松本竣介研究ノート 第33回

赤荳会と新人画会


小松﨑拓男


 赤荳会=アリコ・ルージュというフランス語の語感が素敵に響く、おしゃれな名前のついた会は、松本竣介がちょうど太平洋美術学校を退学する前後の時期、1932年の1月頃に、学校で出会った仲間たちと作ったグループだ。当時、彼らが憧れていた画家モジリアニの恋人の名前に由来する。このブログで何度も取り上げている朝日晃の書いた評伝『松本竣介』でも詳しくその成立の経緯などが記されている。
 メンバーは、松本竣介のほか、石田新一、山内爲男、勝本勝義、田尻稲四郎などが中心となり、池袋近くの長崎町、通称雀ヶ丘に共同アトリエを借り、活動した。前身の太平洋近代芸術研究会の発足から始まり、意見の衝突によって解散してしまうまでの経緯を、前掲書の中で朝日は、まるで画学生の青春群像を描いた小説のように、彼らがその場で交わしていた会話の再現までして紹介している(注1)。
 その生き生きとした描写に、当時の若々しい画学生たちの熱気が感じられるのだが、どこまで事実であるのかは判然としない。それはこうした会話に出典が記されていないからだ。おそらくは、引用されている『山内爲男追悼誌』(1939年)『石田新一追悼誌』(1940年)に綴られた文章や関係者に取材した調査を手掛かりにして創作して書かれたのだとは思うが、この2冊の追悼誌の内容は未見で充分に確かめることはできていない。
 朝日晃の評伝は、松本竣介に関する本格的な評伝としては最初のものであり、長年にわたる綿密な調査と、当時存命だった関係者に対する取材などにより、最も信頼性の高いものの一冊であるのだが、時に非常にロマンチックな小説まがいの記述があり、筆者の想いなのか、事実なのか決することのできない記述に戸惑うことも多い。とはいうものの、重要な一冊であることには変わりがない。だからなおのこと厄介であるとも言えるのだが……。
 一方、新人画会は,すでに「ガダルカナル島撤退」など日本軍の敗色が明らかとなってくる1943年2月から3月頃に、松本竣介の自宅を事務所に、松本竣介、靉光、麻生三郎、糸園和三郎、井上長三郎、大野五郎、鶴岡政男、寺田政明の8名の画家によって作られたグループであった。朝日晃の前掲書によれば「(前略)靉光、麻生三郎の応召前年に当たる」とあり、その後の活動が危惧される状況であった。そして8名による新人画会の展覧会は第1回展から3回展まで開かれたとある(注2)。
 「松本竣介展 生誕100年」の展覧会カタログに「同会の解散については、竣介が『全日本美術家に諮る』(1946年1月)のなかで『終戦時迄結成されてゐた新人画会も解散して白紙でゐる』としている以外、他の記述は見つかっていない。」(注3)とあり、この3回の展覧会以外に新人画会としての展覧会は行われたことはなかったと考えられていた。
 ところが、少し以前のことになるのだが、「ときの忘れもの」のオーナー綿貫不二夫氏から「旧新人画会」と題された展覧会があったことを知らされた。またその時、その案内状のコピーをメールで送っていただいた。板橋区立美術館で開催されていた「さまよえる絵筆」展に資料として展示されているのを見つけたもので、とても驚かれたという。この展覧会を企画した学芸員の弘中智子氏の好意で綿貫氏が手にされた案内状のコピー(図1)を見ると、まさしく新人画会の案内状である。「新人画会」に「旧」の字が印刷はされているものの、ごく小さく、遠目には「新人画会」に見える。

旧新人画会展_page-0001図1 「旧新人画会」案内状

 瀧口修造が挨拶文を寄せており、その最後にはこの新人画会のことを「現代の日本絵画史に、どうしても書き加えなければならないこのグループ展に、ささやかな花束をおくりたいと思う」と記されている。「故アイ光」「故松本竣介」とある出品者名以外は、まだ当時存命であった他の6名の名前があり、1962年10月23日から29日まで、銀座の五番館画廊で開催されたことが知れる。出品作品は未詳である。どのような作品が出品されていたのであろうか。おそらくは、当時の美術雑誌や新聞の展覧会批評などを探せば、何らかの記事が出てくるかもしれないが、コロナの状況で図書館などでの調査が難しい私の手元には情報が何もない。興味は尽きないのだが。
 さて、松本竣介が関わったふたつのグループ。決定的な違いがある。それは「赤荳会」からは松本竣介以外には後に著名となる画家はひとりも出なかったのに対して、「新人画会」の方は全員、作品が美術館に収蔵されたり、美術書の中で言及されるような作家になったりしたということである。
 美術家の生涯や生い立ちを調べていると、いつも不思議に思うことがある。それは、例えば松本竣介の場合でも、舟越保武と中学で同級生であったとか、何故か後年になって名を成す著名人との邂逅がある。時代を切り開いたアーティストのもとには、同じように同時代の美術シーンを彩る人物が集まっている。ロートレックはゴッホとパリで会い、その肖像画を残している(図2)。印象派の画家たちも同じ画塾で出会ったりしているように、才能が才能を呼び、また才能が才能を発見するのだろうか。それとも偶然に偶然が重なるだけなのか。

clip_image001図2
アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック
《フィンセント・ファン・ゴッホの肖像》
1887年頃
パステル・厚紙
ゴッホ美術館蔵

 「赤荳会」の仲間の作品を私は見たことがない。それらの作品は、ほとんど誰にも知られずに、また美術史に残ることもなく消えていくのだろう。それは「新人画会」の仲間とはあまりにも好対照のように見える。これが運命というものなのだろうか。ある意味、歴史は残酷なものでもある。

注1 朝日晃『松本竣介』、日動出版、1977年、pp.82~91。
注2 朝日晃『同上』、pp.191~192
注3『松本竣介展 生誕100年』図録、NHKプラネット東北、NHKプロモーション、2012年、p362 
こまつざき たくお

小松﨑拓男のエッセイ「松本竣介研究ノート」は毎月3日の更新です。

小松﨑拓男 Takuo KOMATSUZAKI
千葉県生まれ。横浜そごう美術館、郡山市美術館準備室、平塚市美術館の主任学芸員を経て、NTTインターコミュニケーション・センター[ICC]学芸課長、広島市現代美術館学芸課長、副館長を歴任後、金沢美術工芸大学教授を2019年まで務める。現在、美術評論家連盟会員、文教大学情報学部非常勤講師として「美術」「サブカルチャー論」担当。
キュレーター時代には絵画をはじめとしてメディア・アートなど先端領域を含めた幅広い分野で近現代美術の展覧会を企画。村上隆、奈良美智、会田誠などを公立美術館で初めて本格的に紹介した。
主な展覧会に「TOKYO POP」(平塚市美術館)「New Media New Face / New York」(NTTインターコミュニケーション・センター[ICC])「絵画新世紀」「サイバー・アジア」(広島市現代美術館)「エコメトロ」(光州ビエンナーレ)などがある。

●本日のお勧めは松本竣介です。
matsumoto-37matsumoto-37b松本竣介 Shunsuke MATSUMOTO
《人物(W)》
1942年
紙に鉛筆
イメージサイズ:23.5x20.5cm
シートサイズ: 27.5x22.5cm
*この作品は両面に描かれている
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