「私が出会ったアートな人たち」第6回(最終回)
「中上邸イソザキホールとアートな人たち」
アートフル勝山の会 荒井由泰
いよいよ最終回となった。「私が出会ったアートな人たち」の中で一番重要かつ一番お世話になった人たちのことを記すこととする。イソザキホールの家主である中上夫妻には公私ともども、本当にお世話になった。夫妻が磯崎新設計の自宅を建てていただいたおかげで、アートフル勝山の会の拠点となり、たくさんのアーティストやアート好きの人々との交流が実現できた。また、建築にかかわる人との交流にも広がった。また、磯崎氏には中上邸のオープンパーティ(1983)と「磯崎新展」(1999)の2度、来勝いただいた。そして、最近では2019年プリツカー賞記念として企画展およびシンポジウムも開催させていただいた。我々にとっても、地域にとっても大切な人物だ。磯崎氏についても触れさせてもらおうと思っている。
中上邸イソザキホール
① 中上光雄・陽子夫妻(光雄・てるお 1926-2015、陽子・ようこ 1932-1996)
中上夫妻のことを書こうとしたが、あまりに身近な存在だったこともあり、コレクションのきっかけなど、知らなすぎることに気づき、あわてて娘の啓子さんに電話をかけ、質問をする始末であった。
中上夫妻(中二人)と原田夫妻(両隣) 1987
中上光雄氏は湘南(逗子市)生まれで、第四高等学校(現金沢大学医学部)を卒業後、金沢大学病院に勤務した。勝山市の深谷病院の長女であった深谷陽子さんとの縁組で勝山に来られ、深谷病院の医師として、長く地域医療に貢献され、福井県の医師会長も歴任された。荒井家と深谷家は姻戚関係にあるうえ、アートを通じての交流もあり、深いお付き合いをさせてもらった。
中上先生が書かれた文章が残っていないので、いつからアートコレクションをはじめたか定かではないが、啓子さんからの話では勝山での創造美育運動の推進者ら(中村一郎、原田勇、堀栄治)が「こどもの持つ生命力や可能性を伸ばし、創造力の発揮の場」とする勝山野外美術学校を1963年にスタートさせており、そのあたりがスタートラインのようだ。実際、啓子さん、哲雄さん(長男)とも野外美術学校の1期生として参加しており、当時、その父兄として創美の先生方との出会いがあった。その後も二人は野外美術学校に何回も参加し、中上先生もそこで絵も描かれていたようだ。美術にはそもそも関心があったうえに、創美の先生方との交流から刺激を受け、小コレクター魂に火がついたに違いない。そして、瑛九、靉嘔、オノサト・トシノブ、泉茂へとコレクションの対象が広がり、立派なコレクションの形成に至った。それも、陽子夫人との二人三脚でアートやコレクションに情熱を注がれた。実際、展覧会のオープニングパーティなどには必ず二人で出かけられた。先生がお忙しい時には陽子さんがお一人か子供さんとともに足を運ばれた。1983年に中上邸イソザキホールが完成し、アートフル勝山の会の活動拠点となったが、いつもホスト・ホステス役としてお客様をあたたかく迎えて下さる姿が思い出される。
泉茂と中上夫妻、私 (泉茂宅にて)
靉嘔と中上夫妻、私 (大野市の靉嘔展にて)
北川民次の卒寿を祝う会での中上夫妻(1983)
アートフル勝山の会で企画展や事業を開催するにあたり、いつも中上先生と相談し、決めてきた。スムーズな話が通常で、あとは任してもらうことがほとんどだった。アートフルでは基本的にはポスターを作り、作家(アーティスト)をゲストに迎え、ギャラ―トークそしてレセプションを行ってきた。その財源を作品の販売手数料に求めていたので、広報と販売努力を積極的に行った。先生と自分の購入をベースに、作品購入者を増やす努力をしたが、いつも黒字になるとは限らない。時には支出が上回る時がある。その時はパトロンとして、先生のお世話になった。まさに、アートフルの活動を30年にわたり続けられたのは、中上先生の存在が大きい。
