佐藤研吾のエッセイ「大地について―インドから建築を考える―」第43回
ガラスと鉄の寺
ベンガルの一般的な家、建物は多くが鉄筋コンクリートで柱梁できていて、壁はレンガが積まれてできている。古い形式のものであれば、大きな珪化木(fossilized wood)を地面に並べてその上に土をだんだんと積んでいき壁を作り、上に竹を渡して藁を葺いて屋根を作るような家がある。こうした家は現在はサンタル(Santal)という先住民の人々が住む村で見かけられるのみだが、すこし前に遡ればごくごく一般的な家の形式であった。
デベンドラナート、ラビンドラナート、そしてラティンドラナートと続く、タゴール家3世代によって作られたシャンティニケタンの地に散在する建物群は様々な姿形をしている。それは都市・カルカッタから持ち込まれた建物の形式もあれば、先に述べたような農村地域で一般的だった土壁の建物もあった。意匠的にはどれ一つとして同じ姿のものはなく、それぞれの建物の建設において関わった人々による様々な工夫と実験がなされていた。しかしラビンドラナート自身も、学校には限られた予算しかなかった、といった回想を残してもいるように、そうした実験的な意匠は、いくらか限られた予算の中で取り組まれていたのであった。物資の調達も決して容易ではない農村での、彼らの学校構築の活動は、いわば限定性の内実こそに創作の可能性を見出すトライアルであったとも言える。
シャンティニケタンの中心部に、庭園と呼ぶべき構成的なパターンで配置された植栽によって囲まれたある印象的な建物がある。印象的と書いたのはその建物がシャンティニケタンはもちろん、周辺農村に存在する他のどの建物とも異なる姿をしているからだ。 それはユーパサーナ・グリハ(Upasana Griha)、あるいはマンディル(mandir)と呼ばれる礼拝堂である。構造は鋳鉄を用いた鉄骨造で、6.5m×11.2mの平面形の平屋の建物で、一回り大きな大理石の基壇に据えられ、建物の全面が装飾的な多色の色ガラスで覆われている。
(外観(20世紀前半と思われる)。Rabindra Bhavana Archiveより。)
このガラス建築、ユーパサーナ・グリハは1891年12月、デベンドラナート・タゴールによって建てられた。前回の投稿で触れたように、デベンドラナートが一つの館、シャンティニケタン・グリハ(Santiniketan Griha)を建て、周辺の広大な土地を購入したことからシャンティニケタンという場所が始まったのであるが、彼の目的は宗教的な内的探求を実践することであった。シャンティニケタン・グリハは彼や彼の家族らが滞在する生活空間であり、また信者たちが瞑想と礼拝を行うためのアシュラム=修道場としても使われていた。したがって次第に手狭になり、新たな修道場が必要とされ、ユーパサーナ・グリハが生まれたのであった。
ユーパサーナ・グリハはシャンティニケタン・グリハから50mほど北のところに在る。シャンティニケタン・グリハは北面に玄関を向けているので、ユーパサーナ・グリハはシャンティニケタン・グリハへ向かうアプローチの途中に設けられたと考えられる。ユーパサーナ・グリハは東西南北の四方からアプローチができるように基壇にそれぞれ階段が設けられているが、西側にはパーゴラ状のあずま屋が付設されている。アルナンド・ベナルジーの研究によれば、デベンドラナートは日没の際にこのユーパサーナ・グリハに居ることを望み、また当時のシャンティニケタンの大地が何も妨げるものが無かったように、この建築も光を妨げることなく内部に取り込もうと、ガラスを使用した、とされる。(※1)
(ユーパサーナ・グリハの内部。Rabindra Bhavana 調査報告資料より。)
(ユーパサーナ・グリハの平面図。Rabindra Bhavana 調査報告資料より。)
また、ユーパサーナ・グリハの構造である鉄の柱はカルカッタの工場で鋳造制作され、部材がシャンティニケタンまで運ばれ組み立てるというプレファブリケーションの手法が用いられていたことも特筆できる。この建築は制作開始からわずか1年ほどの1891年に完成した。制作を担当したのはSikdar Companyというカルカッタの企業で、当時の金額で15,000ルピーの費用がかかったとされている。インドでは19世紀初頭から全国的に鉄道整備が行われ、イギリスからの鉄鋼技術の流入はかなり早い段階からあったとはいえ、こうした小建築に用いられるのは当時においてはかなり先進な取り組みであったのではないだろうか。
こうしたデベンドラナートによる洗練された空間表現、拠点の充実が、20世紀に入ってからの息子ラビンドラナートの学校作りに引き継がれることになる。
(Cadastral Maps (CS maps。英領期1888-1940年間にベンガル地方政府によって測量・作成された地籍図)にメモ書き。)
(※1)Banerjee Arunendu, Santiniketan Build Environment And Rabindranath, Kolkata: Visva-Bharati Bibliography, 2000, p.26.
