土渕信彦のエッセイ「駒井哲郎と瀧口修造 前編」
今回から2~3回、連載「瀧口修造の本」は休みをいただき、来春、ときの忘れもので開催を予定している「生誕100年 駒井哲郎展 Part.2 駒井哲郎と瀧口修造」の露払いとして、瀧口修造の駒井哲郎についての文献について述べます。ご了承ください。
瀧口修造は早い時期から駒井哲郎の作品を高く評価するなど、版画家としての成功の大きな力となったと思われるが、駒井を論じた文献はそれほど多くない。以下、関連資料とともに年代順に読み直し、改めて両者の交流の過程を辿ってみたい。瀧口が1950年代を通じて抱いていた大きなテーマのひとつが、版画とりわけ銅版画の復興・普及であり、その担い手の重要なひとりとして駒井に大きな期待を寄せていたことが、確認されるであろう。
なお、横浜美術館片多裕子学芸員の「東西の美術・文学・音楽の交差点としての駒井哲郎」(参考文献5に収録)、並びに世田谷美術館石井幸彦主席学芸員の「実験工房時代の駒井哲郎」(参考文献6に収録)が参考になった。また図版については慶應義塾大学アート・センターおよび同センター森山緑学芸員に種々ご配慮いただいた。記して感謝申し上げる。
凡例
1.各文献の本文は、『コレクション瀧口修造』(みすず書房)に収録されている文献1,2,4,5,6については、原則としてこれに準拠した。収録されていない文献3は初出に拠ったが、仮名遣いや漢字などは、今日の一般的な表記に改めた(ex.「乃至」→「ないし」、「勿論」→「もちろん」、「云う」→「いう」、「條件」→「条件」)。また、読みやすさを考慮し、句読点を加除した箇所もある。
2.全体を通じ「滝口」の表記はすべて「瀧口」に改め、統一した。
3.美術用語など表記も、全体を通じ今日一般的な表記に統一した(ex.「アクアチント」「メゾチント」「ビュラン」「マチエール」「タブロー」「キアロスクーロ」など。ただし、ロオトレアモン、マルドロオルは、元の表記のままとした)。なお、[ ]内は土渕による註記である。
文献1「反省と希望」(「1950年読売ベストスリー」、読売新聞1950年12月25日朝刊。図1)
鶴岡政男「重い手」(個展)
阿部展也「骨の唄」(美術文化展)
駒井哲郎「白い黒ん坊」-エッチング(春陽会展)
図1
【本文】
無数の個の作家から少数の批評家が選んだものに、また最大公約数を求めるのは無意味に近いだろうが、安井、児島、三岸、森の四氏がはからずも二票ずつ獲得しているのをよいことにして、いいがかりの口実にする。
安井氏は梅原氏とともに偶像的存在で、それを避けるかのような精進ぶりが注目されながら、結果においてますます偶像化されるところに日本画壇の宿命みたいなものがある。児島氏の今年の仕事は批評家の衆目を浴びた形だが、評価の定焦点がひいきの引倒しにならねば幸いで、この作家の本領が大きくのびるのに適した気候とは思えない。今年期せずして集まった独立の作家への人気は理由のあることだが、画壇の小宿命へ導くものであってはならぬ。画面の明快化を買われた三岸氏は感覚美の飽和という点で、猪熊氏の唯美的な今年の展開と共に、美の弱みよりも強みへ発展することを心から希わずにいられない。
森氏の「二人」は既成作家に見られぬ人間性を描いた未完成的傑作であった。世論上でもこの作家と、ここでは挙っていない岡本太郎氏の「森の掟」とが新人線の両極を象徴的に代表した。新人ならぬ福沢一郎氏がまだ画壇で新規の存在であることを示したのも一収穫。世論の定焦点に合いかねる新人たちが着々と仕事をし、これ以外に血路がないと自覚している。
日本画では近代化をめざす創造美術の意図が認められたが、ここでは稗田氏一人で代表しているのもさびしい。
【解説】
