平嶋彰彦の「私の駒込名所図会」総集編 その3
駒込は「ときの忘れもの」がある<私たちの町>です。その魅力を平嶋の撮りおろした写真と文章で紹介するとともに、散策に便宜をはかり、案内地図(国土地理院のマップ使用)を用意しました。皆さまも「ときの忘れもの」にご来館されるさいには、ぜひとも足をのばし、駒込の街歩きを楽しんでみることをお薦めいたします。
(⑪染井通り → ⑫染井坂通り) → ⑬門と蔵のある広場 → ⑭西福寺 → ⑮1938年築の共同住宅 → ⑯専修院 → 次回に続く

⑪染井通り
染井通り。「みんなの庭みんなの広場」。「植木の里」の石碑。駒込3-8。2021.1.15
染井通りは、本郷通りの駒込橋交差点(六義園染井門)から北西に分岐し、染井霊園に至る約900メートルの道をいう。この通りができたのは、江戸時代にさかのぼる。『江戸切絵図』「染井・王子・巣鴨絵図」(1854・嘉永7年)をみると、道の南側は松平時之助(大和郡山藩柳沢家)下屋敷(現在の六義園)、藤堂和泉守(伊勢津藩)下屋敷と大名屋敷がならぶ。つきあたりは建部内匠守(播磨林田藩)の下屋敷。現在の染井霊園である。それにたいして、通りの北側には「此辺、染井村、植木屋多シ」「同」「同断」「駒込七軒町」「上駒込村」などの書き込みがある。染井村は上駒込村の枝村だったとされるが、この通りに沿って、伊藤伊兵衛に代表される染井の植木屋たちの店舗が軒をつらね、その北側の傾斜地にツツジやカエデなどの花園が広がっていたものとみられる。(註)。
註〔江戸切絵図〕. 巣鴨絵図 - 国立国会図書館デジタルコレクション (ndl.go.jp)
⑫染井坂通り
染井坂通り。坂を下ると染井銀座。手前右は妙義坂通り。駒込6(左)、3(右)。2021.3.16
染井通りと染井銀座商店街を結ぶ坂道。その途中に、門と蔵のある広場があり、植木屋の名家として知られる旧丹羽家の腕木門と蔵が保存されている。それより40mほど坂を下った西側が西福寺で、境内には江戸一番の植木屋と称された伊藤伊兵衛政武の墓がある。染井通りは台地上にある。いっぽう、台地下に染井商店街と霜降商店街がある。この商店街の通りをかつて谷戸川(藍染川)が流れていた。植木屋たちは染井通りから谷戸川へ下る傾斜地を利用して花園を営んでいたように思われる。
⑬門と蔵のある広場
豊島区駒込3-12-8
門と蔵のある広場。旧丹羽家の鉄筋コンクリート造りの藏。2021.1.15
旧丹羽家の腕木門と蔵が保存されている。同家は染井の植木屋として活躍した旧家のひとつ。腕木門は、もとは藤堂家下屋敷の裏門で、染井通りの南側にあったもの。明治以降に移築したらしい。豊島区内に残る江戸時代の腕木門として唯一のもので、植木の里であった染井の歴史をつたえる貴重な遺構であるとされる。豊島区の指定有形文化財。蔵は1935(昭和10)年の建築。当時としては珍しい鉄筋コンクリート造りで、細部に職人の技術や建築のこだわりが見られるという。国の登録有形文化財建造物。
⑭西福寺
豊島区駒込6-11-4
西福寺。三界萬霊塔。右は豊島区内最古とされる1655年造の六地蔵。2021.3.16
真言宗豊山派の寺院で、西ヶ原無量寺の末寺。境内墓地に伊藤伊兵衛4代目政武の墓がある。政武は植木屋の名匠として活躍したばかりでなく、園芸の先駆的な研究に精魂を傾け、『増補地錦抄』などの著作を残している。また、第9代将軍家重の来訪をうけたとも、将軍家より渡来の品種である唐楓を拝領したともいわれる。法名は樹仙。墓所は東京都史跡に指定されている。染井通りの南側は、伊勢津藩藤堂家の下屋敷で、西福寺は藤堂家の祈願所になっていた。いっぽう、北側には植木屋が集住していて、西福寺は植木屋たちの菩提寺にもなっていた。境内には一つの光背に六体の地蔵を刻んだ六地蔵がある。1655(明暦)元年に造られたもので、豊島区内で最古のものだという。
