「パリに生きた銅版画家 長谷川潔展 ーはるかなる精神の高みへ ー」
西山純子
4月7日(日)まで町田市立国際版画美術館で開かれている「パリに生きた銅版画家 長谷川潔展 ーはるかなる精神の高みへー」を観た。ほぼすべてが所蔵品という、美術館人としては実にうらやましい内容で、7章からなる全154点。うち長谷川の作品は122点を数え、最初期の木版画から最後の作品まで、各時代の仕事を通覧できる。長谷川の版業に、敬愛した画人や長谷川を慕った版画家たちの作品を挿む組み立てには異論もあるかもしれないが、筆者には長谷川の独自性や孤高を際立たせる構成と思えた。それはたとえば、長谷川が愛してやまなかったルドンを併置することで、共通項とともに両者の違いー銅版画と石版画、白昼の神秘と暗闇の幻視といったーにも気づかせるというようなことである。またブレイクやメリヨン、ブレスダン、シャガール、ピカソ、スゴンザックらの作品を集めて版の絵の諸相を見せる編成は、版画専門館ならではの贅沢さでもあろう。以下、展示の流れに沿って、見どころといくらかの私感を述べてみたい。

展示は「第Ⅰ章 日本時代 版画家へ 1913-1918」から始まる。若き日の交友から展開した、文芸雑誌『聖盃』『仮面』『水甕』や日夏耿之介『転身の頌』を舞台とする最初期の希少な木版画にも、個人の所蔵品をあわせて十分な目配りがされている。それらは青春期の感情のほとばしりや躍動する肉体への憧憬を映して強烈な魅力を放ちながら、硬質で清澄な造形を求める長谷川の天性を決して満足させなかったであろうことも納得させ、滑らかに「第Ⅱ章 渡仏 表現の模索から確立へ 1919-1941」へと観者をいざなう。1919年、長谷川は版画の技法、とりわけ銅版画のそれを学ぶためにフランスへ渡り、南仏の古村の幾何学的な建物群や寓意的な裸婦をモティーフとしながら模索を始めた。1922年にはベルソーを手に入れ、長く忘れられていたマニエール・ノワール(メゾチント)研究に着手する。はじめ粗かった下地の線は次第に密度を増してゆき、ポワン・セッシュ(ドライポイント)の実験と呼び交わすようにして描写は濃度を高めていった。そして1925年、《南仏古村(ムーアン・サルトゥー)》のあたりで、マニエール・ノワールの風景画はある完成を見るのである。
この第Ⅱ章で辿られる軌跡が、今回の展示におけるひとつの見せ場であろう。長谷川潔といえばマニエール・ノワールであり、それが最終地点と語られがちだけれども、道程は単純でも、平坦でもなかったことが改めて理解されるからだ。さまざまな技法が並行して手がけられ、銅板に対するビュランやニードルの彫りにもあらゆる深浅・粗密の階調が試されている。結果、画面は時に黒がちになり、時に白がちに傾き、両者を往還しながらポジとネガの反転を繰り返すようにして現れる。象徴的なのは、1936年のビュラン(エングレーヴィング)による《裸婦》と翌年のマニエール・ノワールによる《裸婦》が隣り合う場所だ。同じモティーフが、彫ることで黒い図柄を得る手法と、黒い面から白を掬う手法とで表されるのは、表現法をめぐる長谷川の実験がいまだ途上にあることを証している。本章の作品群はさらに、長谷川の思索が真に深まり表現法が成熟するのは、今あげた1937年の《裸婦》の制作を最後にマニエール・ノワールをしばし封印した15年間、ビュランに集中していた時期のことであり、その空白期に、1950年代後半以降のマニエール・ノワールが準備されることも教えてくれる。こうした道筋がより鮮明になるのが、「第Ⅳ章 長谷川潔と西欧の画家・版画家」を挿んで展示室が変わる、「第Ⅴ章 白昼に神(神秘)を視る」である。本章が、いまひとつの見せ場といってよいだろう。
第Ⅴ章は、1941年に完成した記念すべきポワン・セッシュ《一樹(ニレの樹)》で始まる。長谷川の版業の転回点となった、あまりにも重要な作品である。
