松本竣介研究ノート 第30回
故郷
小松﨑拓男
花巻、盛岡というと、松本竣介が幼少期に暮らした故郷、岩手という印象を受けるだろう。だが、もしこの故郷を生まれた場所、出生地だというなら、厳密な意味では、岩手が故郷であるというのは誤りになる。なぜなら、松本竣介は東京の生まれだからである。
評伝『松本竣介』の朝日晃によれば、「明治四十五年四月十九日、東京青山(現・渋谷区渋谷一丁目)で生まれる」(注1)とある。さらに、より詳しくは、『松本竣介展 生誕100年』のカタログにある年譜では「東京都豊多摩郡渋谷町大字青山北町七丁目27番地(現在の渋谷区渋谷一丁目6番1号)」(注2)となっている。
図1 国土地理院「地図・空中写真閲覧サービス」のスクリーンショット
1936年当時の渋谷駅周辺の空中写真。赤丸で囲まれた辺りに松本竣介の生家があったと推測される。赤丸斜め左下に当時の渋谷駅が見えている。
国土地理院の「地図・空中写真閲覧サービス」には古い地図や航空写真のデータがあり、閲覧が可能だ。生まれたときから20年以上経ってしまってはいるが、1936年の空中写真があった(図1)。現在地を確かめてみると渋谷駅から近い。新宿寄りの東口から宮益坂を登り切って左方向に曲がって少し奥に行ったあたりだろうか。空中写真の中で赤い丸で囲んだ辺りかと思われるが、高精細の画像ではないので詳細はわからない。いまでは大都会東京の中心地、高層ビルやオフィスビルが林立する街ということになるが、当時は緑も多くあり、人家も木造の平屋が並んでいたようにみえる。
この辺りが松本竣介の生誕の地になる。東京の真ん中だ。そしてその後、芝田町(現・港区三田周辺)に転居したとあるが、この場所がいま手元にある資料や、この国土地理院の地図情報ではわからない。国土地理院のサイトにある画像は、解像度を低く設定してあり、地図内に書かれた地名まで読み取るのが難しいのだ。そのほかのネットの古地図情報なども調べてみたが、芝田町は一丁目から九丁目まであったことはわかったものの、現在地は三田だけではなく、芝などの地名が上がっていて、どのように三田と判断できたのかもよくわからない。この文章を読んでいるどなたか、ネットで明治や大正の古地図を調べる方法をご存知の方がいたら、お教えいただきたいものと思うのだが………。
学生時代から美術史の研究に関しては、まずは「事実」が知りたいと思っている。もちろん直観力も、想像力も大事ではあるが、あまりにそれが過ぎると、作品の解釈にしても、また美術家の生涯にしても根拠のないファンタジーや夢物語になってしまう。恩師たちの教えてくれた、証拠を揃え、事実を追う実証的な研究態度はやはり重要だ。松本竣介が1929年に上京してきた折の住所を、朝日晃が現在の雑司が谷としていたものを、古い地図を調べ、西池袋と訂正できたのも、先入観を排して事実を突き止めようとした結果だった。そしてそれは、小さな疑問や細々した事実の調査の積み重ねの上に成り立つように思う。それにしても芝田町が気になる。
東京生まれとはいうものの2歳にして、松本竣介は父の仕事の関係で岩手県の花巻に移った。そして17歳まで岩手の花巻、盛岡という東北の地で過ごしたことになる。幼少期から旧制中学校での大病の末の難聴、そして画家への道を志すという大きな人生の転機を経験したこの地が、大きな意味を持っていたと考えるのは、自然なことのように思う。だが、いつも疑問に思うのが、朝日晃などがいうように、花巻出身の宮沢賢治が描く物語の光景が、盛岡の自然や町並みと重なり、松本竣介の「原風景」となったというような解釈が成り立つのかということである(注3)。私の持っている評伝『松本竣介』の欄外にはこの書を読んだ当初からの疑問が書き込まれている(図2、3)。そこには「色彩の傾向についての根拠を風土に求める必然性があるのだろうか?」とある。いまもこれは疑問のままである。もちろん、朝日晃の解釈は非常にロマンチックで夢のあるものではあるのだが………。
図2、3 評伝『松本竣介』への筆者の書き込み。

いまでこそ東北と東京の文化的な落差というものは比較的少なくなったといえるかもしれないが、松本竣介が上京してきた頃はどうであったろうか。かつて、旧制の中学校で同級生であった彫刻家の舟越保武先生にお会いしたとき、その話される言葉にお国訛りを感じたことがあった。実は、東京において都会人と地方人とを大きく隔てるものに言葉がある。差別の温床でもあり、また故郷への郷愁でもある「訛り」。
私は、松本竣介の描くものや行動、言動、日常といったものから、ほとんど東北の土着的なものや「訛り」を感じない。むしろ、都会の洗練された感覚すら覚える。つまり、朝日晃のいうような花巻や盛岡の自然や風土から、松本竣介は、思いのほかニュートラルであった気がしてならない。
