
art
会員制の有料メルマガ「ROADSIDERS' weekly」発行人・都築響一さんが今日から始まる「アンディ・ウォーホル展 史上最強!ウォーホルの元祖オタク栗山豊が蒐めたもの」を取材、今週号で大特集してくださいました。
本来は有料ですが、ご厚意でブログに転載させていただきます。
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2022/11/02号 Vol.523(1/2)
ロードサイダーズ・ウィークリー523号をお届けします。
今週は京都に対抗して!もうひとつのウォーホル展を徹底紹介。
さらに「懺悔の値打ちもない」「地獄よいとこいちどはおいで」に続いて、新たな毎週連載もスタート! いったいどうなってしまうんでしょうか、このメルマガ……。
今週もボリュームたっぷりです。ゆっくり最後までお付き合いください!
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art 栗山豊とアンディ・ウォーホル
Yahoo!ニュースを見ていたら「価値わからない・なぜ5点も・本物に感動…県が3億円で購入、ウォーホル作品に波紋」という刺激的(笑)な見出しが目に入った。「鳥取県がポップアートの巨匠アンディ・ウォーホルの木製の立体作品「ブリロの箱」5点を計約3億円で購入したことが波紋を広げている。2025年にオープンする県立美術館の集客の目玉として期待を寄せる一方、疑問の声も相次ぎ、県は急きょ住民説明会を開催する事態となった」(読売新聞10月27日より)。
記事によれば県は「都市部の美術館にないポップアートの名品を展示できれば、鳥取の存在感をアピールできる」として、2025年に倉吉市に新設する県立美術館向けに《ブリロの箱》を購入(1968年のオリジナル1点と死後の90年に制作された4点、計5点)。しかし9月の県議会では「日本人には全くなじみがない。米国にあってこそ意味がある」と批判があったほか、県教育委員からも「3億円を高いと感じる人がいる」「なぜ1点ではなく、5点必要なのか」といった不満が示された……のだそう。

「好きなひと」と「きらいなひと」がいるだけだったのを、「わかるひと」と「わからないひと」に分断してしまったのが現代美術というものだとすると(「現代」と名のつく他の分野も同じことだが)、「国内ではブリロの箱は収蔵されておらず、『集客効果に加え、新たな視点で物事を柔軟にとらえ、想像力を豊かにする教育効果もある』と期待する」県側の意向と、たわしの包装箱は「見ても価値がわからない」「日本人にはまったくなじみがない、米国にあってこそ意味がある」という議会や住民説明会での意見との隔たりは大きい……というか、こういう問題が出てくること自体、ウォーホルがいまだにきわめて「現代的」なポップアートであるということなのかもと思ったり。
京都市京セラ美術館ではいま大回顧展「アンディ・ウォーホル・キョウト」を開催中(2023年2月12日まで)。すでに観に行ったひとも多いだろうし、メディアでもたっぷり取り上げられている。でもロードサイダーズで紹介したいのは京都の大回顧展ではなくて、東京のギャラリー「ときの忘れもの」で11月4日から始まる「アンディ・ウォーホル展」。六義園や東洋文庫が近い駒込の住宅街にある「ときの忘れもの」は、建築家・阿部勤が手がけた個人住宅「LAS CASAS」を使った風変わりなギャラリー。それまでの青山から2017年に移転してきている。画廊主の綿貫不二夫さんは「現代版画センター」を1974年から85年まで運営。版画というメディアを日本のアート界のなかできちんと位置づけした立役者のひとりであり、アンディ・ウォーホルの作品にも展覧会の開催、独自のエディション制作など深く関わってきた。

埼玉県立近代美術館で2018年に開催された「版画の景色 現代版画センターの軌跡」
今回の「アンディ・ウォーホル展」は、「史上最強!ウォーホルの元祖オタク栗山豊が蒐めたもの」と副題がつけられているとおり、実はウォーホルの作品そのものよりも、ウォーホルの「元祖オタク」であった画家・栗山豊が1960年代から収集してきたアンディ・ウォーホル関連の厖大な資料を見てもらおうというユニークな企画である。

