井戸沼紀美のエッセイ「二十二日の半券」第11回
『ゴールデンウィークを振り返る』
シャンタル・アケルマンやジャック・リヴェットの特集上映、マイク・ミルズの『カモン カモン』、去年のベルリンで金熊賞を受賞した『アンラッキーセックス』、去年のカンヌに出品された『パリ13区』……2022年のゴールデンウィークは注目の映画や特集上映が山積みで、どんなスケジュールで行動すれば良いのか頭を悩ませた映画ファンも多いのではないだろうか。もれなく私もその幸福な悩みを抱く一人だった訳だが、結果的にこの期間中、最も印象深かったのは、ゲーテ・インスティテュート東京の60周年イベント『UNREST 62|22 変動の時代』での体験だった。今回のブログでは、同イベントに参加した3日間のことを記録してみようと思う。

■1日目:シルヴィア・シェーデルバウアー+小田香 新作上映
映像作家の池添俊さんがこのイベントの情報を教えてくれ、まずは5月6日に開催された映画上映に参加した。ドイツの作家シルヴィア・シェーデルバウアーさんと、敬愛する映画作家の小田香さんが、ゲーテの委嘱によって制作した新作をプレミア公開するというもの。平塚らいてうの言葉からインスピレーションを受けたのだというシルヴィアさんの作品『元始、女性は太陽であった』は、最初から最後までエネルギーが爆発し続けるパワフルな作品。インターネットから集められた静止画が画面上でどんどん展開してく過程で、コンテンツの取り扱い方にやや横暴な印象を受けもしたが(そのことについては本人も無自覚ではないはず)、近年スクリーンで目にしてこなかったような「実験映画」的な過激さが、ドイツのシルヴィアさんによる、2022年の新作に宿っていることに新鮮な印象を受けた。その新鮮さはもしかすると、私の観てきた「実験映画」が、年上の男性による作品群に偏っていたからかも知れないし、単に自分と最新の「実験映画」シーンの間に距離があるからかもしれない。近くでシルヴィアさんの新作を観ていた恋人は、繰り返される画面の点滅に耐えられず、ずっと目を瞑っていたという。
小田さんの新作『カラオケ喫茶ボサ』は、小田さんのお母様が営むカラオケ喫茶で撮影された作品。気持ちよさそうに、それぞれに特徴的なしぐさで歌うマダムたちが自分の想いを語るのだけど、その音声は、自分が想像してもしきれない言葉で溢れていた。お墓参りを楽しみにしている人、コロナ禍で大好きなカラオケにいけなかったとき、気分転換に外に出たら腕を骨折してしまった人。他の国に住む人たちと関わり合えたらと願う人。ロシアによるウクライナ侵攻のニュースを見て涙を流したという人。SNSに投稿されない声を想像したいとしばしば感じているけれど、『カラオケ喫茶ボサ』を観て、その難しさと大切さを改めて痛感した。周りの人に気を遣わせることはしまいと、真剣なメッセージの語尾を明るく発音する小田さんのお母さんの(きっと無意識に染み付いている)イントネーションには、単に文字に起こすだけでは失われてしまう魅力がぎゅっと詰まっている。フィルムで撮影された小さな背中も、目に焼きついた。

■2日目:シンポジウム『日独のニューウエーブにおける女性映画作家と現在』
映画研究者の斉藤綾子さん、ベルリンを拠点に活動するキュレーターのマデレーン・ベルンストルフさん、そして小田香さんが登壇した2日目のシンポジウム。全編を通してとても興味深い議題で溢れていたけれど、特に印象に残ったのは「女性作家」という言葉の歴史と定義についてだった。せっかくなのでこのブログでもその一部を共有できればと思うけれど、自分の記憶と簡単なメモを頼りにしているため、100%正確なものではない可能性があることを事前にご了承いただきたい。
斉藤さんによれば「女性映画」という言葉にははじめ「女性向けに作られた映画」という意味が宿されていたけれど、そこに徐々に「女性がつくった映画」という意味が含まれていったのだそう。ただし、監督の生物学的性が女性の場合、その作品をすべて「女性映画」と捉えて良いのだろうかという議論はもちろんあり、社会的・歴史的に考えた「女性」という存在の捉え方も重要になるので、「女性映画」の定義はかなり流動的だということだった。
