宮森敬子のエッセイ「ゆらぎの中で」第12回

次回作「祖母マツノの肖像」制作過程


前回は、ときの忘れもので10月に行われた展覧会のタイトル「集められた時間と空間」について書かせていただきました。

今回は、次回作のために、現在行っているリサーチ旅行について少し書きたいと思います。それは、第二次世界大戦以前にハワイで生まれ、その後日本に渡った私の祖母マツノに関するものです。

「祖母マツノの肖像」制作過程として、まず祖母の家族が住んでいた博多、祖父の故郷岩国、祖母が祖父と出会った大阪、母を産んだ神戸(芦屋)など、旅をしながら、各地で樹拓を採集して来ました。また、日系ハワイ2世の歴史研究家の方々に取材して、当時の様子や、伝えられていない苦労を聞いたり、文献を集めたりして、学んでいます。(その中でも特に、関西学院大学の山中速人教授のゼミが出版した『シュガーケーン・フィールドの辺りに生きて』は本当に丁寧に一人ひとりのライフヒストリーを伝えていて読み応えがあります)その後、キャンバスにドローイングを描き、その上に集めた樹拓を張り込んでゆきます。


祖父母の歴史

祖母マツノは戦前の日本で、「日英同時通訳兼タイピスト」のという技能を持って働いた後、岩国出身の祖父の嫁となって、母を含む3人の子供を産みました。その後ハワイに弟、友人や親戚を残しつつ、日本で第2次世界大戦を経験し、戦後は東京で子供を育て、祖父が亡くなった後もアメリカには帰らず、日本に骨を埋めた女性です。明治、大正、昭和、平成を生きた人でした。

202012宮森敬子001     結婚前の祖母マツノ              ハワイで友人と

ここに、4枚の写真があります。上の2枚は祖母マツノの結婚前、モダンガールらしい青春時代の写真です。祖母の両親は博多からハワイ島のヒロに新しい生活の場を求めて移民し、和菓子屋さんをしていました。祖母はそこの看板娘だったそうですが、高校を卒業する時になって、親の健康状態が悪くなり、一緒に博多に帰国しなければならなくなりました。

下の2点は戦後の住居、渋谷の家で撮影された写真です。木造日本家屋の母屋と離れ、それに洋館があり、はじめは祖母のお母さんも一緒に住んでいました。私の両親は、敷地内に2階建てのうちを建て、晩年の祖父母と一緒に過ごしました。私の中高、大学時代です。祖母は隣のうちから遊びに行くと、パンケーキの焼き方や色鮮やかなジェロの作り方を教えてくれたり、英語の宿題を手伝ってくれたりしました。

202012宮森敬子002
祖母とお母さんのりえさん(渋谷)             祖母の着物姿


祖母マツノの夫である岩佐護一は岩国の地主の長男で、旧制中学から京都大学法学部に進みました。一度は地元良家のお嬢さんと、お見合い結婚をしましたが、不幸なことに彼女を若くして亡くし、後にマツノと恋愛結婚しました。実は護一はオリンパス光学が戦争中、高品質のレンズを軍に提供していた責任を一人で取って、会社から退いたと聞きました。それから自分で貿易会社をつくり、当時渋谷の西原にあったオリンパスの社長宅を譲り受け、そこに品の良い庭と洋館を作って、休日は盆栽、苔、鯉、熱帯魚、碁、などを楽しんでいました。護一は正義感の強い人物で、政治家や経済人とも交流がありましたが、人に隔たりを作らず、誰にも平等に意見する人でしたので、多くの方に慕われていたようです。祖父らしいエピソードの一つは、京大時代の親友であった高見元男さん(注1)が、大本教の教祖出口王仁三郎に養子(後の出口日出麿)に取られ、大学に来なくなったことに腹をたてて、大本教本山に乗り込んでいった、というものです。日出麿さんを取り返しに行ったのに、逆に教祖の王仁三郎に可愛がられることとなり、「ワニが、ワニが、」(注2)といって、懐いていて、王仁三郎がつくったカラフルな茶碗や絵ももらっていました。(軸の一つは私が気に入って譲り受けました)

