松本竣介研究ノート 第13回
調査記録~舟越保武先生を訪ねたこと 注記
小松﨑拓男
やはり少し説明が必要だと思うので書いておこう。
「リリオムは名曲喫茶で、北川実がカウンターの中にいた。舟越先生は北川氏がマスターであったと思っていた。北川実は二科展に入選している。小才の効く人物。現在は知らないとのこと。」
茶房リリオムについてはよく知られている。太平洋画会研究所(のちの太平洋美術学校)の仲間たちと松本竣介が集った喫茶店である。舟越先生は、北川実をマスターだと思っていたが、店のマスターは中林政吉。リリオムを称して「穴」と言い、その中林氏を「穴のオヤヂ」と呼んでいたとある。件の北川実は画家であり、松本竣介ともこのリリオムで作品展を開いている。(注1)当時の美術雑誌を調べていた時に、二科展に入選した作品を図版で紹介している何点かのうちに、北川実の作品図版が載っていたのを見た記憶がある。詳しいことはもう一度調べ直さないとわからないのだが・・・。
「学内展以来の竣介の絵はがらりと画風が変わっており、ルオー風のものになっていた。」
松本竣介の画風が変わるのは1934年2月に開催された「福島コレクション展」で実際のルオーの作品に触れたのち、翌年1935年9月の二科展の初入選までの間であると考えられているので、舟越先生が立ち寄ったリリオムの小品展は、この1935年の10月もしくは12月に行われていたものだと思われる。
「2度目に東京であったのは、美校の3年になり、練馬に住んでいた時、池袋の裏を一人で歩き回っていた時、偶然大きな声で二階屋の窓から竣介に呼び止められた、その時は上がらず別れた。」
実はこの記述の内容に関しては、会ったことは事実だったと思われるが、その時期と場所についてはこの記述通りかわからない。舟越先生の東京美術学校卒業が1939年であるので、3年次であれば1937年。しかし、この前年の2月には松本竣介は、貞子夫人と結婚し、現在の新宿区中井に転居している。池袋の裏という記憶からすると、この新居ではないと思われ、池袋であるなら自由学園近くの借家で、この時も二階屋であったはずなので、結婚以前の話であったのではないかと思うが、そうすると3年次ということではないことになる。ただ今はもうこの詳細をすぐに確かめようがない。
「セルパン」や「コティ」、名前はしばしば聞くが今の私には詳細はわからない。村上善男の著作に何か紹介があったかもしれない。
「川徳ギャラリーは川徳デパートの催事場であった。額縁などはあったが、ガラスはなく、デッサンは台紙に貼ったままの形で展示した。」「展覧会の世話役で費用などを負担したのは洋服屋の畑山昇麓氏であった。小パトロン。しかし周りには作品を持って行ってしまうなど悪い印象を与えていた。しかし世話になる。絵は全く売れない時代に洋服代の代わりとして、絵を持って行った。この時の洋服代は絵よりはるかに高かった。」「舟越先生の目の前で油絵を描いたことはなかった。ただ盛岡で展覧会を開いた時に、お客の来ない暇なおり、二人で互いにデッサンし合ったことがあった。」
川徳ギャラリーは盛岡のギャラリーで1945年11月21日から26日まで松本竣介と舟越先生との二人展のことが開かれており、その時のことを語ったもの。敗戦から3ヶ月あまりの混乱期に開かれた展覧会であった。畑山昇麓については村上善男の『松本竣介と友人たち』(注2)に詳しい。松本竣介が描いた畠山昇麓の肖像画の素描もある。(図版1)また畠山のコレクションが神奈川県立近代美術館に収められる経緯についての記述もある。そこには当時神奈川県立近代美術館の学芸員だった朝日晃氏と思われる人物とのやりとりが紹介されている。
図版1 松本竣介「畠山君二日酔の図」
「岐阜の展覧会の折、理由は不明なのだが、作品が行方不明になっている。」
砂賀光一が企画した松本竣介、舟越保武、麻生三郎の3人展のことで、岐阜で1947年10月に開催されている。砂賀光一に関しては、やはり村上善男の前述の著作に記述がある。(注3)
「アトリエ内は非常にきちんと整理整頓されていた。」「絵描きではなかったので割に気楽にアトリエに入れてもらえたのではないか。」
大川美術館に再現されたアトリエを見れば整理整頓されていたことは一目瞭然ではあろう。また、アトリエに気軽に入れたことについての感想も舟越先生らしい印象を与える。
「藤田嗣治の地塗りは乾きやすく、直ぐに描ける。藤田のモデルをしていた澤田哲郎にスパイをさせた(?)というような話をしていた位、絵具の質に関する研究には詳しかった。」