「反省と希望」は、瀧口が読売新聞1950年12月25日朝刊の「1950年読売ベストスリー」に寄稿した記事で、この年の美術を回顧しまとめた総論にあたる。『コレクション瀧口修造』第7巻に「1950年の回顧」として収録されている。本文中で駒井に触れられているわけではないが、他の批評家が画家・彫刻家を選ぶなかで、瀧口のみが駒井をベストスリーに挙げている事実の重さを考慮し、全文を再録した。他の評論家が選んだ顔ぶれは、この解説末尾に記載してある。当時の画壇の状況をある程度うかがい知ることができるだろう。
瀧口が駒井の作品を見たのは1950年4月の第27回春陽会展で、駒井は「白い黒ん坊」「R夫人像」など9点を出品した。駒井に出品を勧めたのは、恩地孝四郎の研究会「一木会」で知り合った版画家北岡文雄(東京美術学校で駒井の2年先輩)で、北岡が予想した通り駒井は岡鹿之助に激賞され、「孤独な鳥」で春陽会賞を受賞している。この年に会員に推挙しようとの声も多かったが、実際に会員となったのは翌51年となった。参考文献2の1950年12月15日付け手紙には、ベストスリーに挙げるに先立って瀧口から駒井に「展覧会に出した中の自信作の題名をはがきで知らせて欲しい」と、速達で来信があったと記され、翌16日の項には「瀧口氏が会いに来て、僕の春の作品をもう一度全部見たいといってきた。瀧口氏はもうかなり年輩の人で、慶応の英文科を出たそうだ。とてもおとなしい人で、にやけていなくて感じのよい人だ。又とても若々しい人だ。もう頭は白くなりかかっているけれど。/それでとにかく「白い黒ン坊」その他を推薦してくれるように頼んでおきました。/詩も書くそうで、こんど詩集を出すような時には是非挿画を頼むとのことでした」との記述がある。掲載当日の12月25日の項には「もう一人くらい誰か推薦してくれてあれば良かったのに、ちょっと残念でしたが、まあ欲は出さないことに致します」と記されている。
なお、「読売ベストスリー」は、美術、文学、演劇、映画、音楽の分野ごとに、各評論家がベストスリーを選定し、うち一人がまとめの総論を執筆する趣向で、美術については瀧口のほか、今泉篤男、嘉門安雄、田辺憲三、土方定一、富永惣一の各氏が選者であった。選定した顔ぶれは以下のとおりである。
今泉…森芳雄「二人」、柳原義達「犬の唄」、稗田一穂「魚の群れ」
嘉門…児島善三郎「春遠からじ」、安井曾太郎「孫の像」、三岸節子「静物」
田辺…林武「横向きの婦人」、原勝郎「丘と畑」、鍋井克之「黒潮」
土方…児島善三郎「湖水」その他、猪熊弦一郎「アトリエの某氏」その他、森芳雄「二人」
富永…安井曾太郎「孫の像」、三岸節子「静物」、梅原龍三郎「浅間」
文献2 私の推薦する作品 ―四月の展覧会から―(「みづゑ」1951年6月号。図2,3)
図2
図3
【本文】
四月の作品からまず一つあげるなら
井上三綱の「たいくつした牛」
この絵がいまの展覧会では
なんと傍白のようにきこえるのを
かなしく思います
いやうれしく思います
それから駒井哲郎の「夜の魚」
の鼻がしらにコツンと当る
奇妙な手応えがある。
【解説】
この推薦文は「みづゑ」誌1951年6月号の「私の推薦する作品」―四月の展覧会から―」に、駒井の作品「夜の魚」の図版入りで掲載された。『コレクション瀧口修造』第7巻に「四月の展覧会から」として収録されている。瀧口以外の推薦者は今泉篤男、植村鷹千代の両氏で、推薦作品は今泉が「高橋辰雄(春陽会)の諸作」、植村が「(1)宇治山哲平 国展出品作品 (2)駒井哲郎 春陽会出品作品」としている。駒井哲郎「夜の魚」のみ図版が掲載されているのは、瀧口・植村の両氏が挙げたためと思われる。
瀧口の推薦文は、短いフレーズで改行され、また末尾以外には句読点が打たれていない。単なる推薦文というよりも散文詩に近いように思われる。参考文献2の1951年4月3日付け手紙には「今度、瀧口さんが僕の絵に「詩」をつけて美術雑誌にでも載せるので、印刷が全部終わったらその作品を創りたいと思っています」との記述があり、「夜の魚」がこの作品にあたるのかもしれない。いずれにしろ、駒井の手紙の記述は、この頃の瀧口が自らの詩と駒井の版画との、何らかの形の共作を考えていたことを示すものだろう。
