土渕信彦のエッセイ「瀧口修造の本」

14.『シュルレアリスムのために』~後編

シュルレアリスムに対する瀧口の、これ以降の関りも見ておきましょう。注目されるのは本書第4部に収録された「シュルレアリスム十年の記」(「アトリヱ」、1940年1月。図11)と思われ、以下の引用箇所ではもはやシュルレアリスムに対する熱意が失われているようです。瀧口の「自筆年譜」1941年の項には「シュルレアリスム観の瓦解」とまで記されています。

「思えばシュルレアリスムはいろいろな観念に利用された。しかしわたしは妙な驕慢のために、シュルレアリスムを流通貨幣化しているのを見ると憤懣を禁じえなかった。ともあれわたしはこのあいだに、シュルレアリスムへの心酔期を完全にすぎていた。いいかえれば、わたしの個性は超現実性という客観性との新たな結合方法を見出そうとしていたにすぎなかったのだが、同時にわたしはすでに「シュルレアリスト」ではなくなっていたはずである。[中略]さてわたしとしてはシュルレアリスムに対する興奮の時代がまさに過ぎ去った瞬間に、画壇のシュルレアリスム的関心に包囲されてしまった。[中略]シュルレアリスムは、いま日本の夜のなかへ、溶解の一途を辿っているかも知れぬ。それは超現実がひとつの純粋性に達する一形式でもあるからだ」

図11 アトリヱ図11「アトリヱ」

熱意を失った原因は、この論考の末尾に付記された「ブルトン、エリュアールの二詩人はフランス戦線に応召した」という情報だったと思われます。それまでのブルトンは、芸術を政治の手段にするなというだけでなく、「祖国はいらない」「ドイツ・プロレタリアートに刃を向けるな」などと唱えていたのですから、この路線を踏まえてシュルレアリスムの政治的立場を必死に広めようとしていた瀧口にとって、応召したとの情報は梯子を外されたようなもので、ブルトンの変節ぶりに驚愕し、幻滅さえ感じたのは間違いないでしょう。本書への再録に際して、軍医として軍服を着用した、ブルトンには最も相応しくない写真をあえて掲載したのも(図12)、当時の驚きと幻滅を暗示するものでしょう。なお、この写真は初出には掲載されていません。

図12 ブルトンの写真図12 軍服姿のブルトン

戦後間もない時期にも瀧口はシュルレアリスムについて関心は持ち続けていますが、ブルトンに対しては、「シュルレアリスムその後」(「アトリヱ」、1948年1月)のなかで、「理論家としての欠陥」や「限界性」などを指摘しています。しかし除隊後ニューヨークやパリでの活動などについての情報が増えるに従って、次第に熱意を取り戻していったのではないでしょうか。さらに決定的だったのは1958年の欧州旅行でブルトン宅を訪問したことで、二日間にわたる面談の後には、往年のシュルレアリスムに対する信念が復活したものと思われます。面談中の写真が本書の口絵裏に掲載されています(図13)。

図13 口絵裏(ブルトンの書斎で)図13 ブルトンの書斎で

本書の「覚え書き」には、「シュルレアリスム十年の記」の「溶解の一途を辿っている」の一節を引用した後、次のように記しています。1968年の時点でもシュルレアリスムを主体的でアクチュアルな思想として受け止めており、決して客観的で第三者的に論評する対象ではなかったことがわかります。なお、「覚え書き」執筆の1年半ほど前の1966年9月にブルトンは逝去していました。

「しかもそのような言葉がいまの私にとっても、なお生きつづけているとは! 悔恨を通りぬけ、また何か新たな脈絡を見つけたかのように、それが私のなかに座り込みをつづけようとする気配である」

以上のとおり、本書は単に瀧口の1930年~1940年までのシュルレアリスムに関する評論をまとめたというだけでなく、シュルレアリスム(および外部)の目まぐるしい変化を誠実に受け止めながらその普及に奮闘し、ついには屈折・挫折に至る軌跡を具体的に辿ることができる、たいへん貴重な評論集です。『瀧口修造の詩的実験 1927~1937』や『余白に書く』とともに、是非とも手元に置き、眼をとおしていただきたい一冊です。