澤田哲郎についても前掲の村上善男の本に人物についての記述がある。(注4)
昨今はオーラルヒストリーの重要性が言われるようになったが、この当時はあまり重視されていなかったような気がする。多少失礼なことであったとしても、あの時、写真や録音を撮っておくべきだったかもしれない。一切そうした資料はない。
それにしても資料の整理を含めて、中断してしまった研究の再開がこれほど難しいとは思わなかった。(図版2)集めた資料が埋もれ、時間軸がまだら模様になり、記憶が錯綜し、ほとんど最初からやり直さざるを得ず、なんとももどかしい。若い研究を志す人たちには、どんな困難があっても、自身の研究は日々続けることを勧めたい。研究リハビリは思った以上に厳しいのだ。
図版2 大学院時代に提出した修士論文のコピー
注1 和田浩一・柳原一徳編「事項解説」『松本竣介展 生誕100年』NHKプラネット東北NHKプロモーション 2012年pp.359~360
注2 村上善男「盛岡小鷹」『松本竣介とその友人たち』新潮社 1987年 pp.59~72
注3 同上「花巻川口町」pp.27~58
注4 同上「中野新井町」pp.73~111
(こまつざき たくお)
●小松﨑拓男のエッセイ「松本竣介研究ノート」は毎月3日の更新です。
■小松﨑拓男 Takuo KOMATSUZAKI
千葉県生まれ。横浜そごう美術館、郡山市美術館準備室、平塚市美術館の主任学芸員を経て、NTTインターコミュニケーション・センター[ICC]学芸課長、広島市現代美術館学芸課長、副館長を歴任後、金沢美術工芸大学教授を2019年まで務める。現在、美術評論家連盟会員、文教大学情報学部非常勤講師として「美術」「サブカルチャー論」担当。
キュレーター時代には絵画をはじめとしてメディア・アートなど先端領域を含めた幅広い分野で近現代美術の展覧会を企画。村上隆、奈良美智、会田誠などを公立美術館で初めて本格的に紹介した。
主な展覧会に「TOKYO POP」(平塚市美術館)「New Media New Face / New York」(NTTインターコミュニケーション・センター[ICC])「絵画新世紀」「サイバー・アジア」(広島市現代美術館)「エコメトロ」(光州ビエンナーレ)などがある。
●本日のお勧め作品は光嶋裕介です。
光嶋裕介 Yusuke KOSHIMA
"幻想都市風景2020-02"
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2020年
和紙にインク、箔画
61.0x41.0cm
サインあり
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※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください。
*画廊亭主敬白
臨時休廊(在宅勤務)37日目
亭主が学生時代を過ごした寮の後輩がコロナウイルス感染により亡くなりました。死に目にも会えなかったご家族の無念、切なさを思うと心がいたみます。明日は我が身と思わざるを得ません。
5月から夏にかけて在米の宮森敬子さん、スイス在住の杉山幸一郎さんのそれぞれ新作個展を開催する予定で随分と前から準備してきました。それが帰国すらできない状況になり、残念ですが延期いたしました(会期未定)。
スタッフたちは在宅勤務しながら「没後60年 第29回瑛九展」をWEB展として開催するべく全力を挙げています。新たなギャラリー活動の夢と希望をこめて。
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◎昨日読まれたブログ(archive)/2018年05月27日|大谷省吾「松本竣介の素描について」
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◆ときの忘れもののブログは作家、研究者、コレクターの皆さんによるエッセイを掲載し毎日更新を続けています(年中無休)。
皆さんのプロフィールは奇数日の執筆者は4月21日に、偶数日の執筆者は4月24日にご紹介しています。
◆ときの忘れものは版画・写真のエディション作品などをアマゾンに出品しています。
●ときの忘れものは青山から〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました。