戦前期から瀧口は詩画集の重要性を説いていた。日本の画壇にシュルレアリスムを紹介し始めた最も早い時期の文献のひとつである「超現実主義絵画の方向について」(「詩法」第12号、紀伊國屋書店、1935年8月。図4)の中でも、「ぼくは影像の詩的解決を信じている。ぼくは超現実主義を通して、詩と絵画とが握手するだろうということを、さらに確信している」と記していた。こうした「詩と絵画との握手」の代表的な成果として、瀧口と阿部芳文(展也)との詩画集『妖精の距離』(春鳥会、1937年10月。図5)を挙げても、ほとんど異論はないだろう。
図4
図5
戦後、1950年代に入ってからも瀧口は詩画集の重要性を説き続けており、例えば「イラストレーションの意味と機能をめぐって」(『デザイン大系』第7巻、ダヴィッド社、1955年3月、図6~9)では、古今東西の「文字と絵画の深い結びつき」の実例を数多く紹介している。この時期の瀧口が、共作候補者の有力な一人として駒井に期待していたのは、間違いないだろう。少なくとも、駒井の作品には瀧口は詩作意欲をそそるものがあったことを、この展評に採用された散文詩の形が示しているのではなかろうか。
図6
図7
図8
図9
参考文献
1.駒井哲郎『銅版画のマチエール』美術出版社、1976年12月
2.加藤和平・駒井美子編『駒井哲郎 若き日の手紙 「夢」の連作から「マルドロオルの歌」へ』美術出版社、1999年5月
3.駒井哲郎『駒井哲郎ブックワーク』形象社、1982年4月
4.中村稔『束の間の幻影―銅版画家駒井哲郎の生涯』新潮社、1991年11月
5.横浜美術館「駒井哲郎―煌めく紙上の宇宙」展図録(玲風書房、2018年10月)
6.神奈川県立近代美術館・いわき市立美術館・富山県立近代美術館・北九州市立美術館・世田谷美術館「実験工房展 戦後美術を切り拓く」図録(読売新聞社・美術館連絡協議会、2013年1月)
7.町田市立国際版画美術館・山口県立萩美術館浦上記念館・伊予市美術館・郡山市立美術館・新潟市美術館・世田谷美術館「駒井哲郎 1920-1976」展図録(東京新聞、2011年4月)
8.慶應義塾大学アート・センター「アート・アーカイヴ資料展Ⅺ タケミヤからの招待状」図録、2014年3月
(つちぶち のぶひこ)
■土渕信彦 Nobuhiko TSUCHIBUCHI
1954年生まれ。高校時代に瀧口修造を知り、著作を読み始める。サラリーマン生活の傍ら、初出文献やデカルコマニーなどを収集。その後、早期退職し慶應義塾大学大学院文学研究科修士課程修了(美学・美術史学)。瀧口修造研究会会報「橄欖」共同編集人。ときの忘れものの「瀧口修造展Ⅰ~Ⅳ」を監修。また自らのコレクションにより「瀧口修造の光跡」展を5回開催中。富山県立近代美術館、渋谷区立松濤美術館、世田谷美術館、市立小樽文学館・美術館などの瀧口展に協力、図録にも寄稿。主な論考に「彼岸のオブジェ―瀧口修造の絵画思考と対物質の精神の余白に」(「太陽」、1993年4月)、「『瀧口修造の詩的実験』の構造と解釈」(「洪水」、2010年7月~2011年7月)、「瀧口修造―生涯と作品」(フランスのシュルレアリスム研究誌「メリュジーヌ」、2016年)など。
◆土渕信彦のエッセイ「瀧口修造の本」は毎月23日の更新ですが、今月から数回にわたり「駒井哲郎と瀧口修造」を特別連載します。
●ときの忘れものは青山から〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました。
阿部勤設計の新しい空間はWEBマガジン<コラージ2017年12月号18~24頁>に特集されています。JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531
E-mail:info@tokinowasuremono.com
営業時間=火曜~土曜の平日11時~19時。*日・月・祝日は休廊。