⑮1938年築の共同住宅
豊島区駒込4-14
1938年築の自宅兼欧米人むけの共同住宅。竣工当時の館内電話。2021.11.25
昭和の文化遺産ともいうべき1938(昭和15)年に築造された共同住宅。明治維新までは伊勢津藩藤堂家の下屋敷があったところで、通りの向かい側に岩崎弥太郎墓地と三菱重工社宅がある。この共同住宅の施主は東京帝大機械科卒の技術者で、三井金属に入社し、同社ベルリン支店に10数年勤務。帰国後に、自宅住居を兼ねた欧米人向けの共同住宅の建設を試みたのが、この鉄筋コンクリート3階建の共同住宅である。室内の写真を撮らせてもらった詩人の中村鐵太郎さんは20年来の友人。玄関を入ったところには、竣工当時に設置されたと思われる館内電話がそのまま残っていた。敷地内は非公開。
⑯専修院
豊島区駒込7-2-4
専修院。植木屋伊藤伊兵衛の花園があったとされる。2021.1.15
浄土宗の寺院。染井通りの西端に、二又交差点があり、十二地蔵が祀られている。ここを直進すると、染井霊園。右側の道を進むと、右手に天理教東京教務支庁があり、続いて専修院がある。同寺は台東区松が谷1丁目にあったが、1908(明治41)年に現在地に移転してきた。隣接して天理教のほか、泰宗寺・蓮華寺とその墓地があるが、このあたり一帯は染井を代表する植木屋として名高い伊藤伊兵衛の屋敷地に推定されている。境内には伊兵衛に関係するとみられる宝篋印塔(1641・寛永18年造)とともに、富士講の開祖とされる長谷川角行の墓などの文化財がある。
⟹平嶋彰彦のエッセイ 「東京ラビリンス」のあとさき その10(前編)、(後編)
⟹平嶋彰彦のエッセイ 「東京ラビリンス」のあとさきその12(前編)
●主な参考文献
『日本歴史地名体系13 東京都の地名』(平凡社)/『江戸切絵図』「染井・王子・巣鴨絵図」(尾張屋版、1854・嘉永7年)/『東京の原風景』(川添登、ちくま学芸文庫)/各地現地説明板(豊島区教育委員会)/『新編武蔵風土記稿第一巻』「巻之十九 豊島郡十一岩淵領」(雄山閣)/『豊島区歴史的建造物調査報告書Ⅰ』「住宅編」(2001年)/『豊島区史 通史編二』「第五編 資本主義の発達と豊島 第2章 都市化の開始」/『世界大百科事典 第2版』(平凡社)
(ひらしま あきひこ)
・ 平嶋彰彦のエッセイ 「東京ラビリンス」のあとさき は毎月14日に更新します。平嶋彰彦の「私の駒込名所図会」総集編 は毎月27日に掲載します。
■平嶋彰彦 HIRASHIMA Akihiko
1946年、千葉県館山市に生まれる。1965年、早稲田大学政治経済学部入学、写真部に所属。1969年、毎日新聞社入社、西部本社写真課に配属となる。1974年、東京本社出版写真部に転属し、主に『毎日グラフ』『サンデー毎日』『エコノミスト』など週刊誌の写真取材を担当。1986年、『昭和二十年東京地図』(文・西井一夫、写真・平嶋彰彦、筑摩書房)、翌1987年、『続・昭和二十年東京地図』刊行。1988年、右2書の掲載写真により世田谷美術館にて「平嶋彰彦写真展たたずむ町」。(作品は同美術館の所蔵となり、その後「ウナセラ・ディ・トーキョー」展(2005)および「東京スケイプinto the City」展(2018)に作者の一人として出品される)。1996年、出版制作部に転属。1999年、ビジュアル編集室に転属。