中尾美穂「ときの忘れものの本棚から」第2回
瑛九と池田満寿夫
『第28回 瑛九展』図録
会期=2019年3月27日(水)~31日(日)
(ART BASEL HONG KONG 2019)
2019年 25.7×17.2㎝ 36P
執筆:大谷省吾(東京国立近代美術館美術課長)
発行:ときの忘れもの
瑛九にあって池田満寿夫にないのは「透光」ではないかと、前々から考えていた。瑛九は背後に微かな、あるときは力強い光源の存在を感じさせながら、ひとつひとつ内部から発光しているような色を持っている。池田はそのような神秘的な色彩を描かなかった。と、言い切れないまでも、池田の表現は子供が一色で太陽や空を塗るのに似てもっと明朗である。両者の油彩や水彩を観るたびに次元の異なる詩情という印象を受けた。
22歳~25歳ごろの池田は瑛九の作品群を何度も真似ていた。たとえば『第28回瑛九展』カタログ(ときの忘れもの、2019)掲載の油彩《Flowers》《Yellow morning》の、魚のエイを連想させる形やオレンジ、黒、赤、黄、青を基調にした点描などだ。杉田正臣『父/暁天/瑛九抄』(鉱脈社、2000)のカバーに使われた水彩《明るい森の中》(瑛九、1958年)と似た水彩画もある。もっともクレーやシャガール風もあれば、瑛九の周辺作家との類似点も認められるから、彼らや支援者たちの共通理念がこのような絵画を推奨していたとみるべきだろう。気になるのはまだ軸の定まらない池田を色彩銅版画へ、抽象から具象へと導いた瑛九との緊張関係で、それに抗いながらの模倣だったことだ。池田は瑛九の死後、長い文章をこの関係にあてている。
『父/暁天/瑛九抄』(みやざき21世紀文庫)
2000年 19.5x13.8cm 400P
著者:杉田正臣
出版社:鉱脈社
瑛九と池田がはじめて出会ったのは1955年から1956年にかけてである。1955年4月に靉嘔、真鍋博、堀内康司と結成したグループ「実在者」が注目されたものの、似顔絵書きや臨時の新聞社のカットがわずかな収入という極貧生活だった。下宿先の二人姉妹の姉、大島麗子と入籍して数か月が過ぎ、義妹と実母からの援助に頼っていた。同郷の画家、岡澤喜美雄らとの「ニッポン展」出品や、ちょうどこのころ創作した新聞社用(不掲載)「セロ弾きのゴーシュ」翻案などをみると、この境遇を特別悲観してはいなかったように思える。だが「息切れのような空白の季節」「なにものかに負い目を感じ自分が極度に衰弱していくような気分」の状態で瑛九、久保貞次郎に引き込まれていく。
はじめて瑛九宅を訪れた日については次のように記されている。
「蕨の友人のところへアイ・オーたちと行った時、浦和に瑛九が住んでいるから、これから尋(原文ママ)ねてみようとさそわれたからだった。それまでアイ・オーの口からしばしば瑛九の伝説について聞かされていたのだが、特に熱心に心をうばわれるほどの関心を持ったわけでもなかった。その夜の最初の訪問も、ただがやがやと喋っただけで、格別の印象を受けなかった。しかしこの不意の青年たちの訪問に対して瑛九の応対ぶりが非常に丁寧で、しかもくったくがなく、対等に応じてくれたのが心に残った」。
1956年7月1日~7日に櫟画廊で開かれた「よい絵を安く売る会」で久保にも紹介され、次いで8月5日~10日、郷里近くでの「第5回創造美育全国セミナール」に参加。エッチング講習会で瑛九の助手を務め、同月18日~23日には瑛九、靉嘔、泉茂、加藤正、磯辺行久、吉原英雄らが参加する「デモクラート美術家協会」会員になり、村松画廊での第6回展に急遽出品する。さらに10月、瑛九の推薦文入りで色彩銅版画集「池田満寿夫エッチング集」(私家版)を刊行し、彼の勧めで瀧口修造に贈呈。この間、わずか3カ月である。瑛九によれば、
「産バ役の僕は似顔エをこれにかえさせるために、ずいぶん骨折りました。 彼は實に素朴なのでこの画集の成功如何で彼の画家としての考え方が変化することと思ひます」。