また、私が好みの作品を自分のコレクションに加えた際に先生のところに作品を持ちこみ、感想をもとめたことが何回もあった。コレクションを見て、評価してくれる人がいることはコレクションの励みだ。コレクションの苦労と喜びを共感できる存在の大きさを今更ながら感ずる。
富山県利賀村で1982年に鈴木忠志が主宰する日本初の世界演劇祭「利賀フェスティバル」がスタートしたが、アートフル勝山の会では切符と宿を手配し、参加者を募って、演劇祭を楽しむ企画を立てた。切符の手配では陽子夫人に活躍いただいた。中上夫妻とともに、アートフルのメンバーそしてゲストたちが車を連ね、利賀村に集う会が何年か続いた。当時の資料を探すが見つからない。89年と91年の写真だけ見つかった。ゲストに綿貫夫妻や吉原英里さんの顔もあり、今となれば懐かしい思い出だ。演劇自体は難解ではあったが、磯崎新設計の野外劇場での不思議なアート体験はいまだに心に残っている。この企画は磯崎先生が演劇祭に関わっていたことに起因してはじめた。磯崎先生のおかげで世界が広がった訳だ。
利賀フェスティバル89ポスター
利賀フェスティバルでの集合写真(磯崎新設計 野外劇場の舞台で 1989)
利賀フェスティバルにて(1891)
野外劇場
富山県利賀村の野外劇場
陽子夫人は1996年の3月に逝去された。その年の6月に「阪神・淡路大震災全国ポスター展イン勝山:中上陽子さんを偲んで」展を開催した。ゲストに元永定正夫妻をお招きした。元永先生にはポスターにサインをお願いした。レセプションにたくさんの人が集まり、寂しい想いをされていた中上先生への励ましの機会となった。3日間の開催だったが314点ものポスターを販売できた。
「阪神・淡路大震災全国ポスター展イン勝山:中上陽子さんを偲んで」(1996)元永夫妻と
中上先生が体調を崩されたこともあり、イソザキホールでのアートフル主催の企画展は「柄澤齊木口木版の世界展」(2007)が最後になってしまった。
2015年、福井県立美術館主催で「福井の小コレクター運動とアートフル勝山の歩み―中上光雄・陽子コレクションによる―」展が企画された。中上コレクションの瑛九の名作「黄色いかげ」(1959)等を県立美術館で展示することは、福井の教員たちが小コレクター運動を通じ、「瑛九」を支持し、支えた物語を広く知らせる貴重な機会となった。さらには結果的には小コレクター運動から大コレクターになった中上夫妻のコレクションの軌跡を見てもらう好機でもあった。この展覧会は2015年1月3日~2月8日に開催された。綿貫夫妻が展覧会とイソザキホールの見学ツアーを企画し、東京からも多くの方に参加があった。中上哲雄さん、娘の啓子さんを交えてのホールでのレセプションが懐かしく思い出される。会期中のさなか、1月27日に中上先生が逝去された。
中上夫妻は鬼籍に入られたが、長男の哲雄さんが、イソザキホールとともに、大切な作品群を受け継いだ。うれしい限りだ。現在、私が中上邸イソザキホールのカギを預かり、管理させてもらっている。磯崎新建築そして中上コレクションに関心のある方にはできるだけ案内させてもらっている。希望者があれば「ときの忘れもの」経由で結構ですので問い合わせください。
② 磯崎新(1931~)
磯崎氏については建築界のノーベル賞と言われるプリツカー賞を受賞した高名な建築家であり、皆様に紹介するまでもないが、人口2万4千人の小都市・福井県勝山市に氏の設計した個人住宅が2棟ある。そして今や建物そのものが文化財と位置付けられ、地域の大切な宝となっている。