2003年、『町の履歴書 神田を歩く』(文・森まゆみ、写真・平嶋彰彦、毎日新聞社)刊行。編集を担当した著書に『宮本常一 写真・日記集成』(宮本常一、上下巻別巻1、2005)。同書の制作行為に対して「第17回写真の会賞」(2005)。そのほかに、『パレスサイドビル物語』(毎日ビルディング編、2006)、『グレートジャーニー全記録』(上下巻、関野吉晴、2006)、『1960年代の東京 路面電車が走る水の都の記憶』(池田信、2008)、『宮本常一が撮った昭和の情景』(宮本常一、上下巻、2009)がある。2009年、毎日新聞社を退社。それ以降に編集した著書として『宮本常一日記 青春篇』(田村善次郎編、2012)、『桑原甲子雄写真集 私的昭和史』(上下巻、2013)。2011年、早稲田大学写真部時代の知人たちと「街歩きの会」をつくり、月一回のペースで都内各地をめぐり写真を撮り続ける。2020年6月現在で100回を数える。
2020年11月ときの忘れもので「平嶋彰彦写真展 — 東京ラビリンス」を開催。
●ときの忘れものは2017年に青山から〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました。阿部勤が設計した個人住宅だった空間で企画展の開催、版画のエディション、美術書の編集等を行なっています(WEBマガジン コラージ2017年12月号18~24頁の特集参照)。
JR及び南北線の駒込駅南口から徒歩約8分です。
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531
E-mail:info@tokinowasuremono.com
営業時間=火曜~土曜の平日11時~19時。*日・月・祝日は休廊
駒込は「ときの忘れもの」がある<私たちの町>です。その魅力を平嶋の撮りおろした写真と文章で紹介するとともに、散策に便宜をはかり、案内地図(国土地理院のマップ使用)を用意しました。皆さまも「ときの忘れもの」にご来館されるさいには、ぜひとも足をのばし、駒込の街歩きを楽しんでみることをお薦めいたします。
(⑪染井通り → ⑫染井坂通り) → ⑬門と蔵のある広場 → ⑭西福寺 → ⑮1938年築の共同住宅 → ⑯専修院 → 次回に続く

⑪染井通り
染井通り。「みんなの庭みんなの広場」。「植木の里」の石碑。駒込3-8。2021.1.15染井通りは、本郷通りの駒込橋交差点(六義園染井門)から北西に分岐し、染井霊園に至る約900メートルの道をいう。この通りができたのは、江戸時代にさかのぼる。『江戸切絵図』「染井・王子・巣鴨絵図」(1854・嘉永7年)をみると、道の南側は松平時之助(大和郡山藩柳沢家)下屋敷(現在の六義園)、藤堂和泉守(伊勢津藩)下屋敷と大名屋敷がならぶ。つきあたりは建部内匠守(播磨林田藩)の下屋敷。現在の染井霊園である。それにたいして、通りの北側には「此辺、染井村、植木屋多シ」「同」「同断」「駒込七軒町」「上駒込村」などの書き込みがある。染井村は上駒込村の枝村だったとされるが、この通りに沿って、伊藤伊兵衛に代表される染井の植木屋たちの店舗が軒をつらね、その北側の傾斜地にツツジやカエデなどの花園が広がっていたものとみられる。(註)。
註〔江戸切絵図〕. 巣鴨絵図 - 国立国会図書館デジタルコレクション (ndl.go.jp)
⑫染井坂通り