今回から2~3回、連載「瀧口修造の本」は休みをいただき、来春、ときの忘れもので開催を予定している「生誕100年 駒井哲郎展 Part.2 駒井哲郎と瀧口修造」の露払いとして、瀧口修造の駒井哲郎についての文献について述べます。ご了承ください。
瀧口修造は早い時期から駒井哲郎の作品を高く評価するなど、版画家としての成功の大きな力となったと思われるが、駒井を論じた文献はそれほど多くない。以下、関連資料とともに年代順に読み直し、改めて両者の交流の過程を辿ってみたい。瀧口が1950年代を通じて抱いていた大きなテーマのひとつが、版画とりわけ銅版画の復興・普及であり、その担い手の重要なひとりとして駒井に大きな期待を寄せていたことが、確認されるであろう。
なお、横浜美術館片多裕子学芸員の「東西の美術・文学・音楽の交差点としての駒井哲郎」(参考文献5に収録)、並びに世田谷美術館石井幸彦主席学芸員の「実験工房時代の駒井哲郎」(参考文献6に収録)が参考になった。また図版については慶應義塾大学アート・センターおよび同センター森山緑学芸員に種々ご配慮いただいた。記して感謝申し上げる。
凡例
1.各文献の本文は、『コレクション瀧口修造』(みすず書房)に収録されている文献1,2,4,5,6については、原則としてこれに準拠した。収録されていない文献3は初出に拠ったが、仮名遣いや漢字などは、今日の一般的な表記に改めた(ex.「乃至」→「ないし」、「勿論」→「もちろん」、「云う」→「いう」、「條件」→「条件」)。また、読みやすさを考慮し、句読点を加除した箇所もある。
2.全体を通じ「滝口」の表記はすべて「瀧口」に改め、統一した。
3.美術用語など表記も、全体を通じ今日一般的な表記に統一した(ex.「アクアチント」「メゾチント」「ビュラン」「マチエール」「タブロー」「キアロスクーロ」など。ただし、ロオトレアモン、マルドロオルは、元の表記のままとした)。なお、[ ]内は土渕による註記である。
文献1「反省と希望」(「1950年読売ベストスリー」、読売新聞1950年12月25日朝刊。図1)
鶴岡政男「重い手」(個展)
阿部展也「骨の唄」(美術文化展)
駒井哲郎「白い黒ん坊」-エッチング(春陽会展)
図1【本文】
無数の個の作家から少数の批評家が選んだものに、また最大公約数を求めるのは無意味に近いだろうが、安井、児島、三岸、森の四氏がはからずも二票ずつ獲得しているのをよいことにして、いいがかりの口実にする。
安井氏は梅原氏とともに偶像的存在で、それを避けるかのような精進ぶりが注目されながら、結果においてますます偶像化されるところに日本画壇の宿命みたいなものがある。児島氏の今年の仕事は批評家の衆目を浴びた形だが、評価の定焦点がひいきの引倒しにならねば幸いで、この作家の本領が大きくのびるのに適した気候とは思えない。今年期せずして集まった独立の作家への人気は理由のあることだが、画壇の小宿命へ導くものであってはならぬ。画面の明快化を買われた三岸氏は感覚美の飽和という点で、猪熊氏の唯美的な今年の展開と共に、美の弱みよりも強みへ発展することを心から希わずにいられない。
森氏の「二人」は既成作家に見られぬ人間性を描いた未完成的傑作であった。世論上でもこの作家と、ここでは挙っていない岡本太郎氏の「森の掟」とが新人線の両極を象徴的に代表した。新人ならぬ福沢一郎氏がまだ画壇で新規の存在であることを示したのも一収穫。世論の定焦点に合いかねる新人たちが着々と仕事をし、これ以外に血路がないと自覚している。
日本画では近代化をめざす創造美術の意図が認められたが、ここでは稗田氏一人で代表しているのもさびしい。
【解説】
「反省と希望」は、瀧口が読売新聞1950年12月25日朝刊の「1950年読売ベストスリー」に寄稿した記事で、この年の美術を回顧しまとめた総論にあたる。『コレクション瀧口修造』第7巻に「1950年の回顧」として収録されている。本文中で駒井に触れられているわけではないが、他の批評家が画家・彫刻家を選ぶなかで、瀧口のみが駒井をベストスリーに挙げている事実の重さを考慮し、全文を再録した。他の評論家が選んだ顔ぶれは、この解説末尾に記載してある。当時の画壇の状況をある程度うかがい知ることができるだろう。