2001年2月22日奇しくもウォーホルの命日に路上で倒れ55歳の生涯を終えた栗山豊(1946-2001)は、新宿などで夜の街角に立つ似顔絵かきでした。
栗山は1960年代からアンディ・ウォーホルに関するカタログはもちろん、新聞、雑誌、広告、展覧会の半券、テレビコマーシャル、中には珍しいジャズ喫茶のマッチ箱まで幅広いメディアを網羅してウォーホルに関する情報を蒐集していました。遺された膨大なウォーホル資料は日本におけるウォーホル受容史の貴重な記録であり、1983年に現代版画センターが企画した「アンディ・ウォーホル全国展」はじめ、その後のウォーホル回顧展の重要な基礎資料としても使われています。
本展では、膨大なウォーホルの栗山資料のすべてをはじめて公開します。現代版画センターが1983年にエディションしたウォーホルのシルクスクリーン〈KIKU〉〈LOVE〉シリーズ、栃木県大谷石の巨大地下空間でのウォーホル展の記録映像や、ポスターなどをご覧いただきます。日本のメディアがウォーホルをどのように捉えていたのか、この機会に貴重な資料を是非ご覧ください。
(展覧会サイトより)

1974年、大丸でのウォーホル展ポスター
(ときの忘れものブログより)
僕がウォーホルを初めて見たのは1974年に大丸東京店で開かれたウォーホル展で、当時は高校生だった。その同年に西武池袋店で開催されたアレン・ジョーンズ展とともに、僕の進路に大きな影響をもたらしてくれた現代美術展で、それから10年かそこら経って雑誌の編集者として、ニューヨークでウォーホル本人と会えるようになるとは、もちろん想像もできなかった。

「アレン・ジョーンズ展」カタログ

「アンディ・ウォーホル展」カタログ。50年近く経ったいまも大切に保存している2冊
現代の状況ではなかなか考えにくいかもしれないが、当時はデパートが現代美術の先鋭的な展覧会を開くのが当たり前の時代だった。ウォーホル本人も「え、デパートで?」と戸惑ったらしいが、そのころのことを綿貫さんはこんなふうに振り返ってくれた――
当時は南天子画廊、南画廊、東京画廊といった現代美術の名だたるギャラリーでは、ウォーホルを相手にしてくれなかったんです。ジャスパー・ジョーンズやリキテンスタインはいいけれど、ウォーホルはイロモノあつかいで、売れっこないと思われてたんですね。デパートですら軒並み断られて、ようやく大丸が手を上げてくれて東京店と神戸店で開催できたんです。
そんな時代にウォーホルにのめり込み、ついには同じ命日に路上で倒れて亡くなった栗山豊の収集を、今回は初めて本格的に展示する機会になるという。「ときの忘れもの」では毎日更新!の読みごたえたっぷりのブログをアップしていて、そこで栗山豊の思い出を綿貫さんが掲載しているので、ご本人に会ったことのない僕がなにか書くよりも、まずはそれを読んでいただきたい(初出・『STUDIO VOICE』2007年5月)――

遺されたウォーホル関連書籍の山

「FLESH」「TRASH」などウォーホル監督映画の8mmフィルム(スーパーエイト)

