中村惠一のエッセイ「美術・北の国から」第11回

テンポラリースペースと中森敏夫

 目黒区美術館において「‘文化’資源としての<炭鉱>展」が2009年11月4日~12月27日に開催された。12月16日には夕張炭鉱をめぐるトークイベントがあって吉増剛造とともに中森敏夫が登壇した。話は、吉増の詩篇「石狩シーツ」のもとになる1994年の石狩川河口から夕張までの旅、そして夕張炭鉱での二重露光の写真の発見などに及んだ。思えば、大学を卒業した1982年から2009年の再会までの期間、年賀状を送ることはあっても中森の活動を知らず、中森が作り上げていたギャラリーという磁場を訪れてもいなかった。トークイベント終了後に目黒で一緒に食事をしたのだが、本当に懐かしかった。

2020-07_001中村恵一‘文化’資源としての<炭鉱>展カタログ

 そもそも中森敏夫との出会いはいつだったのだろうか。はっきりした記憶ではないのだが、1978年、当時18歳だった私は短歌評論家の菱川善夫によって組織された同人誌『陰画誌』の創刊同人となり、現代短歌北の会・新人賞受賞者たちとグループを作っていた。その年の秋、現代短歌シンポジウムが札幌で開催され私も参加したが、菱川は多くの詩人も会場に呼んでいたので、そうした席で出会ったのではないかと思う。当時の中森は札幌在住の詩人、笠井嗣夫や柴橋伴夫などと雑誌『熱月』(テルミドール)を発行していた。ここに短歌を書かせていただいているので、そうしたイベントの中で知り合っていたのだと思う。1979年に中森は代表である菱川善夫、美術評論の柴橋伴夫、イラストレーターの斎藤芳広とともに文化核「ゆいまある」を結成、さまざまな文化的な活動を開始している。中森は中森花器店という老舗花器店の社長でもあった。当時の私の下宿からそれほど遠くない場所に倉庫というかバックヤードがあって、店舗は駅前通りのビルのなかにあった。この倉庫からの配送の手伝いのアルバイトを頼まれたのが、深いつきあいとなるきっかけであった。花を活ける器を主に活花教室に届けにゆく。その配送の車に同乗して納品を行うのが私の仕事だった。このアルバイトを定期的に行ったのだが、途中から運転手は現代短歌・北の会の第一回新人賞受賞者で一緒に雑誌を始めた坪川光世に変わった。「ゆいまある」は1980年に中森企画によって「5つの個展―いけばなと建築―その原風景」展(札幌東急百貨店)を開催していた。卒業間際だったから81年後半か82年当初に中森花器店は北4条西27丁目に移転、そこにギャラリースペースを設けた。その第1回展のみを見ている。「鯉江良二・吉川正道・北村堅治3人展」で、常滑在住の作家たち3人の展覧会であった。その後、東京で北村堅治に出会い、今もつきあいが続いている。

2020-07_002中村恵一在りし日の中森花器店

2020-07_003中村恵一中森花器店のレジ袋 1897年創業の文字が

 中森花器店のギャラリーは2階にあった器のギャラリーのほか「テンポラリースペース」と名付けられたスペースも設け、いわゆる陶器展や美術展ばかりではなく、さまざまな文化的なイベントを行うようになっていったようだ。そして、それは文化核「ゆいまある」としての活動とも接続されている。1991年9月15日、舞踏家・大野一雄による「石狩の鼻曲がり」が行われた。もともとは同年2月28日に行われた吉増剛造写真展「アフンルパルへ」のトークイベントのためにギャラリーに来た大野一雄に、1989年に開催した「界川游行」について話をし、中森の石狩川河口への思いを告げたという。この思いが大野に通じて公演は実現した。ただしそのポスターには「石狩 みちゆき 大野一雄」とある。足利美術館で開催された吉増剛造展での展示もこの名前で紹介されていた記憶がある。当初から吉増との関係は深かったのだ。1994年の吉増の石狩川河口から夕張炭鉱までの旅(「みちゆき」なのかもしれない)はこうした接続から生まれていったのではないだろうか。

