森下泰輔のエッセイ「戦後・現代美術事件簿」第5回
「草間彌生・築地署連行事件」
私は実は草間彌生とはかなり親しかった。
まだフジテレビ・ギャラリーが河田町にあったころ、1982年の「Obsession」展の時にお会いしている。草間は「日本は50年遅れている」と、芸術文化から自民党政治に至るまでいっきに2時間くらいまくしたてるように話したので驚いた。
1950年代、すでに東京での個展で川端康成が作品を購入するといった一定の評価を得ていた草間(*その作品はトイレで制作されたトイレットアートだったとご本人は回想している)。その草間彌生は1957年にニューヨークに渡る。8月にジョージア・オキーフから手紙が来て、11月18日彼女を頼り、また太田財閥の招へいで渡米した。その年はじめに日本で流行っていたのが浜村美智子の「バナナ・ボート」というカバー曲であった。「バナナ・ボート」、そう草間のニューヨークでの実質デビューともなった「1000ボーツ・ショー」(ガートルード・スタイン・ギャラリー 1963)のファルス・ボートを連想させる。しかも、当時の浜村美智子のポーズが草間の写真と瓜二つなのだ。筆者は草間の浜村美智子「バナナ・ボート」への無意識のオマージュを確認する。ローカルチャーからの奪取が働いている。いわゆる「ハイ&ロー」だ。
(*浜村美智子(はまむら みちこ 1938年10月3日 - )は1957年3月ハリー・ベラフォンテの楽曲「バナナ・ボート」をカバー、「カリプソの女王」として人気を集めた。「バナナ・ボート」は江利チエミらも競作として発売していたが、浜村盤は大きくリードする形で、発売1ヶ月余りで18万枚を売り上げ、最終的に30万枚、現在までのトータルセールスではミリオンセラーを記録したとされる。)
もう少しいえば、浜村美智子というのは、美術モデルで戦後ヌードフォトの礎を築いた中村立行の専属モデルでもあり、あの東郷青児のお気に入りの絵画モデルでもあったのだ。
浜村美智子「バナナ・ボート(1957)」のポスター(撮影:中村立行)とファルス・ソファでポーズをとる草間彌生(ニューヨーク 1962)
Yayoi Kusama covered with polka dots and her works of [Driving Image], “Macaroni Carpet”, ”Sex Obsessional Furniture”, “Air Quantity”, Kusama Studio, New York, 1962 / Photo by Hall Reif
ファルス・ボートと草間彌生。
「Aggregation / 1000 Boats Show」(1963 ガートルード・スタイン画廊)で発表。
東郷青児
「浜村美智子」
1959
鉛筆・水彩・紙
29.0×24.0cm
損保ジャパン東郷青児美術館蔵
戦後美術を見たときにまず旧来の美術史では地域性、つまり日本国内の動向にドメスティックに限定しがちだが、実際は海外の動向との密接な絡みがあり、ここをつまびらかにする必要があるのと同時に、他のジャンル、とりわけ映画芸術とのリンケージはさらに掘り下げられる必要がある。上記のような風俗、大衆社会との連環も調査しなければ戦後というメディア環境が拡散していったあとのアートシーンの問題はおそらくとらえきれない、というのが持論である。
たとえば耳の作家、三木富雄を語るのに、安倍公房原作、勅使河原宏監督の「他人の顔」(1966)は最重要であるように。
水玉をひたすら貼っていく、付け加えていくという方法を草間は「Self Obliterations(自己消滅)」と呼ぶ。この水玉ひとつひとつが自己という存在であり、オールオーバーに宇宙をカバーすることでかえって消滅するという考え方は充分にアニミスティックだろう。神道のいう「御霊論」との共通項すら見出せるかもしれない。
吉岡康弘
「他人の顔」スチル
1966
写真
