佐藤研吾のエッセイ「大地について―インドから建築を考える―」
第19回 ときの忘れものでの展覧会の構想について3
なんとなく、「お節介」という言葉を携えてモノを作ってみると、ホノボノとした気配が自分の手先に漂い出す気がしてきた。「お節介」という言葉には、「何かのために」という、作るモノの根拠と動機なるものが、肩にのしかかってくるのではなく、その重圧から解放された、建築で言えばいわゆる機能主義なる20世紀的規範から一歩踏み出す面白さをもたらしてくれている気がしている。
そんなことを考えながら、近頃は福島県大玉村で歓藍社の「小姓内の染め場」の建設に取り組んでいた。その場所の中で考え、手を動かしたモノコトはいくつかあり、また歓藍社の他のメンバーと共に作ったものばかりであるが、その中から一つばかり取り出してみて「お節介」という言葉が意味するところの先を進めてみたい。
染め場の流しで使う上水配管を支えるための木造作を作った。上水配管はその後色々と手を加えられるよう、またドクドクと、水の流れる様を見えるように農業用の透明ビニルホースを使い配管して、空中を翔ぶホースを支える架構である。通常、配管というものは猥雑なものとされ、壁の中に隠したり、スッキリと納めてなるべく目立たないようにする。けれどもこの染め場、藍染め工房では水という要素はかなり重要な位置をしめている。染液を作るにも、染めた布を洗うにも、水は欠かせない。そしてこの水は地下水を汲み上げて出てきた水である。先月7月、歓藍社が拠点とする大玉村(の小姓内集落)ではなかなか雨が降らず、田んぼの水不足や井戸水や山水の枯渇が危惧されていた。そんな中での染め場建設工事でもあったので、地下水の共通資本としての意識、水を地下から掘って汲みあげること自体への畏敬が現場の中でも共有され、それがこんな造作の表現に飛んで行った。
すなわち、自分たちが使う水を、手に取るように把握できる設えを考え、まさに木造作たちが流れる水を”手にとる”ように、玩び(もてあそび)ながら空中で支持する様を試みた。そこでは、水の流れというものが主たるモノであることはもちろんだが、主たるモノに対して、良かれと思って勝手な介入を試み、介入自体を愉しむ、モノとモノの意図的なすれ違いの関係性、「お節介」の現場を生み出そうとしてもいる。

染め場の流し台上部に設置した上水を支える木造作(側面から)。透明ホースの柔軟さと軽さに対して、どっしりと重たい木片を頭上から釣り下ろしている。木はナラ材。


透明ホースのルートを定めるための通り穴をあけ、巻きつけ、木とホースの摩擦によって固定している。

手元の蛇口付近の納まり。農業用バルブを蛇口とし、それをナラ材に掘った溝にギュッと押し込んで固定させている。ビニルホースの固定と支持に対する半ば過剰な設え。その過剰な関係とそれを実現させるための労力の過大さから、「あそび」という表現の可能性を見つけていきたい。

この一連の木造作は夜なべをして作り上げたものであるが、だんだんと部材を組み上げていき、透明ホースのルートを考え込んでいるうちに、最後の作業、夜明けの薄暗い現場で、両側のホース吊り下げ部材の振れ止めとして作った繋ぎ材の中央部に、空中を飛ぶホースのニョロリとした造形が写り込んだ。

透明ホースを支える木造作のドローイング(pencil, color pencil on paper. 50cm*35cm)
何か別のモノを支えるためモノを作る、というのは、実はなんとなく気が楽だ。変な気負いがなくなる。
アマチュアという言葉がある。よく、素人や非専門を指し、プロフェッショナルという言葉の反対として考えられているが、実はそういう意味でもないらしい。アマチュアの語源はamatorというラテン語で、「愛する人」とか「熱狂者」というところであるらしい。なんともロマンチックな言葉であるが、つまり熱狂するプロ、プロのアマチュアという人間も存在するということだ。ジョン・ラスキンやウィリアム・モリスらが、労働を知性の発露の現場とし、創造と労働を同じ地平のものとして見、そして労働の中での喜びを求めたように、上の意味でのアマチュア=過多な熱狂するモノづくりによる表現という筋道がありえるのではと思っている。
そんな過多な熱狂を即応的にモノのデザインに取り込むためには、どうしても主体が一人であるほうが良い時がある。設計施工の分離による、複数人の協働の展開の広さと同じく、独人での創作の筋の行先もまた広い。この木造作は筆者自身がやったものであるが、自分自身の技量の限界がわかっているからこそ、そのリミットの内であり得る作り方を考える、表現の筋を考えるというスリルある愉しみがある。
けれども一方で、独人の思考と作業に没頭しつつも、透明ホースのような、扱い方もよくわからない、扱いきれない全く枠外のモノがあることが必要で、さらにはそんな正体不明のホースをどう扱うかのアイデアを発露する場、議論し良し悪しをバツンと言い合う他の主体が必要でもある。独人という限界性の境界を引くことで、その境界の内外を交易して時には横断する機会が欲しい。
そんな独人の創作かつ、複数人での共有が並存する場が最近の歓藍社の拠点にはある。
その拠点で、秋(あるいは冬先)のときの忘れものでの展覧会の作品作りに取り組んでいる。

