ウォーホルと栗山豊の時代
第3回 ウォーホル、栗山が生きた「戦後」という時代
森下泰輔(現代美術家/美術評論家)
ウォ―ホルは1928生まれ。対して栗山は1946生まれなので、年齢は18年の差がある。
したがって時代背景を同時代性で語ることはできない。
しかし1950年代A.W.はニューヨークでイラストレーターをしていた。加えて日本のアートシーンは少なくとも8年のディレイがある。足して18年という差はアート受容史の中で解消されるのではないか。
ふたつを介在させる共通領域としていわゆる「戦後」という視点を設定して見ていこう。
この場合、戦時下で空襲を受け国内が焦土と化したわが国ほど、米国は日常性を喪失してはいなかった。ジャクソン・ポロックの最高傑作は戦中に制作され、そこには太平洋戦争の影はみじんも含まれてはいない。日本は戦後奇跡的ともいわれる経済復興を短期に遂げる。50年代の米国も日本に勝る戦勝国の好景気であって、ウォ―ホルがニューヨークでイラストレーターとして大成功し若くしてひと財産築き得たのも高度成長期のただなかのことであった。
アンディ・ウォ―ホルのプレポップ時代、1950年代は現在もっとも活発な研究対象化しているが、1956年のホモセクシャルの友人(*A.W.の片思いだった)、リザンビーとの世界一周旅行もNY移動後わずか4年で頭角を現した若きイラストレーターの自分へのご褒美だった。
開催中の「アンディ・ウォ―ホル・キョウト」(京都市立京セラ美術館)では、そのあたりのことが中心に抽出されている。日本を含むアジア旅行の影響は帰国翌年の《GOLD BOOK》の金箔の多用にも見て取れる。

1.「アンディ・ウォ―ホル・キョウト」(京都市立京セラ美術館)で特筆される三十三間堂とアンディ・ウォーホルとの繰り返しの関係 三十三間堂玄関のパネル 1974年 三十三間堂のウォーホル写真は原榮三郎撮影 撮影:筆者

2. 《GOLD BOOK》1957 The complete set of 20 offset lithographs, four with hand-coloring, 14 on gold paper and 6 on white wove paper. Each 38.1 × 29.5 cm
LGBTQの人権拡張によりゲイ文化が普通に認知されたあとの記述にゴプ二クの伝記は満ちている。ゲイ文化中心に紐解かれるウォーホルの成長と50年代はいまもっともホットなウォーホル像を結ばせる。とりわけ、ロー文化のイラストレーターがハイ文化のシリアス・アーティストに変化する56~60までのエピソードは興味深い。
ティファニーなどともつながりのあった、NY流通業界の勝ち組ボンウィット・テラーとの関係に主眼を移せば50年代中期のNYアートシーンと商業主義との連動が高度成長を背景にしてあった。
かつてダリにもやらせたが(1939)、1955、ボンウィット・テラーは百貨店のウィンドウディスプレイをハイアートのラウシェンバーグとジョーンズに担当させる。さすがにハイアート界的に名前を出すのをはばかられた二人は「マトソン・ジョーンズ」名で引き受ける。ピッツバーグのカーネギー工科大学絵画・デザイン科時代よりウィンドウディスプレイに手を染めていたウォ―ホルは、彼らが同業に進出したことに嫉妬をする。
やがて、ボンウィット・テラーが買収したギュンター・ヤッケル百貨店のウィンドウディスプレイを担当したのはアンディがハイアートに転じた直後の1961年だった。