(注1)大本七十年史 (下巻 第八編 第一章 三代教主の継承 3 教主補 出口日出麿)には、
「二月のある日、親友岩佐護一の下宿で、同じ六高生で大本に入信した浜田有一から、「大本時報」を見せられ、その説明をきいて参綾を決意した」とあり、日出麿と祖父が親友関係にあったと記されていました。
(注2)(王仁三郎の「王仁」は通常「おに」と発音されますが、祖父のように「わに」と発音する方もいたようです)

お見合い結婚が主流だった当時の日本で、日系アメリカ人の祖母と恋愛結婚するという決断は、おそらく、文化、人種などの垣根を作らない、祖父の気質ならではだと思います。祖母も当時の一般的な日本男児とは違ったものを見て、惹かれたのでしょうか?ただ、今考えてみると、お客を招く大玄関へ続く道は、完璧な敷石といつもきれいに手入れされた植木があり、芝生も丁寧に刈られていて、ハワイのようなリラックスした雰囲気はない感じでした。住み込みのお手伝いさんがいて、子供3人の世話も一人でしていた訳ではないのに、昔のように第一線で働いて稼ぐこともしませんでした。妻として、大変大切にされたと思いますが、一方で、戦争によって隣人が自分の祖国を憎む様子を見せつけられ、戦後も故郷のハワイを訪れることもなく、着物を着て「日本人の奥様らしく」過ごした祖母の苦労は、想像を超えるものではなかったろうか、と今の私には思えます。

そして、どこかにできた傷跡が、私には世代を超えて時々、見える気がしています。私の中で、つけなければならない折り合いは、極めて個人的なことではありますけれど、それをしなくては、祖母も、母も、私も、この記憶の層から逃れることができないのではないか、と思っています。私が美術を行うことは、あらゆる記憶を、死ぬ前に、ひとまとまりの美しいものとして手放したい、と望んでいるからではないか、と最近感じています。そんなことを思いながら、かつて、祖母や祖父、幼い母と、同じ場所ですれ違ったかもしれない都市を訪ねて、ポツポツと歩きながら、道端で小石を拾い、樹木の肌に和紙をあて、木炭で擦り取りながら旅をしてきました。

202012宮森敬子003
祖母が母を生んだ神戸の芦屋(海岸)近くの樹拓(神戸)



美を感じる力について

生きるということをあまり真面目にやり過ぎてしまうと、人間は傷だらけになってしまうのだ、と思います。だから人は「忘れる」という大変便利なことができますし、「記憶の曖昧さ」は、人間にとっての救いでもある気がします。人は結局、各人の都合の良いように世界を感じることができる、と信じるなら、私はそれが美しいものになってくようにしたいと思っています。

一方で、美的感覚のない人間が、世界を自分の都合の良いように感じることが、どのような危険を孕むかということは、とりわけその人物が公共性を持って、世の動向を決める権力を持った時に、問題となって立ち現れます。人間によって壊された自然との関係や、人間同士の醜い関係。それらの多くは、過去のやり方によって、もっと美しいものとなれた可能性があります。ここで、ちょっと大本教の話に戻りますと、王仁三郎はよく「芸術こそが神」というようなことを言っていたそうです。一般に「神のための芸術」という概念はよくあると思います。ところが、「神様のために美しいものを作る・美しい行いをする」のではなくて、「芸術と神は一体のものだ」というのです。王仁三郎の考えは、私が美術に関わってきた人生が、それなりに有意義であった、と思わせてくれるものでした。

