笹沼俊樹のエッセイ「現代美術コレクターの独り言」 第17回

「コレクターの原点を求めて」


 そちこちで、聞かれる事がある。「現代美術のコレクターになった“原点”は何だったのですか?」
 色々な趣味がある中で、現代美術の鑑賞を選択し、かつ、なぜコレクターにまでなってしまったのか、自分でもよく分らない。従って、このような事を聞かれると答えに窮する。
 まだしも、“切っ掛け”なら、自分の記憶を辿れば、見つけられないことはないように思える。しかし、“原点”となると至難な事だ。
 このような質問を幾度となく受けているうちに、この年になって、自分の歩んできた道を、冷静に振り返って、“切っ掛け”や“原点”を探すことも興味あることではないか……、と思った。
 まず、記憶をたぐりよせ、“切っ掛け”となったものを探してみようと思った。おそらく、それを探しているうちに、さらにその奥に存在する“原点”が見えてくるかも知れない。

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 1945年、日本は第二次世界大戦で敗戦国となる。人々は今と異なり、日々食べるものも十分になく、衣服には“ファッション”などという言葉もなく、生活するのに最低限必要なものしか身につけることができなかった。このような極貧と言ってもよい状況にあった1951年の春、上野の国立博物館で、アンリ・マティス展が開かれた。
 「“博物館”で、なぜ現代美術展が……?」 今考えると、いささか違和感を感じる。日本で、最初の国立美術館である東京国立近代美術館が開館したのが、1952年。文化面でも、社会基盤が整備できる程の財力が国になかったのだ。
 日本のインテリ層〔大正や昭和の初期に教育をうけた〕好みの“印象派”などの古い美術ではなく、マティス〔1869-1954〕は、この頃、晩期に入っていたとは言え、当時で言えばまぎれもない現代美術の一作家だった。
 人々が生きていく糧を必死になって、探し求めていたこの混迷状況の中で、新しい火をともし、未知の世界があることを知らせようとしたのか……、実にこの時代にふさわしい企画展のように思えた。
 がしかし、当時は分らなかったのだが、今思えば、名ばかりのマティス展だった。出品作品の内容は、油彩が29点〔日本で所有されている作品が13点、海外が16点〕、素描が40点〔1939~40年代前半のドローイング〕、ヴァンスの礼拝堂のステンドグラスの下絵36点〔グワッシュ3点、木炭ドローイング2点、墨のもの2点、木炭ドローイングを写した写真が27点、礼拝堂の模型が2点〕、この他、切り絵が1点。合計で出品作品は106点。
 今、この出品内容を見ると、なんとも表現のしようのない程、寂しい限りのマティス展だ。戦後間もない日本を象徴するような企画展だった。油彩も「マティスが描いた」という名のみの平凡な作品で構成されていた。ヴァンスの礼拝堂のステンドグラスの木炭で描いた習作は実作品でなく、ただのモノクロームの写真が27点も展示されていたのだ。〔全展示作品の1/4〕
 この時、小学4年生。美術の課外授業として、これを見にいった。“授業”と言うが説明は一切なし。従って、マティスがどんな作家かも分らない。ただ、自分の眼でみるしかなかった。ここで、1899年、マティスがコルシカ島で描いた油彩作品〔38x46.5〕cmと遭遇。タイトルは≪桃の花ざかり≫〔資料1〕。畑の中に、花をつけた桃の木が一本描かれている作品だった。確か、記憶では、この桃の花は淡いピンクだったように思う。幼心に、「桃の木がまぶしい程に美しく思えた」ことが、おぼろに記憶に残っている。作品の前に、釘付けになった。
 展覧会場の出口付近にあった売店で、この作品の“絵はがき”〔モノクローム〕を見つけ、なけなしの小遣いでこれを買った。これから、64年も経った。今でも、これが手元にある。〔資料1〕どうやら、小学生ながら、絵画に関心を持つ、“切っ掛け”となり、かつ、コレクターに向う、かすかな前兆現象が、ここあたりに芽ばえだしていたように思えてならない。本を買うなど、他に使いみちのある大切な小遣いで、“絵はがきを買った”という事実を見ても……。