「女性映画という悪名高い概念ですが」と苦笑いを交えながらコメントを始めた研究者の菅野優香さん(当日客席に居らして、司会/キュレーターの平沢剛さんからコメントを求められた)は、「男か女かと二分化する窮屈さは確かにある」とした上で、しかし「(「女性映画」という言葉に込められた)カウンターの意味が非常に重要」「マイノリティの立場から見たときに、世界が違って見えるということ」「フェミニスト的な対抗」だと語っていらして、これらの言葉はストンと腑に落ちた。作家としての小田さんやその映画について、著名な批評家が本の中でしきりに「女性〇〇」と書いていたこともずっと気になっていたので、小田さん本人の口から「女性映画」についての考えを聞ける場があったことも有り難かった。
■3日目:ウルリケ・オッティンガー『アル中女の肖像』上映
シンポジウムの締め括りに斉藤綾子さんは、近年の女性監督特集の盛り上がりについて触れられた(去年のフランス女性監督特集、シネマヴェーラで開催中のアメリカの女性監督特集、シャンタル・アケルマン特集)。その過程で「ドイツのオッティンガーまで!」と興奮気味に語られていたのが印象的で、我慢しきれず3日目はそのウルリケ・オッティンガー監督の映画『アル中女の肖像』(1979年)を観に行くことにした。
『アル中女の肖像』予告編
同作では、片道航空券でベルリンにやってきた主人公が、とにかく酒を飲みまくる。エレガントな衣装に身を纏った主人公が、周囲のことはおかまいなしにどんどんグラスを割り、酒を窓にひっかけ、杯を重ねていく。劇中ほとんど言葉を発しない彼女は、空中綱渡りに挑んで落下したり、炎の中にその身ごと突っ込んだり、千鳥足になったり、危なっかしい。しかし鑑賞後に脳裏に蘇るのは惨めな姿なんかではなく、むしろ自信たっぷりで歌ったり、鏡をヒールで割って歩いていく、ゴージャスな彼女の姿なのだ。1日目のプログラムで鑑賞した松本俊夫の『母たち』(1967年)で、「母は~~だ。~~してはいけない。」というような台詞が繰り返される寺山修司の詩が朗読されていたけれど、そのことに対して感じていた居心地悪さが、3日目にこの作品で吹っ飛ばされた気がした。ドラムの伴奏と共に「ベルリン最高!灰色の壁も好き!」というような歌を大声で歌うシーンなんて超最高だ。主流なんて、常識なんて知るかと叫んでいるようで。
もちろん性別だけでなく、その作品が描こうとしている内容を丁寧に観察しなけれないけないということを大前提としたうえで(このことについては最近本当によく考える)、今回のようなプログラムを体験すると、これまで日の目を浴びてこなかった素晴らしい「女性作家」の作品はまだまだ紹介され切っていないのだろうという、確信に近い予感を抱く。その開拓に自分も関わることができるなら、という欲張りな野望も芽生えたりして、まずは尊敬するジョナス・メカスの周辺、マリー・メンケンやMMセラの作品から、ウェブ上で鑑賞し始めている。
■追伸:銀座の地下で短編映画を
5月末まで銀座の地下に、短編映画が観られるスペース『GINZAZA(ギンザザ)』がオープンしており、私も会場で配布されるフリーマガジン『ZineZaZa(ジンザザ)』の執筆・編集などで企画に関わっています。これまで1作単位で公開されることが少なかった、世界の魅力ある短編映画が1作100円で鑑賞できます。もちろん日本語(+英語)の字幕付き。よろしければぜひ、足を運んでみてください。
GINZAZA|ギンザザ
http://ginzazafilms.com/
(いどぬま きみ)
■井戸沼紀美
福島県生まれ、都内在住。明治学院大学卒。これまでに『ジョナス・メカスとその日々をみつめて』(2014年)、『ジョナス・メカス写真展+上映会』(2015年)、『肌蹴る光線』(2018年~)などの上映イベントを企画した。
・井戸沼紀美のエッセイ「二十二日の半券」は隔月、奇数月の22日に更新します。次回は2022年7月22日掲載予定です。
●ときの忘れものは2017年に青山から〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました。阿部勤が設計した個人住宅だった空間で企画展の開催、版画のエディション、美術書の編集等を行なっています(WEBマガジン コラージ2017年12月号18~24頁の特集参照)。
JR及び南北線の駒込駅南口から徒歩約8分です。
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531
E-mail:info@tokinowasuremono.com
http://www.tokinowasuremono.com/
営業時間=火曜~土曜の平日11時~19時。*日・月・祝日は休廊
『ゴールデンウィークを振り返る』
