松本竣介研究ノート 第22回
危険な徘徊~街をスケッチして巡るということの危うさ
小松﨑拓男
図1 「軍機保護法」御署名原本 明治32年 法律第104号(国立公文書館デジタルアーカイブよりスクリーンショット)
図2 同上
さて皆さんは「軍機保護法」(図1,2)という法律の名前を聞いたことがあるだろうか。大きな論議を呼んだ「特定秘密保護法」と似ている。しかし「特定秘密保護法」は現在の法律だが、この「軍機保護法」というのは戦前の法律で、当然、今は廃止されていてない。昔の法律である。
1899年に成立したこの「軍機保護法」は、防衛研究所(注1)が発行している紀要の論文(注2)によれば「『軍事上秘密の事項又は図書物件』の保護を目的とした法律であ」(注3)り、さらに1937年に大幅な改正が行われ、戦後すぐに廃止された。つまり、ちょうど松本竣介が生きていた時代に施行されていた法律ということになる。
日清戦争後、日露戦争を前にした明治政府は、切迫する軍事情勢を背景に、軍事上の機密が漏洩することに対して、それまでの軍人や軍属を対象にした法律だけでは十分ではないと考え、より広い範囲の軍事機密の保護をする必要性から法律の整備に着手した。さらに戦時にのみに適用される刑法や陸・海軍刑法の改訂などを経て、平時においても軍事機密の漏洩を防ぐために、広く国民を対象とした法律としてこの「軍機保護法」を定めたのだ。この法律の罰則規定には極刑である死刑も含まれており、軍事機密の漏洩が重大な犯罪とされたことがよくわかる。さらに施行から約40年後、満州事変などの中国大陸での戦争拡大を受けて、1937年に大幅な改訂が行われた。この時に作られた法律を「改正軍機保護法」(図3,4)とも呼んでいる。これによって軍事機密の範囲は拡大し、内容もより詳細に、そして罰則も強化されている。
図3 「改正軍機保護法」御署名原本
昭和12年・法律第72号(国立公文書館デジタルアーカイブよりスクリーショット)
図4 同上
この他にも、「国家総動員法」(1938年)「軍用資源秘密保護法」(1939年)「国防保安法」(1941年)などといった関連する法規と共に、軍事機密の保護を名目に、国民の監視と取締が行われたのは周知の事実である。
なぜ、こんな話を今回書こうとしているのか、疑問に思う読者もいるだろう。実はこの話、これまで何回に渡って触れてきた松本竣介のスケッチ帖とも無縁ではないのだ。前掲の論文の中に「軍機保護法」が改正された折に、当時の陸軍大臣杉山元が改正点について述べた部分があるが、その中に次のような一文があり、「撮影、模写、測量等禁止の対象を防御営造物に準ずる施設(軍用電信所等)にまで拡大」(注4)された。これは、もともと基地、軍需工場や軍港などの軍事施設については、それらを写真に撮ったり、写生(模写)したりすることはできなかったが、それが関連施設と看做されるものにも拡大されたことを示している。
実は、松本竣介が生きていた時代においては、街中で建物を自由にスケッチできた訳ではなかったのだ。変電所や国会議事堂などを描くことは下手をするとこれらの法律によって犯罪と看做されかねない状況があったということである。実際、画家がスケッチをしていて、この法律が適用され検挙された事例があったかどうかはわからないが、調べたら何か出てくるかもしれない。
この法律が制定された当時においても、この法律の運用については多くの懸念が衆議院や貴族院での国会議員による質問の形で示されていた。例えば、偶然、意図せずに軍事機密に触れるようなものを写真に撮ってしまったり、描いていたりしたらなどの不安が払拭できていなかった。これに対して、政府はさまざまな法令の制定や改正の際には「近衛文磨首相からは『是(「国防保安法」:筆者注)が運用に付きましては、極めて慎重な考慮を必要とする』旨の答弁があり、また柳川平助司法大臣からも、司法当局としても『本法立案の精神たる間諜防止、国家機密の漏洩を予防する以外に之を他の目的に利用することは一切致さぬ』と明言している。」(注5)とあるように、不安を払拭しようとしている。
だがしかし、現実には「『(憲兵隊:筆者注)各隊における実情を観るに動すれば法規、通牒の趣旨の把握十分ならざる為、其の解釈取扱妥当を欠き不必要に民業を圧迫し、『行過ぎ』の形となりて現われあり』」(注6)ということもあった。実際、北海道大学の学生が「軍機保護法」違反によって検挙され、有罪になり投獄されたことを書いた書籍(注7)などもある。この学生は単に外国人教師に旅行での見聞を語っただけだったという。拷問による冤罪の例だろう。
こうした法令を見ると、松本竣介が街を徘徊し、ポケットに忍ばせた小さな手帖にスケッチを描いていることが、何かのんびりと絵筆を走らせていた画家の姿とは異なった、この時代のある切迫した空気が読み取れるような気がする。国会議事堂(図5)や変電所(図6)、あるいは工場や鉄道の風景(図7)も、軍事に関わることではないかと言われてしまえば、もはや言い訳すら難しいようにも思える。私たちは今、松本竣介の描いた建物や街の風景から、何を読み取ればいいのかを問われているような気もする。