マティス〔資料1〕
マティス展で購入した絵はがき



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 中学時代は「食わず嫌いなし」に、美術館や百貨店での多様な展覧会をよく見て歩いた。数えられない程見ている。これをこなしているうちに、徐々に、作家や作品にほのかな「好み」が出てきた。高校に入り、その生活になれ始めた頃だった。都心に出た時、何気なく立ち寄った日本橋の白木屋百貨店〔現在の「コレド日本橋」がある場所にあった〕で、棟方志功展が開かれていた。初めて見る作家だった。「どんな作家なのか?」 軽い気持ちで会場に足を踏み入れた。眼が作品になれ始めると、肉筆画よりも、荒削りの木版画に強く引きつけられた。特に、仏画に出てくるような素朴な人物を描いたものに不思議な魅力を感じた。
 このあと、棟方展が開かれると欠かさず見るようになってゆく。これから何年か過ぎ、日本橋の丸善に行ったついでに、白木屋にあった棟方ギャラリーに立ち寄ってみた。そこで、妙に引かれた1点の木版画に出会った。黄色に染められた円窓から、下界を眺めているような一人の女人。群青色が落された多少釣り上がった大きな目には、きつさは感じられなく、むしろなごませられる。仏界の女人のように思えた。又、裏手彩色での濁りのない柔らかな美しい色彩にもひかれた。≪弘仁の柵≫という作品だった。〔資料2〕「これ自分の部屋に飾ってみたいなあ……」 今迄に、考えもしなかった言葉が口をつく。価格は7,000円。貯金をはたけば、なんとかなる金額だった。ここに至るまで、あの小学4年の時に見たマティス展から数えて、8年ぐらいの時間が経過していた。あの時にまかれた種が、成長し実をつけ始めているように感じた。

棟方志功〔資料2〕
≪弘仁の柵≫
棟方志功
木版画〔手彩色〕
〔20x20〕cm

初めて購入した作品



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 当時、父の事業が思わしくないのが分っていた。この貯金は自分にとって大切なものであることは十分に感知していた。このような状況なのに、あの版画を見つけてから、絶えず頭の片隅を占めていたのは、“作品を入手したいという気持”と“貯金の重み”の綱引きだった。長い時間苦しみながらも、「大学に入ったら、家庭教師をして、これを取り戻せばいいんだ」という事を何回も自分に言い聞かせ、自分を説得していた。
 家の大事も顧みず、大切な銭を使い“不急不要”なものに手を伸ばす心情に後ろめたさを感じた。苦しんだ挙句、この作品を購入した。これがコレクションの第1号の作品となった。

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 “切っ掛け”をさがし、記憶の糸をたどりよせていた時、幼い頃のなんとも奇妙な“習癖”が思い浮んだ。おそらく3才ぐらいの時だった。家の中に居て、絵本を見たり、玩具遊びをしていない時は、母に気づかれないように、鋏(はさみ)を持って不在の父の部屋に入って行く。狙いは本箱。黙々とある作業に取り掛かる。本箱からは、日本の書籍でなく、必ず洋書を取り出す。一心不乱にページを表示している≪数字≫だけを、次から次へと凝視してゆく。洋書に目をつけたのは、「個性的な多様なロゴタイプ」の数字があることを、幼心に嗅ぎつけたからだ。
 3桁の数字が、なぜか、好みだった。心打つ数字に行き当たると、鋏でその部分を大きめに切り取り、封筒にしまい込む。時々、溜めた数字の切れ端を封筒から取り出して見る時は、何にも増して言いようのない喜びを感じた。
 当時、洋書は高価だった。いつの間にか、沢山の洋書のページの部分が切り取られているのを知った父に、こっぴどくしかられた事を記憶している。しかし、何回しかられても親の目を盗んでは、部屋に忍び込みこれを繰り返し、なかなかやめられなかった。
 「味も素っ気も無い、ただの数字」に、これ程、執拗に執着したのはなぜ?
 この深層心理は分らない。しかし、数字のロゴタイプに、選択行為が発生していたことは、“形”あるものへの嗜好が、既に、芽生え始めていたのではないか……。
 これぞ、コレクターへの道の“原点”のひとつのように思えてならなかった。

