リレー連載
建築家のドローイング 第14回
ヤコフ・ゲオルギーヴィッチ・チェルニホフ(Yakov Georgievich Chernikhov)〔1889~1951〕

彦坂裕



 彼は遅れてやってきた、それが定説であった。
 無論、それにはいくつかの意味が込められているように思われる。たとえば彼は、レニングラード(当時のペテルスブルク)の帝室美術アカデミー在学中に絵画から建築へと転身し、戦争や政治体制の激変をはさみながらもアカデミーを卒業し世に出たのは1925年、すでに35歳の年であった。ほぼ同年生れのギンスブルグやリシツキー、さらにはかなり年下のレオニドフといった、もうその時代においてロシア・アヴァンギャルドとして汎西欧的にも名を知られ、活躍していた人材と比べると、文化運動へのコミットメントにおける後発感は決してぬぐえるものではなかった。

摩天楼の宮殿
ヤコフ・ゲオルギーヴィッチ・チェルニホフ Yakov Georgievich Chernikhov
「摩天楼の宮殿」

 またその後も彼は主として地味な教職や実務建築家として活動し、当時のソヴィエト建築のインテリゲンチャ(OSAやASNOVAのモダニスト、ジョルトフスキーやシュセフといったアカデミスト、あるいはロレイトやドミトリエフのような建築技術者たち)とも、また彼がその生涯を送ったレニングラードのモダニスト・スクールを築いた活動家たちとも孤立した存在であった。その意味では、やはり同じプロレタリアート出身のめざましい造型能力をもった孤高の建築家メルニコフのシチュエーションと似ていなくもない。周知のように。20年代初頭のソヴィエト・ロシアにおける建築の「構成主義」(Constructivism)には、実際、大きく二つの方向が認められた。一つはヨーロッパ機能主義にも近い、技術主義・社会生産主義を信奉するグループ、これはヴェスニンやギンスブルグを中心とするOSA(現代建築家協会)で、いわば急進的な構成主義運動の推進主体でもあった。彼らは往々にして芸術否定にも走ったが、建築形成の基礎を効用性や社会需要の問題と同時的に捉えていた。革新的な機関誌『SA』によって、その運動は喧伝されている。もう一つは形態合理主義・フォルマリスムを信奉するグループ、これはラドフスキー主導のASNOVA(新建築家協会)で、知覚や心理分析、さらに写実美術的なものを総合的に開発する表現性に豊んだ運動を展開した。20年代末のVKHUTEMAS(ヴフテマス)(高等技術学院)での教育の基盤をこのグループがつく力上げたことはよく知られている。一方、レニングラードへと眼を向ければ、「ZHIVSCULPTARKH」グループ(それはASNOVAの母体でもあった)の表現主義性やマレーヴィッチの影響(「シュプレマティズム立体構築」の実験はこの地で行なわれた)が支配的であり、反芸術的なプロパガンダはここではそれほど縁があったものとは言えなかった。遅延した彼の、これまたいささかアナクロニスティックな芸術至上主義――周知のように、20年代はイデオローグやプロパガンディストの時代であり、芸術のセンスで建築を語る時代ではないとはよく言われることばだ――も、こうした非社会的な形態の実験と容易に馴じんでいったものと考えてもいいのではないだろうか。

荘厳なモノリスヤコフ・ゲオルギーヴィッチ・チェルニホフ Yakov Georgievich Chernikhov
「荘厳なモノリス」

 彼、ヤコフ・G・チェルニホフは、遅れてやってきた。にもかかわらず、いやそれ故にこそ、彼はロシア構成主義のフォーマルな特質とその可能性を十全に開発したのみならず、表現上の驚くべきほどの明晰な形態構築方法を実験的に探求し得たのであった。彼の「構成主義」とは、まさに構築形態文法そのものであり、他の進歩的な構成主義者たちのように、それをある世界観を具体化する総合的なデザイン哲学のひとつのプロセスとしては考えなかった。他の構成主義者たちは、しかしそれ故に、次々と社会に裏切られていく運命にもあったのだ。社会の変化は、彼らの運動よりも迅速だった。新しい社会のために描いた新しいフォーマルな言語は、宙吊られたまま歴史に残留してしまったのである。だが、表現とその方法論、そして教育という文脈の上でしか、いや伝統的な芸術の系譜上でしか構成主義を考えなかったチェルニホフは、逆説的に、構成主義言語の自律性を見事に提示してしまうという結末を招来したのである。