それは、今次大戦中のことだった。ある朝、私は、いつもとおなじように籠を手に、画題に使えるような、なにか変った草、石ころはないかと、パリの近郊に散歩に出た。戦争が始まっても帰国せずにフランスに留まったままの私は、そのためにひじょうなる物心両面の苦労を日々かさねていたころのことだった。そこで、その朝も、遠くの雲を眺めたりしながら、いつも通る道を歩いていったのだったが、不意に、一本のある樹木が、燦然たる光を放って私に語りかけてきた。「ボン・ジュール!」と。私も「ボン・ジュール!」と答えた。するとその樹が、じつにすばらしいものに見えてきたのである…(略)そのとき以来、私の絵は変わった。(長谷川潔『白昼に神を視る』白水社、1982年、p.11)
この《一樹》と、それに続く1940~50年代の草花や樹木を描いた清澄な一群(主としてビュランによる)が並ぶ壁面は実に美しく、また長谷川の芸術観をよく伝えるものだ。平凡な草花や樹木の、茎の曲がりや枝葉の曲線に宇宙の旋律を聞き、リズムを見いだし、人知を超えた「神」を感じること。それを描きだすのが自らの使命と信じること -- 。森羅万象はすべて微妙なバランスをもってつながっており、自身もまたその一部であるとする世界観を長谷川は発見し、以後の制作の拠り所としてゆく。そしていよいよ、「第Ⅵ章 長谷川作品への共鳴」を挿んだ「第Ⅶ章 はるかなる精神の高みへ ー「マニエル・ノワール」の静物画 1950年代末―1969」で、かの典雅にして深遠なマニエール・ノワールの開花を見る。極微な点の集積からなる漆黒のなかに小鳥やガラス玉、砂時計や草花が浮遊する、それまで誰も創造し得なかった世界。25点を並べて存分に楽しませ、晩年の数点に光をあてたエピローグを経て、展示は終幕を迎える。
基本的に編年体で構成されている本展だが、「第Ⅲ章 仏訳『竹取物語』 1934(1933)」ではリーヴル・ダール協会が刊行した『竹取物語』に一章まるごとをあてており、この珠玉の銅版画集の全容を展観して貴重である。本章に続く第Ⅳ章でウィリアム・ブレイクら西欧の画家の作品を見た時、ふと思うことがあった。長谷川の「潔癖な」と形容したくなる刻線は、誤解を恐れずにいえば、彫師のそれに近いと感じたのである。日本の創作版画は分業や複製に異を唱える地点から始まり、いくつもの忘れがたい傑作を生みながら、一方で版の味わいに終始した、よく似た作品を量産したのも確かである。何よりも「個」や「主観」の表出を尊ぶ時代にあって、彫りや摺りの拙さ(あるいは拙さをあえて見せること)は武器でもあり、それは若さゆえの熱情や切実さを伝えてある種の魅力を放ったが、結果としてみな一様な相貌を呈したのは皮肉であった。だが長谷川は、まぎれもなく版ならではの表現を志向しながら、線やフォルムから「個」も「主観」も手の痕跡も一切の甘さもそぎ落し、むしろ語り部に撤することで、極めて個性的な、希有な高みに到達したといえる。何らかの主義(イズム)にも誰かの作風にも頼らず、自然や科学、時には数学の力を借りて表現しようとしたのは、一過性の現象や感情などではない、永遠不変の真理であった。
長谷川は自然を凝視して一木一草に宿る「神」を表し、「宇宙を支配する絶対的摂理」(『白昼に神を視る』p.30)に近づこうとした。それは目に見えない、この世に存在するものの普遍的な仕組みを解き明かすことであり、混沌とした、苦渋に満ちた世界に新たな秩序をもたらそうとする、祈りにも似た行為であった。異邦人として戦争に遭い、日本での評価は遅れ、また家庭においても幸いばかりではなかったこの人が、二度と故国に戻らず銅板に向かい続けた、その孤独が改めて思われる。かように言葉にするのは簡単だが、それがどれほど厳しく、途方もなく長い時間であったかは想像を超える。だが、長谷川潔の芸術が、私たちが常に襟を正して回顧すべきひとつの光であり、カノンであるのは疑いない。ぜひ展示室で、その類いなき軌跡をご覧いただきたい。