2020-07_004中村恵一「石狩の鼻曲がり」記録集(2002年 かりん舎)

 前述のように中森は1989年に「ART EVENT IN SAPPORO 1989 界川游行」というイベントを行っている。札幌は藻岩山などからの扇状地であり、元来水が豊富な土地である。北大の植物園や北海道庁の池、札幌駅近くの伊藤邸の庭には湧水があって北大の構内をながれる川の源流になっていた。一方、中森花器店のそばには界川という川が流れていたが、暗渠にされ道路に変わってしまった。この水脈へ思いを馳せたイベントが「界川游行」である。戸谷成雄、岡部昌生、國安孝昌、藤木正則、阿部典英などを参加アーティストとして開催されている。中森は以後も札幌の水への思いを持ち続けており、水脈を断つような高層ビル中心の札幌の都市構築に警鐘を鳴らしてきた。こうした問題意識をもった展覧会を独力で作り上げてゆく、意識の高いイベントのありかたこそが中森の真骨頂であるのだと思う。

2020-07_005中村恵一イベントの一例

 現在の中森は北4条西27丁目にあった中森花器店をたたみ、新たな活動の場として北16条西5丁目にテンポラリースペースを運営している。北大医学部に近い立地にたつ古い民家を改造したギャラリースペースだ。2006年5月16日に開設、今も北大そばで展覧会を開催し続けている。札幌に出張があった時に時間をみつけて伺うのがせいいっぱいであったが、運よく吉増剛造の展覧会などを見ることができた。このスペースから多くの若い才能が育っていると聞く。これからもエッジの効いた展覧会を見せる磁力をもった「場」であり続けてほしい。
 
2020-07_006中村恵一テンポラリースペースの外観
なかむら けいいち

中村惠一(なかむら けいいち)
北海道大学生時代に札幌NDA画廊で一原有徳に出会い美術に興味をもつ。一原のモノタイプ版画作品を購入しコレクションが始まった。元具体の嶋本昭三の著書によりメールアートというムーブメントを知り、ネットワークに参加。コラージュ作品、視覚詩作品、海外のアーティストとのコラボレーション作品を主に制作する。一方、新宿・落合地域の主に戦前の文化史に興味をもち研究を続け、それをエッセイにして発表している。また最近では新興写真や主観主義写真の研究を行っている。
・略歴
1960年 愛知県岡崎市生まれ
1978年 菱川善夫と出会い短歌雑誌『陰画誌』に創刊同人として参加
1982年 札幌ギャラリー・ユリイカで個展を開催
1994年 メールアートを開始
1997年 “Visual Poesy of Japan”展参加(ドイツ・ハンブルグほか)
1999年 「日独ビジュアルポエトリー展」参加(北上市・現代詩歌文学館)
2000年 フランスのPierre Garnierとの日仏共作詩”Hai-Kai,un cahier D’ecolier”刊行
2002年 “JAPANESE VISUAL POETRY”展に参加(オーストリア大使館)
2008年 “Mapping Correspondence”展参加(ニューヨークThe Center for Book Arts)
2009年 “5th International Artist’s Book Triennial Vilnius2009”展に参加(リトアニア)
2012年 “The Future” Mail Art展企画開催(藤沢市 アトリエ・キリギリス)
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●本日のお勧め作品は、尾崎森平です。
ozaki-03尾崎森平 Shinpey OZAKI
《苦闘するアポローン/愛の歌》
2019年
アクリル、キャンバス、パネル
サイズ:61.0×61.0×4.5cm
サインあり
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●ときの忘れものは青山から〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました。
阿部勤設計の新しい空間はWEBマガジン<コラージ2017年12月号18~24頁>に特集されています。JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531 
E-mail:info@tokinowasuremono.com 
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