展覧会直前連載:「和紙に挑む」(全4話)

第2話 インスピレーションの地形


光嶋裕介(建築家)

 「描く」という行為から少し離れて、「彫る」ということについて考えてみると、彫刻家にとって彫る対象となる「石」はどのような存在なのだろうか。優れた彫刻家は、石の声に耳を済ませ、自らの自我によって彫りたいものを彫り出すというよりも、石がなりたい姿をみつけるという類のことを聞いたことがある。実に潔いし、かっこいい。
 しかし、これは、なにも不思議なことではない。やはり、芸術家には、どこか目に見えないものを想像する力が求められるからだ。それは、ただ突拍子もない真新しいものを生み出すということではなくて、目の前の風景を深く観察し、そこにあったかもしれないなにものかを見ることなのではないか。もうひとつの世界と言い換えても良い。
 石から何かを彫るにしても、やはり、対象である石のことをよくよく観察し、少しずつその姿らしきものがぼんやり見えてくるようになるのだろう。だとしたら、やはり、絵を描くにしても、無自覚的にただ白い紙に絵を描きはじめるのではなく、その紙そのものについてもちゃんと関わりたいと思うに至った。

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 建築家は、スケッチをしながら思考するもの。それが、お気に入りのモレスキンのスケッチブックであっても、新聞の切れ端であっても、「描きたい」何かがひらめいたときが最も大切なのである。言葉は、わざわざメモに書き起こさなくても、頭のなかで復唱することで、覚えることができる。しかし、造形的なアイデアというものは、描いてみなければわからない。むしろ、描くことで初めて発見させるもの。ひらめきは、そのきっかけであり、それを逃すと二度とそのアイデアは、思い浮かばないかもしれないのだ。

 このアイデアが生まれる瞬間というものに着目したい。何かふわふわした形のないものが、ゆっくりと立ち上がってくる。線を重ねることで、少しずつ輪郭が発見され、造形として描かれていく。いまさっき描いた線に、次描く線が影響されていく。先の線があるから、次の線が描かれる。そうした線の関係性に世界が宿る。こんな線を描いてみよう、こんな風に繋げてみようと、思うのもすべて画面と自分が反応するから。
 私にとって、ドローイングを描くということは、それがツルツルのケント紙であるのか、ザラザラの藁半紙であるのかは、決定的に違う。描いているのが2Bの鉛筆なのか、HBのシャーペンなのか、あるいは、製図用のペンで描くのかによっても、まったく違う。当たり前かもしれない。紙という物質もペン先の摩擦によって、線という結果がうまれる。
 ジャズミュージシャンがそれぞれ息のあったインプロビゼーションによって演奏するように、私も和紙の上で、自由に踊りたい。単なる白い紙ではなく、そこに予期せぬ形でうまれた「模様」をひとつの「地形」としてとらえ、静かに思い浮かぶ街の姿を描いていくのである。

 そういう意味において、今回の個展に出展する「幻想都市風景」のインスピレーションは、和紙そのものにあると断定できるのだ。

(こうしま ゆうすけ

◆ときの忘れものは、9月20日(火)~10月8日(土)「光嶋裕介新作展~和紙に挑む~幻想都市風景」を開催します。

●今日のお勧め作品は、光嶋裕介です。
20160730_koshima_8_wonder光嶋裕介
「Wonder City 2015」
2015年
紙にインク、墨
31.0×38.0cm
サインあり

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◆光嶋裕介のエッセイ「和紙に挑む」は毎月30日の更新です。

●皆様にご協力いただいた「ここから熊本へ~地震被災者支援展」での売上げ総額634,500円は、一番被害の大きかった益城町でお年よりや子供たちのケアに尽力されている木山キリスト教会に400,000円を、熊本市の城下町の風情を残す唐人町で被災した築100年の商家(カフェアンドギャラリーなどが入居、一時は解体も検討された)の西村家の復興資金に234,500円を、それぞれ送金いたしました。
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