建築ファンタジー第66番ヤコフ・ゲオルギーヴィッチ・チェルニホフ Yakov Georgievich Chernikhov
「建築ファンタジー第66番」

 チェルニホフは生涯で公刊・未公刊合せて50冊以上の著作と17,000にものぼるデザインドローイングを残した。すでに在学中より〈ソヴィエトのピラネージ〉の名を博し、卒業後の展覧会でもセンセーショナルな評価を得たが、1930年を前後して出版された精力的な著作に彼の思想はほとんど要約されていると言っていい。すなわちそれらは、『現代建築の基礎』(1930年)、『建築形態と機械形態の構築』(1931年)、そして『建築ファンタジー、101の構成』(1933年)などであり、これらはいずれもチェルニホフのテーマでもある〈複合形態が構築される諸原理の分析・体系化〉や、〈構築形態文法を学習し得るような教育・トレーニングメソッド〉を余すところなく伝えている。

建築ファンタジー第80番ヤコフ・ゲオルギーヴィッチ・チェルニホフ Yakov Georgievich Chernikhov
「建築ファンタジー第80番」

 もともとグラフィックの領域で出発した彼は、正統な芸術のコンテクストにのったシュプレマティズムの問題性をグラフィックのイデオロギーとして考えた。プライマリーなものからより高度で複合したものを生成するプロセスは、純粋な建築規範のシステムそのものともなる。それは、形態生成の透徹した科学へと向かう情熱にもほかならない。もちろん、いわゆる非対象的(ノン・オブジェクティブ)なフォルムも、彼日く「ファンタスティックな形態の構築系をつくる」ことに寄与するというわけだ。
 選別された形態エレメントのあらゆる相関性と結合、さらに構成における特定の意味をもつ形態の排除、それはチェルニホフによる新たな調和の原理であり、反古典的な原理でもあった。いわば古典建築に見られる〈反復のリズム〉は、より現代的な〈関係性のリズ
ム〉に置換される。それはまた革命建築の本質を形成する重要なファクターだと言ってもいいだろう。
 「構成主義の基本となる要素は、構造体をつくり上げようとするあらゆる要素の可能な限り多様な結合である」と彼は書く、「(象嵌、包囲、歪曲……といった)これら全ての基本的な関係性は、本質的に単純ではあるが複雑な組合せをつくり出すことができ、それが産む形の洗練さや豊かさはわれわれを驚かす」(「構成主義の基礎」『建築形態と機械形態の構築』より)

建築ファンタジー第28番ヤコフ・ゲオルギーヴィッチ・チェルニホフ Yakov Georgievich Chernikhov
「建築ファンタジー第28番」

 おそらく、われわれはここに最近のオプ・アートやコンピュータ・グラフィックスにも通底するドローイング原理を垣間見ることができるかも知れない。事実、幾つかの彼のドローイングには、明らかにそのような類似性(先見性)が現れている。汎用性に富むアクソノメトリック図法も、随所で多用される。
 もっとも、これらの構築原理は、ASNOVAのフォルマリストたちの探求に負っている部分も多くあるのと同時に、『アーキテクチュラル・デザイン』誌の編集委員でもあり、近年この分野の研究のオーソリティと言ってもいいキャサリン・クック女史が語るように、その形態変形の思想はOSAのギンスブルグのそれにも架橋しうるものであるとすれば、チェルニホフの業績は本質的に革命後ロシアの現象であると共に、またすこぶるユニヴァーサルでコスモポリタン的な現象でもあるという両義性をも示すものだと言うことも可能だろう。
 レンダリングの方法を教育システムにのせて普及させることは、その単純化された技術的表現のプロセスともどもに、大衆への接近として認識された。建築計画の表現方法上の簡略化、標準化、迅速化されたものの発見への切実な要求は、社会主義建築のテンポの速さにも対応していたと言っていい。したがって、チェルニホフのテーマは、この社会主義建設期の創造的個性を飛躍的に拡大する方法でもあるはずであった。
 32年の党中央委員会の芸術家の組織統合に関する公布以来、単一化された建築家同盟の発足や社会主義リアリズムの進展による革命言語の払拭・隠弊は、次第に顕著なものになっていった。チェルニホフはそれ以後も失脚することなく、生涯レンダリング・デザインの第一人者として教壇に立ち続けた。その間も未来の建築を私的な世界のうちに描くことを、彼は止めていない。だが、社会的な意味内容を失ったレンダリングは、ますますその象徴色を強めていく。その中には、中世ロシアの古風なスタイルやバビロン、新石器時代を惹起する夢想的なものも多く含まれている。彼にとって、伝統とは不変の価値の宝庫でもあったのだ。
 チェルニホフのドローイングは、本質的に、着彩で見なければいけない。その革新的な構成の背後には、中世ロシアの多色装飾をもつ建築やレニングラードの色付いた街が覗いている。今世紀の最も急進的なアヴァンギャルド運動の最期の精華も、この国独自の固有な歴史的文脈に位置付いているのだ。