3.ギュンター・ヤッケル百貨店のウィンドウディスプレイ 1961
ここでアートはニューヨークポップの胎動を目の当たりにしたが、商業ウィンドウ内に出現した大型キャンバスの《スーパーマン》《ポパイ》《ペプシ・コーラ》整形手術の《ビフォア・アンド・アフター》は通り過ぎる人々からは普通の商業アートであり、なんの衝撃ももたらさなかった。人々がアッと声をあげたのはこれらがギャラリーに展示された時だった。それはアートなるメタレベルの概念を根本から崩すこととなったのだ。ウォーホルの逆説(パラドックス)が始まる。
膨張する商業消費運動はとうとうアートの領域に殴り込んだのである。
そして、56年からのエルヴィスの白いロックン・ロールの台頭、そしてまたハリウッドのジェームズ・ディーン(*55年死去)。グリニッチ・ヴィレッジ文化はビート二ク運動を経て全米に影響を与え始めていた。
アンディがスポットを浴びるのは1962年にLAフェラスギャラリーで開催したキャンベルスープの個展であろう。このとき、ウォ―ホルが用いた「レディメイド・イメージ」はまさしくこのスープ缶が創業以来用いてきた広告看板や宣材に何一つ手を加えることのないシミュレーションであった。キャンベルスープに関してはスーザン・ソンタグ提唱の「キャンプ」概念のもじりと同時に、米国が太平洋戦争中にも食料物資として戦地に落下傘降下させていたコンビーフ、コカ・コーラとならぶ緊急時の缶詰・物資でもあった。「いつもあれを食べていたからね」と当人が語るごく日常的な側面を有しつつ、戦時の予備食料としての親和性も含有していたものだ。
それだけに米国にしてみれば、空気のような汎用な食物だったわけだ。

4.1920 年頃の珍しいキャンベル スープの湾曲した磁器の広告看板。

5.USA 1950s Campbell’s Soup advertising covers

6.Vintage Print Ad - 1943 - Campbell’s Soup - WWII Soldiers - First Class Food
さて、栗山豊が故郷・田辺を出て上京し、銀座・すずらん通りにイーゼルを立てて街頭似顔絵描きを始めたのは先の東京五輪の翌年1965年5月だった。この時期の東京は高度成長期の波に洗われ狂乱物価といわれた未曽有のインフレ期であって諸物価が高騰しており、日本人にはついぞ経験することがなかった物質文明と米国型資本主義が跋扈している時代の只中だった。

7.銀座・すずらん通りの栗山豊 1974
街は活気づき物質文明を謳歌していた。そんななかで東京のポップカルチャーともいえる諸現象がまた戦後ベビーブーマー世代の若者文化が主導してきた。
同時に学歴社会、受験競争もまた勢いを増加させていた。反対に物質文明、拝金主義社会に反発する若い世代もまた台頭した。安保闘争の1960年国会突入、敗北の中でシラケ世代も現れ、「フーテン」なる社会現象も登場する。「フーテン」とは何か? 調べてみるに早い時期、永島慎二漫画「フーテン」は美大生崩れ、漫画家崩れの自暴自棄な世界を描写していたが、風月堂をめぐりフーテン族、また、1969年山田洋次監督により渥美清主演の国民的映画「男はつらいよ」フーテンの寅さんも登場する。過剰な消費社会、拝金社会の裏面で世捨て人のような、また、折口信夫のいう「まれびと」のような的屋・寅次郎の存在が世間の慰めとなった。高度成長期の裏で疲れた人々の郷愁を誘った。栗山豊が的屋のような街頭似顔絵描きを生業(なりわい)として全国津々浦々を、お祭りをめぐりながら放浪していたのもこのような時勢における一種の日本的情緒性への共鳴であったろう。
瘋癲(ふうてん)とは、もともと精神疾患者や定職を持たず街をふらついている人々を総称したものだが、この時代では急速に拡張する物質文明を批判的に逃れる人々をさした。それが「フーテンの寅さん」となると、まれびと的な一種の人間離れした自由人、古き良き義理人情を忘れない話の分かる昭和の古い叔父さん=たぶんに大人のファンタジーを形成した。
ここで話をウォ―ホルに戻せば、彼は新たな時代の波を感知し、いわゆるグリニッジ・ヴィレッジのゲイ文化にかかわり、当時ギンズバーグらのビート詩人、ディランのようなプロテスト・フォーク歌手の動向を見た。そしてアラン・カプロー、オルデンバーグなどの新しい芸術、ハプニングがマンハッタン全体に展開しはじめていた時期でもあった。
ウォ―ホルは当初傍観者だったが、やがてヴィレッジ文化を吸収し、アップタウンの折り目正しいトラッドで富裕な広告デザイナーから過激なシリアス・アーティストに変身を始めていたのだが、爆発する60年前後のヴィレッジ文化の波に乗ることが背景にはあった。シルヴァー・ファクトリーの不良のサングラス、バイカ―の革ジャンに汚れたリーバイスは、反逆者の危険なイメージを演出するのに十分だった。
その基底には「キャンプ」すなわち、既成の価値観をぶち壊して新たな芸術を生み出すという運動が働いていた。
こうしたヴィレッジ文化の流れは、同時代の新宿にも影響を及ぼしていた、風月堂には実際にヴィレッジやパリ・カルチェラタンからの放浪者も集っていた。「一日5ドルでできる日本旅行」という東京にも住んだニューヨークタイムズ旅行担当記者ジョン・ウィルコックによる本にも「東京に行ったら風月に行け」と出ていた。

