松本竣介研究ノート 第18回
続「戦意高揚ポスター」
小松﨑拓男
岩手日報紙に掲載された『征け大空へ』(1943年)という松本竣介の作品は、鉛筆やコンテを使った線描に水彩で淡彩が施された作品である。飛行服を着た航空兵が飛行場と思われる場所に正面を見据えて立ち、足元の遠景に複葉機、空には3機の軍用機と思しき航空機が舞っている。そして正面左側に大きく「征け大空へ」の文字が縦書きで書かれている。紛れもない銃後のための「戦意高揚ポスター」である(図1)。
図1
松本竣介『征け大空へ』
(岩手日報2020年8月12日紙面より)
当時、画家たちが軍に協力して描いた作品には、いくつかの形があった。例えば、最も積極的で典型的なものとしては、従軍画家となって戦地に赴き、その様子を取材し、それらを元に大型の作品を制作して団体展や軍主催の展覧会で発表するものであり、いわゆる「戦争画」と呼ばれるものである。
向井潤吉や宮本三郎、そして藤田嗣治らがこぞって描いた一群の作品がそれである。これらの作品にはいくつかの特徴がある。一つには、こうした戦争画の制作に熱心に取り組んだのは主に中堅の画家だった。彼らは戦争画という国家的な事業に積極的に参与して、自身の画壇での地位を確立しようとしたと考えられる。また藤田のように日本の画壇では、まだ力を持てなかった画家が、画壇での覇権や認知を目的としていたのだ。さらに、戦争を描写するために臨場感のある表現が求められたことも、写実を本領とした西洋画家たちが活躍する一因だったろう。日本画家たちは歴史画や軍人の肖像画、あるいは戦闘場面ではない戦地の光景を描いた。
だが、この戦争画であってさえ、いやむしろ戦争画だったからこそ、自由に描くことができた訳ではなかった。軍の情報部が制約を課していた。例えば、具体的な部隊番号がわかるような数字は禁止された。もちろん兵器の精密描写などもできないし、場所が特定されるようなことも描けない。つまり軍事機密に関わるなということである。さらに戦意を高揚することが称揚され、空襲で逃げ惑う人々のような戦争の悲惨な様子など、厭戦気分を起こさせるものは描けなかった(注)。従って戦争画とは戦争の真実を描いた絵画ではない。演出されたプロバガンダのための、軍や国家の宣伝のための絵画であり、美術であったということである。
また、こうした作品の展示の許可に関しては、現場の官憲の判断に委ねられた。つまり、現場に来た警察官や憲兵、あるいは情報部の軍人がダメだと言ったら展示はできない。無論理由の開示もなければ、異議申立てもできない。それは「検閲」であり、それらが一軍人や警官の恣意的な判断で行われたということである。表現の自由が奪われていたのだ。
戦争画には「献納画」と呼ばれるものもある。これは軍や国家に協力して作品を寄贈することであるが、こうした作品自体を寄贈するだけではなく、作品を売り、その売上金で軍に兵器や車両、航空機として収めることが行われた。軍が資金を得るための大規模な献納画展は各地で開催されている。
献納画をよくした画家のひとりに当時既に著名だった日本画家の横山大観がいる。このような行為は大きくニュースに取り上げられ、軍や国家のプロバガンダとして有効に機能するともに、その背後には、知名度を上げ、作品が知られ、その値段が上がるという画家たちの思惑もある。こうして国家と芸術家の間に持ちつ持たれつの関係が出来上がるのだ。藤田嗣治や宮本三郎、向井潤吉たちはこうした循環に乗ろうとした。
一方、松本竣介の描いたものは、こうした類の戦争画の範疇に入らない。松本の描いたのは、いわゆる「戦意高揚ポスター」であり、本格的な戦争画がブロードウエーのスーパー・スターたちが集うミュージカルや演劇であるとするなら、あたかも地方の芝居小屋にかかるドサ回りの一座の芝居のようなものであった気がする。事実、参加した展覧会は地方にも巡回しているが、その詳細はまだよくわからない。
決して豪華ではない表装、このように洋画家が本職ではない日本画的な仕様で作品を制作する状況から想像するなら、簡便に持ち運びでき、輸送の手間も経費もかけずに、多くの作品を地方に送る手段として考えられた形式だったのだろう。果たして本格的な展覧会という形で作品が展示されていたのだろうか。
各地の画家団体が連携してこうした展覧会を開いていた可能性などはあるだろう。しかし、有料であったのか、催事の一部として実施されていたのか、国はどの程度関与していたかなどの詳細は不明である。また当時の展示風景の写真なども残念ながら見た記憶がない。戦前の地方紙の写真記事やグラビア雑誌などを詳細に調査すれば、掲載された資料があるかもしれない。戦争画や戦意高揚ポスターに関しては、戦後は関わったことが一種のタブーと見なされ、作家はその関わりを示す作品や写真、資料を廃棄したりした。だから残っている資料は少ないかもしれないのだ。