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 4~5才頃、昆虫が好きだった。蝉、トンボ、黄金虫……などは特に好きだった。これは、虫自体にではなく、その虫の独得の色彩に引き付けられていたのだ。蜩(ひぐらし)は鳴き声も好きだったが、背の部分の“緑”に、子供ながら「美しい」と思った。又その透き通った羽の色にも不思議なものを感じた。
 トンボはギンヤンマ。胴体部と尾の部分の接合部にある、あのコバルト色の小さな部分を、ほんとうに美しいと感じていた。黄金虫は、体全体を虹色に輝かせ、夏の暑い日に飛ぶ姿を見ると、鳥肌が立つ程に感動した。この頃の体験が、コレクターとしての「色彩へのこだわり」の“原点”になったように思える。物心もついてない幼少の頃、なんの気なしに眼に入った事、気のむくままに、おこなった事、又ある時に、「綺麗だな」と素直に感じた事……、多様な事が時間をかけて、自分の心の奥で、寄りそいあって、毬藻(まりも)のように育ったものが≪原点≫のように思えてならない。
 もの心もつかない時期の多様な体験は、ある面では、人間形成にとって、大きな意味をもっているのかも知れない。
(ささぬまとしき)

笹沼俊樹 Toshiki SASANUMA(1939-)
1939年、東京生まれ。商社で東京、ニューヨークに勤務。趣味で始めた現代美術コレクションだが、独自にその手法を模索し、国内外の国公立・私立美術館等にも認められる質の高いコレクションで知られる。企画展への作品貸し出しも多い。駐在中の体験をもとにアメリカ企業のメセナ活動について論じた「メセナABC」を『美術手帖』に連載。その他、新聞・雑誌等への寄稿多数。
主な著書:『企業の文化資本』(日刊工業新聞社、1992年)、「今日のパトロン、アメリカ企業と美術」『美術手帖』(美術出版社、1985年7月号)、「メセナABC」『美術手帖』(美術出版社、1993年1月号~12月号、毎月連載)他。

※笹沼俊樹さんへの質問、今後エッセイで取り上げてもらいたい事などございましたら、コメント欄よりご連絡ください。

●書籍のご紹介
笹沼俊樹『現代美術コレクションの楽しみ』笹沼俊樹
『現代美術コレクションの楽しみ―商社マン・コレクターからのニューヨーク便り』

2013年
三元社 発行
171ページ
18.8x13.0cm
税込1,944円(税込)
※送料別途250円

舞台は、現代美術全盛のNY(ニューヨーク)。
駆け出しコレクターが摩天楼で手にしたものは…
“作品を売らない”伝説の一流画廊ピエール・マティスとのスリリングな駆け引き、リーマン・ブラザーズCEOが倒産寸前に売りに出したコレクション!? クセのある欧米コレクターから「日本美術」を買い戻すには…。ニューヨーク画商界の一記録としても貴重な前代未聞のエピソードの数々。趣味が高じて、今では国内外で認められるコレクターとなった著者がコレクションの醍醐味をお届けします。(本書帯より転載)

目次(抄):
I コレクションは病
II コレクションの基礎固め
III 「売約済みです」―ピエール・マティスの想い出
IV 従来のコレクション手法を壊し、より自由に―ジョエル・シャピロのケース
V 欧米で日本の美を追う
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●今日のお勧めは飯塚八郎です。
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飯塚八郎
「作品」
コラージュ
13.0×11.3cm
サインあり


飯塚八郎(1928年~2008年)は兵庫県生まれ。平面、立体、版画を手がけ、東京芸術専門学校(TSA)(校長は斎藤義重)で講師も務めた。大江戸線青山一丁目駅にレリーフが設置されておりご覧になった方も多いでしょう。

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