阿部勤設計の新しい空間はWEBマガジン<コラージ2017年12月号18~24頁>に特集されています。JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531
E-mail:info@tokinowasuremono.com
営業時間=火曜~土曜の平日11時~19時。*日・月・祝日は休廊。
調査記録~舟越保武先生を訪ねたこと 注記
小松﨑拓男
やはり少し説明が必要だと思うので書いておこう。
「リリオムは名曲喫茶で、北川実がカウンターの中にいた。舟越先生は北川氏がマスターであったと思っていた。北川実は二科展に入選している。小才の効く人物。現在は知らないとのこと。」
茶房リリオムについてはよく知られている。太平洋画会研究所(のちの太平洋美術学校)の仲間たちと松本竣介が集った喫茶店である。舟越先生は、北川実をマスターだと思っていたが、店のマスターは中林政吉。リリオムを称して「穴」と言い、その中林氏を「穴のオヤヂ」と呼んでいたとある。件の北川実は画家であり、松本竣介ともこのリリオムで作品展を開いている。(注1)当時の美術雑誌を調べていた時に、二科展に入選した作品を図版で紹介している何点かのうちに、北川実の作品図版が載っていたのを見た記憶がある。詳しいことはもう一度調べ直さないとわからないのだが・・・。
「学内展以来の竣介の絵はがらりと画風が変わっており、ルオー風のものになっていた。」
松本竣介の画風が変わるのは1934年2月に開催された「福島コレクション展」で実際のルオーの作品に触れたのち、翌年1935年9月の二科展の初入選までの間であると考えられているので、舟越先生が立ち寄ったリリオムの小品展は、この1935年の10月もしくは12月に行われていたものだと思われる。
「2度目に東京であったのは、美校の3年になり、練馬に住んでいた時、池袋の裏を一人で歩き回っていた時、偶然大きな声で二階屋の窓から竣介に呼び止められた、その時は上がらず別れた。」
実はこの記述の内容に関しては、会ったことは事実だったと思われるが、その時期と場所についてはこの記述通りかわからない。舟越先生の東京美術学校卒業が1939年であるので、3年次であれば1937年。しかし、この前年の2月には松本竣介は、貞子夫人と結婚し、現在の新宿区中井に転居している。池袋の裏という記憶からすると、この新居ではないと思われ、池袋であるなら自由学園近くの借家で、この時も二階屋であったはずなので、結婚以前の話であったのではないかと思うが、そうすると3年次ということではないことになる。ただ今はもうこの詳細をすぐに確かめようがない。
「セルパン」や「コティ」、名前はしばしば聞くが今の私には詳細はわからない。村上善男の著作に何か紹介があったかもしれない。
「川徳ギャラリーは川徳デパートの催事場であった。額縁などはあったが、ガラスはなく、デッサンは台紙に貼ったままの形で展示した。」「展覧会の世話役で費用などを負担したのは洋服屋の畑山昇麓氏であった。小パトロン。しかし周りには作品を持って行ってしまうなど悪い印象を与えていた。しかし世話になる。絵は全く売れない時代に洋服代の代わりとして、絵を持って行った。この時の洋服代は絵よりはるかに高かった。」「舟越先生の目の前で油絵を描いたことはなかった。ただ盛岡で展覧会を開いた時に、お客の来ない暇なおり、二人で互いにデッサンし合ったことがあった。」
川徳ギャラリーは盛岡のギャラリーで1945年11月21日から26日まで松本竣介と舟越先生との二人展のことが開かれており、その時のことを語ったもの。敗戦から3ヶ月あまりの混乱期に開かれた展覧会であった。畑山昇麓については村上善男の『松本竣介と友人たち』(注2)に詳しい。松本竣介が描いた畠山昇麓の肖像画の素描もある。(図版1)また畠山のコレクションが神奈川県立近代美術館に収められる経緯についての記述もある。そこには当時神奈川県立近代美術館の学芸員だった朝日晃氏と思われる人物とのやりとりが紹介されている。
図版1 松本竣介「畠山君二日酔の図」「岐阜の展覧会の折、理由は不明なのだが、作品が行方不明になっている。」
砂賀光一が企画した松本竣介、舟越保武、麻生三郎の3人展のことで、岐阜で1947年10月に開催されている。砂賀光一に関しては、やはり村上善男の前述の著作に記述がある。(注3)
