瀧口修造と作家たち ― 私のコレクションより ―

第10回「小山田二郎と古茂田守介」

清家克久

「小山田二郎」


図版1.水彩画「子供の情景」37×27cm1960年代作サイン有図版1.
水彩画
「子供の情景」
37×27cm
1960年代作
サイン有

図版2.同上裏面図版2.
同上裏面

 「子供の情景」と題された1960年代の水彩画、作品の裏に自筆で題名と名前が書かれている。三年程前にネットオークションで3万8千5百円で落札したが、東京のあるギャラリーが取り扱っていた形跡がある。
 小山田二郎は幼少期に近所に住む親戚にあたる日本画家小堀鞆音とその弟子たちから水彩画を学んでいる。『みづゑ創刊80周年記念特集 水彩』(「季刊みづゑ・秋」1985年9月美術出版社刊より)に収録された小山田の「子供のころから」と題した文章で「私が透明水彩を初めて描き出したのは、幼稚園に入学した頃と記憶している。毎日身のまわりにある物を写生させられた。八歳位の或る機会に谷中の墓地に散歩に行く事を覚え、墓の番人になった心算で墓地の隅々を歩き廻った。土葬のまわりに置かれたボンボリや、枯れた草花を描いたりした。」と回想している。
 小山田は水彩画による子供をテーマにした多くの作品を制作しており、「子供は小山田にとって親しみのあるモチーフだったが、1956年に長女が生まれて以降は更に子供を描く絵が増えている。水彩で描かれる子供たちは半円や三角、四角といった幾何学形を組み合わせて描かれ、どこか不安定な印象を与えながら色彩の溢れる幻想の世界を漂っている。」(「生誕100年小山田二郎」展カタログ2014年11月府中市美術館刊より)と小林真結学芸員が解説しているが、この作品もそれに該当する。

図版3.「季刊みづゑ・秋」1985年9月美術出版社刊より図版3.
「季刊みづゑ・秋」
1985年9月美術出版社刊より

図版4.「生誕100年小山田二郎」展カタログ表紙 2014年11月府中市美術館刊図版4.
「生誕100年小山田二郎」展カタログ表紙
2014年11月府中市美術館刊


 小山田二郎(1914-1991)は帝国美術学校(現・武蔵野美術大学)在学中の1935年にシュルレアリスムを標榜する画学生のグループ「アニマ」(L’ANIMA)の結成に参加している。瀧口修造はこのグループに招かれて話をしたり同人展を見ており、その頃から小山田のことを知っていた。しかし、「アニマ」の活動は長く続かず、小山田自身も父から学費を断たれ中退を余儀なくされる。戦時下の物資不足の中で空襲の被害を受け、印刷会社で働くなど紆余曲折を経て本格的に画家として再出発したのは1947年からである。自由美術家協会会員として出品を重ねる一方で、1952年から56年まで瀧口修造の薦めによりタケミヤ画廊で計4回の個展を開催した。(この個展で知り合った島貫キクと結婚するが、夫人は小山田チカエと名乗り同画廊で個展を行っている。)

図版5.小山田チカエ展案内状1955年5月図版5.
小山田チカエ展案内状1955年5月

 瀧口は読売新聞文化欄の企画「今年のベスト・スリー」の美術部門で1952年から1955年まで4年連続で小山田の作品を選出し、度々論評もしている。なかでも1955年に発表された「小山田二郎の芸術」は本格的な作家論として注目される。
 「小山田二郎のような作家が日本の画壇の一角にあらわれてきたことを、私はけっして偶然とも不思議とも感じないであろう。といっても、かれをどこにでもいる平凡な作家だという意味でないことは勿論である。ただ異常な特異な価値の芸術として、例外のなかにまつりあげることに私は反対なのである。」と断じた上で、「小山田二郎は、ここ数年間に子供をモティーフとした一連の愛すべき作品と、「いやなやつ」と題した烈しい諷刺的な作品の系列とを同時に描きだしている。これは作者の意識が分裂したというよりも、この「鳥女」的な作品からみちびきだされた必然的な発展にほかならないと思われる。この二つの要素、リリックな要素と、諷刺的な要素とはすでにかれの内部にあったものであり、かれの芸術そのものの成立が、創造と破壊、愛情と憎悪との対立と抱合とを本質とするものだったのである。子供たちは「鳥女」の恐怖から抜けだして、小さな窓の前に立つだろう。夜と夜明けの境にかれらは立っている。そこには小さな沈黙の均衡が支配している。しかしまだ夜を背負っている小さなものたちのささえている均衡は異様にうつくしい。たえず死の深淵が、この強靭な子供たちに月の光のように反映する。(以下略)」(「コレクション瀧口修造」第7巻所収「みづゑ」1955・5)と論じている。
 以上のことからも瀧口が小山田を高く評価していたことが伺えるが、小山田二郎の回顧展は、これまで1994年、2005年、2014年の三度開催されており、日本の戦後美術に重要な位置を占める作家であることの証と言えるだろう。