後ろは美術担当:三木富雄「EAR No.201」(1965)と同系の作品が見える。
草間彌生が「無限の網」の絵画からセルフ・オブリタレーションを中心とするパフォーマンスに拡張していったのは1965年ころで、65年というのはニューヨーク・アートシーンにとっても画期的な変革の年だった。アンディ・ウォーホルが実験映画主体に転じ、ボブ・ディランはまるでマラルメやジョイス、バロウズのようなダダイズム的、ダブルミーニングの詩を作り始め、ニューポートでエレクトリックに転換する。ウォーホルはこの年の冬にマルティメディアを駆使したEPS(エクスプローディング・プラスティック・イネビタブル)を始めた。他のアーティストにおいてもニューヨーク中が表現の拡張を始めていた。
草間のパフォーマンスへの表現の拡張はそうした時代性とも同調しており、背後には激化するヴェトナム反戦への思いもあっただろう。自己や他者の体にボルカドットを貼り付けたりペインティングしたりしていくセルフ・オブリタレーションは1967年頃に一気に増加し、同題の映画も制作してベルギーの国際短編映画祭でも受賞している。(*自作自演の映画「草間の自己消滅」(監督は一応ジャッド・ヤルカット)が1968年第4回国際短編映画祭に入賞、第2回アン・アーバー映画祭で銀賞受賞。また、第2回メリーランド映画祭でも紹介された)。
ヴェトナム反戦パフォーマンス(星条旗の焼却)
ブルックリン・ブリッジ、ニューヨーク、1968
「My flower bed」
ニューヨークのクサマ・スタジオでポーズする草間彌生
1963
1967年はオランダ各所でハプニングを開催、ニューヨーク以上の反響を巻き起こしている。
1968年になると草間のパフォーマンスやアート概念は一気に限界まで拡張する。ミラールームはルーカス・サマラスにも甚大な影響を与えた。ソフトスカルプチャーはオルデンバーグに先駆け、アキュムレーション(集積)はアルマンに先んじていた。また、ヴェトナム反戦をテーゼにオージーという乱交パーティーを仕掛けたり、自己消滅パフォーマンスも乱交や全裸行為を伴ってあちこちで展開された。草間は、クサマ・ドレスを発表するなど、一方では芸術の資本主義化に取り組み「クサマ・エンタープライズ」を設立して、お金をもらってパフォーマンスを仕出しするようなレベルに到達する。週刊誌「クサマ・オージー」も発刊(1969)。
クサマ・スタジオはヌードモデルやホモの美少年の巣窟となり、アンディ・ウォーホルがしょっちゅう人材を借りにきたという。
「アンディと私は新聞雑誌に自分の名前がどちらがのるかという競争をしていたの。私のほうがたくさんのっているとアンディはくやしがったわよ」(草間彌生)。
まさにメディア環境に拡張した後のアートシーンでもあり、しかし、このことに覚醒していたのはごく少数だったと思われる。
「アラン・バーク・ショー」などに出演しては、草間はその“悪名”を全米中に晒しまくっていたのだ。だが、このような行為はクサマ芸術の著しい高揚期に生じたと考えられ、芸術家にありがちな世間の動向よりも極端に早いために誤解を生むというケースだろう。
Love foreverのバッジでポーズする草間
1960年代中期
オージーパフォーマンスでボディペイントする草間
1968
アラン・バーク・ショーでヌードパフォーマンスを披露する草間彌生
1968
アラン・バーク・ショーでヌードパフォーマンスを披露する草間彌生
1968
そんなさなか草間は何度か日本に帰国している。1969年と1970年である。
さて、草間彌生が「築地署連行事件」を起こすのは、1970年の帰国時であった。実は某週刊誌の取材も兼ねていたらしい。ニューヨークではすでに「ハプニングの女王」として君臨し、そのカリスマ性においてもウォーホルと比肩されるほどだった草間、けれども帰国時はオールスターキャストといったわけにもいかずニューヨークのスタジオにスタッフを残しての単身帰国だった。ゆえに、雑誌社がモデルも用意しており、夜の築地・電通本社(当時)前で裸ハプニングを敢行しようとした。1回目はモデルが脱いで写真を撮影、少し先で2度目の行為に及ぼうとした際、どこからか警察のパトカーが現れ、未遂のうちに築地警察署(現場の目と鼻の先にある)に連行され、大いに絞られたというものだ。モデルの娘はパンティー一枚の状態だったという。