(さとう けんご)
■佐藤研吾(さとう けんご)
1989年神奈川県横浜生まれ。2011年東京大学工学部建築学科卒業。2013年早稲田大学大学院建築学専攻修士課程(石山修武研究室)修了。同専攻嘱託研究員を経て、2014年よりスタジオGAYA。2015年よりインドのVadodara Design AcademyのAssistant Professor、および東京大学工学系研究科建築学専攻博士課程在籍。福島・大玉村で藍染の活動をする「歓藍社」所属。インドでデザインワークショップ「In-Field Studio」を主宰。「一般社団法人コロガロウ」設立。
現在、福島県大玉村教育委員会地域おこし協力隊。
◆佐藤研吾のエッセイ「大地について―インドから建築を考える―」は毎月7日の更新です。
●本日のお勧め作品は石山修武です。
石山修武 Osamu ISHIYAMA
W162《鳥》
2004年 銅版(刷り:白井四子男)
15.0×20.0cm Ed.15
〈石山修武 銅版画集 荒れ地に満ちるものたち〉より
こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください。
◆「開廊25周年 第1回ときの忘れものエディション展―建築家たち」
会期=2020年7月21日[火]―8月8日[土]*日・月・祝日休廊、予約制/WEB展

ときの忘れものはおかげさまで開廊25周年を迎えることができました。展覧会の企画と版画の版元として活動してこれたことへの感謝をこめて、今までエディションした建築家(安藤忠雄、石山修武、磯崎新、光嶋裕介、六角鬼丈)の版画を展示し、動画を撮影、YouTubeに公開しました。
「開廊25周年 第1回ときの忘れものエディション展―建築家たち」の開催に際し、戸田 穣先生(昭和女子大学・環境デザイン学部環境デザイン学科 専任講師)に「建築家のドローイング」についてお話しいただきました。YouTubeときの忘れものチャンネルにて公開中です。
植田実先生と戸田穣先生の対談もYouTubeにて公開しました。
*古今東西の建築家のドローイングについてはジョヴァンニ・バティスタ・ピラネージからル・コルビュジエまで15人を論じたブログの八束はじめ・彦坂裕のリレー連載「建築家のドローイング」も併せてお読みください。
●ときの忘れものは青山から〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました。
阿部勤設計の新しい空間はWEBマガジン<コラージ2017年12月号18~24頁>に特集されています。JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531
E-mail:info@tokinowasuremono.com
営業時間=火曜~土曜の平日11時~19時。*日・月・祝日は休廊。
ガラスと鉄の寺
ベンガルの一般的な家、建物は多くが鉄筋コンクリートで柱梁できていて、壁はレンガが積まれてできている。古い形式のものであれば、大きな珪化木(fossilized wood)を地面に並べてその上に土をだんだんと積んでいき壁を作り、上に竹を渡して藁を葺いて屋根を作るような家がある。こうした家は現在はサンタル(Santal)という先住民の人々が住む村で見かけられるのみだが、すこし前に遡ればごくごく一般的な家の形式であった。
デベンドラナート、ラビンドラナート、そしてラティンドラナートと続く、タゴール家3世代によって作られたシャンティニケタンの地に散在する建物群は様々な姿形をしている。それは都市・カルカッタから持ち込まれた建物の形式もあれば、先に述べたような農村地域で一般的だった土壁の建物もあった。意匠的にはどれ一つとして同じ姿のものはなく、それぞれの建物の建設において関わった人々による様々な工夫と実験がなされていた。しかしラビンドラナート自身も、学校には限られた予算しかなかった、といった回想を残してもいるように、そうした実験的な意匠は、いくらか限られた予算の中で取り組まれていたのであった。物資の調達も決して容易ではない農村での、彼らの学校構築の活動は、いわば限定性の内実こそに創作の可能性を見出すトライアルであったとも言える。
シャンティニケタンの中心部に、庭園と呼ぶべき構成的なパターンで配置された植栽によって囲まれたある印象的な建物がある。印象的と書いたのはその建物がシャンティニケタンはもちろん、周辺農村に存在する他のどの建物とも異なる姿をしているからだ。 それはユーパサーナ・グリハ(Upasana Griha)、あるいはマンディル(mandir)と呼ばれる礼拝堂である。構造は鋳鉄を用いた鉄骨造で、6.5m×11.2mの平面形の平屋の建物で、一回り大きな大理石の基壇に据えられ、建物の全面が装飾的な多色の色ガラスで覆われている。
(外観(20世紀前半と思われる)。Rabindra Bhavana Archiveより。) このガラス建築、ユーパサーナ・グリハは1891年12月、デベンドラナート・タゴールによって建てられた。前回の投稿で触れたように、デベンドラナートが一つの館、シャンティニケタン・グリハ(Santiniketan Griha)を建て、周辺の広大な土地を購入したことからシャンティニケタンという場所が始まったのであるが、彼の目的は宗教的な内的探求を実践することであった。シャンティニケタン・グリハは彼や彼の家族らが滞在する生活空間であり、また信者たちが瞑想と礼拝を行うためのアシュラム=修道場としても使われていた。したがって次第に手狭になり、新たな修道場が必要とされ、ユーパサーナ・グリハが生まれたのであった。