端正な文字で表紙に目次が書かれたスクラップブック

スクラップブックは1960年代から始まっている
世界一のウォーホル・ウォッチャー
2001年2月22日史上最強のウォーホル・ウォッチャーだった栗山豊が死んだ。街で倒れ病院に運ばれたが看取る者もなく、枕元にあった手帖から看護婦さんが友人に電話してその死を知らせた。ウォーホルの命日に死ぬなんて栗山らしいが、死ぬ少し前、60年代から蒐集した膨大なウォーホル資料を「綿貫さんが持っていた方が生きるから」と私に託していった。いま思えば長年の不規則な生活と酒、恐らく自らの死を予感していたに違いない。
栗山は1946年和歌山県の田辺に生まれた。父が南方熊楠に師事したというから、後年の何でも蒐集癖は血かも知れない。文化学院を卒業後は、看板描きや、新宿、銀座、上野の街頭で似顔絵描きとして生計をたて、春になると全国の主要なお祭りに出かける、寅さんの如き生涯だった。
ウォーホル三人男と呼ばれた宮井陸郎、根本寿幸、栗山豊の協力で私は1983年に日本発の[KIKU][LOVE]シリーズをウォーホルに依頼して渋谷パルコや宇都宮大谷の地下空間で大規模な展覧会を企画した。そのとき唐草模様の大風呂敷に包んだ膨大な新聞雑誌等の切れッぱしを持ってきたのが栗山だった。美術、映画はもとよりマイナーな雑誌の記事や広告、写真の隅にちらっと載ったウォーホル作品などよくも見つけたと思うほど幅広いメディアを網羅していた。1974年の大丸展チケットの半券、60年代のドローイングをあしらったジャズ喫茶のマッチのラベル、電車の中吊りやチラシ、バブル期のキャッチセールスの怪し気な展覧会入場券など大宅文庫にも国立国会図書館にもないリアルタイムでなければ絶対に入手不可能なものばかりだ。
栗山が死に、宮井は行方不明、根本はギャラリー360°で頑張っているが、私の元気なうちに栗山資料の全貌展を開きたい。現代の宮武外骨が遺した宝の山に分け入り、アングラ映画から始まった日本におけるウォーホルの受容の歴史を研究、再生させる者はいないだろうか。
(http://www.tokinowasuremono.com/nv05-essay/essay_gallery/essay200704.html)

新聞・雑誌記事を切り抜いたファイル

右:1974年に来日した際の『アサヒグラフ』。1956年、若き日に世界一周旅行の途中で立ち寄ったほかは、この時が最初で最後の来日だった。
左:ウォーホルを日本に呼んだ安斎慶子。もともとはファッションデザイナーであり、グループサウンズのオックスの衣装も手がけたが、映画に出たり、謎のメディアスターでもあった(2007年死去)。

1974年の来日時。隣が安斎慶子、コシノジュンコに似ていた……(日曜美術館より)

ファイルを眺めていると、いろいろ懐かしい記事が続々。これはサントリーが1980年代後半に出していた『BACCHUS』という雑誌。「ARTIST AT THE TABLE」という、ニューヨークのアーティストたちの食生活を紹介するという……謎の連載を僕がやっていて(撮影はツェン・クォン・チ)、その第1回でウォーホルのファクトリーを取り上げた記事。ファクトリーにある大きな食卓でのランチ風景で、その日は日本人ビジネスマンが数人合流、聞いてみたら繊維商社のタキヒョーのかたたちだった。どんな商談だったのだろう。

1987年2月22日、ウォーホルが亡くなった際の切り抜きは特に多い(58歳の若さだったとは!)。それだけ一般メディアにとっても「記事になる話題」だったということでもある。

渋谷・天井桟敷館での上映イベント「ウォーホルEPIとベルベット・アンダーグラウンド」チラシ。主催は日本アンダーグラウンドセンター!

右は1982年のBRUTUSニューヨーク特集でのウォーホル記事。撮影は当時ウォーホルをよく撮っていたクリストファー・マコス

ウォーホルには日本の広告界でも人気だった。1983年のTDKビデオテープの広告、コピーは「イマ人を刺激する。」……涙

1968年『美術手帖』の目次ページ

上野池ノ端にあったジャズ喫茶「イトウ(ITO)」。1930年代に創業された、東京のジャズ喫茶の草分けだったそう(1991年閉業)。マッチの画はイラストレーター時代のウォーホル作品


栗山豊が根城にしていた新宿の風月堂は、名高きフーテンの溜まり場でもあった(現在の新宿三丁目IDC大塚家具ショールームの場所)。栗山さんは風月堂の外観を絵はがきにまでしている。
説明に書かれているように栗山豊はアーティスト、といっても生計は街角の似顔絵描きで立てていた。生前に『PORTRAITS』(自費出版、1974年)『似顔絵ストリート』(GALLERY 360°刊、2000年)と作品集とエッセイの2冊が世に出ているが、当時も彼はごく一部のサークルにしか知られていなかったろうし、現在では2冊とも入手困難である。