建築ファンタジー第84番ヤコフ・ゲオルギーヴィッチ・チェルニホフ Yakov Georgievich Chernikhov
「建築ファンタジー第84番」


ひこさか ゆたか

**現代版画センター 発行『Ed 第104号』(1984年11月1日発行)より再録
*作品画像は下記より転載

・「摩天楼の神殿」
http://archiveofaffinities.tumblr.com/post/4383046325/iakov-chernikhov-skyscraper-palace-composition
・「建築ファンタジー第28番」
http://www.dataisnature.com/?p=1653
・「荘厳なモノリス」
・「建築ファンタジー第66番」
・「建築ファンタジー第80番」
・「建築ファンタジー第84番」
現代版画センター 発行『Ed 第104号』

■彦坂 裕 Yutaka HIKOSAKA
建築家・環境デザイナー、クリエイティブディレクター
株式会社スペースインキュベータ代表取締役、日本建築家協会会員
新日本様式協議会評議委員(経済産業省、文化庁、国土交通省、外務省管轄)
北京徳稲教育機構(DeTao Masters Academy)大師(上海SIVA-CCIC教授)
東京大学工学部都市工学科・同大学院工学系研究科修士課程卒業(MA1978年)

<主たる業務実績>
玉川高島屋SC20周年リニューアルデザイン/二子玉川エリアの環境グランドデザイン
日立市科学館/NTTインターコミュニケーションセンター/高木盆栽美術館東京分館/レノックスガレージハウス/茂木本家美術館(MOMOA)
早稲田大学本庄キャンパスグランドデザイン/香港オーシャンターミナル改造計画/豊洲IHI敷地開発グランドデザイン/東京ミッドタウングランドデザインなど

2017年アスタナ万博日本館基本計画策定委員会座長
2015年ミラノ万博日本館基本計画策定委員会座長
2010年上海万博日本館プロデューサー
2005年愛・地球博日本政府館(長久手・瀬戸両館)クリエイティブ統括ディレクター

著書:『シティダスト・コレクション』(勁草書房)、『建築の変容』(INAX叢書)、『夢みるスケール』(彰国社)ほか


本日の瑛九情報!
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瑛九の浦和にアトリエには多くの若い作家たちが訪れます。学生時代の磯崎新(建築家)もその一人です。
瑛九が結成した「デモクラート美術家協会」が1951~1957年の活動期間を終え、解散したきっかけは会員の泉茂が第一回東京国際版画ビエンナーレ展で新人賞を受賞したことでした。
1957年に国立近代美術館と読売新聞社の共同主催で開催された第1回東京国際版画ビエンナーレ展はアメリカを始め世界中で版画制作が大きな関心を集めていた時代であり、60年代の「版画の時代」の幕開けを告げる大規模な国際展でした。
同展は池田満寿夫など国際的スターを生みますが、やがて当初の熱気が冷め、その存在意義が問われていき、1979年の第11回をもって終了します。
その最後のビエンナーレ展で受賞したのは河口龍夫(北海道立近代美術館賞)、李禹煥(京都国立近代美術館賞)、榎倉康二(東京都美術館賞)と、意外に思うかも知れませんが磯崎新(佳作賞)でした。
20150219_isozaki_17_naibuhuukei磯崎新 Arata ISOZAKI
内部風景III 増幅性空間―アラタ・イソザキ
1979年  アルフォト
80.0x60.0cm
Ed.8  サインあり
*第11回東京国際版画ビエンナーレ展受賞作品

第1回展で泉茂が華々しく受賞し、最後の第11回では磯崎新が版画の概念を大きく逸脱したアルフォト(金属板)によって受賞しました。不思議な因縁を感じます。
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瑛九 1935-1937 闇の中で「レアル」をさがす>展が東京国立近代美術館で開催されています(11月22日~2017年2月12日)。ときの忘れものは会期終了まで瑛九について毎日発信します。

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◆八束はじめ・彦坂裕のエッセイ「建築家のドローイング」(再録)は毎月24日の更新です。