「古茂田守介」

図版6.デッサン(コンテ)「裸婦Ⅰ」33.1×19.5cm1954年頃作サイン有図版6.
デッサン(コンテ)
「裸婦Ⅰ」
33.1×19.5cm
1954年頃作
サイン有

 古茂田守介のコンテによるデッサンで非常に完成度の高い作品である。全く無駄な線がなく、モデルの裸体と表情を見事に捉えている。七、八年前だったと思うがネットを通して神奈川県のギャラリー・エコールから7万円で購入した。
 古茂田は「素描の画家」と言われるほど膨大な裸婦や静物のデッサンを残しているが、1954年8月に刊行された美術雑誌「アトリエ」増刊号の「裸体デッサンの描き方」のなかで「私は、普通学校や研究所で学ぶ筈の石膏デッサンというものを殆どせず、いきなり人体デッサンに入ったのです。別に強い信念があったわけでもありません。只多くを描けば上達する位のつもりで、何も考えず先生から云われるままにモデルをよくみて夢中で描きました。油絵の方も並行して描きましたが、デッサンの方が面白くなり、そんなデッサンを随分描きました。」(「古茂田守介 新たな素顔―素描が見せる幻の仕事」展カタログ1993年2月町立久万美術館刊より)と語っている。素描は下絵や習作の為のものと見られがちだが、古茂田にとってはそれ以上の表現手段であったに違いない。

図版7.「古茂田守介 新たな素顔―素描が見せる幻の仕事」展カタログ表紙・1993年2月刊図版7.
「古茂田守介 新たな素顔―素描が見せる幻の仕事」展カタログ表紙
1993年2月刊


 古茂田守介(1918-60)は愛媛県松山市の出身で、生来喘息の持病に悩まされながら42年の短い生涯を送った。兄公雄の影響で絵を描き始め、19歳で上京し猪熊弦一郎や脇田和に師事することになる。戦時中のことでもあり、大蔵省に勤める傍ら新制作派協会展に「裸婦」を出品し初入選を果たす。戦後は大蔵省を退職して画業に専念し、新制作派協会(1951年以降は新制作協会に改名)を中心に各種団体展に出品を続けた。
 瀧口修造が古茂田守介について言及しているのは僅かで、1950年の「第14回新制作派展評」(『コレクション瀧口修造』第7巻所収「みづゑ541号」1950年11月)では「古茂田守介の裸体はここでは異質の重厚な追求だが、案外平板を免れていない。」と述べ、「アトリエ」(1951年11月刊)に発表された「新人の位置」(『コレクション瀧口修造』第7巻所収)と題する論考では有力な新人の一人として取り上げられてはいるが、「牛のように黙した裸体の仕事」と、いずれも簡単に評しているに過ぎない。ここで裸体の作品と言うのはおそらく「三人」と題する油彩画のことを指していると思われる。

図版8.油彩「三人」第14回新制作派展出品作(「古茂田守介の全貌展」カタログ1995年愛媛県立美術館刊より図版8.
油彩「三人」
第14回新制作派展出品作
「古茂田守介の全貌展」カタログ1995年愛媛県立美術館刊より