シャンタル・アケルマンやジャック・リヴェットの特集上映、マイク・ミルズの『カモン カモン』、去年のベルリンで金熊賞を受賞した『アンラッキーセックス』、去年のカンヌに出品された『パリ13区』……2022年のゴールデンウィークは注目の映画や特集上映が山積みで、どんなスケジュールで行動すれば良いのか頭を悩ませた映画ファンも多いのではないだろうか。もれなく私もその幸福な悩みを抱く一人だった訳だが、結果的にこの期間中、最も印象深かったのは、ゲーテ・インスティテュート東京の60周年イベント『UNREST 62|22 変動の時代』での体験だった。今回のブログでは、同イベントに参加した3日間のことを記録してみようと思う。

■1日目:シルヴィア・シェーデルバウアー+小田香 新作上映
映像作家の池添俊さんがこのイベントの情報を教えてくれ、まずは5月6日に開催された映画上映に参加した。ドイツの作家シルヴィア・シェーデルバウアーさんと、敬愛する映画作家の小田香さんが、ゲーテの委嘱によって制作した新作をプレミア公開するというもの。平塚らいてうの言葉からインスピレーションを受けたのだというシルヴィアさんの作品『元始、女性は太陽であった』は、最初から最後までエネルギーが爆発し続けるパワフルな作品。インターネットから集められた静止画が画面上でどんどん展開してく過程で、コンテンツの取り扱い方にやや横暴な印象を受けもしたが(そのことについては本人も無自覚ではないはず)、近年スクリーンで目にしてこなかったような「実験映画」的な過激さが、ドイツのシルヴィアさんによる、2022年の新作に宿っていることに新鮮な印象を受けた。その新鮮さはもしかすると、私の観てきた「実験映画」が、年上の男性による作品群に偏っていたからかも知れないし、単に自分と最新の「実験映画」シーンの間に距離があるからかもしれない。近くでシルヴィアさんの新作を観ていた恋人は、繰り返される画面の点滅に耐えられず、ずっと目を瞑っていたという。
小田さんの新作『カラオケ喫茶ボサ』は、小田さんのお母様が営むカラオケ喫茶で撮影された作品。気持ちよさそうに、それぞれに特徴的なしぐさで歌うマダムたちが自分の想いを語るのだけど、その音声は、自分が想像してもしきれない言葉で溢れていた。お墓参りを楽しみにしている人、コロナ禍で大好きなカラオケにいけなかったとき、気分転換に外に出たら腕を骨折してしまった人。他の国に住む人たちと関わり合えたらと願う人。ロシアによるウクライナ侵攻のニュースを見て涙を流したという人。SNSに投稿されない声を想像したいとしばしば感じているけれど、『カラオケ喫茶ボサ』を観て、その難しさと大切さを改めて痛感した。周りの人に気を遣わせることはしまいと、真剣なメッセージの語尾を明るく発音する小田さんのお母さんの(きっと無意識に染み付いている)イントネーションには、単に文字に起こすだけでは失われてしまう魅力がぎゅっと詰まっている。フィルムで撮影された小さな背中も、目に焼きついた。

■2日目:シンポジウム『日独のニューウエーブにおける女性映画作家と現在』
映画研究者の斉藤綾子さん、ベルリンを拠点に活動するキュレーターのマデレーン・ベルンストルフさん、そして小田香さんが登壇した2日目のシンポジウム。全編を通してとても興味深い議題で溢れていたけれど、特に印象に残ったのは「女性作家」という言葉の歴史と定義についてだった。せっかくなのでこのブログでもその一部を共有できればと思うけれど、自分の記憶と簡単なメモを頼りにしているため、100%正確なものではない可能性があることを事前にご了承いただきたい。
斉藤さんによれば「女性映画」という言葉にははじめ「女性向けに作られた映画」という意味が宿されていたけれど、そこに徐々に「女性がつくった映画」という意味が含まれていったのだそう。ただし、監督の生物学的性が女性の場合、その作品をすべて「女性映画」と捉えて良いのだろうかという議論はもちろんあり、社会的・歴史的に考えた「女性」という存在の捉え方も重要になるので、「女性映画」の定義はかなり流動的だということだった。
「女性映画という悪名高い概念ですが」と苦笑いを交えながらコメントを始めた研究者の菅野優香さん(当日客席に居らして、司会/キュレーターの平沢剛さんからコメントを求められた)は、「男か女かと二分化する窮屈さは確かにある」とした上で、しかし「(「女性映画」という言葉に込められた)カウンターの意味が非常に重要」「マイノリティの立場から見たときに、世界が違って見えるということ」「フェミニスト的な対抗」だと語っていらして、これらの言葉はストンと腑に落ちた。作家としての小田さんやその映画について、著名な批評家が本の中でしきりに「女性〇〇」と書いていたこともずっと気になっていたので、小田さん本人の口から「女性映画」についての考えを聞ける場があったことも有り難かった。