この一件を草間は彼女らしいいいかたで語っている。
「数人のポリスと私服を着た部長みたいな人もいて、10人くらいで私たちを取り囲んでね、それがスケベ・ポリスばっかりで、“お前、ホントにパンティーはいてるのか”なんて私たちのコートのスソ引っぱったりするのよ」(草間彌生「週刊新潮」1970年3月28日号 p165)
だが待っていただきたい。2010年6月9日にもこんなことがあった。
「篠山紀信、罰金30万円 霊園ヌード撮影に東京簡裁」。
「霊園の墓所で女性モデルのヌードを撮影したとして、礼拝所不敬と公然わいせつの罪で略式起訴された写真家の篠山紀信さん(69・当時)に対し、東京簡裁は9日までに罰金30万円の略式命令を出した。命令は5月26日付。起訴状によると、篠山さんは女性モデル2人のうち1人と共謀し2008年10月15日夜、東京都港区の都立青山霊園の墓所で、モデルのヘアヌードを撮影する不敬行為をした、としている。」(朝日新聞)
墓場で裸は不敬だとはいうものの、公然猥褻罪の概念は草間の頃とまったく変化なし、なのだ。つまり、日本はヌード(芸術)とポルノ(猥褻)間の線引きができていない先進国でもまれな文化後進国ともいえるのであった。
だが、実はこの線引きはそんなに簡単なものでもない。70年帰国した草間は例によって帝国ホテルに陣取り、数々の雑誌インタビューに応じたり、現・テレビ朝日(当時NET)の「奈良和モーニングショー」に出演して、「セックスは世界を救う」めいた持論を展開し、自らのパンストを本番中に引き下げようとして放送事故寸前で止められたり、そうかとおもえば「マンパクをやりにきたのです。世紀の性器博で女性器の芸術性を知らしめる運動をしているのです」と70年万博を念頭に、ろくでなし子を半世紀ほども先取りする論を取材記者にのたまわったり、求めに応じ東京湾で寝ころび、ぱかっと股を開脚したりして、確かに一般が理解に苦しむのもよく理解出きようというものだが、これらは確実に芸術なのであった。
この時は、皇太子殿下と皇太子妃を招待し皇居前広場と国会議事堂でハプニングを計画していたが、さすがに実現には至らなかった。また、別件だが1976年には読売新聞出版局長と編集部員が草間秘蔵の師・ジョセフ・コーネル作の「草間裸体像」をだまし取ろうとしたと警察に訴え大騒ぎになった事件もあった(*「週刊新潮」1976年9月16日号 p136~139)。
東京湾でポーズを取る草間彌生
1970
いずれにしても草間彌生は2014年の世界展覧会入場者数がダミアン・ハーストやジェフ・クーンズを抑えてトップである。2005-2015の現存女性作家、オークションでの累計落札総額も約250億円とシンディ・シャーマンを抑えてトップだ(art net 2015年8月20日号 WEBSITE)。が、こうしたスキャンダルに関してはあまり触れない傾向にある。草間ご本人が権威と化したので例によってあまり言及しないのだろうか? だがニューヨークでの15年にも及ぶ草間芸術の血みどろの闘争とエロスの解放運動がなければ、いうまでもなく現在の偉大な草間彌生芸術も語れないのである。(敬称略)
(もりした たいすけ)
●森下泰輔「戦後・現代美術事件簿」
第1回/犯罪者同盟からはじまった
第2回/模型千円札事件
第3回/泡沫芸術家の選挙戦
第4回/小山哲男、ちだ・ういの暴走
第5回/草間彌生・築地署連行事件
第6回/記憶の中の天皇制
第7回/ヘアヌード解禁前夜「Yellows」と「サンタ・フェ」
第8回/アンディ・ウォーホル来日と“謎の女”安斎慶子
