石膏
Egg tempera / wood panel, cotton, gypsum
48.0×110.0cm
Signed

2_ReprosKojiro04_MG_7433_WRK_FIN_M
2. 木坂宏次朗 Kojiro KISAKA
Purgatory
卵テンペラ/木パネル、綿布、石膏
Egg tempera / wood panel, cotton, gypsum
41.0×75.0cm
2013
Signed

3_ReprosKojiro08_MG_7446_WRK_GapWhite_FIN_M
3. 木坂宏次朗 Kojiro KISAKA
Still Point ― 4 Segments
卵テンペラ/木パネル、綿布、石膏
Egg tempera / wood panel, cotton, gypsum
94.0×232.0cm(1枚94.0×58.0cm×4枚)
2009
Signed

◆ときの忘れものは2015年6月24日[水]―7月11日[土]「木坂宏次朗展 AT THE STILL POINT」を開催しています(*会期中無休)。
木坂宏次朗展DM600京都の画家・木坂宏次朗は、T.S.エリオットの詩に触発され、土、水、空気、火の四つの象徴を経てStill Point(永遠の時間と現在の時が重なる時)を表現する作品を作り続けています。本展ではその繊細なテンペラ作品やドローイングを約15点ご覧いただきます。
*価格リストをご希望の方は、「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してメールにてお申し込みください。
こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから


●作家在廊日のお知らせ
木坂宏次朗さんは下記の日程で在廊予定です。変更となる場合もございますので予めご了承ください。
-6月26日(金) 13:00~19:00
-6月27日(土) 12:00~19:00
-6月28日(日) 12:00~16:00
7月10日(金) 12:00~19:00
7月11日(土) 12:00~19:00