松本竣介研究ノート 第17回

戦意高揚ポスター


小松﨑拓男


 2020年8月15日付のネットの岩手日日新聞に「戦時中のポスター18点初公開 本県ゆかりの作家制作・岩手県立美術館」と題された記事が掲載されている。
 内容は、岩手県立美術館で開催されている展覧会の案内だが、そこには、松本竣介が描いた「戦意高揚ポスター」が5点展示されている旨が記され、展示室に展示された様子も写真で紹介されている。この写真には、日本画のように軸装に仕立てられた3点の水彩画とされる作品が並んでいる。
 さらに盛岡の知人からは岩手日報の2020年8月10日付の記事(図1)の切り抜きがメールで送られてきた。ここにも大きく松本竣介の作品が図版で掲載されている。

図1  2020年8月10日付『岩手日報』記事 図1
  2020年8月10日付『岩手日報』記事

 岩手県立美術館のホームページで確認すると出品されている作品は以下の通りだ。
 1)「感謝」1943年 水彩・鉛筆・コンテ、紙 61.3×75.6㎝
 2)「敵機は必ず来る 備へはできたか」1943年 同上 105.7×75.4㎝
 3)「背後はガッチリと」1943年 同上 61.1×75.6㎝
 4)「皇軍を支へる力」1943年 同上 水彩・墨・鉛筆・コンテ、紙 106.0×75.2㎝
 5)「征け大空へ」1943年 同上 水彩・鉛筆・コンテ、紙 105.7×75.0㎝
 いずれも新収蔵作品とある。

 「抵抗の画家」とも言われることのある松本竣介に「戦意高揚ポスター」のような作品があることを、不思議に思う人がいるかもしれないが、彼にも、「戦意高揚」や「銃後」備えを促すポスターがあったことは、比較的早くから知られており、一種の戸惑いと議論にもなってきた。
 これまでも何度も触れてきた村上善男の『松本竣介とその友人たちに』(1987年)に、その議論と今回展示されている作品が載っている。内容をかい摘んで記すと、概ね次のようなことだろうか。
 はじめ、土方定一や朝日晃などによって、軍部に対する抵抗を表したとされた『みづゑ』に掲載された文章「生きてゐる画家」の存在によって、「抵抗の画家」と評された松本竣介であったが、彼の作品の中にそのスタイルから見て戦争画とも呼べる油彩作品「航空兵群」(図2)があることが知られるようになった。その結果、それらの解釈を巡って議論があったのだ。松本竣介のコレクターであった洲之内徹や、批評家織田達朗が「反戦の画家」「抵抗の画家」といった松本竣介像に異論を唱え、朝日ジャーナル誌上で海藤和は「1940年代の美術史」の捉え直しを主張したとある。1986年のことである。またこの村上の記述の中で織田達朗が「航空兵群」の存在を知ったのは1977年のことだったとある。

図2  松本竣介「航空兵群」1941年 図2
 松本竣介
 「航空兵群」
 1941年
 (村上善男『松本竣介とその友人たち』の挿入図版より)
 さらにここで村上善男は新たな松本竣介の「戦争画」の存在を指摘している。当時の新発見であった。それが今回、岩手県立美術館で公開されている作品5点のうちの3点である。3点とも図版とともに示されており、タイトルも形態が軸装という点も一致する。
 この3点以外の2点「征け大空へ」と「感謝」は今回新たに公開されたのだが、「感謝」については、村上の文章の中に岩手日報からの記事の引用として、松本竣介の年譜の1943年の項目に「“感謝”などの言葉を入れた水彩画数点を制作する」というのがあり、村上は当時その作品を見てはおらず、作品からの印象を言葉にしたのではないかと推測している。もう1点の「征け大空へ」は何も記述がないので村上も知らない作品のようだ。
 さて、村上の本が刊行されたのが1987年だから、30年以上前から一部では、これらの作品の存在は知られていた。そして気になるのは、この時村上の見た作品には番号が振られており、それはそれぞれ、「皇軍(みいくさ)を支へる力」(図3)が「十三」、「背後はガッチリと」(図4)が「十四」、「敵機は必ず来る 備へはできたか」(図5)が「十五」だったとある。つまり、少なくとも、松本竣介が描いた同じような作品が15点、もしくはそれ以上あった可能性があるということである。岩手県立美術館の展示リストから分かるように、大きさの類似から考えれば、残りの「征け大空へ」と「感謝」も同じシリーズであることは間違いないだろう。何番の番号が振られているのか気になるところではある。

図3 松本竣介「皇軍を支へる力」1943年(同) 図3
 松本竣介
 「皇軍を支へる力」
 1943年(同)

図4 松本竣介「背後はガッチリと」1943年(同) 図4
 松本竣介
 「背後はガッチリと」
 1943年(同)

図5 松本竣介「敵機は必ず来る 備へはできたか」(同) 図5
 松本竣介
 「敵機は必ず来る 備へはできたか」
 1943年(同)

 ところで、今回展示されている5点の作品を「戦争画」と呼ぶのには少し違和感がある。いわゆる「戦争画」と言われる絵画は、大型の作品で、戦闘や行軍する軍隊の様子や、歴史的な場面を描いたもので、特に画面の中に文字などが書かれることはない。その意味で言えば、これらは「戦争画」ではなく「戦意高揚ポスター」であり、プロバガンダのために制作されたものだと言える。書かれた標語といい、航空兵や一般人の姿が描かれた図柄は、国策事業への画家としての協力の具体的な形である。渋々であれ、自ら進んでであれ、松本竣介もこうした仕事をしなければ、絵具の配給も受けることはできずに、画家として生きていけない時代であったということかもしれない。
 それはつまり、あの当時にあっては「抵抗」は、反帝国主義を掲げ、軍備拡張や対外侵略に反対し、獄中での死を厭わないような強固な共産主義者のような思想の持ち主にしかできなかった、そういう時代であったことを示している。松本竣介に理想を見、その役割を担わせるのは容易い。しかし、それでは、歴史の実相を見失うかもしれない。戦争と画家の問題は、多くの矛盾する問題を含む。松本竣介を含めた戦中の画家の実態は、未だ未詳の部分も多い。表現の自由の問題も含めて今にも繋がる事柄もある。戦中期の美術に関しては、今なお地道で実証的な研究が、必要だということだろう。
こまつざき たくお

小松﨑拓男のエッセイ「松本竣介研究ノート」は毎月3日の更新です。

小松﨑拓男 Takuo KOMATSUZAKI
千葉県生まれ。横浜そごう美術館、郡山市美術館準備室、平塚市美術館の主任学芸員を経て、NTTインターコミュニケーション・センター[ICC]学芸課長、広島市現代美術館学芸課長、副館長を歴任後、金沢美術工芸大学教授を2019年まで務める。現在、美術評論家連盟会員、文教大学情報学部非常勤講師として「美術」「サブカルチャー論」担当。
キュレーター時代には絵画をはじめとしてメディア・アートなど先端領域を含めた幅広い分野で近現代美術の展覧会を企画。村上隆、奈良美智、会田誠などを公立美術館で初めて本格的に紹介した。
主な展覧会に「TOKYO POP」(平塚市美術館)「New Media New Face / New York」(NTTインターコミュニケーション・センター[ICC])「絵画新世紀」「サイバー・アジア」(広島市現代美術館)「エコメトロ」(光州ビエンナーレ)などがある。

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