(にしやま じゅんこ)
■西山純子(にしやま・じゅんこ)
1966年東京都生まれ。1993年早稲田大学大学院文学研究科芸術学(美術史)修士課程修了。1995年より千葉市美術館学芸員。専門は日本近代の版画。1997年より5回にわたり、明治期末から戦後にかけての日本版画を総覧するシリーズ展「日本の版画」を手がける。他に「竹久夢二展ー描くことが生きることー」「生誕130年 橋口五葉展」「生誕130年 川瀬巴水展ー郷愁の日本風景」「生誕140年 吉田博展」「木版画の神様 平塚運一展」などを企画。著書に『橋口五葉ー装飾への情熱』『新版画作品集ーなつかしい風景への旅』、共著に『すぐわかる画家別近代日本版画の見かた』(いずれも東京美術刊)がある。
●パリに生きた銅版画家 長谷川潔展―はるかなる精神の高みへ―

会期:2019年3月9日(土)~4月7日(日)
休館日:月曜日
会場:町田市立国際版画美術館
《時 静物画》
1969年
マニエル・ノワール
269×360mm
展覧会構成:
第Ⅰ章(プロローグ)版画家へ 1913-18
長谷川潔が画家を志し、版画の制作を始めたのは1912年(明治45)のことでした。本章では、日本を去る1918(大正7)年まで、美術文芸雑誌『仮面』同人の版画家として活動した時期の作品を紹介します。
第Ⅱ章フランスへ―表現の模索から確立へ 1919-1941
《裸婦》
1936年
エングレーヴィング
265×169mm
フランスに渡り、表現を模索しつつ創作活動を開始してから、神話に登場するヴィーナスや南仏の風景、机上の静物などを描きつつ独自の表現を確立するまでの作品を紹介します。その間にマニエル・ノワール(メゾチント)やエングレーヴィングといった古典的版画技法を研究し、現代版画の技法としてよみがえらせています。
第Ⅲ章仏訳『竹取物語』1934(1933)
本章では1934年に完成した、長谷川潔による挿絵本『竹取物語』を紹介します。仏訳のテキスト(パリの日本大使館勤務の外交官・本野盛一による)とエングレーヴィングによる長谷川の挿絵が共鳴し、日本の伝統性と西洋文化が融合した近代挿絵本の傑作といえるでしょう。
第Ⅳ章長谷川潔と西欧の画家・版画家
第1節 青年期の刺激
長谷川潔が「青年時代の自分に強い刺激を与えた」と記しているウィリアム・ブレイク、ムンク、ルドン、そして長谷川がコレクションしていたロドルフ・ブレスダン、シャルル・メリヨンなどの版画を展示し、長谷川が目指した表現世界について考えてみます。
《アレキサンドル三世橋とフランスの飛行船》
1930年
マニエル・ノワール
137×307mm
第2節 フランスの画家・版画家との交流
フランスで長谷川潔が交流したボナール、マティス、ピカソ、スゴンザック、シャガール、ラブルールなどの版画を展示し、長谷川の活動の背景にあるフランスの版画界について紹介します。
第Ⅴ章白昼に神(神秘)を視る 1941-1950年代末
長谷川潔は第二次世界大戦中に、いつも見る一本の樹が不意に人間と同等に見えるようになり、万物は同じだと気づいて以来、自分の絵は変わったと書き残しています。本章では、その時期からしばしば樹木を描くことで、またコップに挿した枯れ草や窓辺といった日常の光景をエングレーヴィングで描き出すことなどで、自然の真理あるいは神秘を探究しようとした長谷川の仕事を紹介します。

第Ⅵ章長谷川潔作品への共鳴
長谷川潔はパリを拠点に創作活動をしていましたが、春陽会展や日本版画協会展などの日本の展覧会へ銅版画を送り、日本人作家に影響を与えていました。長谷川と交流があったり、その作品から示唆されて制作したりした日本人版画家の作品を紹介します。駒井哲郎、丹阿弥丹羽子、小林ドンゲの作品を出品します。