なぜ、勝山市に磯崎新設計の個人住宅が存在するのか?興味深い物語がそこにある。「福井の小コレクター運動とアートフル勝山の歩み」の展覧会図録に綿貫不二夫氏が磯崎氏と中上陽子さんの出会いそして顛末が詳細に書かれているので要点のみ記すと、家を新築するにあたり、中上先生が綿貫氏に建築家を紹介して欲しいと依頼した。当時、現代版画センターで磯崎氏に版画制作を依頼していたご縁で、おそるおそる先生に話をしたところ、クライアントの話を聞こうとなった。そこに陽子夫人が登場する。夫人は当時、建築界のスーパースターである磯崎先生のことをほとんど知らなかったこともあり、まさに恐れ知らずで希望の間取りを切り出した。綿貫氏は冷や汗ものだったようだ。話を聞いたあと、氏は一番の希望はなんですか?と尋ねられた。その返事がふるっている「私は家事なんか嫌いで、台所なんて要りませんから、主人と二人で集めた絵をたくさん飾れる家にしてください」と。この言葉が巨匠を動かし、磯崎建築が勝山にやってきた。また、鹿島建設がぜひ、施工を請け負いたいとの希望もあり、個人住宅ではめずらしく、ゼネコンの施工となった。世界のイソザキの名に恥じぬ建築物にすべく技術を尽くしたこともあり、大赤字の仕事となったようだ。1983年に中上邸が完成し、磯崎夫妻を迎えて盛大なパーティを開催した。先生の許しを得て、「中上邸イソザキホール」と命名し、アートフル勝山の活動拠点となり多くのアーティストを迎える場となった。
もう一棟の斉藤邸についても少し触れると、近所に住む斉藤さんが、何度か中上邸を訪れるうち、「私もこんな住宅に住みたい」と強く思われ、磯崎氏にお願いして実現してしまった。豪快な話だ。中上邸があったおかげで斉藤邸もできた。この住宅も鹿島建設が施工した。この建物は中上邸と外観が全く違う。四角い外観だが、内部にドームが潜んでいる。
磯崎氏の展覧会は3回開催した。「磯崎新、アンディ・ウォーホル2人展」(1983)、「磯崎新展」(1999)、「プリツカー賞受賞記念 磯崎新作品展」(2019)
1999年の「磯崎新展」には磯崎夫妻が来勝され、建築を志す若い人たちも大勢押しかけ、にぎやかな展覧会となった。また、プリツカー賞受賞記念の展覧会では、氏の来場は叶わなかったが、特別企画として「だれも知らない建築のはなし」(石山友美監督作品)の上映と「磯崎建築を語る」と題しての対談(植田実X石山友美)が実現できた。展覧会は作品とともに中上邸のすべてが見学できる企画としたため、県内・市内からの来場者のみならず、県外からもネットで情報を得た若者が多数訪れた。この企画展を通して、磯崎氏は建築家としてのみならず、プロデューサーとして、多くの若手建築家にチャンスを与え、建築家の育成にも大きく貢献されたことを知り、氏の偉大さを改めて認識した。また、プリツカー賞受賞についても日本人で8人目だが、どうしてこんなに遅くなったのかの疑問も判明した。磯崎氏は1979年にできたプリツカー賞の設立にかかわり、長く審査員を務めていたため、後回しになったようだ。
「磯崎新展」(1999)磯崎氏を囲んでの集合写真
イソザキホールの磯崎氏
若者と語る磯崎氏
イソザキホール内部 磯崎新作品展(2019)
特別企画 対談:植田実x石山友美 花月楼にて
とにかく、磯崎氏に中上邸の設計を引き受けていただいたおかげで、アートフルの活動が輝きを増し、さらには新しい文化財として地域の発信力につながった。磯崎氏には改めて感謝する次第だ。あとはこの文化財を守り、いかに生かすかは我々に託された課題となった。
今回の「私が出会ったアートな人たち」の最後を締めるにあたり、一番お世話になった人のことを述べねばならない。綿貫不二夫、令子夫妻である。今はなき「現代版画センター」からのお付き合いだ。私がニューヨークにいる1974年に会員となり、その後も版画センター・ときの忘れものを通じてコレクションを充実させてもらうとともにアートフルの活動の一番の支援者であった。私が1978年に設立した「アートフル勝山の会」の企画展では、版画センター時代のみならず、「ときの忘れもの」にも様々な形でお世話になった。お二人の協力があったればこそ、実現できたことも多い。共同企画や共同エディションの形もあった。小コレクター運動として作品販売に努力することでアートフルの財源確保にもつながった。持ちつ持たれつの関係ではあったが、いつも裏方役で支えていただき、感謝の念に堪えない。
