松本竣介研究ノート 第31回

東京人


小松﨑拓男


 「東京に上京した松本竣介」と書くのと、「ふるさと東京に戻った松本竣介」と書くのとは随分と印象が異なるように思う。盛岡から東京にやってきたという事実はまったく同じであるのにもかかわらず、イメージする像は、前者は、田舎から大都会東京に上京し、生活の違いに戸惑う純朴な青年が想豫され、後者は自分の生まれた懐かしい都会に戻り、何か生き生きとした様子の青年が思い浮かぶ。実は、私たちは、松本竣介にある種の先入観や思い込みを抱いていたのではないだろうか。つまり、盛岡がまるで彼の故郷であり、常に帰るべき場所のように思い、またそれは、東京に暮らす松本竣介が、いつまでもそのように思っていたのだと。
 いや、確かに人生の転機を経験した東北の地は、大きな意味を持っていたのかもしれないし、また彼自身もそこを帰るべき場所のように思っていたかもしれない。しかし、たとえそう思っていたとしても、それならなおいっそう、彼の絵画の中に、花巻や盛岡を描いた作品があまりにも少ないのに驚きはしないか。透明な空気に、自然の緑、凍てつく冬の白一色の景色。そんな光景が全面に現れている作品を初期のもの以外には見たことはない。
 松本竣介は「東北人」ではなく「東京人」だった。そう考えると何もかも辻褄が合い、作品の解釈に筋が通るような気がする。二科展に初入選した《建物》(1935年)(図1)から始まる一連の都会風景は、松本竣介の終生のモチーフである。これは、自分の暮らしていた東北にはなかった風景だから興味を持って描いたのではない。ガラス窓が連なる建物が重なるように立ち並ぶ都会風景。その描写に新奇な、見慣れぬものに対する好奇の目を感じるよりは、近しいものとして、また共感や愛着を持って描いているようにはみえはしないだろうか。私には、松本竣介の描く都会風景に東京に暮らす都会人の都会そのものに対する親しさや愛おしさといったものを感じるのだ。つまり「東北人」が先端的な都会を物珍しく思い東京を描いているのではなく、「東京人」が自分の住む街、居所としての東京を、親しみを込めて描いているようにみえる。そう考えると、松本竣介が都会風景を描き続けた理由や思いがわかるのではないか。

20190803小松崎拓男「建物」 図1
 《建物》
 1935年
 油彩・板に紙
 97.0×130.0㎝

 ところで、東京に暮らすようになって、本格的に絵の勉強を始めたのは太平洋画会研究所(後の太平洋美術学校)に入所してからである。それまで松本竣介が正規の美術教育に触れた記述はない。この研究所での指導が初めての体験であっただろう。ただ彼が入所した当時、研究所がしばらくの間休みになってしまうゴタゴタがあったはずである。当時の美術雑誌を調べていた時に、美術界の消息欄に確かそのような記述があった気がするのだが、今手元に資料がなくて確認はできない。もしそうであるなら、必ずしも落ち着いて制作や教師から指導を受けられなかったかもしれない。
 これは推測で確証のあることではないが、後に太平洋近代芸術研究会といった同人活動を行ったり、共同アトリエ「赤荳会=アリコ・ルージュ」を結成したりと、研究所の仲間たちと活動を共にしたきっかけというものが、こうした研究所や美術学校での指導に対して満足がいかなかった状況に対する結果かもしれないし、また仲間たちとより親しくなっていった機会を作ったのかもしれない。なぜそう考えるのかというと、一般的には美術家として世に出たいと考えてこうした研究所に入るなら、絵画描写の技術などの実技教育を受けたいということももちろんなのだが、まずは指導する教師に師事しながら、同じ美術団体に出品したりして、研究所なり美術学校なりで指導を受けようと思うのが普通であるからだ。あえて研究所の外に出て仲間と活動を共にするということは、こうした道筋にこの太平洋画会研究所の内実がそぐわなかったのではないかと想像するのである。
 そして仲間たちと活動するといっても、何かのイズムや美術思想において強固に結束してグループを作ったというよりも、当時の状況に学校から押し出されるようにしてできた集まりであって、その意味では緩やかな仲間であったのではないかと推測する。松本竣介はその中にあっては理論家であり、思想家であり、尖った、あえていうなら少し浮いた存在だったのではないだろうか。そして若い未熟な集まりだったがために、早晩このグループは解散していく運命にあり、多くが無名に終わったということではなく、実は、強烈な美術のイズムや運動の結果として仲間同士が切磋琢磨するようなシリアスなものではなかった故に、このグループからは残念ながら、松本竣介以外に目立った美術家が生まれなかったのだということだったかもしれない。後の「新人画会」と比べるとその性格の違いがみえてくるようにも思う。

 さて、次回はこの太平洋画会研究所時代に松本竣介が描いた石膏デッサン(図2)が残っているので、その話から始めたいと思う。

IMG_0394 図2
 《瀕死の奴隷:石膏デッサン》
 1929年
 木炭、紙
 63.5×47.8㎝
こまつざき たくお

小松﨑拓男のエッセイ「松本竣介研究ノート」は毎月3日の更新です。

小松﨑拓男 Takuo KOMATSUZAKI
千葉県生まれ。横浜そごう美術館、郡山市美術館準備室、平塚市美術館の主任学芸員を経て、NTTインターコミュニケーション・センター[ICC]学芸課長、広島市現代美術館学芸課長、副館長を歴任後、金沢美術工芸大学教授を2019年まで務める。現在、美術評論家連盟会員、文教大学情報学部非常勤講師として「美術」「サブカルチャー論」担当。
キュレーター時代には絵画をはじめとしてメディア・アートなど先端領域を含めた幅広い分野で近現代美術の展覧会を企画。村上隆、奈良美智、会田誠などを公立美術館で初めて本格的に紹介した。
主な展覧会に「TOKYO POP」(平塚市美術館)「New Media New Face / New York」(NTTインターコミュニケーション・センター[ICC])「絵画新世紀」「サイバー・アジア」(広島市現代美術館)「エコメトロ」(光州ビエンナーレ)などがある。

●本日のお勧めは草間彌生です
kusama-strawberry草間彌生 Yayoi KUSAMA
《いちご》
1974年(このエディションは1993年鋳造)
ブロンズ
22.7×21.4×H7.5cm
Ed.30
サインあり

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