第Ⅶ章はるかなる精神の高みへ
―マニエル・ノワールの静物画 1950年代末~1969
長谷川潔は1950年代末から60年代末まで、細粒な点刻で下地をつくり、漆黒のなかからモティーフを浮かび上がらせるマニエル・ノワールによる静物画を多数制作しました。それらは、あらかじめ意味を与えたオブジェや草花、小鳥などを意図的に構成して深淵な精神世界を探求した静物画で、長谷川の表現世界の到達点として位置づけられています。

エピローグ
長谷川潔自身が技法と表現の両面からそれまでの仕事を概観できるように構成した1963年発行の版画集(評論家によるテキスト入り)と、最晩年の作品を展示します。
関連イベント:館長によるスペシャル・ギャラリー・トーク
2019年3月30日(土)
学芸員によるギャラリー・トーク
2019年3月24日(日)
*いずれも14:00から45分程度。観覧チケットをご用意下さい。
~~~~~~
●本日のお勧め作品は長谷川潔です。
長谷川潔《樹と村の小寺院》 1959年 銅版
イメージサイズ:33.5x24.0cm
シートサイズ:51.5x38.0cm
Ed.100 サインあり
こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください。
●ときの忘れものは〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました。阿部勤設計の新しい空間についてはWEBマガジン<コラージ2017年12月号18~24頁>に特集されています。JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531
E-mail:info@tokinowasuremono.com
営業時間=火曜~土曜の平日11時~19時。
*日・月・祝日は休廊。
西山純子
4月7日(日)まで町田市立国際版画美術館で開かれている「パリに生きた銅版画家 長谷川潔展 ーはるかなる精神の高みへー」を観た。ほぼすべてが所蔵品という、美術館人としては実にうらやましい内容で、7章からなる全154点。うち長谷川の作品は122点を数え、最初期の木版画から最後の作品まで、各時代の仕事を通覧できる。長谷川の版業に、敬愛した画人や長谷川を慕った版画家たちの作品を挿む組み立てには異論もあるかもしれないが、筆者には長谷川の独自性や孤高を際立たせる構成と思えた。それはたとえば、長谷川が愛してやまなかったルドンを併置することで、共通項とともに両者の違いー銅版画と石版画、白昼の神秘と暗闇の幻視といったーにも気づかせるというようなことである。またブレイクやメリヨン、ブレスダン、シャガール、ピカソ、スゴンザックらの作品を集めて版の絵の諸相を見せる編成は、版画専門館ならではの贅沢さでもあろう。以下、展示の流れに沿って、見どころといくらかの私感を述べてみたい。

展示は「第Ⅰ章 日本時代 版画家へ 1913-1918」から始まる。若き日の交友から展開した、文芸雑誌『聖盃』『仮面』『水甕』や日夏耿之介『転身の頌』を舞台とする最初期の希少な木版画にも、個人の所蔵品をあわせて十分な目配りがされている。それらは青春期の感情のほとばしりや躍動する肉体への憧憬を映して強烈な魅力を放ちながら、硬質で清澄な造形を求める長谷川の天性を決して満足させなかったであろうことも納得させ、滑らかに「第Ⅱ章 渡仏 表現の模索から確立へ 1919-1941」へと観者をいざなう。1919年、長谷川は版画の技法、とりわけ銅版画のそれを学ぶためにフランスへ渡り、南仏の古村の幾何学的な建物群や寓意的な裸婦をモティーフとしながら模索を始めた。1922年にはベルソーを手に入れ、長く忘れられていたマニエール・ノワール(メゾチント)研究に着手する。はじめ粗かった下地の線は次第に密度を増してゆき、ポワン・セッシュ(ドライポイント)の実験と呼び交わすようにして描写は濃度を高めていった。そして1925年、《南仏古村(ムーアン・サルトゥー)》のあたりで、マニエール・ノワールの風景画はある完成を見るのである。