先日、大玉村にて夏祭り「ちいさな藍まつり 小姓内の染め場お披露目会!ゴロゴロドン!」を開催した。集落の中を練り歩くパレードを終えてその躍動の中、藍の葉っぱを使って染めをやっている現場である。(筆者は画面中央のコンクリート大皿に四つん這いになって染めをやっている(ゴロゴロ染め))
こんなゴチャゴチャとした共有の場で、独人という枠を据えて創作を試ることがけっこう面白い。
(文・さとう けんご/Photo: comuramai)
■佐藤研吾(さとう けんご)
1989年神奈川県横浜生まれ。2011年東京大学工学部建築学科卒業。2013年早稲田大学大学院建築学専攻修士課程(石山修武研究室)修了。同専攻嘱託研究員を経て、2014年よりスタジオGAYA。2015年よりインドのVadodara Design AcademyのAssistant Professor、および東京大学工学系研究科建築学専攻博士課程在籍。福島・大玉村で藍染の活動をする「歓藍社」所属。インドでデザインワークショップ「In-Field Studio」を主宰。
*今秋、ときの忘れものでは佐藤研吾さんの個展を開催します。どうぞご期待ください。
◆佐藤研吾のエッセイ「大地について―インドから建築を考える―」は毎月7日の更新です。
●本日のお勧め作品は、磯崎新です。

磯崎新 Arata ISOZAKI
《内部風景I ストン・ボロウ邸ールートウィッヒ・ウィトゲンシュタイン》
1979年
アルフォト
80.0x60.0cm
Ed. 8
サインあり
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第19回 ときの忘れものでの展覧会の構想について3
なんとなく、「お節介」という言葉を携えてモノを作ってみると、ホノボノとした気配が自分の手先に漂い出す気がしてきた。「お節介」という言葉には、「何かのために」という、作るモノの根拠と動機なるものが、肩にのしかかってくるのではなく、その重圧から解放された、建築で言えばいわゆる機能主義なる20世紀的規範から一歩踏み出す面白さをもたらしてくれている気がしている。
そんなことを考えながら、近頃は福島県大玉村で歓藍社の「小姓内の染め場」の建設に取り組んでいた。その場所の中で考え、手を動かしたモノコトはいくつかあり、また歓藍社の他のメンバーと共に作ったものばかりであるが、その中から一つばかり取り出してみて「お節介」という言葉が意味するところの先を進めてみたい。
染め場の流しで使う上水配管を支えるための木造作を作った。上水配管はその後色々と手を加えられるよう、またドクドクと、水の流れる様を見えるように農業用の透明ビニルホースを使い配管して、空中を翔ぶホースを支える架構である。通常、配管というものは猥雑なものとされ、壁の中に隠したり、スッキリと納めてなるべく目立たないようにする。けれどもこの染め場、藍染め工房では水という要素はかなり重要な位置をしめている。染液を作るにも、染めた布を洗うにも、水は欠かせない。そしてこの水は地下水を汲み上げて出てきた水である。先月7月、歓藍社が拠点とする大玉村(の小姓内集落)ではなかなか雨が降らず、田んぼの水不足や井戸水や山水の枯渇が危惧されていた。そんな中での染め場建設工事でもあったので、地下水の共通資本としての意識、水を地下から掘って汲みあげること自体への畏敬が現場の中でも共有され、それがこんな造作の表現に飛んで行った。
すなわち、自分たちが使う水を、手に取るように把握できる設えを考え、まさに木造作たちが流れる水を”手にとる”ように、玩び(もてあそび)ながら空中で支持する様を試みた。そこでは、水の流れというものが主たるモノであることはもちろんだが、主たるモノに対して、良かれと思って勝手な介入を試み、介入自体を愉しむ、モノとモノの意図的なすれ違いの関係性、「お節介」の現場を生み出そうとしてもいる。