戦中の画家の暮らしについては、著名な画家はさておき、無名の作家たちの実態はよくわからない。絵具の配給にしても、展覧会にしても、どの程度のことができていたのか。例えば、戦中の「みずゑ」の巻末近くの展覧会情報欄を見ると、かなり戦況が悪化した時でも、銀座で個展を開いている画家がいることに驚いたことがある。つまりある意味、軍国一色ではなかったのだ。濃淡のまだら模様にその支配や弾圧は国民を覆っていたということだろう。だから余計にタチが悪いのかもしれない。調べるべきことはまだ多いということである。
ところで、これを書きながら、あいちトリエンナーレの「表現の不自由展」や、東京オリンピック、パラリンピックのロゴマークの問題などをふと思い出していた。表現の自由や国家と美術といった問題は、個々の作家にとっても、また美術やデザインなどの業界で禄を食む人々にとっても、今なお根深い問題なのだろうと思える。
注 そうした制約が緩んだのは戦局が悪化してからである。藤田嗣治の『アッツ島玉砕』(図2)などがその例になる。単に勝ち戦さがなくなったことが主たる理由だろうが、この場合勇猛果敢に最期を遂げた血みどろの様子を描くことにより、その日本軍の武勇を顕彰するという意味合いが込められたのだろうか。
図2
藤田嗣治『アッツ島玉砕』
(こまつざき たくお)
●小松﨑拓男のエッセイ「松本竣介研究ノート」は毎月3日の更新です。
■小松﨑拓男 Takuo KOMATSUZAKI
千葉県生まれ。横浜そごう美術館、郡山市美術館準備室、平塚市美術館の主任学芸員を経て、NTTインターコミュニケーション・センター[ICC]学芸課長、広島市現代美術館学芸課長、副館長を歴任後、金沢美術工芸大学教授を2019年まで務める。現在、美術評論家連盟会員、文教大学情報学部非常勤講師として「美術」「サブカルチャー論」担当。
キュレーター時代には絵画をはじめとしてメディア・アートなど先端領域を含めた幅広い分野で近現代美術の展覧会を企画。村上隆、奈良美智、会田誠などを公立美術館で初めて本格的に紹介した。
主な展覧会に「TOKYO POP」(平塚市美術館)「New Media New Face / New York」(NTTインターコミュニケーション・センター[ICC])「絵画新世紀」「サイバー・アジア」(広島市現代美術館)「エコメトロ」(光州ビエンナーレ)などがある。
●ときの忘れものは青山から〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました。
阿部勤設計の新しい空間はWEBマガジン<コラージ2017年12月号18~24頁>に特集されています。JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531
E-mail:info@tokinowasuremono.com
営業時間=火曜~土曜の平日11時~19時。*日・月・祝日は休廊。
続「戦意高揚ポスター」
小松﨑拓男
岩手日報紙に掲載された『征け大空へ』(1943年)という松本竣介の作品は、鉛筆やコンテを使った線描に水彩で淡彩が施された作品である。飛行服を着た航空兵が飛行場と思われる場所に正面を見据えて立ち、足元の遠景に複葉機、空には3機の軍用機と思しき航空機が舞っている。そして正面左側に大きく「征け大空へ」の文字が縦書きで書かれている。紛れもない銃後のための「戦意高揚ポスター」である(図1)。
図1松本竣介『征け大空へ』
(岩手日報2020年8月12日紙面より)
当時、画家たちが軍に協力して描いた作品には、いくつかの形があった。例えば、最も積極的で典型的なものとしては、従軍画家となって戦地に赴き、その様子を取材し、それらを元に大型の作品を制作して団体展や軍主催の展覧会で発表するものであり、いわゆる「戦争画」と呼ばれるものである。
向井潤吉や宮本三郎、そして藤田嗣治らがこぞって描いた一群の作品がそれである。これらの作品にはいくつかの特徴がある。一つには、こうした戦争画の制作に熱心に取り組んだのは主に中堅の画家だった。彼らは戦争画という国家的な事業に積極的に参与して、自身の画壇での地位を確立しようとしたと考えられる。また藤田のように日本の画壇では、まだ力を持てなかった画家が、画壇での覇権や認知を目的としていたのだ。さらに、戦争を描写するために臨場感のある表現が求められたことも、写実を本領とした西洋画家たちが活躍する一因だったろう。日本画家たちは歴史画や軍人の肖像画、あるいは戦闘場面ではない戦地の光景を描いた。
だが、この戦争画であってさえ、いやむしろ戦争画だったからこそ、自由に描くことができた訳ではなかった。軍の情報部が制約を課していた。例えば、具体的な部隊番号がわかるような数字は禁止された。もちろん兵器の精密描写などもできないし、場所が特定されるようなことも描けない。つまり軍事機密に関わるなということである。さらに戦意を高揚することが称揚され、空襲で逃げ惑う人々のような戦争の悲惨な様子など、厭戦気分を起こさせるものは描けなかった(注)。従って戦争画とは戦争の真実を描いた絵画ではない。演出されたプロバガンダのための、軍や国家の宣伝のための絵画であり、美術であったということである。