また、綿貫夫妻には我がふるさと・勝山に愛着を感じていただき、地域の情報発信に協力いただいた。そして現在もお世話になっている。特に毎年2月の末に開催される「勝山左義長まつり」をいたく気に入っていただき、毎年ゲストを連れて、祭りに参加いただいている。(今年の祭りは神事のみとなり、お祭りは中止になった)お二人を「勝山市観光大使」に任命したい気持ちだ。
綿貫夫妻によって版画、磯崎新氏、アーティスト達、そして夫妻の人脈を通じて大きく、太い絆ができた。おかげで私の人生の彩りが豊かになった。この点、心より御礼申し上げたい。今後ともこの絆を大切にしたいと思っている。
最後までお読みいただいたみなさんに御礼を申し上げ、今回のエッセイを閉じる。ありがとうございました。
(あらい よしやす)
・荒井由泰のエッセイ「私が出会ったアートな人たち」は今回で最終回です。ご愛読ありがとうございました。
■荒井由泰(あらいよしやす)
1948年(昭和23年)福井県勝山市生まれ。会社役員/勝山商工会議所会頭/版画コレクター
1974年に「現代版画センター」の会員になる
1978年アートフル勝山の会設立 小コレクター運動を30年余実践してきた
ときのわすれものブログに「マイコレクション物語」等を執筆
●こちらのブログもお読みください
2013年05月04日『磯崎新の住宅建築の傑作が一般公開~福井県勝山』
2015年01月22日『「台所なんて要りませんから」』
2015年01月29日『訃報 中上光雄先生』
2015年02月27日『新人Mの「現代美術と磯崎建築~北陸の冬を楽しむツアー」レポート』
2017年01月27日『福井県勝山の中上光雄・陽子ご夫妻と瑛九』
2019年03月08日『磯崎新先生がプリツカー賞を受賞』
2019年08月28日『福井県勝山の中上邸イソザキホールで「磯崎新展」9月13日(金)~16日(月・祭日)』
2019年11月02日『磯崎新展が伊香保、大分、水戸、奈義町で開催』
●『福井の小コレクター運動とアートフル勝山の歩み―中上光雄・陽子コレクションによる―』図録
2015年 96ページ 25.7x18.3cm
発行:中上邸イソザキホール運営委員会(荒井由泰、中上光雄、中上哲雄、森下啓子)
出品作家:北川民次、難波田龍起、瑛九、岡本太郎、オノサト・トシノブ、泉茂、元永定正、 木村利三郎、丹阿弥丹波子、吉原英雄、靉嘔、磯崎新、池田満寿夫、野田哲也、関根伸夫、小野隆生、舟越桂、北川健次、土屋公雄(19作家150点)
執筆:西村直樹(福井県立美術館学芸員)、荒井由泰(アートフル勝山の会代表)、野田哲也(画家)、丹阿弥丹波子(画家)、北川健次(美術家・美術評論)、綿貫不二夫
ときの忘れもので扱っています(頒価:1,100円(税込み))。メールにてお申し込みください。
●ときの忘れものが青山から〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転して3年が経ちました。もともと住宅だった阿部勤設計の建物LAS CASASを使って、毎月展覧会(Web展)を開催しています。
WEBマガジン<コラージ2017年12月号18~24頁>の特集も是非ご覧ください。
ときの忘れものはJR及び南北線の駒込駅南口から徒歩約8分です。
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531
E-mail:info@tokinowasuremono.com
営業時間=火曜~土曜の平日11時~19時。*日・月・祝日は休廊。
「中上邸イソザキホールとアートな人たち」