栗山豊がファクトリー前で出待ちして(勝手に)撮影したウォーホルのポスター
似顔絵で得た収入で栗山豊はニューヨークに渡り、もちろんいきなり本人に面会はできないので、ウォーホルの制作拠点だったファクトリーの前で「出待ち」、ようやく出てきたウォーホルを無断で激写し、それをポスターにしたりもしている。一枚数百円の似顔絵では満足な収集ができないので、銀行や美容院に足を運んでは、置いてある雑誌類をチェック。ウォーホル関連の記事があるとすばやく破り取って集めたのだという。
そうした苦労が今回披露されるコレクションになったわけだが、日本のメディアに載った記事や映像を集めるだけでこれだけ厖大な記録ができるという事実が、まずウォーホルならでは。展示されている雑誌類には美術専門誌だけでなく、男性週刊誌から女性月刊誌、新聞、さらにTDKなどウォーホルをモデルに起用した広告の誌面まで、実にさまざま。単なる現代美術家という扱いをはるかに超えたメディアスターであったことがよくわかる。

テレビCMから日曜美術館まで、ウォーホル関連番組を録りためていたビデオテープ

TDKビデオテープのCM



筑紫哲也の「NEWS23」ウォーホル特集、相方はもちろん阿川佐和子

そしてゲストは若き日の日比野克彦氏……
死んで35年経ったいま、彼の業績を振り返る展覧会だけでは伝わらない、アンディ・ウォーホルという人間の存在感というものが、本人の作品よりもむしろこうした資料の大海から見えてくる。「オリジナル」の作品ではなく、こんなふうに無限に拡散していった「ウォーホルのイメージ」のほうに、彼のポップ・アーティストとしての本質があるのではないか、という気すらして、すごく興味深い。
「栗山さんはウォーホルが死んで、やっぱり気力が失せた感じになって、不摂生な生活もたたって若死にしちゃったんです」と綿貫さんは教えてくれた。当時の仲間のひとりに、僕も『独居老人スタイル』などでさんざんお世話になった秋山祐徳太子がいて(2020年に85歳で亡くなられた)、生前に出版された『泡沫傑人列伝 知られざる超前衛』(二玄社刊、2002年)に栗山さんの思い出が書かれているので、そのまま転載させていただく――
路上のウォーホル “世界を点々とする画家”
アメリカのポップ・アーティストの巨匠、アンディ・ウォーホルに魅せられ、アメリカまで会いに出かけていく。栗山豊さんは、そんな行動力を持った人である。だからと言って、そのことを自慢したり、名誉欲に生きようとすることは微塵もない。見上げたものだ。
彼の本業は似顔絵描きである。知り合ったのは七〇年代のはじめ頃だが、その以前から似顔絵描きをつづけ、今も現役である。全国で開かれる祭りはもちろんのこと、あらゆるところにイーゼルを立て、じっとお客を待ちかまえている姿には、なかなかの風格がある。
七九年、私の第二次都知事選の折りには、彼は自費で選挙ポスターを作ってくれた。金がかかるのでもちろん白黒である。それで充分、今や栗山さんの作品として、全国各地の美術館にコレクションされている。
それはともかく、彼にはもうひとつ妙なる行動癖がある。全世界への旅に出ることである。旅をすること自体別段当たり前のことだが、それだけではない。彼は旅先から世界地図の絵葉書を送ってくる。そして、そこには毎回、赤い点がひとつだけ記してある。時候の挨拶も近況の報告も全く記されていないが、おそらく自分が今その場所に来ているという印なのだろう。「エアメール・アート」というものだが、しばらくすると、また同じような絵葉書が届く。ある時はヨーロッパから、またある時はアフリカ大陸の中央から。葉書サイズなので正確な場所ははっきりとしないが(おそらく本人もわかっていないのだろう)、世界を“点々”としながら似顔絵描きをつづけている、その足跡証明ということなのかもしれない。それでどうした、という気持ちにもなるのだが、来なければ来ないでやはり気にはなる。便りがあるうちは無事ということなのだから・・・・・・。
今から七年ほど前、彼は交通事故の被害にあった。幸い一命はとりとめ、何ヵ月かの休養の後に、仕事を再開した。その頃、私が知り合いたちと酔っ払って新宿の街を歩いている時、客待ちをしている栗山さんに偶然出会った。酔っ払った友人が、「よう、画伯!」と大声で叫んだので、私はその友人をたしなめた。栗山さんの方は、照れくさそうに下を向いていた。我々は彼を尻目に、素早くその場を立ち去ることにした。そうすることが彼に対する礼儀ではないか、私にはそう思えたからだ。
昨年の十月、私は、上野の森美術館の一角で展覧会を開いた。テーマは「岡倉天心の逆襲」というもので、天心のコスチュームを身にまとい、公園の中を歩いていると、何か明治を背負っている感じがした。そんな時のことである。ふと見ると、西郷さんの銅像へ向かう階段の途中に、栗山さんがいるではないか。驚いたことに、イーゼルに貼り付けられた有名人の似顔絵の中に、私の都知事選のポスターがある。すかさず私は彼に駆け寄り、岡倉天心の格好をした姿を描いてもらった。人だかりがして描きづらそうだったが、出来上がった絵は文句なしの名作だった。
今年の夏、栗山さんは、友人の個展を訪れた際に突然倒れたという。救急車で病院に運ばれたが、血圧が異常に高く、しばらく危険な状態がつづいたらしい。それでも難は逃れ、再び現役に復帰、あちらこちらの祭りに出没している。
そんな彼は、今でも私のことを「夜の東京都知事」といって慕ってくれている。感謝。
似顔絵描きに徹する彼こそ、西郷どん、よか男でごあす。
なお、栗山さんは、KKSKIPより『似顔絵ストリート』という本を出しているので、一読あれ。
敬服満点。(二〇〇〇・一一・一〇)