もちろん、現代は「芸術は美」である必要はないと思いますが、考えてみると、美しい、と感じることは、ただ、自然の均衡を感じること、のような気もします。何事が起こっても、最終的にそれが美しいものになれば、そこに救いがあると感じること、芸術を行ったり愛することで、誰でも最も大切なものに気づくことができる、そのような考えを否定する人もいるでしょうけれど、私は、芸術、特に美を感じる力に、不思議なエネルギーがあると思っています。(力があるからこそ、危険な思想だとされて、大本事件がおこってしまったのかもしれません)

202012宮森敬子004
祖父のうちに多くの作品が飾ってあった「錦帯橋」周辺の樹拓と旧制岩国中学の校庭で拾った小石(山口)



終わりに

「ときの忘れもの」で初めての展覧会を行うことが決まり、それに向けて一人でも多くの方に作品に興味を持っていただくため、「ブログ」という場を与えていただきました。自作について、こんなに長い間、定期的に語る機会はなかったのですが、なんとか最終回まで続けることができました。読んでいただいた方々に、心からお礼を申し上げます。

見ず知らずの方々に向かって、それが届いているかどうかもわからずに、自作について書く、というのは、当初はなかなか慣れず、辛いものでしたが、最後のあたりは、もう、あまり深く考えずに、(申し訳ないのですが)勝手に書かせていただきました。

こうしてブログ発信を行いながら準備していた展示ですが、ちょうどコロナ流行期間と重なってしまい、外出自粛ムードや入場制限などの厳しい条件の中での開催となりました。それでも阿部勤さんの素晴らしい空間に展示できることは、(易しくはなかったですが)大変モチベーションの上がる素晴らしい経験でしたし、画廊の皆さまが、本当に頑張ってくださいました。ご迷惑をたくさんおかけしましたけれど、今後も機会がありましたら、“存命作家”のインスタレーションも続けて行ってほしい、と願っています。

最後に、今まで読んでくださった方々、本当にありがとうございました。このブログを通して、少しでも作品に興味を持っていただくことができたら幸いです。そして、次回は更に多くの方に実際に作品を見ていただけますように。

202012宮森敬子005
祖母の実家近くの住吉神社とお墓のあったお寺近く(福岡)


(お知らせ)
202012宮森敬子006

記録集


*先の展覧会の記録集(日本語)は大変お待たせしていますが、既に入稿を済ませ、12月中に完成予定です。まだ数に余裕がございますので、郵送ご希望の方は、keiko.miyamori1@gmail.com までご連絡ください。PDF版は追ってホームページ (https://www.keikomiyamori.com/projects-jp)から、無料でダウンロードできるようにします。また、英語版は1月に完成予定です。その他、ご意見など、いつでも聞かせていただけたら幸いです。


*先の展覧会で展示された作品「I Am Still in New York」が、英文メディアに紹介されました。(英文のみ)
https://www.spoon-tamago.com/2020/11/27/keiko-miyamori-i-am-still-in-new-york/?fbclid=IwAR3f8tV1uJbpOBLl9fyYAVwCvw9v3C-wxMncurjPjSBb4YTVNZpgtjs37W0
(みやもり けいこ)

宮森敬子 Keiko MIYAMORI
1964年横浜市生まれ 。筑波大学芸術研究科絵画専攻日本画コース修了。和紙や木炭を使い、異なる時間や場所に存在する自然や人工物の組み合わせを、個と全体のつながりに注目した作品を作っている。

宮森敬子のエッセイ「ゆらぎの中で」は今月で終了です。ご愛読ありがとうございました。

●本日のお勧め作品は宮森敬子です。
miyamori-05-2宮森敬子 Keiko MIYAMORI 
Portrait of Myself, no. 3
2019年
麻布、木枠、和紙、木炭、チョーク、胡粉
185.0×323.0cm
サインあり
こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください

●ときの忘れものは青山から〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました。
阿部勤設計の新しい空間はWEBマガジン<コラージ2017年12月号18~24頁>に特集されています。JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531 
E-mail:info@tokinowasuremono.com 
営業時間=火曜~土曜の平日11時~19時。*日・月・祝日は休廊。