この第Ⅱ章で辿られる軌跡が、今回の展示におけるひとつの見せ場であろう。長谷川潔といえばマニエール・ノワールであり、それが最終地点と語られがちだけれども、道程は単純でも、平坦でもなかったことが改めて理解されるからだ。さまざまな技法が並行して手がけられ、銅板に対するビュランやニードルの彫りにもあらゆる深浅・粗密の階調が試されている。結果、画面は時に黒がちになり、時に白がちに傾き、両者を往還しながらポジとネガの反転を繰り返すようにして現れる。象徴的なのは、1936年のビュラン(エングレーヴィング)による《裸婦》と翌年のマニエール・ノワールによる《裸婦》が隣り合う場所だ。同じモティーフが、彫ることで黒い図柄を得る手法と、黒い面から白を掬う手法とで表されるのは、表現法をめぐる長谷川の実験がいまだ途上にあることを証している。本章の作品群はさらに、長谷川の思索が真に深まり表現法が成熟するのは、今あげた1937年の《裸婦》の制作を最後にマニエール・ノワールをしばし封印した15年間、ビュランに集中していた時期のことであり、その空白期に、1950年代後半以降のマニエール・ノワールが準備されることも教えてくれる。こうした道筋がより鮮明になるのが、「第Ⅳ章 長谷川潔と西欧の画家・版画家」を挿んで展示室が変わる、「第Ⅴ章 白昼に神(神秘)を視る」である。本章が、いまひとつの見せ場といってよいだろう。
第Ⅴ章は、1941年に完成した記念すべきポワン・セッシュ《一樹(ニレの樹)》で始まる。長谷川の版業の転回点となった、あまりにも重要な作品である。
それは、今次大戦中のことだった。ある朝、私は、いつもとおなじように籠を手に、画題に使えるような、なにか変った草、石ころはないかと、パリの近郊に散歩に出た。戦争が始まっても帰国せずにフランスに留まったままの私は、そのためにひじょうなる物心両面の苦労を日々かさねていたころのことだった。そこで、その朝も、遠くの雲を眺めたりしながら、いつも通る道を歩いていったのだったが、不意に、一本のある樹木が、燦然たる光を放って私に語りかけてきた。「ボン・ジュール!」と。私も「ボン・ジュール!」と答えた。するとその樹が、じつにすばらしいものに見えてきたのである…(略)そのとき以来、私の絵は変わった。(長谷川潔『白昼に神を視る』白水社、1982年、p.11)
この《一樹》と、それに続く1940~50年代の草花や樹木を描いた清澄な一群(主としてビュランによる)が並ぶ壁面は実に美しく、また長谷川の芸術観をよく伝えるものだ。平凡な草花や樹木の、茎の曲がりや枝葉の曲線に宇宙の旋律を聞き、リズムを見いだし、人知を超えた「神」を感じること。それを描きだすのが自らの使命と信じること -- 。森羅万象はすべて微妙なバランスをもってつながっており、自身もまたその一部であるとする世界観を長谷川は発見し、以後の制作の拠り所としてゆく。そしていよいよ、「第Ⅵ章 長谷川作品への共鳴」を挿んだ「第Ⅶ章 はるかなる精神の高みへ ー「マニエル・ノワール」の静物画 1950年代末―1969」で、かの典雅にして深遠なマニエール・ノワールの開花を見る。極微な点の集積からなる漆黒のなかに小鳥やガラス玉、砂時計や草花が浮遊する、それまで誰も創造し得なかった世界。25点を並べて存分に楽しませ、晩年の数点に光をあてたエピローグを経て、展示は終幕を迎える。
