佐藤研吾のエッセイ「大地について―インドから建築を考える―」第42回



 ラビンドラナート・タゴール(1861-1941)が1901年に学校を創設したシャンティニケタンに関する歴史を眺めてみるには、彼の父親・デベンドラナート・タゴール(1817-1905)が活動した19世紀後半から見ていかなければいけない。以下、断片的にではあるが、現状の研究ノートとして書き記す。シャンティニケタン成立期の、あの荒涼とした風景を眺めたときのその視野をいくらか広げ、深めてみたいと思う。

 19世紀、タゴール家はバラモンの一つであり、大土地所有者(大ザミンダール)としての保守的な社会階層に位置していた。(※1)デベンドラナート・タゴールは、そうした安定的な地所経営を基盤として、宗教的内面の探求に向かった。1928年に近代インドの父ともいわれるラムモホン・ラエが創設した、近代ベンガルにおける宗教・社会変革運動の発端とされるブラフモ・サマージに入会したのが1943年である。19世紀半ばは、インドへのイギリスによる植民地支配が確立された時期にあたる。1957年セポイの乱と呼ばれる、植民地支配に抵抗した反乱が勃発するが、インドは制圧されて東インド会社からイギリス政府による直轄的統治へと移行した。そうした中で、デベンドラナートは自身の宗教活動を社会変革への渦へと向かわせず、自己の内面的探求、求道者としての道を進んだ。

202007佐藤研吾_1デベンドラナート・タゴール

 1961年、デベンドラナートはビルブム地区の土地所有者(ザミンダール)ブハンモハン・シンハからの誘いでボルプール駅郊外のある、当時はライプールとよばれたある荒涼な土地を訪れた。デベンドラナートはその土地を気に入り、自らの内的探求の場所としてふさわしいと考え、しばしばブハンモハンの地を訪れ、その乾燥した荒れ地に肥沃な土を持ち込んで緑地を作ったり、平屋の家を建てて居場所としていた。そして1963年、デベンドラナートはその土地をブハンモハン・シンハから購入した。当時の地権証書によれば、彼が購入した土地は、広さが27,000平米あり、彼が建てた一つの家が含まれていたことがわかる。(※2)当時、その家は「シャンティニケタン」という名前が付けられていた。"平和の館"という意味であり、言うまでもなく、将来この土地が今後「シャンティニケタン」という名前がついた由来である。

202007佐藤研吾_2シャンティニケタン・グリホ。(Das Sumit (2012) Architecture of Santiniketan: Tagore's Concept of Space, Niyogi Books.)

 デベンドラナートはその後もシャンティニケタンに足を運び、多くの時間を過ごした。当初は平屋であった家を2階建に増築し(1888年頃)、周囲にマンゴー、ブラックベリー、グアバといった様々な木々を植えて庭園をつくり、ブラフモ・サマージの修道所(=アシュラム)、瞑想の場をしつらえていった。静寂を求め、自然環境を自ら整えて調和を図りながら精神生活を送る。デベンドラナートによるそうした思索探求こそが、後の彼の息子ラビンドラナートが始めることになるシャンティニケタンの学校の基底を作り出し、今に至る深淵な学園都市の風景を生んだと言えるだろう。
 ラビンドラナートは1873年に初めてシャンティニケタンの地を訪れる。11歳のことである。後年、当時を回想して書かれた彼のエッセーを記す。未知への魅力に躍る少年の姿が飛び込んでくる。