それはひとつには、言葉の問題がある。彼が難聴であったという事実。友人たちとの会話には筆談が使われた。甲高い声だったとの証言もあるのだから、話さないわけではなかっただろう。しかし、書き言葉が主になったコミュニケーションの中で、アクセントやイントネーションに現れる「訛り」は中和される。この結果、松本竣介は「田舎者」といった差別を受けにくかったのではないかと想像している。むしろ「書く会話」に現れる知性や知識、理性的な判断といったものが、松本の中から「田舎」を消し去り、すんなりと都会に同化していったのではないかと思うのである。
そしてもうひとつ、東京で生まれていたという事実は、大きなコンプレックスとなりかねない「田舎の出身」という問題を抱え込むことなく、東京で過ごすことのできた大きな理由ではなかったかと。東京で暮らすということは、松本竣介にとっては、生まれた土地、つまり故郷に帰ってきたと思えたのかもしれない。それはつまり、むしろ大都会東京こそ松本竣介の故郷であったのではないかということでもある。
注1 朝日晃『松本竣介』日動出版 1977年 p47
注2 柳原一徳編「年譜」『松本竣介展 生誕100年図録』NHKプラネット東北、NHKプロモーション 2012年 p365
注3 朝日晃『松本竣介』日動出版 1977年 p46~60 に見られる一連の記述。
(こまつざき たくお)
●小松﨑拓男のエッセイ「松本竣介研究ノート」は毎月3日の更新です。
■小松﨑拓男 Takuo KOMATSUZAKI
千葉県生まれ。横浜そごう美術館、郡山市美術館準備室、平塚市美術館の主任学芸員を経て、NTTインターコミュニケーション・センター[ICC]学芸課長、広島市現代美術館学芸課長、副館長を歴任後、金沢美術工芸大学教授を2019年まで務める。現在、美術評論家連盟会員、文教大学情報学部非常勤講師として「美術」「サブカルチャー論」担当。
キュレーター時代には絵画をはじめとしてメディア・アートなど先端領域を含めた幅広い分野で近現代美術の展覧会を企画。村上隆、奈良美智、会田誠などを公立美術館で初めて本格的に紹介した。
主な展覧会に「TOKYO POP」(平塚市美術館)「New Media New Face / New York」(NTTインターコミュニケーション・センター[ICC])「絵画新世紀」「サイバー・アジア」(広島市現代美術館)「エコメトロ」(光州ビエンナーレ)などがある。
故郷
小松﨑拓男
花巻、盛岡というと、松本竣介が幼少期に暮らした故郷、岩手という印象を受けるだろう。だが、もしこの故郷を生まれた場所、出生地だというなら、厳密な意味では、岩手が故郷であるというのは誤りになる。なぜなら、松本竣介は東京の生まれだからである。
評伝『松本竣介』の朝日晃によれば、「明治四十五年四月十九日、東京青山(現・渋谷区渋谷一丁目)で生まれる」(注1)とある。さらに、より詳しくは、『松本竣介展 生誕100年』のカタログにある年譜では「東京都豊多摩郡渋谷町大字青山北町七丁目27番地(現在の渋谷区渋谷一丁目6番1号)」(注2)となっている。
図1 国土地理院「地図・空中写真閲覧サービス」のスクリーンショット1936年当時の渋谷駅周辺の空中写真。赤丸で囲まれた辺りに松本竣介の生家があったと推測される。赤丸斜め左下に当時の渋谷駅が見えている。
国土地理院の「地図・空中写真閲覧サービス」には古い地図や航空写真のデータがあり、閲覧が可能だ。生まれたときから20年以上経ってしまってはいるが、1936年の空中写真があった(図1)。現在地を確かめてみると渋谷駅から近い。新宿寄りの東口から宮益坂を登り切って左方向に曲がって少し奥に行ったあたりだろうか。空中写真の中で赤い丸で囲んだ辺りかと思われるが、高精細の画像ではないので詳細はわからない。いまでは大都会東京の中心地、高層ビルやオフィスビルが林立する街ということになるが、当時は緑も多くあり、人家も木造の平屋が並んでいたようにみえる。
この辺りが松本竣介の生誕の地になる。東京の真ん中だ。そしてその後、芝田町(現・港区三田周辺)に転居したとあるが、この場所がいま手元にある資料や、この国土地理院の地図情報ではわからない。国土地理院のサイトにある画像は、解像度を低く設定してあり、地図内に書かれた地名まで読み取るのが難しいのだ。そのほかのネットの古地図情報なども調べてみたが、芝田町は一丁目から九丁目まであったことはわかったものの、現在地は三田だけではなく、芝などの地名が上がっていて、どのように三田と判断できたのかもよくわからない。この文章を読んでいるどなたか、ネットで明治や大正の古地図を調べる方法をご存知の方がいたら、お教えいただきたいものと思うのだが………。