ユーパサーナ・グリハはシャンティニケタン・グリハから50mほど北のところに在る。シャンティニケタン・グリハは北面に玄関を向けているので、ユーパサーナ・グリハはシャンティニケタン・グリハへ向かうアプローチの途中に設けられたと考えられる。ユーパサーナ・グリハは東西南北の四方からアプローチができるように基壇にそれぞれ階段が設けられているが、西側にはパーゴラ状のあずま屋が付設されている。アルナンド・ベナルジーの研究によれば、デベンドラナートは日没の際にこのユーパサーナ・グリハに居ることを望み、また当時のシャンティニケタンの大地が何も妨げるものが無かったように、この建築も光を妨げることなく内部に取り込もうと、ガラスを使用した、とされる。(※1)
(ユーパサーナ・グリハの内部。Rabindra Bhavana 調査報告資料より。)
(ユーパサーナ・グリハの平面図。Rabindra Bhavana 調査報告資料より。) また、ユーパサーナ・グリハの構造である鉄の柱はカルカッタの工場で鋳造制作され、部材がシャンティニケタンまで運ばれ組み立てるというプレファブリケーションの手法が用いられていたことも特筆できる。この建築は制作開始からわずか1年ほどの1891年に完成した。制作を担当したのはSikdar Companyというカルカッタの企業で、当時の金額で15,000ルピーの費用がかかったとされている。インドでは19世紀初頭から全国的に鉄道整備が行われ、イギリスからの鉄鋼技術の流入はかなり早い段階からあったとはいえ、こうした小建築に用いられるのは当時においてはかなり先進な取り組みであったのではないだろうか。
こうしたデベンドラナートによる洗練された空間表現、拠点の充実が、20世紀に入ってからの息子ラビンドラナートの学校作りに引き継がれることになる。
(Cadastral Maps (CS maps。英領期1888-1940年間にベンガル地方政府によって測量・作成された地籍図)にメモ書き。) (※1)Banerjee Arunendu, Santiniketan Build Environment And Rabindranath, Kolkata: Visva-Bharati Bibliography, 2000, p.26.
(さとう けんご)
■佐藤研吾(さとう けんご)
1989年神奈川県横浜生まれ。2011年東京大学工学部建築学科卒業。2013年早稲田大学大学院建築学専攻修士課程(石山修武研究室)修了。同専攻嘱託研究員を経て、2014年よりスタジオGAYA。2015年よりインドのVadodara Design AcademyのAssistant Professor、および東京大学工学系研究科建築学専攻博士課程在籍。福島・大玉村で藍染の活動をする「歓藍社」所属。インドでデザインワークショップ「In-Field Studio」を主宰。「一般社団法人コロガロウ」設立。
現在、福島県大玉村教育委員会地域おこし協力隊。
◆佐藤研吾のエッセイ「大地について―インドから建築を考える―」は毎月7日の更新です。
●本日のお勧め作品は石山修武です。
石山修武 Osamu ISHIYAMAW162《鳥》
2004年 銅版(刷り:白井四子男)
15.0×20.0cm Ed.15
〈石山修武 銅版画集 荒れ地に満ちるものたち〉より
こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください。
◆「開廊25周年 第1回ときの忘れものエディション展―建築家たち」
会期=2020年7月21日[火]―8月8日[土]*日・月・祝日休廊、予約制/WEB展

ときの忘れものはおかげさまで開廊25周年を迎えることができました。展覧会の企画と版画の版元として活動してこれたことへの感謝をこめて、今までエディションした建築家(安藤忠雄、石山修武、磯崎新、光嶋裕介、六角鬼丈)の版画を展示し、動画を撮影、YouTubeに公開しました。
「開廊25周年 第1回ときの忘れものエディション展―建築家たち」の開催に際し、戸田 穣先生(昭和女子大学・環境デザイン学部環境デザイン学科 専任講師)に「建築家のドローイング」についてお話しいただきました。YouTubeときの忘れものチャンネルにて公開中です。
植田実先生と戸田穣先生の対談もYouTubeにて公開しました。
*古今東西の建築家のドローイングについてはジョヴァンニ・バティスタ・ピラネージからル・コルビュジエまで15人を論じたブログの八束はじめ・彦坂裕のリレー連載「建築家のドローイング」も併せてお読みください。
●ときの忘れものは青山から〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました。
阿部勤設計の新しい空間はWEBマガジン<コラージ2017年12月号18~24頁>に特集されています。JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531
E-mail:info@tokinowasuremono.com
営業時間=火曜~土曜の平日11時~19時。*日・月・祝日は休廊。
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