瀧口が駒井の作品を見たのは1950年4月の第27回春陽会展で、駒井は「白い黒ん坊」「R夫人像」など9点を出品した。駒井に出品を勧めたのは、恩地孝四郎の研究会「一木会」で知り合った版画家北岡文雄(東京美術学校で駒井の2年先輩)で、北岡が予想した通り駒井は岡鹿之助に激賞され、「孤独な鳥」で春陽会賞を受賞している。この年に会員に推挙しようとの声も多かったが、実際に会員となったのは翌51年となった。参考文献2の1950年12月15日付け手紙には、ベストスリーに挙げるに先立って瀧口から駒井に「展覧会に出した中の自信作の題名をはがきで知らせて欲しい」と、速達で来信があったと記され、翌16日の項には「瀧口氏が会いに来て、僕の春の作品をもう一度全部見たいといってきた。瀧口氏はもうかなり年輩の人で、慶応の英文科を出たそうだ。とてもおとなしい人で、にやけていなくて感じのよい人だ。又とても若々しい人だ。もう頭は白くなりかかっているけれど。/それでとにかく「白い黒ン坊」その他を推薦してくれるように頼んでおきました。/詩も書くそうで、こんど詩集を出すような時には是非挿画を頼むとのことでした」との記述がある。掲載当日の12月25日の項には「もう一人くらい誰か推薦してくれてあれば良かったのに、ちょっと残念でしたが、まあ欲は出さないことに致します」と記されている。
なお、「読売ベストスリー」は、美術、文学、演劇、映画、音楽の分野ごとに、各評論家がベストスリーを選定し、うち一人がまとめの総論を執筆する趣向で、美術については瀧口のほか、今泉篤男、嘉門安雄、田辺憲三、土方定一、富永惣一の各氏が選者であった。選定した顔ぶれは以下のとおりである。
今泉…森芳雄「二人」、柳原義達「犬の唄」、稗田一穂「魚の群れ」
嘉門…児島善三郎「春遠からじ」、安井曾太郎「孫の像」、三岸節子「静物」
田辺…林武「横向きの婦人」、原勝郎「丘と畑」、鍋井克之「黒潮」
土方…児島善三郎「湖水」その他、猪熊弦一郎「アトリエの某氏」その他、森芳雄「二人」
富永…安井曾太郎「孫の像」、三岸節子「静物」、梅原龍三郎「浅間」
文献2 私の推薦する作品 ―四月の展覧会から―(「みづゑ」1951年6月号。図2,3)
図2
図3【本文】
四月の作品からまず一つあげるなら
井上三綱の「たいくつした牛」
この絵がいまの展覧会では
なんと傍白のようにきこえるのを
かなしく思います
いやうれしく思います
それから駒井哲郎の「夜の魚」
の鼻がしらにコツンと当る
奇妙な手応えがある。
【解説】
この推薦文は「みづゑ」誌1951年6月号の「私の推薦する作品」―四月の展覧会から―」に、駒井の作品「夜の魚」の図版入りで掲載された。『コレクション瀧口修造』第7巻に「四月の展覧会から」として収録されている。瀧口以外の推薦者は今泉篤男、植村鷹千代の両氏で、推薦作品は今泉が「高橋辰雄(春陽会)の諸作」、植村が「(1)宇治山哲平 国展出品作品 (2)駒井哲郎 春陽会出品作品」としている。駒井哲郎「夜の魚」のみ図版が掲載されているのは、瀧口・植村の両氏が挙げたためと思われる。
瀧口の推薦文は、短いフレーズで改行され、また末尾以外には句読点が打たれていない。単なる推薦文というよりも散文詩に近いように思われる。参考文献2の1951年4月3日付け手紙には「今度、瀧口さんが僕の絵に「詩」をつけて美術雑誌にでも載せるので、印刷が全部終わったらその作品を創りたいと思っています」との記述があり、「夜の魚」がこの作品にあたるのかもしれない。いずれにしろ、駒井の手紙の記述は、この頃の瀧口が自らの詩と駒井の版画との、何らかの形の共作を考えていたことを示すものだろう。