基本的に編年体で構成されている本展だが、「第Ⅲ章 仏訳『竹取物語』 1934(1933)」ではリーヴル・ダール協会が刊行した『竹取物語』に一章まるごとをあてており、この珠玉の銅版画集の全容を展観して貴重である。本章に続く第Ⅳ章でウィリアム・ブレイクら西欧の画家の作品を見た時、ふと思うことがあった。長谷川の「潔癖な」と形容したくなる刻線は、誤解を恐れずにいえば、彫師のそれに近いと感じたのである。日本の創作版画は分業や複製に異を唱える地点から始まり、いくつもの忘れがたい傑作を生みながら、一方で版の味わいに終始した、よく似た作品を量産したのも確かである。何よりも「個」や「主観」の表出を尊ぶ時代にあって、彫りや摺りの拙さ(あるいは拙さをあえて見せること)は武器でもあり、それは若さゆえの熱情や切実さを伝えてある種の魅力を放ったが、結果としてみな一様な相貌を呈したのは皮肉であった。だが長谷川は、まぎれもなく版ならではの表現を志向しながら、線やフォルムから「個」も「主観」も手の痕跡も一切の甘さもそぎ落し、むしろ語り部に撤することで、極めて個性的な、希有な高みに到達したといえる。何らかの主義(イズム)にも誰かの作風にも頼らず、自然や科学、時には数学の力を借りて表現しようとしたのは、一過性の現象や感情などではない、永遠不変の真理であった。
長谷川は自然を凝視して一木一草に宿る「神」を表し、「宇宙を支配する絶対的摂理」(『白昼に神を視る』p.30)に近づこうとした。それは目に見えない、この世に存在するものの普遍的な仕組みを解き明かすことであり、混沌とした、苦渋に満ちた世界に新たな秩序をもたらそうとする、祈りにも似た行為であった。異邦人として戦争に遭い、日本での評価は遅れ、また家庭においても幸いばかりではなかったこの人が、二度と故国に戻らず銅板に向かい続けた、その孤独が改めて思われる。かように言葉にするのは簡単だが、それがどれほど厳しく、途方もなく長い時間であったかは想像を超える。だが、長谷川潔の芸術が、私たちが常に襟を正して回顧すべきひとつの光であり、カノンであるのは疑いない。ぜひ展示室で、その類いなき軌跡をご覧いただきたい。
(にしやま じゅんこ)
■西山純子(にしやま・じゅんこ)
1966年東京都生まれ。1993年早稲田大学大学院文学研究科芸術学(美術史)修士課程修了。1995年より千葉市美術館学芸員。専門は日本近代の版画。1997年より5回にわたり、明治期末から戦後にかけての日本版画を総覧するシリーズ展「日本の版画」を手がける。他に「竹久夢二展ー描くことが生きることー」「生誕130年 橋口五葉展」「生誕130年 川瀬巴水展ー郷愁の日本風景」「生誕140年 吉田博展」「木版画の神様 平塚運一展」などを企画。著書に『橋口五葉ー装飾への情熱』『新版画作品集ーなつかしい風景への旅』、共著に『すぐわかる画家別近代日本版画の見かた』(いずれも東京美術刊)がある。
●パリに生きた銅版画家 長谷川潔展―はるかなる精神の高みへ―

会期:2019年3月9日(土)~4月7日(日)
休館日:月曜日
会場:町田市立国際版画美術館
《時 静物画》1969年
マニエル・ノワール
269×360mm
展覧会構成:
第Ⅰ章(プロローグ)版画家へ 1913-18
長谷川潔が画家を志し、版画の制作を始めたのは1912年(明治45)のことでした。本章では、日本を去る1918(大正7)年まで、美術文芸雑誌『仮面』同人の版画家として活動した時期の作品を紹介します。
第Ⅱ章フランスへ―表現の模索から確立へ 1919-1941
《裸婦》1936年
エングレーヴィング
265×169mm
フランスに渡り、表現を模索しつつ創作活動を開始してから、神話に登場するヴィーナスや南仏の風景、机上の静物などを描きつつ独自の表現を確立するまでの作品を紹介します。その間にマニエル・ノワール(メゾチント)やエングレーヴィングといった古典的版画技法を研究し、現代版画の技法としてよみがえらせています。
第Ⅲ章仏訳『竹取物語』1934(1933)