アートフル勝山の会 荒井由泰
いよいよ最終回となった。「私が出会ったアートな人たち」の中で一番重要かつ一番お世話になった人たちのことを記すこととする。イソザキホールの家主である中上夫妻には公私ともども、本当にお世話になった。夫妻が磯崎新設計の自宅を建てていただいたおかげで、アートフル勝山の会の拠点となり、たくさんのアーティストやアート好きの人々との交流が実現できた。また、建築にかかわる人との交流にも広がった。また、磯崎氏には中上邸のオープンパーティ(1983)と「磯崎新展」(1999)の2度、来勝いただいた。そして、最近では2019年プリツカー賞記念として企画展およびシンポジウムも開催させていただいた。我々にとっても、地域にとっても大切な人物だ。磯崎氏についても触れさせてもらおうと思っている。
中上邸イソザキホール① 中上光雄・陽子夫妻(光雄・てるお 1926-2015、陽子・ようこ 1932-1996)
中上夫妻のことを書こうとしたが、あまりに身近な存在だったこともあり、コレクションのきっかけなど、知らなすぎることに気づき、あわてて娘の啓子さんに電話をかけ、質問をする始末であった。
中上夫妻(中二人)と原田夫妻(両隣) 1987中上光雄氏は湘南(逗子市)生まれで、第四高等学校(現金沢大学医学部)を卒業後、金沢大学病院に勤務した。勝山市の深谷病院の長女であった深谷陽子さんとの縁組で勝山に来られ、深谷病院の医師として、長く地域医療に貢献され、福井県の医師会長も歴任された。荒井家と深谷家は姻戚関係にあるうえ、アートを通じての交流もあり、深いお付き合いをさせてもらった。
中上先生が書かれた文章が残っていないので、いつからアートコレクションをはじめたか定かではないが、啓子さんからの話では勝山での創造美育運動の推進者ら(中村一郎、原田勇、堀栄治)が「こどもの持つ生命力や可能性を伸ばし、創造力の発揮の場」とする勝山野外美術学校を1963年にスタートさせており、そのあたりがスタートラインのようだ。実際、啓子さん、哲雄さん(長男)とも野外美術学校の1期生として参加しており、当時、その父兄として創美の先生方との出会いがあった。その後も二人は野外美術学校に何回も参加し、中上先生もそこで絵も描かれていたようだ。美術にはそもそも関心があったうえに、創美の先生方との交流から刺激を受け、小コレクター魂に火がついたに違いない。そして、瑛九、靉嘔、オノサト・トシノブ、泉茂へとコレクションの対象が広がり、立派なコレクションの形成に至った。それも、陽子夫人との二人三脚でアートやコレクションに情熱を注がれた。実際、展覧会のオープニングパーティなどには必ず二人で出かけられた。先生がお忙しい時には陽子さんがお一人か子供さんとともに足を運ばれた。1983年に中上邸イソザキホールが完成し、アートフル勝山の会の活動拠点となったが、いつもホスト・ホステス役としてお客様をあたたかく迎えて下さる姿が思い出される。
泉茂と中上夫妻、私 (泉茂宅にて)
靉嘔と中上夫妻、私 (大野市の靉嘔展にて)
北川民次の卒寿を祝う会での中上夫妻(1983)アートフル勝山の会で企画展や事業を開催するにあたり、いつも中上先生と相談し、決めてきた。スムーズな話が通常で、あとは任してもらうことがほとんどだった。アートフルでは基本的にはポスターを作り、作家(アーティスト)をゲストに迎え、ギャラ―トークそしてレセプションを行ってきた。その財源を作品の販売手数料に求めていたので、広報と販売努力を積極的に行った。先生と自分の購入をベースに、作品購入者を増やす努力をしたが、いつも黒字になるとは限らない。時には支出が上回る時がある。その時はパトロンとして、先生のお世話になった。まさに、アートフルの活動を30年にわたり続けられたのは、中上先生の存在が大きい。