染井坂通り。坂を下ると染井銀座。手前右は妙義坂通り。駒込6(左)、3(右)。2021.3.16染井通りと染井銀座商店街を結ぶ坂道。その途中に、門と蔵のある広場があり、植木屋の名家として知られる旧丹羽家の腕木門と蔵が保存されている。それより40mほど坂を下った西側が西福寺で、境内には江戸一番の植木屋と称された伊藤伊兵衛政武の墓がある。染井通りは台地上にある。いっぽう、台地下に染井商店街と霜降商店街がある。この商店街の通りをかつて谷戸川(藍染川)が流れていた。植木屋たちは染井通りから谷戸川へ下る傾斜地を利用して花園を営んでいたように思われる。
⑬門と蔵のある広場
豊島区駒込3-12-8
門と蔵のある広場。旧丹羽家の鉄筋コンクリート造りの藏。2021.1.15旧丹羽家の腕木門と蔵が保存されている。同家は染井の植木屋として活躍した旧家のひとつ。腕木門は、もとは藤堂家下屋敷の裏門で、染井通りの南側にあったもの。明治以降に移築したらしい。豊島区内に残る江戸時代の腕木門として唯一のもので、植木の里であった染井の歴史をつたえる貴重な遺構であるとされる。豊島区の指定有形文化財。蔵は1935(昭和10)年の建築。当時としては珍しい鉄筋コンクリート造りで、細部に職人の技術や建築のこだわりが見られるという。国の登録有形文化財建造物。
⑭西福寺
豊島区駒込6-11-4
西福寺。三界萬霊塔。右は豊島区内最古とされる1655年造の六地蔵。2021.3.16真言宗豊山派の寺院で、西ヶ原無量寺の末寺。境内墓地に伊藤伊兵衛4代目政武の墓がある。政武は植木屋の名匠として活躍したばかりでなく、園芸の先駆的な研究に精魂を傾け、『増補地錦抄』などの著作を残している。また、第9代将軍家重の来訪をうけたとも、将軍家より渡来の品種である唐楓を拝領したともいわれる。法名は樹仙。墓所は東京都史跡に指定されている。染井通りの南側は、伊勢津藩藤堂家の下屋敷で、西福寺は藤堂家の祈願所になっていた。いっぽう、北側には植木屋が集住していて、西福寺は植木屋たちの菩提寺にもなっていた。境内には一つの光背に六体の地蔵を刻んだ六地蔵がある。1655(明暦)元年に造られたもので、豊島区内で最古のものだという。
⑮1938年築の共同住宅
豊島区駒込4-14
1938年築の自宅兼欧米人むけの共同住宅。竣工当時の館内電話。2021.11.25昭和の文化遺産ともいうべき1938(昭和15)年に築造された共同住宅。明治維新までは伊勢津藩藤堂家の下屋敷があったところで、通りの向かい側に岩崎弥太郎墓地と三菱重工社宅がある。この共同住宅の施主は東京帝大機械科卒の技術者で、三井金属に入社し、同社ベルリン支店に10数年勤務。帰国後に、自宅住居を兼ねた欧米人向けの共同住宅の建設を試みたのが、この鉄筋コンクリート3階建の共同住宅である。室内の写真を撮らせてもらった詩人の中村鐵太郎さんは20年来の友人。玄関を入ったところには、竣工当時に設置されたと思われる館内電話がそのまま残っていた。敷地内は非公開。
⑯専修院
豊島区駒込7-2-4
専修院。植木屋伊藤伊兵衛の花園があったとされる。2021.1.15浄土宗の寺院。染井通りの西端に、二又交差点があり、十二地蔵が祀られている。ここを直進すると、染井霊園。右側の道を進むと、右手に天理教東京教務支庁があり、続いて専修院がある。同寺は台東区松が谷1丁目にあったが、1908(明治41)年に現在地に移転してきた。隣接して天理教のほか、泰宗寺・蓮華寺とその墓地があるが、このあたり一帯は染井を代表する植木屋として名高い伊藤伊兵衛の屋敷地に推定されている。境内には伊兵衛に関係するとみられる宝篋印塔(1641・寛永18年造)とともに、富士講の開祖とされる長谷川角行の墓などの文化財がある。
⟹平嶋彰彦のエッセイ 「東京ラビリンス」のあとさき その10(前編)、(後編)