図5 国会議事堂スケッチ
(『松本竣介手帖』「TATEMONO」より)
図6 変電所スケッチ(同上)
図7 鉄道スケッチ(同上)
注1 防衛省に所属する防衛政策研究機関で、防衛政策に関わる調査研究や自衛隊幹部育成の教育のほか、戦史資料の管理公開を行なっている。
注2 林武、和田朋幸、大八木敦裕「研究ノート 軍機保護法等の制定過程と問題点」『防衛研究所紀要』第14巻第1号 防衛省防衛研究所2011年12月
*以下「軍機保護法」やその他関連する法律の内容や成立過程のなどの本文の叙述に関しては本研究を参照している。
注3 前掲書 p.91
注4 同 p.95
注5 同 p.106 この答弁は「国防保安法」の審議において行われたものである。
注6 同 p.108
注7 同 上田誠吉『ある北大生の受難 国家秘密法の爪痕』花伝社 2013年
(こまつざき たくお)
●小松﨑拓男のエッセイ「松本竣介研究ノート」は毎月3日の更新です。
■小松﨑拓男 Takuo KOMATSUZAKI
千葉県生まれ。横浜そごう美術館、郡山市美術館準備室、平塚市美術館の主任学芸員を経て、NTTインターコミュニケーション・センター[ICC]学芸課長、広島市現代美術館学芸課長、副館長を歴任後、金沢美術工芸大学教授を2019年まで務める。現在、美術評論家連盟会員、文教大学情報学部非常勤講師として「美術」「サブカルチャー論」担当。
キュレーター時代には絵画をはじめとしてメディア・アートなど先端領域を含めた幅広い分野で近現代美術の展覧会を企画。村上隆、奈良美智、会田誠などを公立美術館で初めて本格的に紹介した。
主な展覧会に「TOKYO POP」(平塚市美術館)「New Media New Face / New York」(NTTインターコミュニケーション・センター[ICC])「絵画新世紀」「サイバー・アジア」(広島市現代美術館)「エコメトロ」(光州ビエンナーレ)などがある。
●ときの忘れものが青山から〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転して3年が経ちました。
もともと住宅だった阿部勤設計の建物LAS CASASを使って、毎月展覧会(Web展)を開催しています。
WEBマガジン<コラージ2017年12月号18~24頁>の特集も是非ご覧ください。
ときの忘れものはJR及び南北線の駒込駅南口から徒歩約8分です。
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図2 同上さて皆さんは「軍機保護法」(図1,2)という法律の名前を聞いたことがあるだろうか。大きな論議を呼んだ「特定秘密保護法」と似ている。しかし「特定秘密保護法」は現在の法律だが、この「軍機保護法」というのは戦前の法律で、当然、今は廃止されていてない。昔の法律である。
1899年に成立したこの「軍機保護法」は、防衛研究所(注1)が発行している紀要の論文(注2)によれば「『軍事上秘密の事項又は図書物件』の保護を目的とした法律であ」(注3)り、さらに1937年に大幅な改正が行われ、戦後すぐに廃止された。つまり、ちょうど松本竣介が生きていた時代に施行されていた法律ということになる。
日清戦争後、日露戦争を前にした明治政府は、切迫する軍事情勢を背景に、軍事上の機密が漏洩することに対して、それまでの軍人や軍属を対象にした法律だけでは十分ではないと考え、より広い範囲の軍事機密の保護をする必要性から法律の整備に着手した。さらに戦時にのみに適用される刑法や陸・海軍刑法の改訂などを経て、平時においても軍事機密の漏洩を防ぐために、広く国民を対象とした法律としてこの「軍機保護法」を定めたのだ。この法律の罰則規定には極刑である死刑も含まれており、軍事機密の漏洩が重大な犯罪とされたことがよくわかる。さらに施行から約40年後、満州事変などの中国大陸での戦争拡大を受けて、1937年に大幅な改訂が行われた。この時に作られた法律を「改正軍機保護法」(図3,4)とも呼んでいる。これによって軍事機密の範囲は拡大し、内容もより詳細に、そして罰則も強化されている。
図3 「改正軍機保護法」御署名原本昭和12年・法律第72号(国立公文書館デジタルアーカイブよりスクリーショット)
図4 同上この他にも、「国家総動員法」(1938年)「軍用資源秘密保護法」(1939年)「国防保安法」(1941年)などといった関連する法規と共に、軍事機密の保護を名目に、国民の監視と取締が行われたのは周知の事実である。