また、私が好みの作品を自分のコレクションに加えた際に先生のところに作品を持ちこみ、感想をもとめたことが何回もあった。コレクションを見て、評価してくれる人がいることはコレクションの励みだ。コレクションの苦労と喜びを共感できる存在の大きさを今更ながら感ずる。
富山県利賀村で1982年に鈴木忠志が主宰する日本初の世界演劇祭「利賀フェスティバル」がスタートしたが、アートフル勝山の会では切符と宿を手配し、参加者を募って、演劇祭を楽しむ企画を立てた。切符の手配では陽子夫人に活躍いただいた。中上夫妻とともに、アートフルのメンバーそしてゲストたちが車を連ね、利賀村に集う会が何年か続いた。当時の資料を探すが見つからない。89年と91年の写真だけ見つかった。ゲストに綿貫夫妻や吉原英里さんの顔もあり、今となれば懐かしい思い出だ。演劇自体は難解ではあったが、磯崎新設計の野外劇場での不思議なアート体験はいまだに心に残っている。この企画は磯崎先生が演劇祭に関わっていたことに起因してはじめた。磯崎先生のおかげで世界が広がった訳だ。
利賀フェスティバル89ポスター
利賀フェスティバルでの集合写真(磯崎新設計 野外劇場の舞台で 1989)
利賀フェスティバルにて(1891)
野外劇場
富山県利賀村の野外劇場陽子夫人は1996年の3月に逝去された。その年の6月に「阪神・淡路大震災全国ポスター展イン勝山:中上陽子さんを偲んで」展を開催した。ゲストに元永定正夫妻をお招きした。元永先生にはポスターにサインをお願いした。レセプションにたくさんの人が集まり、寂しい想いをされていた中上先生への励ましの機会となった。3日間の開催だったが314点ものポスターを販売できた。
「阪神・淡路大震災全国ポスター展イン勝山:中上陽子さんを偲んで」(1996)元永夫妻と中上先生が体調を崩されたこともあり、イソザキホールでのアートフル主催の企画展は「柄澤齊木口木版の世界展」(2007)が最後になってしまった。
2015年、福井県立美術館主催で「福井の小コレクター運動とアートフル勝山の歩み―中上光雄・陽子コレクションによる―」展が企画された。中上コレクションの瑛九の名作「黄色いかげ」(1959)等を県立美術館で展示することは、福井の教員たちが小コレクター運動を通じ、「瑛九」を支持し、支えた物語を広く知らせる貴重な機会となった。さらには結果的には小コレクター運動から大コレクターになった中上夫妻のコレクションの軌跡を見てもらう好機でもあった。この展覧会は2015年1月3日~2月8日に開催された。綿貫夫妻が展覧会とイソザキホールの見学ツアーを企画し、東京からも多くの方に参加があった。中上哲雄さん、娘の啓子さんを交えてのホールでのレセプションが懐かしく思い出される。会期中のさなか、1月27日に中上先生が逝去された。
中上夫妻は鬼籍に入られたが、長男の哲雄さんが、イソザキホールとともに、大切な作品群を受け継いだ。うれしい限りだ。現在、私が中上邸イソザキホールのカギを預かり、管理させてもらっている。磯崎新建築そして中上コレクションに関心のある方にはできるだけ案内させてもらっている。希望者があれば「ときの忘れもの」経由で結構ですので問い合わせください。
② 磯崎新(1931~)
磯崎氏については建築界のノーベル賞と言われるプリツカー賞を受賞した高名な建築家であり、皆様に紹介するまでもないが、人口2万4千人の小都市・福井県勝山市に氏の設計した個人住宅が2棟ある。そして今や建物そのものが文化財と位置付けられ、地域の大切な宝となっている。