染め場の流し台上部に設置した上水を支える木造作(側面から)。透明ホースの柔軟さと軽さに対して、どっしりと重たい木片を頭上から釣り下ろしている。木はナラ材。


透明ホースのルートを定めるための通り穴をあけ、巻きつけ、木とホースの摩擦によって固定している。

手元の蛇口付近の納まり。農業用バルブを蛇口とし、それをナラ材に掘った溝にギュッと押し込んで固定させている。ビニルホースの固定と支持に対する半ば過剰な設え。その過剰な関係とそれを実現させるための労力の過大さから、「あそび」という表現の可能性を見つけていきたい。

この一連の木造作は夜なべをして作り上げたものであるが、だんだんと部材を組み上げていき、透明ホースのルートを考え込んでいるうちに、最後の作業、夜明けの薄暗い現場で、両側のホース吊り下げ部材の振れ止めとして作った繋ぎ材の中央部に、空中を飛ぶホースのニョロリとした造形が写り込んだ。

透明ホースを支える木造作のドローイング(pencil, color pencil on paper. 50cm*35cm)
何か別のモノを支えるためモノを作る、というのは、実はなんとなく気が楽だ。変な気負いがなくなる。
アマチュアという言葉がある。よく、素人や非専門を指し、プロフェッショナルという言葉の反対として考えられているが、実はそういう意味でもないらしい。アマチュアの語源はamatorというラテン語で、「愛する人」とか「熱狂者」というところであるらしい。なんともロマンチックな言葉であるが、つまり熱狂するプロ、プロのアマチュアという人間も存在するということだ。ジョン・ラスキンやウィリアム・モリスらが、労働を知性の発露の現場とし、創造と労働を同じ地平のものとして見、そして労働の中での喜びを求めたように、上の意味でのアマチュア=過多な熱狂するモノづくりによる表現という筋道がありえるのではと思っている。
そんな過多な熱狂を即応的にモノのデザインに取り込むためには、どうしても主体が一人であるほうが良い時がある。設計施工の分離による、複数人の協働の展開の広さと同じく、独人での創作の筋の行先もまた広い。この木造作は筆者自身がやったものであるが、自分自身の技量の限界がわかっているからこそ、そのリミットの内であり得る作り方を考える、表現の筋を考えるというスリルある愉しみがある。
けれども一方で、独人の思考と作業に没頭しつつも、透明ホースのような、扱い方もよくわからない、扱いきれない全く枠外のモノがあることが必要で、さらにはそんな正体不明のホースをどう扱うかのアイデアを発露する場、議論し良し悪しをバツンと言い合う他の主体が必要でもある。独人という限界性の境界を引くことで、その境界の内外を交易して時には横断する機会が欲しい。
そんな独人の創作かつ、複数人での共有が並存する場が最近の歓藍社の拠点にはある。
その拠点で、秋(あるいは冬先)のときの忘れものでの展覧会の作品作りに取り組んでいる。

先日、大玉村にて夏祭り「ちいさな藍まつり 小姓内の染め場お披露目会!ゴロゴロドン!」を開催した。集落の中を練り歩くパレードを終えてその躍動の中、藍の葉っぱを使って染めをやっている現場である。(筆者は画面中央のコンクリート大皿に四つん這いになって染めをやっている(ゴロゴロ染め))
こんなゴチャゴチャとした共有の場で、独人という枠を据えて創作を試ることがけっこう面白い。
(文・さとう けんご/Photo: comuramai)
■佐藤研吾(さとう けんご)
1989年神奈川県横浜生まれ。2011年東京大学工学部建築学科卒業。2013年早稲田大学大学院建築学専攻修士課程(石山修武研究室)修了。同専攻嘱託研究員を経て、2014年よりスタジオGAYA。2015年よりインドのVadodara Design AcademyのAssistant Professor、および東京大学工学系研究科建築学専攻博士課程在籍。福島・大玉村で藍染の活動をする「歓藍社」所属。インドでデザインワークショップ「In-Field Studio」を主宰。
*今秋、ときの忘れものでは佐藤研吾さんの個展を開催します。どうぞご期待ください。
◆佐藤研吾のエッセイ「大地について―インドから建築を考える―」は毎月7日の更新です。
●本日のお勧め作品は、磯崎新です。

磯崎新 Arata ISOZAKI
《内部風景I ストン・ボロウ邸ールートウィッヒ・ウィトゲンシュタイン》
1979年
アルフォト
80.0x60.0cm
Ed. 8
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