なぜ、こんな話を今回書こうとしているのか、疑問に思う読者もいるだろう。実はこの話、これまで何回に渡って触れてきた松本竣介のスケッチ帖とも無縁ではないのだ。前掲の論文の中に「軍機保護法」が改正された折に、当時の陸軍大臣杉山元が改正点について述べた部分があるが、その中に次のような一文があり、「撮影、模写、測量等禁止の対象を防御営造物に準ずる施設(軍用電信所等)にまで拡大」(注4)された。これは、もともと基地、軍需工場や軍港などの軍事施設については、それらを写真に撮ったり、写生(模写)したりすることはできなかったが、それが関連施設と看做されるものにも拡大されたことを示している。
実は、松本竣介が生きていた時代においては、街中で建物を自由にスケッチできた訳ではなかったのだ。変電所や国会議事堂などを描くことは下手をするとこれらの法律によって犯罪と看做されかねない状況があったということである。実際、画家がスケッチをしていて、この法律が適用され検挙された事例があったかどうかはわからないが、調べたら何か出てくるかもしれない。
この法律が制定された当時においても、この法律の運用については多くの懸念が衆議院や貴族院での国会議員による質問の形で示されていた。例えば、偶然、意図せずに軍事機密に触れるようなものを写真に撮ってしまったり、描いていたりしたらなどの不安が払拭できていなかった。これに対して、政府はさまざまな法令の制定や改正の際には「近衛文磨首相からは『是(「国防保安法」:筆者注)が運用に付きましては、極めて慎重な考慮を必要とする』旨の答弁があり、また柳川平助司法大臣からも、司法当局としても『本法立案の精神たる間諜防止、国家機密の漏洩を予防する以外に之を他の目的に利用することは一切致さぬ』と明言している。」(注5)とあるように、不安を払拭しようとしている。
だがしかし、現実には「『(憲兵隊:筆者注)各隊における実情を観るに動すれば法規、通牒の趣旨の把握十分ならざる為、其の解釈取扱妥当を欠き不必要に民業を圧迫し、『行過ぎ』の形となりて現われあり』」(注6)ということもあった。実際、北海道大学の学生が「軍機保護法」違反によって検挙され、有罪になり投獄されたことを書いた書籍(注7)などもある。この学生は単に外国人教師に旅行での見聞を語っただけだったという。拷問による冤罪の例だろう。
こうした法令を見ると、松本竣介が街を徘徊し、ポケットに忍ばせた小さな手帖にスケッチを描いていることが、何かのんびりと絵筆を走らせていた画家の姿とは異なった、この時代のある切迫した空気が読み取れるような気がする。国会議事堂(図5)や変電所(図6)、あるいは工場や鉄道の風景(図7)も、軍事に関わることではないかと言われてしまえば、もはや言い訳すら難しいようにも思える。私たちは今、松本竣介の描いた建物や街の風景から、何を読み取ればいいのかを問われているような気もする。
図5 国会議事堂スケッチ(『松本竣介手帖』「TATEMONO」より)
図6 変電所スケッチ(同上)
図7 鉄道スケッチ(同上)注1 防衛省に所属する防衛政策研究機関で、防衛政策に関わる調査研究や自衛隊幹部育成の教育のほか、戦史資料の管理公開を行なっている。
注2 林武、和田朋幸、大八木敦裕「研究ノート 軍機保護法等の制定過程と問題点」『防衛研究所紀要』第14巻第1号 防衛省防衛研究所2011年12月
*以下「軍機保護法」やその他関連する法律の内容や成立過程のなどの本文の叙述に関しては本研究を参照している。
注3 前掲書 p.91
注4 同 p.95
注5 同 p.106 この答弁は「国防保安法」の審議において行われたものである。
注6 同 p.108
注7 同 上田誠吉『ある北大生の受難 国家秘密法の爪痕』花伝社 2013年
(こまつざき たくお)
●小松﨑拓男のエッセイ「松本竣介研究ノート」は毎月3日の更新です。
■小松﨑拓男 Takuo KOMATSUZAKI
千葉県生まれ。横浜そごう美術館、郡山市美術館準備室、平塚市美術館の主任学芸員を経て、NTTインターコミュニケーション・センター[ICC]学芸課長、広島市現代美術館学芸課長、副館長を歴任後、金沢美術工芸大学教授を2019年まで務める。現在、美術評論家連盟会員、文教大学情報学部非常勤講師として「美術」「サブカルチャー論」担当。
キュレーター時代には絵画をはじめとしてメディア・アートなど先端領域を含めた幅広い分野で近現代美術の展覧会を企画。村上隆、奈良美智、会田誠などを公立美術館で初めて本格的に紹介した。
主な展覧会に「TOKYO POP」(平塚市美術館)「New Media New Face / New York」(NTTインターコミュニケーション・センター[ICC])「絵画新世紀」「サイバー・アジア」(広島市現代美術館)「エコメトロ」(光州ビエンナーレ)などがある。
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