8.「Japan on 5 dollars a Day 一日5ドルでできる日本旅行」ジョン・ウィルコック 1964版

9.栗山豊 写真:安土修三ガリバー 1974
ウィルコックはグリニッチ・ヴィレッジで1955に創刊された「ヴィレッジ・ボイス」(ジョナス・メカスもコラムニストだった)の創立メンバーの一人でもあり、のちにアンディ・ウォ―ホル・インタヴューの共同設立者となった。
スーザン・ソンタグが名著「ノート・オン・キャンプ」を出版したのは1964であったが、55年くらいから激しさを増したヴィレッジのクィアサークル、ゲイコミュニティのなかで生じた概念でありハイとローの間を往復するおかま趣味という意味では、ヴィレッジを通過したアンディ・ウォ―ホルのアートも含んでいるだろう(*とりわけジャック・スミスやウォ―ホルの実験映画に適用されることが多いが)。
ラフで廃材を用いる日常性やアーバンのローレベルからハイアートを制作する傾向にあった(ジャンクアート)。ウォ―ホルの場合はたとえばラウシェンバーグのジャンクアート、アッサンブラージュのような直に廃材を用いずにブリロボックス、キャンベルスープのようなレッテルを再制作した。
ヴィレッジでウォ―ホルにも影響を及ぼしたといわれるレイ・ジョンソンはメールアートを始める。

10.レイ・ジョンソン《Not Nothing》1956 メールアート POP ART 1956の文字が見える。NYでは早い時期のPOP標榜である。
元のイメージを付加したポストカードを各地のアーティストに送り、アーティストは自分の作品をそれに付加しまた誰かに送付していき繰り返す永遠に未完成の作品だという点が新しかった。
栗山豊もこのメールアートの手法を同時代的に用いている。
こうした権威や美術界に回収されない前衛的な方法論による制作は、ヴィレッジや新宿のような解放を内包している都市特有のものだった。だが、70年安保闘争を経て若い左翼政治運動は自然衰退していった。
つまりいいたいことは、カウンターな前衛芸術はヴィレッジや新宿のような当時突出していた街の芸術コミュニティがあって生まれていったということである。
我々の日常の生活環境は基本的に衣食住。陸海空、動物や植物、花鳥風月、四季や温度。
農業、商業、工業の産業。ビジネス。貨幣、交通、経済の流通。メディア、システム。電気製品やプラスティック、サイエンスに記号。プレイ、スポーツ、エンターテイメント、テクノロジー。セックス、人間関係、政治、冠婚葬祭、歴史の重力。自動販売機、マイコン、メトロポリス、くちこみからエレクトロニクス。素粒子から銀河系宇宙の無限大まで、不確定性に連続し、息づいている(中略)デジタル的な横へ拡大する生き方とアナログ的な縦に知的探求な生き方とに類型すれば、前者は現象やメディアそのものではば広く活動しているスーパースター、アンディ・ウォーホルだろうか、現代なお進行形のウォーホルは数学の量、「すべてを数に」というアメリカの現代数学者の故・クルト・ゲーデルを連想する。(栗山豊 1982年《エアメール・メッセージ》より抜粋)