第9回/性におおらかだったはずの国のろくでなし子
第10回/黒川紀章・アスベストまみれの世界遺産“候補”建築
■森下泰輔(Taisuke MORISHITA 現代美術家・美術評論家)
新聞記者時代に「アンディ・ウォーホル展 1983~1984」カタログに寄稿。1993年、草間彌生に招かれて以来、ほぼ連続してヴェネチア・ビエンナーレを分析、新聞・雑誌に批評を提供している。「カルトQ」(フジテレビ、ポップアートの回優勝1992)。ギャラリー・ステーション美術評論公募最優秀賞(「リチャード・エステスと写真以降」2001)。現代美術家としては、 多彩なメディアを使って表現。'80年代には国際ビデオアート展「インフェルメンタル」に選抜され、作品はドイツのメディア・アート美術館ZKMに収蔵。'90年代以降ハイパー資本主義、グローバリゼーション等をテーマにバーコードを用いた作品を多く制作。2010年、平城遷都1300年祭公式招待展示「時空 Between time and space」(平城宮跡)参加。個展は、2011年「濃霧 The dense fog」Art Lab AKIBAなど。Art Lab Group 運営委員。2014年、伊藤忠青山アートスクエアの森美術館連動企画「アンディ・ウォーホル・インスパイア展」でウォーホルに関するトークを行った。
●今日のお勧め作品は、草間彌生です。
草間彌生
「Woman」
2006年
シルクスクリーン
76.0x56.0cm
Ed.120
サインあり
※レゾネNo.353
こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください。
◆冬季休廊のお知らせ
ときの忘れものの年内の営業は12月26日(土)までです。
2015年12月27日(日)―2016年1月4日(月)はギャラリーをお休みします。
「草間彌生・築地署連行事件」
私は実は草間彌生とはかなり親しかった。
まだフジテレビ・ギャラリーが河田町にあったころ、1982年の「Obsession」展の時にお会いしている。草間は「日本は50年遅れている」と、芸術文化から自民党政治に至るまでいっきに2時間くらいまくしたてるように話したので驚いた。
1950年代、すでに東京での個展で川端康成が作品を購入するといった一定の評価を得ていた草間(*その作品はトイレで制作されたトイレットアートだったとご本人は回想している)。その草間彌生は1957年にニューヨークに渡る。8月にジョージア・オキーフから手紙が来て、11月18日彼女を頼り、また太田財閥の招へいで渡米した。その年はじめに日本で流行っていたのが浜村美智子の「バナナ・ボート」というカバー曲であった。「バナナ・ボート」、そう草間のニューヨークでの実質デビューともなった「1000ボーツ・ショー」(ガートルード・スタイン・ギャラリー 1963)のファルス・ボートを連想させる。しかも、当時の浜村美智子のポーズが草間の写真と瓜二つなのだ。筆者は草間の浜村美智子「バナナ・ボート」への無意識のオマージュを確認する。ローカルチャーからの奪取が働いている。いわゆる「ハイ&ロー」だ。
(*浜村美智子(はまむら みちこ 1938年10月3日 - )は1957年3月ハリー・ベラフォンテの楽曲「バナナ・ボート」をカバー、「カリプソの女王」として人気を集めた。「バナナ・ボート」は江利チエミらも競作として発売していたが、浜村盤は大きくリードする形で、発売1ヶ月余りで18万枚を売り上げ、最終的に30万枚、現在までのトータルセールスではミリオンセラーを記録したとされる。)
もう少しいえば、浜村美智子というのは、美術モデルで戦後ヌードフォトの礎を築いた中村立行の専属モデルでもあり、あの東郷青児のお気に入りの絵画モデルでもあったのだ。