■3日目:ウルリケ・オッティンガー『アル中女の肖像』上映
シンポジウムの締め括りに斉藤綾子さんは、近年の女性監督特集の盛り上がりについて触れられた(去年のフランス女性監督特集、シネマヴェーラで開催中のアメリカの女性監督特集、シャンタル・アケルマン特集)。その過程で「ドイツのオッティンガーまで!」と興奮気味に語られていたのが印象的で、我慢しきれず3日目はそのウルリケ・オッティンガー監督の映画『アル中女の肖像』(1979年)を観に行くことにした。
『アル中女の肖像』予告編
同作では、片道航空券でベルリンにやってきた主人公が、とにかく酒を飲みまくる。エレガントな衣装に身を纏った主人公が、周囲のことはおかまいなしにどんどんグラスを割り、酒を窓にひっかけ、杯を重ねていく。劇中ほとんど言葉を発しない彼女は、空中綱渡りに挑んで落下したり、炎の中にその身ごと突っ込んだり、千鳥足になったり、危なっかしい。しかし鑑賞後に脳裏に蘇るのは惨めな姿なんかではなく、むしろ自信たっぷりで歌ったり、鏡をヒールで割って歩いていく、ゴージャスな彼女の姿なのだ。1日目のプログラムで鑑賞した松本俊夫の『母たち』(1967年)で、「母は~~だ。~~してはいけない。」というような台詞が繰り返される寺山修司の詩が朗読されていたけれど、そのことに対して感じていた居心地悪さが、3日目にこの作品で吹っ飛ばされた気がした。ドラムの伴奏と共に「ベルリン最高!灰色の壁も好き!」というような歌を大声で歌うシーンなんて超最高だ。主流なんて、常識なんて知るかと叫んでいるようで。
もちろん性別だけでなく、その作品が描こうとしている内容を丁寧に観察しなけれないけないということを大前提としたうえで(このことについては最近本当によく考える)、今回のようなプログラムを体験すると、これまで日の目を浴びてこなかった素晴らしい「女性作家」の作品はまだまだ紹介され切っていないのだろうという、確信に近い予感を抱く。その開拓に自分も関わることができるなら、という欲張りな野望も芽生えたりして、まずは尊敬するジョナス・メカスの周辺、マリー・メンケンやMMセラの作品から、ウェブ上で鑑賞し始めている。
■追伸:銀座の地下で短編映画を
5月末まで銀座の地下に、短編映画が観られるスペース『GINZAZA(ギンザザ)』がオープンしており、私も会場で配布されるフリーマガジン『ZineZaZa(ジンザザ)』の執筆・編集などで企画に関わっています。これまで1作単位で公開されることが少なかった、世界の魅力ある短編映画が1作100円で鑑賞できます。もちろん日本語(+英語)の字幕付き。よろしければぜひ、足を運んでみてください。
GINZAZA|ギンザザ
http://ginzazafilms.com/
(いどぬま きみ)
■井戸沼紀美
福島県生まれ、都内在住。明治学院大学卒。これまでに『ジョナス・メカスとその日々をみつめて』(2014年)、『ジョナス・メカス写真展+上映会』(2015年)、『肌蹴る光線』(2018年~)などの上映イベントを企画した。
・井戸沼紀美のエッセイ「二十二日の半券」は隔月、奇数月の22日に更新します。次回は2022年7月22日掲載予定です。
●ときの忘れものは2017年に青山から〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました。阿部勤が設計した個人住宅だった空間で企画展の開催、版画のエディション、美術書の編集等を行なっています(WEBマガジン コラージ2017年12月号18~24頁の特集参照)。
JR及び南北線の駒込駅南口から徒歩約8分です。
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531
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http://www.tokinowasuremono.com/
営業時間=火曜~土曜の平日11時~19時。*日・月・祝日は休廊
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