秋山祐徳太子・都知事選ポスター。公式の選挙掲示板とは違った場所や埼玉県側にポスターを貼り「都市を芸術した」(『似顔絵ストリート』より)
◎それから◎
栗山豊さんの訃報が入った。まさかとは思ったが、何度も死線をきり抜けていたので予感はあったものの、その後連絡が取れず、気にしていたのだが。彼は確か和歌山県出身で、時々田舎からカラフルでポップなカマポコを送ってきてくれた。新宿にあった彼のマンションに泊めてもらったこともあった。板橋の葬儀場に行くと主だった友人たちが来ていた。なんでも彼は身内が無く、いとこの女の人が世話をしていたという。赤羽の方の病院に入っていたというのだが、我々も全く知らなかった。色々な事情があったと思うと胸が痛む。この日はなんと彼が尊敬してやまないアンディ・ウォーホルの亡くなった日と同じだという。二〇〇一年二月二十二日、世紀を越えた劇的な日である。帰りに白夜書房の末井昭さんたちと高田馬場で彼を偲んだ。酒が入って誰かが言った。葬儀場で、栗山さんとどこかのおばさんを間違えて、手を合わせてしまったそうだ。私は遅れて立ち会えなかったのだが、あまりにも似ていたという。なんともおかしな話だった。集まった人数は少なかったが、心温まるものだった。後日、青山の360°という画廊で彼を思う別れの会が行なわれた。彼が作ってくれた都知事選のポスターは遺作として永久に輝いている。今頃はウォーホルの似顔絵を描いているだろう。
ヨウ! 男・栗山豊、見事な人生だった。
合掌。