浜村美智子「バナナ・ボート(1957)」のポスター(撮影:中村立行)とファルス・ソファでポーズをとる草間彌生(ニューヨーク 1962)Yayoi Kusama covered with polka dots and her works of [Driving Image], “Macaroni Carpet”, ”Sex Obsessional Furniture”, “Air Quantity”, Kusama Studio, New York, 1962 / Photo by Hall Reif
ファルス・ボートと草間彌生。「Aggregation / 1000 Boats Show」(1963 ガートルード・スタイン画廊)で発表。
東郷青児「浜村美智子」
1959
鉛筆・水彩・紙
29.0×24.0cm
損保ジャパン東郷青児美術館蔵
戦後美術を見たときにまず旧来の美術史では地域性、つまり日本国内の動向にドメスティックに限定しがちだが、実際は海外の動向との密接な絡みがあり、ここをつまびらかにする必要があるのと同時に、他のジャンル、とりわけ映画芸術とのリンケージはさらに掘り下げられる必要がある。上記のような風俗、大衆社会との連環も調査しなければ戦後というメディア環境が拡散していったあとのアートシーンの問題はおそらくとらえきれない、というのが持論である。
たとえば耳の作家、三木富雄を語るのに、安倍公房原作、勅使河原宏監督の「他人の顔」(1966)は最重要であるように。
水玉をひたすら貼っていく、付け加えていくという方法を草間は「Self Obliterations(自己消滅)」と呼ぶ。この水玉ひとつひとつが自己という存在であり、オールオーバーに宇宙をカバーすることでかえって消滅するという考え方は充分にアニミスティックだろう。神道のいう「御霊論」との共通項すら見出せるかもしれない。
吉岡康弘「他人の顔」スチル
1966
写真
後ろは美術担当:三木富雄「EAR No.201」(1965)と同系の作品が見える。
草間彌生が「無限の網」の絵画からセルフ・オブリタレーションを中心とするパフォーマンスに拡張していったのは1965年ころで、65年というのはニューヨーク・アートシーンにとっても画期的な変革の年だった。アンディ・ウォーホルが実験映画主体に転じ、ボブ・ディランはまるでマラルメやジョイス、バロウズのようなダダイズム的、ダブルミーニングの詩を作り始め、ニューポートでエレクトリックに転換する。ウォーホルはこの年の冬にマルティメディアを駆使したEPS(エクスプローディング・プラスティック・イネビタブル)を始めた。他のアーティストにおいてもニューヨーク中が表現の拡張を始めていた。
草間のパフォーマンスへの表現の拡張はそうした時代性とも同調しており、背後には激化するヴェトナム反戦への思いもあっただろう。自己や他者の体にボルカドットを貼り付けたりペインティングしたりしていくセルフ・オブリタレーションは1967年頃に一気に増加し、同題の映画も制作してベルギーの国際短編映画祭でも受賞している。(*自作自演の映画「草間の自己消滅」(監督は一応ジャッド・ヤルカット)が1968年第4回国際短編映画祭に入賞、第2回アン・アーバー映画祭で銀賞受賞。また、第2回メリーランド映画祭でも紹介された)。
ヴェトナム反戦パフォーマンス(星条旗の焼却)ブルックリン・ブリッジ、ニューヨーク、1968
「My flower bed」ニューヨークのクサマ・スタジオでポーズする草間彌生
1963
1967年はオランダ各所でハプニングを開催、ニューヨーク以上の反響を巻き起こしている。
1968年になると草間のパフォーマンスやアート概念は一気に限界まで拡張する。ミラールームはルーカス・サマラスにも甚大な影響を与えた。ソフトスカルプチャーはオルデンバーグに先駆け、アキュムレーション(集積)はアルマンに先んじていた。また、ヴェトナム反戦をテーゼにオージーという乱交パーティーを仕掛けたり、自己消滅パフォーマンスも乱交や全裸行為を伴ってあちこちで展開された。草間は、クサマ・ドレスを発表するなど、一方では芸術の資本主義化に取り組み「クサマ・エンタープライズ」を設立して、お金をもらってパフォーマンスを仕出しするようなレベルに到達する。週刊誌「クサマ・オージー」も発刊(1969)。