その思いは先輩作家にしては強引にすぎ、啓蒙家の顔がのぞく。清貧の瑛九からの“売れなかったら全部買ってやる”という提案が「少々滑稽だったが心に迫る迫力」と池田も書いている。ともかく翌1957年1月、瀧口が企画するタケミヤ画廊の「第3回銅版画展」出品、6月の「第1回東京国際版画ビエンナーレ展」入選に至る。
「瑛九と深いつながりができた頃でも私は傲慢さを保ち続け、尊敬のため自分が全体的に瑛九に傾倒していく恐ろしい力に抗し続けていた。瑛九の方でも私が彼の作品をなかなか認めたがらないのを知っていて、それを面白がっていた」。
そして1959年5月、瑛九から言い渡される。
「昨日あった池田君は その大家かぶれのケベツをもって国際展の話をしました。 僕は今日国際展をみて まったく逆なのにおどろいています。 僕はことごとく池田君のような友人とさえ最近スポーツからレンアイにいたるまで意見が一致するといふことがありません。
僕はだから何のために これだけ意見が違うのに僕をホウモンするのかといふ手紙を書き 酒をのむための ホウモンは以後 おことわりのムネかいてやりました」。
国際展とは5月12日~17日開催「世界の中の抽象―イタリア・日本美術展」(日本橋白木屋)だろうか。もともと池田をけしかけていたのは瑛九の方である。このころ瑛九が専念していた抽象の大作の凄みに池田が気づかないわけもない。だがおそらく絶交状態のまま、瑛九は10月末から病床に伏し、翌1960年1月に再入院後、3月に死去。池田は同年11月に「第2回東京国際ビエンナーレ展」で文部大臣賞を受賞し、日本現代版画界のホープに躍り出た。池田は「(もし瑛九が生きていたら)絵が売れすぎて不幸な奴だというかもしれない」「いやそういいながらも瑛九が私の成功を一番喜んでくれるだろう」と書いたが、むしろ瑛九が評価したエッチングを超え、自らドライポイントで飛躍を遂げたのを喜んだだろう。
ともかく池田は瑛九の「視覚体験の純粋化とでもいうべきもの」を熟視していた数少ない作家である。晩年の制作について詳細な文章を残さなかったのは、無理からぬことと思いながらも残念である。
(なかお みほ)
出典:
『瑛九からの手紙』瑛九美術館、2000年
池田満寿夫『私の調書・私の技法』美術出版社、1976年
大谷省吾「瑛九―光の探求者」『第28回瑛九展』ときの忘れもの、2019年
■中尾美穂
1965年 長野市生まれ。
1997年から2017年まで池田満寿夫美術館学芸員。
池田満寿夫研究をライフワークとする中尾美穂さんの連載エッセイ「ときの忘れものの本棚から」は奇数月の19日に掲載します。
次回は9月19日の予定です。
●本日のお勧め作品は宇田義久です。
宇田義久 Yoshihisa UDA
"bamboo-blind 04 (red)"
2004年
木綿布、木綿糸、アクリル絵具、アクリルメディウム、パネル
27.5×27.5×4.0cm
裏面にサインあり
こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください。
◆「没後60年 第29回瑛九展」の折に制作した動画・第一部と第二部はYouTubeでご覧になれます。
特別寄稿・大谷省吾さんの「ウェブ上で見る瑛九晩年の点描作品」も併せてお読みください。
今まで研究者やコレクターの皆さんが執筆して下さったエッセイや、瑛九情報は2020年5月18日のブログ「81日間<瑛九情報!>総目次(増補再録)」にまとめて紹介しています。
●ときの忘れものは青山から〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました。
阿部勤設計の新しい空間はWEBマガジン<コラージ2017年12月号18~24頁>に特集されています。JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531