「アトリエ内は非常にきちんと整理整頓されていた。」「絵描きではなかったので割に気楽にアトリエに入れてもらえたのではないか。」
大川美術館に再現されたアトリエを見れば整理整頓されていたことは一目瞭然ではあろう。また、アトリエに気軽に入れたことについての感想も舟越先生らしい印象を与える。
「藤田嗣治の地塗りは乾きやすく、直ぐに描ける。藤田のモデルをしていた澤田哲郎にスパイをさせた(?)というような話をしていた位、絵具の質に関する研究には詳しかった。」
澤田哲郎についても前掲の村上善男の本に人物についての記述がある。(注4)
昨今はオーラルヒストリーの重要性が言われるようになったが、この当時はあまり重視されていなかったような気がする。多少失礼なことであったとしても、あの時、写真や録音を撮っておくべきだったかもしれない。一切そうした資料はない。
それにしても資料の整理を含めて、中断してしまった研究の再開がこれほど難しいとは思わなかった。(図版2)集めた資料が埋もれ、時間軸がまだら模様になり、記憶が錯綜し、ほとんど最初からやり直さざるを得ず、なんとももどかしい。若い研究を志す人たちには、どんな困難があっても、自身の研究は日々続けることを勧めたい。研究リハビリは思った以上に厳しいのだ。
図版2 大学院時代に提出した修士論文のコピー注1 和田浩一・柳原一徳編「事項解説」『松本竣介展 生誕100年』NHKプラネット東北NHKプロモーション 2012年pp.359~360
注2 村上善男「盛岡小鷹」『松本竣介とその友人たち』新潮社 1987年 pp.59~72
注3 同上「花巻川口町」pp.27~58
注4 同上「中野新井町」pp.73~111
(こまつざき たくお)
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■小松﨑拓男 Takuo KOMATSUZAKI
千葉県生まれ。横浜そごう美術館、郡山市美術館準備室、平塚市美術館の主任学芸員を経て、NTTインターコミュニケーション・センター[ICC]学芸課長、広島市現代美術館学芸課長、副館長を歴任後、金沢美術工芸大学教授を2019年まで務める。現在、美術評論家連盟会員、文教大学情報学部非常勤講師として「美術」「サブカルチャー論」担当。
キュレーター時代には絵画をはじめとしてメディア・アートなど先端領域を含めた幅広い分野で近現代美術の展覧会を企画。村上隆、奈良美智、会田誠などを公立美術館で初めて本格的に紹介した。
主な展覧会に「TOKYO POP」(平塚市美術館)「New Media New Face / New York」(NTTインターコミュニケーション・センター[ICC])「絵画新世紀」「サイバー・アジア」(広島市現代美術館)「エコメトロ」(光州ビエンナーレ)などがある。
●本日のお勧め作品は光嶋裕介です。
光嶋裕介 Yusuke KOSHIMA"幻想都市風景2020-02"
※画像をクリックすると拡大します。
2020年
和紙にインク、箔画
61.0x41.0cm
サインあり
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※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください。
*画廊亭主敬白
臨時休廊(在宅勤務)37日目
亭主が学生時代を過ごした寮の後輩がコロナウイルス感染により亡くなりました。死に目にも会えなかったご家族の無念、切なさを思うと心がいたみます。明日は我が身と思わざるを得ません。
5月から夏にかけて在米の宮森敬子さん、スイス在住の杉山幸一郎さんのそれぞれ新作個展を開催する予定で随分と前から準備してきました。それが帰国すらできない状況になり、残念ですが延期いたしました(会期未定)。
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◎昨日読まれたブログ(archive)/2018年05月27日|大谷省吾「松本竣介の素描について」
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皆さんのプロフィールは奇数日の執筆者は4月21日に、偶数日の執筆者は4月24日にご紹介しています。
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