クサマ・スタジオはヌードモデルやホモの美少年の巣窟となり、アンディ・ウォーホルがしょっちゅう人材を借りにきたという。
「アンディと私は新聞雑誌に自分の名前がどちらがのるかという競争をしていたの。私のほうがたくさんのっているとアンディはくやしがったわよ」(草間彌生)。
まさにメディア環境に拡張した後のアートシーンでもあり、しかし、このことに覚醒していたのはごく少数だったと思われる。
「アラン・バーク・ショー」などに出演しては、草間はその“悪名”を全米中に晒しまくっていたのだ。だが、このような行為はクサマ芸術の著しい高揚期に生じたと考えられ、芸術家にありがちな世間の動向よりも極端に早いために誤解を生むというケースだろう。
Love foreverのバッジでポーズする草間1960年代中期
オージーパフォーマンスでボディペイントする草間1968
アラン・バーク・ショーでヌードパフォーマンスを披露する草間彌生1968
アラン・バーク・ショーでヌードパフォーマンスを披露する草間彌生1968
そんなさなか草間は何度か日本に帰国している。1969年と1970年である。
さて、草間彌生が「築地署連行事件」を起こすのは、1970年の帰国時であった。実は某週刊誌の取材も兼ねていたらしい。ニューヨークではすでに「ハプニングの女王」として君臨し、そのカリスマ性においてもウォーホルと比肩されるほどだった草間、けれども帰国時はオールスターキャストといったわけにもいかずニューヨークのスタジオにスタッフを残しての単身帰国だった。ゆえに、雑誌社がモデルも用意しており、夜の築地・電通本社(当時)前で裸ハプニングを敢行しようとした。1回目はモデルが脱いで写真を撮影、少し先で2度目の行為に及ぼうとした際、どこからか警察のパトカーが現れ、未遂のうちに築地警察署(現場の目と鼻の先にある)に連行され、大いに絞られたというものだ。モデルの娘はパンティー一枚の状態だったという。
この一件を草間は彼女らしいいいかたで語っている。
「数人のポリスと私服を着た部長みたいな人もいて、10人くらいで私たちを取り囲んでね、それがスケベ・ポリスばっかりで、“お前、ホントにパンティーはいてるのか”なんて私たちのコートのスソ引っぱったりするのよ」(草間彌生「週刊新潮」1970年3月28日号 p165)
だが待っていただきたい。2010年6月9日にもこんなことがあった。
「篠山紀信、罰金30万円 霊園ヌード撮影に東京簡裁」。
「霊園の墓所で女性モデルのヌードを撮影したとして、礼拝所不敬と公然わいせつの罪で略式起訴された写真家の篠山紀信さん(69・当時)に対し、東京簡裁は9日までに罰金30万円の略式命令を出した。命令は5月26日付。起訴状によると、篠山さんは女性モデル2人のうち1人と共謀し2008年10月15日夜、東京都港区の都立青山霊園の墓所で、モデルのヘアヌードを撮影する不敬行為をした、としている。」(朝日新聞)
墓場で裸は不敬だとはいうものの、公然猥褻罪の概念は草間の頃とまったく変化なし、なのだ。つまり、日本はヌード(芸術)とポルノ(猥褻)間の線引きができていない先進国でもまれな文化後進国ともいえるのであった。
だが、実はこの線引きはそんなに簡単なものでもない。70年帰国した草間は例によって帝国ホテルに陣取り、数々の雑誌インタビューに応じたり、現・テレビ朝日(当時NET)の「奈良和モーニングショー」に出演して、「セックスは世界を救う」めいた持論を展開し、自らのパンストを本番中に引き下げようとして放送事故寸前で止められたり、そうかとおもえば「マンパクをやりにきたのです。世紀の性器博で女性器の芸術性を知らしめる運動をしているのです」と70年万博を念頭に、ろくでなし子を半世紀ほども先取りする論を取材記者にのたまわったり、求めに応じ東京湾で寝ころび、ぱかっと股を開脚したりして、確かに一般が理解に苦しむのもよく理解出きようというものだが、これらは確実に芸術なのであった。
