石原輝雄のエッセイ「マン・レイへの写真日記」第16回
Man Ray's nude drawing, "Marguerite"


マーガレット 1995年4月18日 ロンドン

16-1 別れ

マン・レイの未亡人ジュリエットが死去されたのを知らせてくれたのは、ギャラリー・ビア・エイトのM氏だった(1991年2月13日)。電話によると「1月17日に亡くなり、25日巴里のアメリカ教会で葬儀、その日のうちにモンパルナス墓地に埋葬された」との事で、享年79。すぐに弔意の手紙をマリオン・メイエ氏に送った。ぼんやりと、フェルー通りのアトリエでお会いした折の、彼女の声を思い出しながら、残された作品はどうなるのだろうと不安を感じた。

manray16-1下見会招待状(パレッタブル)


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16-2 下見会

わたしの収集は、91年に『ピンナップ』、93年に『破壊されざるオブジェ』と大物が続き、その間にも展覧会資料を確保していたので、常に資金繰りに悩む状態だった。94年の秋から翌年初めにかけてアントワープとパームビーチで(後にヴォルフスブルグ、ロンドン、サンタンデールでも開かれたと知った)、個別のマン・レイ展が開かれ盛り上がっている状況に注意をはらってはいたのだが、MACのパソコンLC630を買い替える必要に迫られ、年末賞与をiMACの購入に充ててしまったところ、1月末にシルバン書房の岸本征夫さんから、マン・レイの『パレッタブル』を使ったオークション下見会の招待状を示されてしまった。 「え!」── ジュリエット旧蔵品の売り立てを3月22-23日にロンドンで開催するのに先立ち、ハイライト作品の下見会を2月17-18日の日程で東京麹町のサザビーズ・ジャパンで行うと云う。──これは、一大事! いざ鎌倉ではないか。

manray16-2下見会招待状
岸本氏のメモ有り


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manray16-3下見会会場


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manray16-4筆者、後方は油彩『ピスシネマ』


 一人で馳せ参じるのは危険なので、友人の土渕信彦氏をお誘いして臨んだ。千代田区麹町1丁目のフェルテ麹町ビルは皇居を望む静かな立地で、3階にあがると美しいブルーの油彩大作『ピスシネマ』が迎えてくれた。展示されているのは凡そ100点。写真が多いが油彩は10年代の『死神』や踊るジュリエットをとらえた40年代の『天上の存在』、それに、見ていて胸がキュンとなった『視点』。もちろん、オブジェや素描も含まれている。ジュリエットがご存命の時にフェルー通りのアトリエで拝見した作品も多く、リストには落札予想価格が8万円から1,120万円の範囲で示されている。今回は、お金があれば我が物にできるのだから、嬉しくて、嬉しくて、もう、どうなってもかまわない(冷静にならなくては)。

 パリから始まった下見会は、この後、ニューヨークに移り、話題を提供しながら当日をむかえる予定のようだった。オークション会社と取引をしたことがないので、入札や精算の方法などを教わり、カタログを頂いてから、土渕氏と焼き鳥屋で作戦会議を開いた。── というか、お金の乏しい身の愚痴話ばかりです。

 300頁以上の分厚いカタログに掲載されたロットは全597点。17日の為替は1ポンド157.86円。使える資金の上限を計算しながら、カタログに付箋をいっぱい貼った。あれも欲しい、これも欲しい。ビットした総てが落札されたら、破産するぞ!  油彩が欲しいけど、それは、住宅ローンの世界と諦め、素描にしぼって検討を重ねた。不在者入札でしか対応できない身では、競争相手を予測せねばならない。きっと、これだけ大量の作品が放出されるのだから、価格は低く流れるだろう。セールの前半ロットならば、様子見もあるだろうから、相手も出てこない、などと考えた(当たっているかしら)。

 カタログの小さな図版からオリジナルを想像するのは難しいけれど、『ヌード』数種と『謎のオブジェがあるフェルー通り』や、『日曜日の旅役者』などを原寸サイズに拡大コピーして絞り込み、鉛筆よりもインクの方が良いと思ったりした。結局、3点を列記して「申込書」を記述。出品番号の下に「OR」と書き加え、一つでも落札できたら「終了する」の決意で望んだ(手許資金の上限が一点当たりの入札価格です)。

manray16-5オークション・カタログ


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manray16-6掲載頁


manray16-7不在入札申込書


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16-3 入札

さて、3月24日の夕方、サザビーズ・ジャパンのH嬢から「落札しました」と連絡が入った。落札予想価格の倍近い結果であったが最初のロットで見事に勝利。わたしは運の良いコレクターだと思う。3点のうちで、どうしても欲しいと思った素描なのである。それは、1936年12月13日の日付とサインの入った『ヌード』のインク・デッサンで、この連載の初回で報告した『アンナ』と照応する『時間の外にいる貴婦人たちのバラード』の版画集に含まれた「マーガレット」の原画。私家版『時間光』(銀紙書房、1975年刊、限定10部)で「翼有る裸体」と謳った、その人だった。