また、こうした作品の展示の許可に関しては、現場の官憲の判断に委ねられた。つまり、現場に来た警察官や憲兵、あるいは情報部の軍人がダメだと言ったら展示はできない。無論理由の開示もなければ、異議申立てもできない。それは「検閲」であり、それらが一軍人や警官の恣意的な判断で行われたということである。表現の自由が奪われていたのだ。
戦争画には「献納画」と呼ばれるものもある。これは軍や国家に協力して作品を寄贈することであるが、こうした作品自体を寄贈するだけではなく、作品を売り、その売上金で軍に兵器や車両、航空機として収めることが行われた。軍が資金を得るための大規模な献納画展は各地で開催されている。
献納画をよくした画家のひとりに当時既に著名だった日本画家の横山大観がいる。このような行為は大きくニュースに取り上げられ、軍や国家のプロバガンダとして有効に機能するともに、その背後には、知名度を上げ、作品が知られ、その値段が上がるという画家たちの思惑もある。こうして国家と芸術家の間に持ちつ持たれつの関係が出来上がるのだ。藤田嗣治や宮本三郎、向井潤吉たちはこうした循環に乗ろうとした。
一方、松本竣介の描いたものは、こうした類の戦争画の範疇に入らない。松本の描いたのは、いわゆる「戦意高揚ポスター」であり、本格的な戦争画がブロードウエーのスーパー・スターたちが集うミュージカルや演劇であるとするなら、あたかも地方の芝居小屋にかかるドサ回りの一座の芝居のようなものであった気がする。事実、参加した展覧会は地方にも巡回しているが、その詳細はまだよくわからない。
決して豪華ではない表装、このように洋画家が本職ではない日本画的な仕様で作品を制作する状況から想像するなら、簡便に持ち運びでき、輸送の手間も経費もかけずに、多くの作品を地方に送る手段として考えられた形式だったのだろう。果たして本格的な展覧会という形で作品が展示されていたのだろうか。
各地の画家団体が連携してこうした展覧会を開いていた可能性などはあるだろう。しかし、有料であったのか、催事の一部として実施されていたのか、国はどの程度関与していたかなどの詳細は不明である。また当時の展示風景の写真なども残念ながら見た記憶がない。戦前の地方紙の写真記事やグラビア雑誌などを詳細に調査すれば、掲載された資料があるかもしれない。戦争画や戦意高揚ポスターに関しては、戦後は関わったことが一種のタブーと見なされ、作家はその関わりを示す作品や写真、資料を廃棄したりした。だから残っている資料は少ないかもしれないのだ。
戦中の画家の暮らしについては、著名な画家はさておき、無名の作家たちの実態はよくわからない。絵具の配給にしても、展覧会にしても、どの程度のことができていたのか。例えば、戦中の「みずゑ」の巻末近くの展覧会情報欄を見ると、かなり戦況が悪化した時でも、銀座で個展を開いている画家がいることに驚いたことがある。つまりある意味、軍国一色ではなかったのだ。濃淡のまだら模様にその支配や弾圧は国民を覆っていたということだろう。だから余計にタチが悪いのかもしれない。調べるべきことはまだ多いということである。
ところで、これを書きながら、あいちトリエンナーレの「表現の不自由展」や、東京オリンピック、パラリンピックのロゴマークの問題などをふと思い出していた。表現の自由や国家と美術といった問題は、個々の作家にとっても、また美術やデザインなどの業界で禄を食む人々にとっても、今なお根深い問題なのだろうと思える。
注 そうした制約が緩んだのは戦局が悪化してからである。藤田嗣治の『アッツ島玉砕』(図2)などがその例になる。単に勝ち戦さがなくなったことが主たる理由だろうが、この場合勇猛果敢に最期を遂げた血みどろの様子を描くことにより、その日本軍の武勇を顕彰するという意味合いが込められたのだろうか。
図2藤田嗣治『アッツ島玉砕』
(こまつざき たくお)
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■小松﨑拓男 Takuo KOMATSUZAKI
千葉県生まれ。横浜そごう美術館、郡山市美術館準備室、平塚市美術館の主任学芸員を経て、NTTインターコミュニケーション・センター[ICC]学芸課長、広島市現代美術館学芸課長、副館長を歴任後、金沢美術工芸大学教授を2019年まで務める。現在、美術評論家連盟会員、文教大学情報学部非常勤講師として「美術」「サブカルチャー論」担当。
キュレーター時代には絵画をはじめとしてメディア・アートなど先端領域を含めた幅広い分野で近現代美術の展覧会を企画。村上隆、奈良美智、会田誠などを公立美術館で初めて本格的に紹介した。
主な展覧会に「TOKYO POP」(平塚市美術館)「New Media New Face / New York」(NTTインターコミュニケーション・センター[ICC])「絵画新世紀」「サイバー・アジア」(広島市現代美術館)「エコメトロ」(光州ビエンナーレ)などがある。
●ときの忘れものは青山から〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました。
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