1979(昭和54)年の都知事選、車内演説風景。左が秋山さん、右が栗山さん(撮影:渡辺克巳)
(『泡沫傑人列伝 知られざる超前衛』より)
『似顔絵ストリート』のあとがきで、栗山さんはこんなふうに似顔絵描きの日々を語っている――
今まで、何人の人の顔を描いたのだろう。晴れたり曇ったり、雨の日もあり、台風の日もあった。
最近七年間に似顔絵を描いた人を数えてみると、一年間に平均一八二八人の人を書いている。ジョナサン・ボロフスキーのような最初からのカウンティングの記録はないが、六〇年代後半から七〇年代後半までは、客は後を断たないほど続いた。多い時で、早朝から深夜まで一日百人を超えた顔を描いたことあった。途中で退いていた時期もあるので、差し引きゼロのドンブリ勘定で単純に計算すると、描き始めた一九六五年から一九九五年までの三十年に一八二八を掛けると、今まで描いた顔は、五四八四〇人。

《SHUJI TERAYAMA》栗山豊、1993年
キャンバスにアクリル 53.0×45.5cm(F10)
栗山豊の似顔絵はもちろん生計を立てるのが第一目的で、それがときたま自分の作品にもなっていったのだろうが(作品集『PORTRAITS』にあるように)、ではそれが栗山さん本人には不本意なことだったのか、ファインアーティストとして自立することを夢見ていたのか、僕にはよくわからない。

自分のことで申し訳ないが、僕が取材で初めてきちんとウォーホルに会い、記事にしたのは1982年9月15日号の『BRUTUS』50号「創刊2周年記念 史上最大のニューヨーク特集」だった(今月は973号!)。その当時ウォーホルはモデル事務所に所属し、1時間250ドルのギャラでポーズを取ってくれるというのがちょっと話題だった。いっぽうウォーホルは世界の有名人のポートレート作品をつくってきたが、そちらはひとり2万5千ドルの代金と顔写真のポラロイドを一枚用意すれば、だれでもシルクスクリーン作品を制作してくれると聞き(2枚目からはディスカウントで1万5千ドル)、「250ドルと2万5000ドルのウォーホル」という編集後記を書いたことがあった。この「2万5000ドルのポートレート」のことは、『似顔絵ストリート』あとがきで美術ジャーナリストの帯金章郎さんも書いている。
本の記述によると、栗山さんの似顔絵代金は白黒300円、色が入ると500円だったそうで、まあ値段は百倍ぐらいちがうけど、なんだかそこに通じ合う「ファインアート界のイロモノ感」みたいなものがある気がして、それが僕にはすごくうれしい。

新宿のオフィシャル・フォトグラファー、渡辺克巳によるポートレート 1978年。ハッピには「環境商事」とあり(『似顔絵ストリート』より)
現代版画センター時代の1983年に綿貫さんは渋谷PARCOで「アンディ・ウォーホル展 UARHOLセンセーション '83」を開いていて、その際に《KIKU》《LOVE》という2つのシルクスクリーン・シリーズを依頼し、それが今回も展示されている。ただ、「ウォーホルのオリジナル作品」も、「栗山豊のオリジナル作品」もごくわずかで展示物のほとんどは雑誌類や記事のコピー、ファイルなどの資料類だ。
その意味でこの展覧会は京セラ美術館みたいにセンセーショナルなものではない。壁という壁が雑誌や新聞のコピーで埋め尽くされた研究発表会のようでもあるし、ギャラリーがもともと住宅だっただけに、マニアックな居住空間みたいでもある。でも、僕にはこの「オリジナルがほとんどなくて、そのかわり情報だけが溢れてる」ウォーホル(と栗山豊)展が、すごくウォーホル的であるようにも思えた。

1977年に出会ったウォーホルのスナップ(『似顔絵ストリート』より)
同時に、栗山さんが遺してくれた厖大な資料は、どんなふうにアンディ・ウォーホルという現象を日本が受容してきたか、というドキュメントである。記事の中にはプレスリリースの書き写し、みたいに安直な紹介もあれば、オヤジ週刊誌やスポーツ新聞みたいに冷やかし目線の囲み記事もたくさんある。美術専門誌の評論家による真面目な考察だけではなくて、無数のどうでもいい記事、有象無象のメディアをまるごと取り込んでアンディ・ウォーホルという存在感を膨らませていったこと。その時代の感覚こそが、もしかしてウォーホルをウォーホルたらしめ、ポップアートをポップアートたらしめている核心であるのかもしれない。