最後に本書を編集した久保覚について触れておきます。「覚え書き」末尾には、次のような謝辞が記されています。「失われて久しい旧稿の探索は私にとって絶望に近いものであったが、7年前、気の重い私を励まして刊行の計画をたて、まずその探索の仕事を着々とすすめてくれたのは久保覚氏であった。この本は同氏のイメージによって形をもったといってよい。また久保覚氏とともに終始協力してくれた佐伯治氏、装幀をお願いした下川敦子さんとともに、心から感謝の意を述べておきたい」

また、瀧口の「日録」(「日本読書新聞」、1969年3月17日)には、次のように記されています。「1月某日 せりか書房の久保氏来訪。新潮社の諒解を得たので、『幻想画家論』の改版を出す件を進める。山口昌男氏の解説を貰えるよし。その夜、ベンヤミンの話が印象的。」

瀧口の没後に久保は追悼文「天使の部屋のなかで」をみすず書房の「みすず」233号(1979年9・10月。図14)に寄せており、花田清輝の卓抜な瀧口論「コロンブスのタマゴ」に触発されて本書の刊行を志した経緯などに触れています。

図14 「みすず」233号図14「みすず」

久保覚は、現代思潮社を経て、佐伯治、関田稔とともに、1967年にせりか書房を設立した編集者で、本名は鄭京黙。1998年9月に急性心筋梗塞のため惜しくも亡くなりました。享年61。遺稿集『収集の弁証法』・追悼集『未完の可能性』があります(久保覚遺稿集・追悼集刊行会、2000年11月。図15)。瀧口と関りの深かった編集者の一人として、海藤日出男、小尾俊人、田辺徹などの各氏とともに、忘れることはできません。

図15 遺稿集・追悼集図15 久保覚遺稿集・追悼集
つちぶち のぶひこ

土渕信彦 Nobuhiko TSUCHIBUCHI
1954年生まれ。高校時代に瀧口修造を知り、著作を読み始める。サラリーマン生活の傍ら、初出文献やデカルコマニーなどを収集。その後、早期退職し慶應義塾大学大学院文学研究科修士課程修了(美学・美術史学)。瀧口修造研究会会報「橄欖」共同編集人。ときの忘れものの「瀧口修造展Ⅰ~Ⅳ」を監修。また自らのコレクションにより「瀧口修造の光跡」展を5回開催中。富山県立近代美術館、渋谷区立松濤美術館、世田谷美術館、市立小樽文学館・美術館などの瀧口展に協力、図録にも寄稿。主な論考に「彼岸のオブジェ―瀧口修造の絵画思考と対物質の精神の余白に」(「太陽」、1993年4月)、「『瀧口修造の詩的実験』の構造と解釈」(「洪水」、2010年7月~2011年7月)、「瀧口修造―生涯と作品」(フランスのシュルレアリスム研究誌「メリュジーヌ」、2016年)など。

◆土渕信彦のエッセイ「瀧口修造の本」は毎月23日の更新です。

●今日のお勧め作品は、瀧口修造です。
takiguchi2014_II_27瀧口修造 Shuzo TAKIGUCHI
"Ⅱ-27"
デカルコマニー
イメージサイズ:13.5×10.5cm
シートサイズ :18.4×12.3cm
Ⅱ-26と対
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◎昨日読まれたブログ(archive)/2005年10月15日|原茂「天使の謡う夜に~ジョナス・メカス展オープニング」
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●箱根のポーラ美術館で開催中の《シュルレアリスムと美術 ダリ、エルンストと日本の「シュール」》展に瑛九の油彩、フォトデッサン、コラージュなど6点が展示されています(~4月5日)。
詳しくは1月4日の土渕信彦さんのレビューをお読みください。

●ときの忘れものは青山から〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました。
阿部勤設計の新しい空間はWEBマガジン<コラージ2017年12月号18~24頁>に特集されています。JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。
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