戦前期から瀧口は詩画集の重要性を説いていた。日本の画壇にシュルレアリスムを紹介し始めた最も早い時期の文献のひとつである「超現実主義絵画の方向について」(「詩法」第12号、紀伊國屋書店、1935年8月。図4)の中でも、「ぼくは影像の詩的解決を信じている。ぼくは超現実主義を通して、詩と絵画とが握手するだろうということを、さらに確信している」と記していた。こうした「詩と絵画との握手」の代表的な成果として、瀧口と阿部芳文(展也)との詩画集『妖精の距離』(春鳥会、1937年10月。図5)を挙げても、ほとんど異論はないだろう。
図4
図5戦後、1950年代に入ってからも瀧口は詩画集の重要性を説き続けており、例えば「イラストレーションの意味と機能をめぐって」(『デザイン大系』第7巻、ダヴィッド社、1955年3月、図6~9)では、古今東西の「文字と絵画の深い結びつき」の実例を数多く紹介している。この時期の瀧口が、共作候補者の有力な一人として駒井に期待していたのは、間違いないだろう。少なくとも、駒井の作品には瀧口は詩作意欲をそそるものがあったことを、この展評に採用された散文詩の形が示しているのではなかろうか。
図6
図7
図8
図9参考文献
1.駒井哲郎『銅版画のマチエール』美術出版社、1976年12月
2.加藤和平・駒井美子編『駒井哲郎 若き日の手紙 「夢」の連作から「マルドロオルの歌」へ』美術出版社、1999年5月
3.駒井哲郎『駒井哲郎ブックワーク』形象社、1982年4月
4.中村稔『束の間の幻影―銅版画家駒井哲郎の生涯』新潮社、1991年11月
5.横浜美術館「駒井哲郎―煌めく紙上の宇宙」展図録(玲風書房、2018年10月)
6.神奈川県立近代美術館・いわき市立美術館・富山県立近代美術館・北九州市立美術館・世田谷美術館「実験工房展 戦後美術を切り拓く」図録(読売新聞社・美術館連絡協議会、2013年1月)
7.町田市立国際版画美術館・山口県立萩美術館浦上記念館・伊予市美術館・郡山市立美術館・新潟市美術館・世田谷美術館「駒井哲郎 1920-1976」展図録(東京新聞、2011年4月)
8.慶應義塾大学アート・センター「アート・アーカイヴ資料展Ⅺ タケミヤからの招待状」図録、2014年3月
(つちぶち のぶひこ)
■土渕信彦 Nobuhiko TSUCHIBUCHI
1954年生まれ。高校時代に瀧口修造を知り、著作を読み始める。サラリーマン生活の傍ら、初出文献やデカルコマニーなどを収集。その後、早期退職し慶應義塾大学大学院文学研究科修士課程修了(美学・美術史学)。瀧口修造研究会会報「橄欖」共同編集人。ときの忘れものの「瀧口修造展Ⅰ~Ⅳ」を監修。また自らのコレクションにより「瀧口修造の光跡」展を5回開催中。富山県立近代美術館、渋谷区立松濤美術館、世田谷美術館、市立小樽文学館・美術館などの瀧口展に協力、図録にも寄稿。主な論考に「彼岸のオブジェ―瀧口修造の絵画思考と対物質の精神の余白に」(「太陽」、1993年4月)、「『瀧口修造の詩的実験』の構造と解釈」(「洪水」、2010年7月~2011年7月)、「瀧口修造―生涯と作品」(フランスのシュルレアリスム研究誌「メリュジーヌ」、2016年)など。
◆土渕信彦のエッセイ「瀧口修造の本」は毎月23日の更新ですが、今月から数回にわたり「駒井哲郎と瀧口修造」を特別連載します。
●ときの忘れものは青山から〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました。
阿部勤設計の新しい空間はWEBマガジン<コラージ2017年12月号18~24頁>に特集されています。JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531
E-mail:info@tokinowasuremono.com
営業時間=火曜~土曜の平日11時~19時。*日・月・祝日は休廊。
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