アンディ・ウォーホル展 史上最強!ウォーホルの元祖オタク栗山豊が蒐めたもの
11月4日(金)~11月19日(土) 11:00-19:00
日・月・祝日休廊
@文京区本駒込 ときの忘れもの
http://www.tokinowasuremono.com/index_j.html
[栗山豊とウォーホルをめぐる3冊の本]

1974年に自費出版された『PORTRAITS』。表紙はハプニング・アートで有名なアヅチ・シュウゾウ・ガリバー(11月末まで横浜の2会場で個展開催中!)。裏表紙には似顔絵の商売道具と、背中を向けた栗山豊。

1ページにひとりずつ似顔絵が乗っている。ひとりめがウォーホル

一柳慧と五木寛之

ウォルト・ディズニーと宇宙飛行士

宇野亜喜良と永六輔

大橋巨泉と大宅壮一

小野洋子と金田正一

加納典明と仮面ライダー

コバヤシチヨジとゴリラ

ゴルゴ13と西郷輝彦

ジェーン・フォンダと篠山紀信
絶妙のマッチングに見えてしまうが、単に名前のあいうえお順

ジミ・ヘンドリックスと指名手配

ジャクソン・ポロックとジャニス・ジョプリン
外国人はファミリーネームでなくファーストネーム順!

聖徳太子とジョン・ケージ

寺山修司と東野芳明

フランソワーズ・アルディと「へのへのもへ」

マリリン・モンローと美空ひばり
たしかにふたりとも「ま」行……

ミック・ジャガーと三波春夫

力道山とリンゴ・スター

最終ページは真っ白の「YOU」、奥付には栗をデザインした栗山マーク

似顔絵画家としての自伝的な『似顔絵ストリート』(GALLERY 360°刊、2000年)

左:銀座すずらん通りで似顔絵を描いているところ。サンプルとしてアラン・ドロン、ショーン・コネリー、マリリン・モンローなどを描いてイーゼルに立てかけていた。
右:1965年、似顔絵描きを始めたころの数寄屋橋でのスケッチ。当時は数寄屋橋の公園界隈だけで10人くらいの似顔絵描きがいたという。

1970年には「似顔絵の仕事の加速として」、「似顔絵の招待券」をつくり、ナンバーを入れて発行

数寄屋橋で似顔絵商売を始めるにあたって、最初に「似顔絵をアピールする一文をオフセット印刷」、その文章の再録


1971年から73年にかけて「メール・アートのバリエーション」として!159人の似顔絵を(勝手に)描いて送り付けた。

当時の銀座すずらん通りにいた似顔絵師たちの「列伝」も興味深い


現代版画センターが企画、渋谷PARCO、宇都宮・大谷石地下空間など全国で開催されたアンディ・ウォーホル展の図録「アンディ・ウォーホル展 1983~1984」、オリジナル版画入り

この図録がすごいのは「俳優、美術評論家、デザイナー、小説家、ミュージシャン、新聞記者、神父、政治家、サラリーマン、大学教授……」など170名に及ぶ寄稿者たちによる「私のアンディ・ウォーホル」が一挙掲載されているところ! ウォーホル以外に、こんなカタログが成立するアーティストがいるだろうか。