11.ウォーホル展(パルコ)での栗山豊 1983
栗山はウォ―ホルのことを82年のコピー印刷アート本《エアメール・メッセージ》において「アートがアナログからデジタルへの移行期の芸術家」と規定したが、その後にきたポストポップのシミュレーショニズムにおいて、その形質はより鮮明なオリジナルなきコピー(すなわちシミュラークルの対象化)といった方向付けを得た。もともと30年代のベンヤミン「複製技術時代の芸術」、60年代のマス・メディアの影響を説いたブ―アスティン「幻影(イメジ)の時代」、マクルーハンのメディア論、ボードリヤールのシミュラークル論を経て現在はデジタルが社会全体、世界全体を覆い尽くしてしまったが(電子マネー、仮想通貨、NFTを見よ)栗山も意外にコンピュータやAIが芸術に及ぼす影響に関して80年代には思考し始めていた。
1985年ウォ―ホルはブロンディ、デボラ・ハリーをともなってコモドール「AMIGA1000」のデモンストレーション・イベントの会場、ニューヨークのビビアン・ボーモント・シアターにいた。CG作品を制作するためだ。
この年にさらに数枚のCGアートを制作したが、コモドールコンピュータのプログラム老朽化で長い間再生できずにいた。2014年カーネギーメロン大学のゴラン・レヴィンによって復元が試みられた。復元された5つのデータは、「花」「キャンベルのスープ缶」「バナナ」そして2つの「自画像」と、それぞれにウォーホル作品の代表的なモチーフが描かれている。(*これらの再生された作品はNFTとして2021年Christie's New Yorkで競売にかけられ、それぞれ 87 万ドルと 56 万 2,000 ドルで落札された 2 つの自画像、52 万 5,000 ドルで落札された彼の代表的な花、25 万ドルで落札されたバナナの画像、 117 万ドルを稼いだ象徴的なキャンベルのスープ缶のモチーフ。トータル338万ドル=約3億6800万円だった)。

12. Andy Warhol, Untitled (Campbell’s Soup Can) (1985, minted as an NFT in 2021). cThe Andy Warhol Foundation.

13.Andy Warhol, Untitled (Self-Portrait) (1985, minted as an NFT in 2021). cThe Andy Warhol Foundation.
こうしたことを見ても晩年アンディの新機軸が始まっていたのだろう。デジタル革命の矢先、ニューヨーク病院の医療ミスで急逝してしまった。
アンディや栗山が生きていたらCG作品を大量に制作し、インターネット時代の新しいコンセプチュアルアートに行き着いていたかもしれない。

14.栗山豊「ジャパン・プロセス」個展案内状 1987年 Gallery 360°似顔絵で尋ねた各地から作品を送付する概念芸術

15.栗山豊「アンディ・ウォーホル・ポスター」1977 撮影:栗山豊
追記資料として新旧2つの「アンディ・ウォーホルの死」を貼っておく。
Transvision Vamp - Andy Warhol's Dead
アーティスト:トランスヴィジョン・バンプ Vo: ウェンディ・ジェームズ
リリース:1988年
「ウィリアムB.がアンディは死んでいない、眠っているだけ」という歌詞
Sharon Needles - Andy Warhol Is Dead
アーティスト: シャロン・ニードルズ
アルバム: Battle Axe
リリース: 2017年
ジャンル: オルタナティブ/インディーズ、 ダンス/エレクトロニック、 ポップ
「60年代のインタビュー、トロントの税関がウォーホルのブリロボックスをオリジナルの彫刻(つまり芸術として)と認めなかった件でウォーホルが、そうだよ、といい、インタヴュアーの、なぜそうなの?、に対し、だってオリジナルじゃない(コピーだ)からだ、という声がそのまま使用されている」
(了)
(もりした たいすけ)
■森下泰輔(Taisuke MORISHITA 現代美術家・美術評論家)
新聞記者時代に「アンディ・ウォーホル展 1983~1984」カタログに寄稿。1993年、草間彌生に招かれて以来、ほぼ連続してヴェネチア・ビエンナーレを分析、新聞・雑誌に批評を提供している。「カルトQ」(フジテレビ、ポップアートの回優勝1992)。ギャラリー・ステーション美術評論公募最優秀賞(「リチャード・エステスと写真以降」2001)。現代美術家としては、 多彩なメディアを使って表現。80年代には国際ビデオアート展「インフェルメンタル」に選抜され、作品はドイツのメディアアート美術館ZKMに収蔵。90年代以降ハイパー資本主義、グローバリゼーション等をテーマにバーコードを用いた作品を多く制作。2010年、平城遷都1300年祭公式招待展示「時空 Between time and space」(平城宮跡)参加。本年のホイットニービエンナーレに作品が掲載された資料が展示された。Art Lab Group 運営委員。表現の不自由展・東京実行委員。
・森下泰輔 「ウォーホルと栗山豊の時代」連載中
・森下泰輔 「私のAndy Warhol体験」
・栗田秀法 「現代版画センターの冒険の縮図としての『アンディ・ウォーホル展 1983~1984』図録」
・中谷芙二子 「ウォーホル 東京の夜と朝 」(再録)
・画廊亭主 「アンディ・ウォーホル『KIKUシリーズ』の誕生」
・1983年6月7日 渋谷パルコ「アンディ・ウォーホル展」全国展オープニング
・1983年7月23日 宇都宮大谷「巨大地下空間とウォーホル展」オープニング
・1984年9月1日 韓国ソウルで「アンディ・ウォーホル展」開催
・2012年1月31日 「石岡瑛子さん逝く(私のウォーホル)」
◆「アンディ・ウォーホル展 史上最強!ウォーホルの元祖オタク栗山豊が蒐めたもの」
会期:2022年11月4日[金]~11月19日[土] ※日・月・祝日休廊
展示の様子は都築響一さんのメルマガ「ROADSIDERS' weeklyより、アンディ・ウォーホル展」をご覧ください。