本章では1934年に完成した、長谷川潔による挿絵本『竹取物語』を紹介します。仏訳のテキスト(パリの日本大使館勤務の外交官・本野盛一による)とエングレーヴィングによる長谷川の挿絵が共鳴し、日本の伝統性と西洋文化が融合した近代挿絵本の傑作といえるでしょう。
第Ⅳ章長谷川潔と西欧の画家・版画家
第1節 青年期の刺激
長谷川潔が「青年時代の自分に強い刺激を与えた」と記しているウィリアム・ブレイク、ムンク、ルドン、そして長谷川がコレクションしていたロドルフ・ブレスダン、シャルル・メリヨンなどの版画を展示し、長谷川が目指した表現世界について考えてみます。
《アレキサンドル三世橋とフランスの飛行船》1930年
マニエル・ノワール
137×307mm
第2節 フランスの画家・版画家との交流
フランスで長谷川潔が交流したボナール、マティス、ピカソ、スゴンザック、シャガール、ラブルールなどの版画を展示し、長谷川の活動の背景にあるフランスの版画界について紹介します。
第Ⅴ章白昼に神(神秘)を視る 1941-1950年代末
長谷川潔は第二次世界大戦中に、いつも見る一本の樹が不意に人間と同等に見えるようになり、万物は同じだと気づいて以来、自分の絵は変わったと書き残しています。本章では、その時期からしばしば樹木を描くことで、またコップに挿した枯れ草や窓辺といった日常の光景をエングレーヴィングで描き出すことなどで、自然の真理あるいは神秘を探究しようとした長谷川の仕事を紹介します。

第Ⅵ章長谷川潔作品への共鳴
長谷川潔はパリを拠点に創作活動をしていましたが、春陽会展や日本版画協会展などの日本の展覧会へ銅版画を送り、日本人作家に影響を与えていました。長谷川と交流があったり、その作品から示唆されて制作したりした日本人版画家の作品を紹介します。駒井哲郎、丹阿弥丹羽子、小林ドンゲの作品を出品します。
第Ⅶ章はるかなる精神の高みへ
―マニエル・ノワールの静物画 1950年代末~1969
長谷川潔は1950年代末から60年代末まで、細粒な点刻で下地をつくり、漆黒のなかからモティーフを浮かび上がらせるマニエル・ノワールによる静物画を多数制作しました。それらは、あらかじめ意味を与えたオブジェや草花、小鳥などを意図的に構成して深淵な精神世界を探求した静物画で、長谷川の表現世界の到達点として位置づけられています。

エピローグ
長谷川潔自身が技法と表現の両面からそれまでの仕事を概観できるように構成した1963年発行の版画集(評論家によるテキスト入り)と、最晩年の作品を展示します。
関連イベント:館長によるスペシャル・ギャラリー・トーク
2019年3月30日(土)
学芸員によるギャラリー・トーク
2019年3月24日(日)
*いずれも14:00から45分程度。観覧チケットをご用意下さい。
~~~~~~
●本日のお勧め作品は長谷川潔です。
長谷川潔《樹と村の小寺院》 1959年 銅版イメージサイズ:33.5x24.0cm
シートサイズ:51.5x38.0cm
Ed.100 サインあり
こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください。
●ときの忘れものは〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました。阿部勤設計の新しい空間についてはWEBマガジン<コラージ2017年12月号18~24頁>に特集されています。JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531 E-mail:info@tokinowasuremono.com
営業時間=火曜~土曜の平日11時~19時。
*日・月・祝日は休廊。
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