学生時代から美術史の研究に関しては、まずは「事実」が知りたいと思っている。もちろん直観力も、想像力も大事ではあるが、あまりにそれが過ぎると、作品の解釈にしても、また美術家の生涯にしても根拠のないファンタジーや夢物語になってしまう。恩師たちの教えてくれた、証拠を揃え、事実を追う実証的な研究態度はやはり重要だ。松本竣介が1929年に上京してきた折の住所を、朝日晃が現在の雑司が谷としていたものを、古い地図を調べ、西池袋と訂正できたのも、先入観を排して事実を突き止めようとした結果だった。そしてそれは、小さな疑問や細々した事実の調査の積み重ねの上に成り立つように思う。それにしても芝田町が気になる。
東京生まれとはいうものの2歳にして、松本竣介は父の仕事の関係で岩手県の花巻に移った。そして17歳まで岩手の花巻、盛岡という東北の地で過ごしたことになる。幼少期から旧制中学校での大病の末の難聴、そして画家への道を志すという大きな人生の転機を経験したこの地が、大きな意味を持っていたと考えるのは、自然なことのように思う。だが、いつも疑問に思うのが、朝日晃などがいうように、花巻出身の宮沢賢治が描く物語の光景が、盛岡の自然や町並みと重なり、松本竣介の「原風景」となったというような解釈が成り立つのかということである(注3)。私の持っている評伝『松本竣介』の欄外にはこの書を読んだ当初からの疑問が書き込まれている(図2、3)。そこには「色彩の傾向についての根拠を風土に求める必然性があるのだろうか?」とある。いまもこれは疑問のままである。もちろん、朝日晃の解釈は非常にロマンチックで夢のあるものではあるのだが………。
図2、3 評伝『松本竣介』への筆者の書き込み。
いまでこそ東北と東京の文化的な落差というものは比較的少なくなったといえるかもしれないが、松本竣介が上京してきた頃はどうであったろうか。かつて、旧制の中学校で同級生であった彫刻家の舟越保武先生にお会いしたとき、その話される言葉にお国訛りを感じたことがあった。実は、東京において都会人と地方人とを大きく隔てるものに言葉がある。差別の温床でもあり、また故郷への郷愁でもある「訛り」。
私は、松本竣介の描くものや行動、言動、日常といったものから、ほとんど東北の土着的なものや「訛り」を感じない。むしろ、都会の洗練された感覚すら覚える。つまり、朝日晃のいうような花巻や盛岡の自然や風土から、松本竣介は、思いのほかニュートラルであった気がしてならない。
それはひとつには、言葉の問題がある。彼が難聴であったという事実。友人たちとの会話には筆談が使われた。甲高い声だったとの証言もあるのだから、話さないわけではなかっただろう。しかし、書き言葉が主になったコミュニケーションの中で、アクセントやイントネーションに現れる「訛り」は中和される。この結果、松本竣介は「田舎者」といった差別を受けにくかったのではないかと想像している。むしろ「書く会話」に現れる知性や知識、理性的な判断といったものが、松本の中から「田舎」を消し去り、すんなりと都会に同化していったのではないかと思うのである。
そしてもうひとつ、東京で生まれていたという事実は、大きなコンプレックスとなりかねない「田舎の出身」という問題を抱え込むことなく、東京で過ごすことのできた大きな理由ではなかったかと。東京で暮らすということは、松本竣介にとっては、生まれた土地、つまり故郷に帰ってきたと思えたのかもしれない。それはつまり、むしろ大都会東京こそ松本竣介の故郷であったのではないかということでもある。
注1 朝日晃『松本竣介』日動出版 1977年 p47
注2 柳原一徳編「年譜」『松本竣介展 生誕100年図録』NHKプラネット東北、NHKプロモーション 2012年 p365
注3 朝日晃『松本竣介』日動出版 1977年 p46~60 に見られる一連の記述。
(こまつざき たくお)
●小松﨑拓男のエッセイ「松本竣介研究ノート」は毎月3日の更新です。
■小松﨑拓男 Takuo KOMATSUZAKI
千葉県生まれ。横浜そごう美術館、郡山市美術館準備室、平塚市美術館の主任学芸員を経て、NTTインターコミュニケーション・センター[ICC]学芸課長、広島市現代美術館学芸課長、副館長を歴任後、金沢美術工芸大学教授を2019年まで務める。現在、美術評論家連盟会員、文教大学情報学部非常勤講師として「美術」「サブカルチャー論」担当。
キュレーター時代には絵画をはじめとしてメディア・アートなど先端領域を含めた幅広い分野で近現代美術の展覧会を企画。村上隆、奈良美智、会田誠などを公立美術館で初めて本格的に紹介した。
主な展覧会に「TOKYO POP」(平塚市美術館)「New Media New Face / New York」(NTTインターコミュニケーション・センター[ICC])「絵画新世紀」「サイバー・アジア」(広島市現代美術館)「エコメトロ」(光州ビエンナーレ)などがある。
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