 これまでに、ミラノ(84年)とパリ(88年)での展覧会に出品された作品。注目し憧れていた素描が我が物になるとは、望外の喜び、願いは通じるものだと思った。早速、指定された口座へ送金し、さらに、運送業者とFAXでやり取りをして、作品の到着を待った。── 諸般の事情(笑)で、受取住所を勤務先に指定。ロンドンから出荷されて僅か4日後に京都へ届いた木箱は1.5kgでびっくり、同僚が帰宅し一人きりとなった事務所で、こっそり開けた。

manray16-8事務所の木箱


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16-4 セントラルパーク

青色の保護テープを剥がし、ガラス超しに見ると、力強いインクの奥に薄い鉛筆の線。大の字で寝る「マーガレット」の姿態が眩しく、想像以上の優品で嬉しかった。版画では天地を逆に起こされたようだが、乳房の形状から裸体を見下ろす視点だと思った。そして、右下のモノグラム・サインと共に記された日付から、いくつもの想像が生まれた。 ── マン・レイは何処でこの素描を描いたのだろう?

年譜によると、リー・ミラーを失った後、油彩『天文台の時間─恋人たち』や『破壊のオブジェ』(連載第15回参照)などによって自我を回復し、多忙なファションの仕事に追われて、彼女を忘れる事にも成功しかけたマン・レイは、1936年の11月から3ヶ月程、ニューヨークに滞在したようで、ニューヨーク近代美術館で12月9日から開催された『幻想芸術、ダダ、シュルレアリスム』展のオープニングに出席している。同展を企画したアルフレッド・バーの夫人が「マーガレット」と云う名前なので、ひょっとして、夫人の裸体かと思いたくなったりした。──前述の版画集に描かれた女性たちについては、作者がイメージの基にした多くの写真を確認できるが、本作の場合は未見。「マーガレット」は一般的だから、ファッション・モデルの誰かなのだろうか。

manray16-9素描「マーガレット」


 ともあれ、36-37年に掛けてマン・レイが描いた素描は、表面的には回復したようにみえるマン・レイの深層心理をあらわす「夢」の中で、愛を拒絶された怒りと悲しみが、裸体を支配し、山や海原や街を巡る巨人女となって駆け巡っている。友人のシュルレアリスム詩人ポ―ル・エリュアールが寄せた詩と組んで纏められた『自由な手』(ジャンヌ・ビュッフェ、1937年刊、限定500部)に現れた「夢」の情景に心躍り、彼の悲しみを改めて知るのである。評伝の著者ニール・ボールドウィンによると、1936年頃「マン・レイはしじゅう旅行をしていたが、旅に出たときにはかならずベッドの脇にノートを置いた。夜、寝つく前にアイデアが浮かぶと、あとでこの本に使えるようにすばやくデッサンした。また、朝起きると、夢にあらわれたイメージをすぐにスケッチするのだった。広い意味での無意識的なオートマティスムを実践した『自由な手』は、ブルトンの熱烈な支持を得た。」(『マン・レイ』鈴木主悦訳、草思社、1993年刊)と云う。同書にはセントラルパークに巨大な蒸気機関車がさかさまに落ちる光景を描いた『1936年11月25日の夢』と題する素描があって、寄せられたエリュアールの詩『夢』は「夜明けに、私は戻ってくる。/ エッフェル塔は傾き、橋はねじれ、通りの標識は落ちている。/ 私の壊れた家には、私の家の中には、一冊の本も残っておらず、私は裸だ。」(鈴木主悦訳)と綴られている。この見事な共犯関係に、鉄道ファンで本好き、リー・ミラー好きの筆者は、眼を点にしたまま絶句するのだった。