⟹平嶋彰彦のエッセイ 「東京ラビリンス」のあとさきその12(前編)
●主な参考文献
『日本歴史地名体系13 東京都の地名』(平凡社)/『江戸切絵図』「染井・王子・巣鴨絵図」(尾張屋版、1854・嘉永7年)/『東京の原風景』(川添登、ちくま学芸文庫)/各地現地説明板(豊島区教育委員会)/『新編武蔵風土記稿第一巻』「巻之十九 豊島郡十一岩淵領」(雄山閣)/『豊島区歴史的建造物調査報告書Ⅰ』「住宅編」(2001年)/『豊島区史 通史編二』「第五編 資本主義の発達と豊島 第2章 都市化の開始」/『世界大百科事典 第2版』(平凡社)
(ひらしま あきひこ)
・ 平嶋彰彦のエッセイ 「東京ラビリンス」のあとさき は毎月14日に更新します。平嶋彰彦の「私の駒込名所図会」総集編 は毎月27日に掲載します。
■平嶋彰彦 HIRASHIMA Akihiko
1946年、千葉県館山市に生まれる。1965年、早稲田大学政治経済学部入学、写真部に所属。1969年、毎日新聞社入社、西部本社写真課に配属となる。1974年、東京本社出版写真部に転属し、主に『毎日グラフ』『サンデー毎日』『エコノミスト』など週刊誌の写真取材を担当。1986年、『昭和二十年東京地図』(文・西井一夫、写真・平嶋彰彦、筑摩書房)、翌1987年、『続・昭和二十年東京地図』刊行。1988年、右2書の掲載写真により世田谷美術館にて「平嶋彰彦写真展たたずむ町」。(作品は同美術館の所蔵となり、その後「ウナセラ・ディ・トーキョー」展(2005)および「東京スケイプinto the City」展(2018)に作者の一人として出品される)。1996年、出版制作部に転属。1999年、ビジュアル編集室に転属。2003年、『町の履歴書 神田を歩く』(文・森まゆみ、写真・平嶋彰彦、毎日新聞社)刊行。編集を担当した著書に『宮本常一 写真・日記集成』(宮本常一、上下巻別巻1、2005)。同書の制作行為に対して「第17回写真の会賞」(2005)。そのほかに、『パレスサイドビル物語』(毎日ビルディング編、2006)、『グレートジャーニー全記録』(上下巻、関野吉晴、2006)、『1960年代の東京 路面電車が走る水の都の記憶』(池田信、2008)、『宮本常一が撮った昭和の情景』(宮本常一、上下巻、2009)がある。2009年、毎日新聞社を退社。それ以降に編集した著書として『宮本常一日記 青春篇』(田村善次郎編、2012)、『桑原甲子雄写真集 私的昭和史』(上下巻、2013)。2011年、早稲田大学写真部時代の知人たちと「街歩きの会」をつくり、月一回のペースで都内各地をめぐり写真を撮り続ける。2020年6月現在で100回を数える。
2020年11月ときの忘れもので「平嶋彰彦写真展 — 東京ラビリンス」を開催。
●ときの忘れものは2017年に青山から〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました。阿部勤が設計した個人住宅だった空間で企画展の開催、版画のエディション、美術書の編集等を行なっています(WEBマガジン コラージ2017年12月号18~24頁の特集参照)。
JR及び南北線の駒込駅南口から徒歩約8分です。
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531
E-mail:info@tokinowasuremono.com
営業時間=火曜~土曜の平日11時~19時。*日・月・祝日は休廊
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