寄稿者リスト――東野芳明、石崎浩一郎、日向あき子、青山南、飯田善国、金坂健二、関根伸夫、立川直樹、 寺山修司、針生一郎、宮澤壮佳、宮迫千鶴、横尾忠則、ヨシダ・ヨシエ、愛川欽也、相澤俊雄、赤瀬川原平、赤塚不二夫、秋山祐徳太子、浅野翼、安土修三、安福信二、荒井由泰、荒木経惟、栗津潔、安斎重男、安斉儒理、飯塚明、池田満寿夫、石井志津男、石岡瑛子、石田了一、石原悦郎、市川雅、一色与志子、井上保、井上弥須男、岩城義孝、岩谷宏、有為エィンジェル、植田實、牛久保公典、内田繁、枝川公一、おおえまさのり、大沢昌助、太田克彦、大野ノコ、大林宣彦、大宮政郎、大宜味喬志、岡部徳三、岡正夫、 岡本信治郎、奥平イラ、尾崎正教、小野耕世、貝田隆博、柏原園子、桂宏平、金井美恵子、金子國義、川口信介、カワスミ・カズオ、かわなかのぶひろ、河原淳、川本三郎、北島敬三、木村恒久、草間彌生、久保貞次郎、倉垣光孝、久里洋二、黒田征太郎、黒柳徹子、小池一子、幸村真佐男、コシノジュンコ、小島素治、後藤由多加、今野雄二、坂井直樹、坂田栄一郎、佐藤重臣、佐藤忠雄、佐藤千賀子、佐野まさの、佐山一郎、白井佳夫、末井昭、鋤田正義、高梨豊、高橋明子、高橋明彦、高橋亨、高橋康雄、高松次郎、立花ハジメ、田中弘子、田村彰英、谷岡ヤスジ、谷川晃一、近田春夫、手塚真、 戸田正寿、戸村浩、富田敏夫、内藤忠行、中川徳章、長沢節、中田耕治、中村孝、中村直也、奈良彰一、西田考作、野口伊織、野田哲也、萩原朔美、長谷川義太郎、長谷川真紀男、羽永光利、浜田剛爾、浜野安宏、久田尚子、福島恵津子、福田繁雄、藤井邦彦、藤江民、藤本義一、藤原新也、船木仁、牧田喜義、町野親生、松岡和子、松岡正剛、松本俊夫、松山猛、三沢憲司、三宅一生、水原健造、道下匡子、峯村敏明、宮川賢左衛門、宮崎佳紀、武藤直路、村上知彦、室伏哲郎、元永定正、森下泰輔、森永純、森原智子、矢内廣、柳沢伯夫、矢吹申彦、山口勝弘、山田龍宝、よこすか未美、横山道代、吉田カツ、吉田大朋、ヨシダミノル、吉福伸逸、吉村弘、米倉守、ジョセフ・ラブ、渡部重行、中谷芙二子、飯村隆彦、八十島健夫、日野康一

赤瀬川原平の原稿。1983年という発行年なので、170名のほぼ全員が手書き(2名のみ英文タイプ)! 貴重な原稿が遺されている。このまま再刊してほしい!

右:秋山祐徳太子 左:赤塚不二夫
[アンディ・ウォーホル展 誌上ギャラリー・ツアー]

住宅の雰囲気を残す「ときの忘れもの」入口

1階エントランスからいきなり資料の壁面が迫ってくる




中央は現代版画センターが制作したシリーズ《KIKU》


入口脇に飾られたスクラップファイル


2階に上がった踊場から1階を見おろす。スクラップはすべて自由に見られる



1983年制作の図録のために栗山豊が書いた年譜原稿

映像を録りためたビデオテープ。来日時は「11PM」にも出演!



資料の雑誌を並べたコーナーの壁面には《LOVE》シリーズが

アンディ・ウォーホル《LOVE 3》1983年
シルクスクリーン 65.8×50.0cm

映画作品の8mmフィルムとビデオテープ


栗山豊の作品、書籍を見せるコーナー


希少な2冊の著書も自由に閲覧可能


美術雑誌以外に、これほど多彩なメディアに取り上げられていたところが、いかにもウォーホルらしさを感じさせる



話題の《Brillo》に関する記事も!


壁面には1983年に宇都宮市の大谷石地下採掘場跡で開催された「巨大地下空間のウォーホル展」の会場写真(撮影:村井修©Osamu Murai)

赤塚不二夫、草間彌生、黒柳徹子、三宅一生、寺山修司などなど、図録のお宝手書き原稿も展示中


2階から3階へ上がる階段エリアにはポスターを展示




3階から2階展示エリアを見おろしたところ
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◆「アンディ・ウォーホル展 史上最強!ウォーホルの元祖オタク栗山豊が蒐めたもの」
会期:2022年11月4日[金]~11月19日[土] ※日・月・祝日休廊
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