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16-5 不思議の国へ

そんな訳で、「マーガレット」との最初の出会い(1975年)から、購入にいたった出来事を報告する『セントラルパークのひとひら』(銀紙書房、1995年刊、限定50部)を制作した。この中で素描の基となったセントラルパークをとらえた写真の撮影時期と場所に関する横山正先生(東京大学教養学部(当時))の考査を参考に、「その時もマン・レイはバルビゾン・プラザに滞在していたのだろうか。ベッドの脇のノートに手を伸ばし、夜に出会った天使を忘れないうちにすばやく描こうと格闘していたのだろうか。」(16頁)と書いた。感情過多の散文になってしまった本だが、「マーガレット」への思いと素描を手に入れた喜びを上手く伝えられたのではないかと思っている。

manray16-10下見会での筆者と土渕信彦氏(右)


 これを、サザビーズ・ジャパンの担当者や、友人知人にお送りしたところ、いずれの方からも好意的な返事をいただいた。なかでも、下見会にご一緒した土渕信彦氏は、お礼にとご自身がセントラルパークで撮られた、雪の残る『不思議の国のアリス』のモニュメントの写真を下さった。絵本作家のなかえよしを氏が瀧口修造氏から教わったと云うエピソードを聞いていたので、土渕氏が界隈の古書店や画廊を巡り、セントラルパークのアリス像をカメラにおさめている「夢」のような情景が想像できた。氏は瀧口修造氏への敬愛から公園でアリスと出会い、その中に「愛する人」の姿を見たのだと思う。ニューヨークへ行った事のないわたしの方は、『1936年11月25日の夢』から裸体を連想し、バルビゾン・プラザのルーフテラスから公園を俯瞰する「夢」をみるのだった。もちろん、べッドの横では「マーガレット」が眼を閉じている。── 彼女にダイブしたら。いけない、ガラスが割れてしまった(ハハ)。

続く

(いしはらてるお)

■石原輝雄 Teruo ISHIHARA(1952-)
1952年名古屋市生まれ。中部学生写真連盟高校の部に参加。1973年よりマン・レイ作品の研究と収集を開始。エフェメラ(カタログ、ポスター、案内状など)を核としたコレクションで知られ、展覧会企画も多数。主な展示協力は、京都国立近代美術館、名古屋市美術館、資生堂、モンテクレール美術館、ハングラム美術館。著書に『マン・レイと彼の女友達』『マン・レイになってしまった人』『マン・レイの謎、その時間と場所』『三條廣道辺り』、編纂レゾネに『Man Ray Equations』『Ephemerons: Traces of Man Ray』(いずれも銀紙書房刊)などがある。京都市在住。

石原輝雄のエッセイ「マン・レイへの写真日記」目次
第1回「アンナ 1975年7月8日 東京」
第1回bis「マン・レイ展『光の時代』 2014年4月29日―5月4日 京都」
第2回「シュルレアリスム展 1975年11月30日 京都」
第3回「ヴァランティーヌの肖像 1977年12月14日 京都」
第4回「青い裸体 1978年8月29日 大阪」
第5回「ダダメイド 1980年3月5日 神戸」
第6回「プリアポスの文鎮 1982年6月11日 パリ」
第7回「よみがえったマネキン 1983年7月5日 大阪」
第8回「マン・レイになってしまった人 1983年9月20日 京都」
第9回「ダニエル画廊 1984年9月16日 大阪」
第10回「エレクトリシテ 1985年12月26日 パリ」
第11回「セルフポートレイト 1986年7月11日 ミラノ」
第12回「贈り物 1988年2月4日 大阪」
第13回「指先のマン・レイ展 1990年6月14日 大阪」
第14回「ピンナップ 1991年7月6日 東京」
第15回「破壊されざるオブジェ 1993年11月10日 ニューヨーク」
第16回「マーガレット 1995年4月18日 ロンドン」
第17回「我が愛しのマン・レイ展 1996年12月1日 名古屋」
第18回「1929 1998年9月17日 東京」
第19回「封印された星 1999年6月22日 パリ」
第20回「パリ・国立図書館 2002年11月12日 パリ」
第21回「まなざしの贈り物 2004年6月2日 銀座」
第22回「マン・レイ展のエフェメラ 2008年12月20日 京都」
第23回「天使ウルトビーズ 2011年7月13日 東京」
第24回「月夜の夜想曲 2012年7月7日 東京」
番外編「新刊『マン・レイへの写真日記』 2016年7月京都」
番外編─2『Reflected; 展覧会ポスターに見るマン・レイ』
番外編─2-2『マン・レイへの廻廊』
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●今日のお勧め作品は、二木直巳です。
20150705_futaki_02_belvedere9502
二木直巳
「Belvedere 9502」
1995年
色鉛筆、紙
58.0x142.7cm
サインあり

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