 古茂田守介と親しかった美術評論家の一人が洲之内徹である。同郷のよしみで飲み仲間でもあった。洲之内の最初の美術エッセイ集『絵のなかの散歩』(新潮社1973年6月刊)で古茂田について書いているが、そのなかに瀧口修造が出てくる場面がある。
 「反対に、この人がと思う人から、守介を認める言葉を聞いたこともある。守介の死んだ翌年、日本橋画廊で最初の遺作展が開かれたが、私が会場へ入って行くと、ひとりでじっと絵を見ていた瀧口修造氏が、私に気づいて振り返って言った。〈こうして見ると、コモチャンというのはやっぱりいいですねえ〉」(この文章には前段があり、画廊のオーナーの田村泰次郎や美術評論家の土方定一が古茂田の絵を好まなかったので、それに対してという意味で「反対に」と書いている。)

図版9.洲之内徹著「絵のなかの散歩」新潮社1973年6月刊函表紙図版9.
洲之内徹著「絵のなかの散歩」
新潮社1973年6月刊函表紙

 この遺作展が開催されたのは1961年6月のことであるが、瀧口と洲之内の接点はそれ以前にもあった。1959年に小説家の田村泰次郎が銀座に現代画廊を開設し、支配人として手伝うことになったのが洲之内だった。その現代画廊のオープニングが6月の「カレル・アペル展」で、カタログに瀧口が短文を寄せている。11月の「セルパン展」にも寄稿している。ただし、現代画廊と名付け抽象的な作家を選んだのは田村の意向で、必ずしも洲之内の嗜好とは合わなかったようである。二年余りで田村は画廊から手を引き、洲之内が後を引き継いだ。洲之内によれば現代画廊では古茂田の絵は生前には一枚も売れなかったが、亡くなって数年経ってから売れるようになり、買った人たちが一様に瀧口と同じセリフを言ったそうである。
 瀧口修造と洲之内徹、美術評論のスタイルにおいても資質的にも詩人と小説家というタイプの異なる二人だが、その炯眼と人を魅了する文筆の才には共通するものがある。そして、タケミヤ画廊と現代画廊という発表の場を通してどれだけ多くの才能ある芸術家が発掘され、巣立っていったことだろう。

(せいけ かつひさ)

清家克久 Katsuhisa SEIKE
1950年 愛媛県に生まれる。

・清家克久さんの連載エッセイ瀧口修造と作家たち―私のコレクションより―は毎月23日の更新です。

清家克久さんの「瀧口修造を求めて」全12回目次
第1回/出会いと手探りの収集活動
第2回/マルセル・デュシャン語録
第3回/加納光於アトリエを訪ねて、ほか
第4回/綾子夫人の手紙、ほか
第5回/有楽町・レバンテでの「橄欖忌」ほか
第6回/清家コレクションによる松山・タカシ画廊「滝口修造と画家たち展」
第7回/町立久万美術館「三輪田俊助回顧展」ほか
第8回/宇和島市・薬師神邸「浜田浜雄作品展」ほか
第9回/国立国際美術館「瀧口修造とその周辺」展ほか
第10回/名古屋市美術館「土渕コレクションによる 瀧口修造:オートマティスムの彼岸」展ほか
第11回/横浜美術館「マルセル・デュシャンと20世紀美術」ほか
第12回/小樽の「詩人と美術 瀧口修造のシュルレアリスム」展ほか。
あわせてお読みください。

クボテーって誰? 希代のパトロン久保貞次郎と芸術家たち」開催中
会期:10月15日[土]~10月29日[土] *日曜休廊
会場:ストライプハウスギャラリー STRIPED HOUSE GALLERY
  〒106-0032 東京都港区六本木 5-10-33
  Tel:03-3405-8108 / Fax:03-3403-6354
主催:久保貞次郎の会
久保貞次郎の会_案内状_表面1280

久保貞次郎の会_案内状_宛名面1280


*画廊亭主敬白
六本木のストライプハウスギャラリーで開催中の「クボテーって誰? 希代のパトロン久保貞次郎と芸術家たち」は久保先生の教え子やボランティアの方たちが交代で店番をしています。ときの忘れもののスタッフも少しお手伝いしていますので、よろしくお願いいたします。
ときの忘れものの次回企画はアンディ・ウォーホル展 史上最強!ウォーホルの元祖オタク栗山豊が蒐めたものを開催します。
会期:2022年11月4日(金)~11月19日(土)
アンディ・ウォーホル展_案内状_表面1280