なぜ、勝山市に磯崎新設計の個人住宅が存在するのか?興味深い物語がそこにある。「福井の小コレクター運動とアートフル勝山の歩み」の展覧会図録に綿貫不二夫氏が磯崎氏と中上陽子さんの出会いそして顛末が詳細に書かれているので要点のみ記すと、家を新築するにあたり、中上先生が綿貫氏に建築家を紹介して欲しいと依頼した。当時、現代版画センターで磯崎氏に版画制作を依頼していたご縁で、おそるおそる先生に話をしたところ、クライアントの話を聞こうとなった。そこに陽子夫人が登場する。夫人は当時、建築界のスーパースターである磯崎先生のことをほとんど知らなかったこともあり、まさに恐れ知らずで希望の間取りを切り出した。綿貫氏は冷や汗ものだったようだ。話を聞いたあと、氏は一番の希望はなんですか?と尋ねられた。その返事がふるっている「私は家事なんか嫌いで、台所なんて要りませんから、主人と二人で集めた絵をたくさん飾れる家にしてください」と。この言葉が巨匠を動かし、磯崎建築が勝山にやってきた。また、鹿島建設がぜひ、施工を請け負いたいとの希望もあり、個人住宅ではめずらしく、ゼネコンの施工となった。世界のイソザキの名に恥じぬ建築物にすべく技術を尽くしたこともあり、大赤字の仕事となったようだ。1983年に中上邸が完成し、磯崎夫妻を迎えて盛大なパーティを開催した。先生の許しを得て、「中上邸イソザキホール」と命名し、アートフル勝山の活動拠点となり多くのアーティストを迎える場となった。
もう一棟の斉藤邸についても少し触れると、近所に住む斉藤さんが、何度か中上邸を訪れるうち、「私もこんな住宅に住みたい」と強く思われ、磯崎氏にお願いして実現してしまった。豪快な話だ。中上邸があったおかげで斉藤邸もできた。この住宅も鹿島建設が施工した。この建物は中上邸と外観が全く違う。四角い外観だが、内部にドームが潜んでいる。
磯崎氏の展覧会は3回開催した。「磯崎新、アンディ・ウォーホル2人展」(1983)、「磯崎新展」(1999)、「プリツカー賞受賞記念 磯崎新作品展」(2019)
1999年の「磯崎新展」には磯崎夫妻が来勝され、建築を志す若い人たちも大勢押しかけ、にぎやかな展覧会となった。また、プリツカー賞受賞記念の展覧会では、氏の来場は叶わなかったが、特別企画として「だれも知らない建築のはなし」(石山友美監督作品)の上映と「磯崎建築を語る」と題しての対談(植田実X石山友美)が実現できた。展覧会は作品とともに中上邸のすべてが見学できる企画としたため、県内・市内からの来場者のみならず、県外からもネットで情報を得た若者が多数訪れた。この企画展を通して、磯崎氏は建築家としてのみならず、プロデューサーとして、多くの若手建築家にチャンスを与え、建築家の育成にも大きく貢献されたことを知り、氏の偉大さを改めて認識した。また、プリツカー賞受賞についても日本人で8人目だが、どうしてこんなに遅くなったのかの疑問も判明した。磯崎氏は1979年にできたプリツカー賞の設立にかかわり、長く審査員を務めていたため、後回しになったようだ。
「磯崎新展」(1999)磯崎氏を囲んでの集合写真
イソザキホールの磯崎氏
若者と語る磯崎氏
イソザキホール内部 磯崎新作品展(2019)
特別企画 対談:植田実x石山友美 花月楼にてとにかく、磯崎氏に中上邸の設計を引き受けていただいたおかげで、アートフルの活動が輝きを増し、さらには新しい文化財として地域の発信力につながった。磯崎氏には改めて感謝する次第だ。あとはこの文化財を守り、いかに生かすかは我々に託された課題となった。
今回の「私が出会ったアートな人たち」の最後を締めるにあたり、一番お世話になった人のことを述べねばならない。綿貫不二夫、令子夫妻である。今はなき「現代版画センター」からのお付き合いだ。私がニューヨークにいる1974年に会員となり、その後も版画センター・ときの忘れものを通じてコレクションを充実させてもらうとともにアートフルの活動の一番の支援者であった。私が1978年に設立した「アートフル勝山の会」の企画展では、版画センター時代のみならず、「ときの忘れもの」にも様々な形でお世話になった。お二人の協力があったればこそ、実現できたことも多い。共同企画や共同エディションの形もあった。小コレクター運動として作品販売に努力することでアートフルの財源確保にもつながった。持ちつ持たれつの関係ではあったが、いつも裏方役で支えていただき、感謝の念に堪えない。