E-mail:info@tokinowasuremono.com
営業時間=火曜~土曜の平日11時~19時。*日・月・祝日は休廊。
瑛九と池田満寿夫
『第28回 瑛九展』図録会期=2019年3月27日(水)~31日(日)
(ART BASEL HONG KONG 2019)
2019年 25.7×17.2㎝ 36P
執筆:大谷省吾(東京国立近代美術館美術課長)
発行:ときの忘れもの
瑛九にあって池田満寿夫にないのは「透光」ではないかと、前々から考えていた。瑛九は背後に微かな、あるときは力強い光源の存在を感じさせながら、ひとつひとつ内部から発光しているような色を持っている。池田はそのような神秘的な色彩を描かなかった。と、言い切れないまでも、池田の表現は子供が一色で太陽や空を塗るのに似てもっと明朗である。両者の油彩や水彩を観るたびに次元の異なる詩情という印象を受けた。
22歳~25歳ごろの池田は瑛九の作品群を何度も真似ていた。たとえば『第28回瑛九展』カタログ(ときの忘れもの、2019)掲載の油彩《Flowers》《Yellow morning》の、魚のエイを連想させる形やオレンジ、黒、赤、黄、青を基調にした点描などだ。杉田正臣『父/暁天/瑛九抄』(鉱脈社、2000)のカバーに使われた水彩《明るい森の中》(瑛九、1958年)と似た水彩画もある。もっともクレーやシャガール風もあれば、瑛九の周辺作家との類似点も認められるから、彼らや支援者たちの共通理念がこのような絵画を推奨していたとみるべきだろう。気になるのはまだ軸の定まらない池田を色彩銅版画へ、抽象から具象へと導いた瑛九との緊張関係で、それに抗いながらの模倣だったことだ。池田は瑛九の死後、長い文章をこの関係にあてている。
『父/暁天/瑛九抄』(みやざき21世紀文庫)2000年 19.5x13.8cm 400P
著者:杉田正臣
出版社:鉱脈社
瑛九と池田がはじめて出会ったのは1955年から1956年にかけてである。1955年4月に靉嘔、真鍋博、堀内康司と結成したグループ「実在者」が注目されたものの、似顔絵書きや臨時の新聞社のカットがわずかな収入という極貧生活だった。下宿先の二人姉妹の姉、大島麗子と入籍して数か月が過ぎ、義妹と実母からの援助に頼っていた。同郷の画家、岡澤喜美雄らとの「ニッポン展」出品や、ちょうどこのころ創作した新聞社用(不掲載)「セロ弾きのゴーシュ」翻案などをみると、この境遇を特別悲観してはいなかったように思える。だが「息切れのような空白の季節」「なにものかに負い目を感じ自分が極度に衰弱していくような気分」の状態で瑛九、久保貞次郎に引き込まれていく。
はじめて瑛九宅を訪れた日については次のように記されている。
「蕨の友人のところへアイ・オーたちと行った時、浦和に瑛九が住んでいるから、これから尋(原文ママ)ねてみようとさそわれたからだった。それまでアイ・オーの口からしばしば瑛九の伝説について聞かされていたのだが、特に熱心に心をうばわれるほどの関心を持ったわけでもなかった。その夜の最初の訪問も、ただがやがやと喋っただけで、格別の印象を受けなかった。しかしこの不意の青年たちの訪問に対して瑛九の応対ぶりが非常に丁寧で、しかもくったくがなく、対等に応じてくれたのが心に残った」。
1956年7月1日~7日に櫟画廊で開かれた「よい絵を安く売る会」で久保にも紹介され、次いで8月5日~10日、郷里近くでの「第5回創造美育全国セミナール」に参加。エッチング講習会で瑛九の助手を務め、同月18日~23日には瑛九、靉嘔、泉茂、加藤正、磯辺行久、吉原英雄らが参加する「デモクラート美術家協会」会員になり、村松画廊での第6回展に急遽出品する。さらに10月、瑛九の推薦文入りで色彩銅版画集「池田満寿夫エッチング集」(私家版)を刊行し、彼の勧めで瀧口修造に贈呈。この間、わずか3カ月である。瑛九によれば、
