藤本貴子のエッセイ「建築圏外通信」第17回

 美女たちの裸体で溢れた「快楽の館」。タイトルを額面通り受け取りかねない、原美術館の篠山紀信写真展に行ってきました。
原美術館で撮影された幾多の美女たちのヌード写真が、撮られたほぼその場に展示されています。自分が今観ているのは、宴の跡のようであり、繰り広げられている宴そのもののようであり。空間が積層し、引き伸ばされます。
 この建物って、こんなに色っぽかったっけ・・・。展示を観てまわるうちに、壁の曲面や手すりのカーブがいやに艶っぽく感じられてきました。裸体を横目に、階段の手すりに色気を感じるとは。一体これはどういうことか。写し撮られた裸体そのものは綺麗ではあるけれど、見つめるほど身体の奇妙さが全面化してくるようでもあり、扇情的というのとは少し違う。裸体そのものが欲情的であったり、いやらしいということではなく、むしろ、階段の手すりの木の触感、壁面いっぱいのタイルの冷たさ、壁のくぼみ、庭木の湿り具合、そんな写真作品を囲む物体や空間が匂い立つようなのです。

170109_160204 原美術館「快楽の館」展。
筆者撮影


 この空間の官能性は演出のなせる業なのか、それとも建築のなせる業なのか。
原美術館の元である原邸を設計したのは、建築家渡辺仁。渡辺は、1887年生まれ。1912年東京帝国大学工科大学建築学科を卒業後、鉄道院を経て1917年に逓信省に入省します。1920年に独立するまでにも、様々な設計競技に応募し入選しています。代表作には、ホテル・ニューグランド(1927)、服部時計店(現和光、1932)、東京帝室博物館(現東京国立博物館本館、1937)などがあります。どの建物も全く違った印象で、渡辺が次々と違う様式を使いこなして設計していたことが分かります。1926年には欧州・アメリカへ視察旅行へ出かけており、バウハウスやアール・デコの造形からも触発されたことでしょう。渡辺が活躍したこの時代は、ちょうど日本の近代建築の過渡期にあたります。日本で初めての近代建築運動である日本分離派建築会が発足したのは1920年。渡辺は、近代建築の基礎を築いた辰野金吾や伊東忠太よりはぐっと若く、分離派よりは少しだけ上の世代です。現在原美術館として使われている原邦造邸は1938年竣工。原邸の竣工当時の写真を観ると、真っ白い小口タイル仕上げのこの建物は、日中戦争が勃発し戦争へと突き進んでいく1938年という時代にあり、ひときわ爽やかな印象です。モダニズムのデザインといえますが、幾何学的な形態と優美な曲線が組み合わさって、完全な均質空間とは違う、清潔でありながらニュアンスのある空間です。とは言え、色っぽいね! と即座に言えるかというと、そう感じたことはありません。
 歴史的建造物がギャラリースペースとして活用され、現代の芸術家がその場所ならではの展示を考えるという企画は、近年よく見かけるように思います。ル・コルビュジエのサヴォア邸しかり、ミース・ファン・デル・ローエのバルセロナ・パビリオンしかり。しかし、これほどまでに場のポテンシャルを引き出した展示があったでしょうか。芸術家は建築の持つ歴史的重みに遠慮するのか、空間に負けてしまうのか、空間と張り合うだけの力を持った展示は稀だと思います。「快楽の館」展は、明らかに空間の迫力を増し、空間そのものが変質したと思えるような展示となっていました。雑誌の特集などで観たような気になって行ったものの、展示空間の圧倒的な迫力は、体験しなければ分からないものでした。
 篠山さん。全面降伏です。
ふじもと たかこ

藤本貴子 Takako FUJIMOTO
磯崎新アトリエ勤務のち、文化庁新進芸術家海外研修員として建築アーカイブの研修・調査を行う。2014年10月より国立近現代建築資料館研究補佐員。

●本日のお勧め作品は、奈良原一高です。
20170105_narahara_05_duchamp55奈良原一高
〈デュシャン 大ガラス〉より
「MD-55」

1992年 (Printed later)
ラムダプリント
イメージサイズ:41.6×27.4cm
シートサイズ:43.2×35.5cm


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本日の瑛九情報!
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瑛九の会の事務局は当初は東京(尾崎正教)にあり、機関誌『眠りの理由』第1号から第9.10合併号までを刊行しましたが、1970年に事務局が福井に移り、1971年5月1日発行の第11号からは勝山市の原田勇先生が編集担当になりました。
原田勇先生は、1924年(大正13)福井市生まれ、1944年(昭和19)福井工業専門学校機械科を卒業。1949(昭和24)福井県勝山市北郷小学校で教師となり、以後勝山市内の小中学校で美術と数学を教えました。創美運動に参加、児童画の指導に傾注、仲間とともに勝山野外美術学校を20余年にわたって展開。小コレクター運動に参加し、現代美術の普及・啓蒙に尽力され、1970年からは瑛九の会事務局を担当しました。日本素朴派同人として自らも絵筆をとりました。2012年死去。
20170114183744_00007
原田勇『オノサト・トシノブ 実在への召喚』
1987年4月刊
発行:福井オノサト会・中上光雄・原田勇
21.0×14.8cm 59頁

20170114183744_00008
原田勇『美術と教育の小径で』
1981年6月刊
発行:日本素朴派
21.0×14.8cm 174頁

瑛九展小田急レセプション2原田右から三人目が原田勇、続いて中上光雄、中村一郎、堀栄治、いずれも福井瑛九の会のメンバーたち。
「現代美術の父 瑛九展」レセプションにて
会期:1979年6月8日~20日
会場:新宿・小田急グランドギャラリー
主催:瑛九展開催委員会
後援:文化庁・瑛九の会

1981年6001981年3月1日_ギャラリー方寸_瑛九その夢の方へ_29.jpg
右から中上光雄、原田勇、岡部徳三(刷り師)、尾崎正教(瑛九の会初代事務局)、後ろ姿は亭主。
1981年3月1日
東京渋谷のギャラリー方寸にて
瑛九その夢の方へ」展オープニング

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瑛九_水彩600出品No.3)
瑛九
「(作品名不詳)」
1955年
水彩
27.2x24.1cm
Signed

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瑛九 1935-1937 闇の中で「レアル」をさがす>展が東京国立近代美術館で開催されています(11月22日~2017年2月12日)。外野応援団のときの忘れものは会期終了まで瑛九について毎日発信します。

◆藤本貴子のエッセイ「建築圏外通信」は毎月22日の更新です。