この時は、皇太子殿下と皇太子妃を招待し皇居前広場と国会議事堂でハプニングを計画していたが、さすがに実現には至らなかった。また、別件だが1976年には読売新聞出版局長と編集部員が草間秘蔵の師・ジョセフ・コーネル作の「草間裸体像」をだまし取ろうとしたと警察に訴え大騒ぎになった事件もあった(*「週刊新潮」1976年9月16日号 p136~139)。
東京湾でポーズを取る草間彌生1970
いずれにしても草間彌生は2014年の世界展覧会入場者数がダミアン・ハーストやジェフ・クーンズを抑えてトップである。2005-2015の現存女性作家、オークションでの累計落札総額も約250億円とシンディ・シャーマンを抑えてトップだ(art net 2015年8月20日号 WEBSITE)。が、こうしたスキャンダルに関してはあまり触れない傾向にある。草間ご本人が権威と化したので例によってあまり言及しないのだろうか? だがニューヨークでの15年にも及ぶ草間芸術の血みどろの闘争とエロスの解放運動がなければ、いうまでもなく現在の偉大な草間彌生芸術も語れないのである。(敬称略)
(もりした たいすけ)
●森下泰輔「戦後・現代美術事件簿」
第1回/犯罪者同盟からはじまった
第2回/模型千円札事件
第3回/泡沫芸術家の選挙戦
第4回/小山哲男、ちだ・ういの暴走
第5回/草間彌生・築地署連行事件
第6回/記憶の中の天皇制
第7回/ヘアヌード解禁前夜「Yellows」と「サンタ・フェ」
第8回/アンディ・ウォーホル来日と“謎の女”安斎慶子
第9回/性におおらかだったはずの国のろくでなし子
第10回/黒川紀章・アスベストまみれの世界遺産“候補”建築
■森下泰輔(Taisuke MORISHITA 現代美術家・美術評論家)
新聞記者時代に「アンディ・ウォーホル展 1983~1984」カタログに寄稿。1993年、草間彌生に招かれて以来、ほぼ連続してヴェネチア・ビエンナーレを分析、新聞・雑誌に批評を提供している。「カルトQ」(フジテレビ、ポップアートの回優勝1992)。ギャラリー・ステーション美術評論公募最優秀賞(「リチャード・エステスと写真以降」2001)。現代美術家としては、 多彩なメディアを使って表現。'80年代には国際ビデオアート展「インフェルメンタル」に選抜され、作品はドイツのメディア・アート美術館ZKMに収蔵。'90年代以降ハイパー資本主義、グローバリゼーション等をテーマにバーコードを用いた作品を多く制作。2010年、平城遷都1300年祭公式招待展示「時空 Between time and space」(平城宮跡)参加。個展は、2011年「濃霧 The dense fog」Art Lab AKIBAなど。Art Lab Group 運営委員。2014年、伊藤忠青山アートスクエアの森美術館連動企画「アンディ・ウォーホル・インスパイア展」でウォーホルに関するトークを行った。
●今日のお勧め作品は、草間彌生です。
草間彌生「Woman」
2006年
シルクスクリーン
76.0x56.0cm
Ed.120
サインあり
※レゾネNo.353
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※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください。
◆冬季休廊のお知らせ
ときの忘れものの年内の営業は12月26日(土)までです。
2015年12月27日(日)―2016年1月4日(月)はギャラリーをお休みします。
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