 汽車は急いで走り、広い野原とそのふちの青緑色の木々、そして木陰に横たわる村人たちは、おびただしい蜃気楼のように消え去っていく映像の流れの中を、飛ぶように過ぎていった。私たちがボルプールに着いたのは夕方であった。輿に乗りこむと私は目を閉じた。朝の光の中で目覚めた瞳の前に広がるすばらしい光景を、すべて記憶にとどめたかったのだ。夕闇のぼんやりした状態をちらとでも見てしまうことで、この体験のすがすがしさがだめになることを私は恐れていた。
 夜明けに目覚め、外に歩み出たとき、私の心臓は感動に震えていた。先輩はボルプールは世界中どこにも見出せない一つの特色を持っていると語っていた。それは本館から召使い部屋へ通ずる道のことで、何にもおおわれていないのに、そこを通っていく人はたいようの光や雨の滴にふれることはないのだという。わたしはこのすばらしい道を捜しに出かけたのだけれど、今日に至るまで見つけられずにいることを、読者はおそらく不思議には思わないだろう。
 私は都会育ちだったので、かつて水田を見たことがなかった。そして想像の画布の上に、本で読んだことのある魅惑的な牛飼いの少年の肖像画をもっていた。私はサティヤから、ボルプールの家は実った稲の原で囲まれていて、そこで牛飼いの少年たちと遊ぶことは日常茶飯事で、中でも稲をとって料理して食べることは最高の呼びものなのだと聞かされていた。私は熱心に見まわしてみた。けれどどこが、ああ、そのいたるところ不毛の荒地のどこが水田なのか?牛飼いの少年たちはどこかにいたかもしれないが、どっやって他の少年たちと見分けたらいいのか、それが問題だった!
 私はまだほんの子供だったにも拘らず、父は私のさすらいにどんな拘束も加えなかった。砂土のくぼみに雨水が深いみぞを作っていた。赤砂利や色々な形の小石でいっぱいのミニチュアの山々が連なり、その間をごく小さな小川が流れていて、リリパット国の地形を現していた。この地域からたくさんの珍しい石のかけらを集めて上着にくるみ、その収集物を父のところへ持っていった。父は私の仕事を決して軽んじたりはしなかった。それどころか父はだんだん熱狂的になってきた。
「すばらしい! こんなにたくさんいったいどこで手に入れたんだい?」と父は叫んだ。
「もっともっとたくさんあるんだよ、何千も何万もさ!」私の心ははずんでいた。「毎日、同じくらいたくさん持ってこられるよ」
「それはすばらしいな!どうしてわたしの丘をそれで飾らないんだい?」と父は言った。
 庭にため池を掘ろうとしたことがあったが、底の方の水があまりに少なかったので、掘り上げた土を小山に積み上げたまま中途で断念したため、未完成のままになっていた。父はいつも朝の祈りのために、その小山の上に坐った。そして彼が走ると、真正面のはるか東の地平線に広がる波状のふちに太陽が昇るのだった。これが、父が飾るように頼んだ丘だった。

(※3)

(※1)白田雅之「ベンガル近代史におけるタゴール家の位相」『近代ベンガルにおけるナショナリズムと聖性』、東海大学出版会、2013年10月。
(※2)Swati Ghosh, Ashok Sirkar. KABIR PATHSHALA PATHABHAVAN O SIKSHASATRER ITIHAS, Signet Press, Kolkata, 2015.
(※3)ラビンドラナートタゴール、山室静訳「わが回想」『タゴール著作集 第十巻 自伝・回想・旅行記』第三文明社、1987年3月、68-70頁。
さとう けんご

佐藤研吾(さとう けんご)
1989年神奈川県横浜生まれ。2011年東京大学工学部建築学科卒業。2013年早稲田大学大学院建築学専攻修士課程(石山修武研究室)修了。同専攻嘱託研究員を経て、2014年よりスタジオGAYA。2015年よりインドのVadodara Design AcademyのAssistant Professor、および東京大学工学系研究科建築学専攻博士課程在籍。福島・大玉村で藍染の活動をする「歓藍社」所属。インドでデザインワークショップ「In-Field Studio」を主宰。「一般社団法人コロガロウ」設立。
現在、福島県大玉村教育委員会地域おこし協力隊。

◆佐藤研吾のエッセイ「大地について―インドから建築を考える―」は毎月7日の更新です。

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