また、綿貫夫妻には我がふるさと・勝山に愛着を感じていただき、地域の情報発信に協力いただいた。そして現在もお世話になっている。特に毎年2月の末に開催される「勝山左義長まつり」をいたく気に入っていただき、毎年ゲストを連れて、祭りに参加いただいている。(今年の祭りは神事のみとなり、お祭りは中止になった)お二人を「勝山市観光大使」に任命したい気持ちだ。
綿貫夫妻によって版画、磯崎新氏、アーティスト達、そして夫妻の人脈を通じて大きく、太い絆ができた。おかげで私の人生の彩りが豊かになった。この点、心より御礼申し上げたい。今後ともこの絆を大切にしたいと思っている。
最後までお読みいただいたみなさんに御礼を申し上げ、今回のエッセイを閉じる。ありがとうございました。
(あらい よしやす)
・荒井由泰のエッセイ「私が出会ったアートな人たち」は今回で最終回です。ご愛読ありがとうございました。
■荒井由泰(あらいよしやす)
1948年(昭和23年)福井県勝山市生まれ。会社役員/勝山商工会議所会頭/版画コレクター
1974年に「現代版画センター」の会員になる
1978年アートフル勝山の会設立 小コレクター運動を30年余実践してきた
ときのわすれものブログに「マイコレクション物語」等を執筆
●こちらのブログもお読みください
2013年05月04日『磯崎新の住宅建築の傑作が一般公開~福井県勝山』
2015年01月22日『「台所なんて要りませんから」』
2015年01月29日『訃報 中上光雄先生』
2015年02月27日『新人Mの「現代美術と磯崎建築~北陸の冬を楽しむツアー」レポート』
2017年01月27日『福井県勝山の中上光雄・陽子ご夫妻と瑛九』
2019年03月08日『磯崎新先生がプリツカー賞を受賞』
2019年08月28日『福井県勝山の中上邸イソザキホールで「磯崎新展」9月13日(金)~16日(月・祭日)』
2019年11月02日『磯崎新展が伊香保、大分、水戸、奈義町で開催』
●『福井の小コレクター運動とアートフル勝山の歩み―中上光雄・陽子コレクションによる―』図録
2015年 96ページ 25.7x18.3cm発行:中上邸イソザキホール運営委員会(荒井由泰、中上光雄、中上哲雄、森下啓子)
出品作家:北川民次、難波田龍起、瑛九、岡本太郎、オノサト・トシノブ、泉茂、元永定正、 木村利三郎、丹阿弥丹波子、吉原英雄、靉嘔、磯崎新、池田満寿夫、野田哲也、関根伸夫、小野隆生、舟越桂、北川健次、土屋公雄(19作家150点)
執筆:西村直樹(福井県立美術館学芸員)、荒井由泰(アートフル勝山の会代表)、野田哲也(画家)、丹阿弥丹波子(画家)、北川健次(美術家・美術評論)、綿貫不二夫
ときの忘れもので扱っています(頒価:1,100円(税込み))。メールにてお申し込みください。
●ときの忘れものが青山から〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転して3年が経ちました。もともと住宅だった阿部勤設計の建物LAS CASASを使って、毎月展覧会(Web展)を開催しています。
WEBマガジン<コラージ2017年12月号18~24頁>の特集も是非ご覧ください。
ときの忘れものはJR及び南北線の駒込駅南口から徒歩約8分です。
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531
E-mail:info@tokinowasuremono.com
営業時間=火曜~土曜の平日11時~19時。*日・月・祝日は休廊。
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