「産バ役の僕は似顔エをこれにかえさせるために、ずいぶん骨折りました。 彼は實に素朴なのでこの画集の成功如何で彼の画家としての考え方が変化することと思ひます」。
その思いは先輩作家にしては強引にすぎ、啓蒙家の顔がのぞく。清貧の瑛九からの“売れなかったら全部買ってやる”という提案が「少々滑稽だったが心に迫る迫力」と池田も書いている。ともかく翌1957年1月、瀧口が企画するタケミヤ画廊の「第3回銅版画展」出品、6月の「第1回東京国際版画ビエンナーレ展」入選に至る。
「瑛九と深いつながりができた頃でも私は傲慢さを保ち続け、尊敬のため自分が全体的に瑛九に傾倒していく恐ろしい力に抗し続けていた。瑛九の方でも私が彼の作品をなかなか認めたがらないのを知っていて、それを面白がっていた」。
そして1959年5月、瑛九から言い渡される。
「昨日あった池田君は その大家かぶれのケベツをもって国際展の話をしました。 僕は今日国際展をみて まったく逆なのにおどろいています。 僕はことごとく池田君のような友人とさえ最近スポーツからレンアイにいたるまで意見が一致するといふことがありません。
僕はだから何のために これだけ意見が違うのに僕をホウモンするのかといふ手紙を書き 酒をのむための ホウモンは以後 おことわりのムネかいてやりました」。
国際展とは5月12日~17日開催「世界の中の抽象―イタリア・日本美術展」(日本橋白木屋)だろうか。もともと池田をけしかけていたのは瑛九の方である。このころ瑛九が専念していた抽象の大作の凄みに池田が気づかないわけもない。だがおそらく絶交状態のまま、瑛九は10月末から病床に伏し、翌1960年1月に再入院後、3月に死去。池田は同年11月に「第2回東京国際ビエンナーレ展」で文部大臣賞を受賞し、日本現代版画界のホープに躍り出た。池田は「(もし瑛九が生きていたら)絵が売れすぎて不幸な奴だというかもしれない」「いやそういいながらも瑛九が私の成功を一番喜んでくれるだろう」と書いたが、むしろ瑛九が評価したエッチングを超え、自らドライポイントで飛躍を遂げたのを喜んだだろう。
ともかく池田は瑛九の「視覚体験の純粋化とでもいうべきもの」を熟視していた数少ない作家である。晩年の制作について詳細な文章を残さなかったのは、無理からぬことと思いながらも残念である。
(なかお みほ)
出典:
『瑛九からの手紙』瑛九美術館、2000年
池田満寿夫『私の調書・私の技法』美術出版社、1976年
大谷省吾「瑛九―光の探求者」『第28回瑛九展』ときの忘れもの、2019年
■中尾美穂
1965年 長野市生まれ。
1997年から2017年まで池田満寿夫美術館学芸員。
池田満寿夫研究をライフワークとする中尾美穂さんの連載エッセイ「ときの忘れものの本棚から」は奇数月の19日に掲載します。次回は9月19日の予定です。
●本日のお勧め作品は宇田義久です。
宇田義久 Yoshihisa UDA"bamboo-blind 04 (red)"
2004年
木綿布、木綿糸、アクリル絵具、アクリルメディウム、パネル
27.5×27.5×4.0cm
裏面にサインあり
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◆「没後60年 第29回瑛九展」の折に制作した動画・第一部と第二部はYouTubeでご覧になれます。
特別寄稿・大谷省吾さんの「ウェブ上で見る瑛九晩年の点描作品」も併せてお読みください。
今まで研究者やコレクターの皆さんが執筆して下さったエッセイや、瑛九情報は2020年5月18日のブログ「81日間<瑛九情報!>総目次(増補再録)」にまとめて紹介しています。
●ときの忘れものは青山から〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました。
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