第3回 ウォーホル、栗山が生きた「戦後」という時代
森下泰輔(現代美術家/美術評論家)
ウォ―ホルは1928生まれ。対して栗山は1946生まれなので、年齢は18年の差がある。
したがって時代背景を同時代性で語ることはできない。
しかし1950年代A.W.はニューヨークでイラストレーターをしていた。加えて日本のアートシーンは少なくとも8年のディレイがある。足して18年という差はアート受容史の中で解消されるのではないか。
ふたつを介在させる共通領域としていわゆる「戦後」という視点を設定して見ていこう。
この場合、戦時下で空襲を受け国内が焦土と化したわが国ほど、米国は日常性を喪失してはいなかった。ジャクソン・ポロックの最高傑作は戦中に制作され、そこには太平洋戦争の影はみじんも含まれてはいない。日本は戦後奇跡的ともいわれる経済復興を短期に遂げる。50年代の米国も日本に勝る戦勝国の好景気であって、ウォ―ホルがニューヨークでイラストレーターとして大成功し若くしてひと財産築き得たのも高度成長期のただなかのことであった。
アンディ・ウォ―ホルのプレポップ時代、1950年代は現在もっとも活発な研究対象化しているが、1956年のホモセクシャルの友人(*A.W.の片思いだった)、リザンビーとの世界一周旅行もNY移動後わずか4年で頭角を現した若きイラストレーターの自分へのご褒美だった。
開催中の「アンディ・ウォ―ホル・キョウト」(京都市立京セラ美術館)では、そのあたりのことが中心に抽出されている。日本を含むアジア旅行の影響は帰国翌年の《GOLD BOOK》の金箔の多用にも見て取れる。

1.「アンディ・ウォ―ホル・キョウト」(京都市立京セラ美術館)で特筆される三十三間堂とアンディ・ウォーホルとの繰り返しの関係 三十三間堂玄関のパネル 1974年 三十三間堂のウォーホル写真は原榮三郎撮影 撮影:筆者

2. 《GOLD BOOK》1957 The complete set of 20 offset lithographs, four with hand-coloring, 14 on gold paper and 6 on white wove paper. Each 38.1 × 29.5 cm
LGBTQの人権拡張によりゲイ文化が普通に認知されたあとの記述にゴプ二クの伝記は満ちている。ゲイ文化中心に紐解かれるウォーホルの成長と50年代はいまもっともホットなウォーホル像を結ばせる。とりわけ、ロー文化のイラストレーターがハイ文化のシリアス・アーティストに変化する56~60までのエピソードは興味深い。
ティファニーなどともつながりのあった、NY流通業界の勝ち組ボンウィット・テラーとの関係に主眼を移せば50年代中期のNYアートシーンと商業主義との連動が高度成長を背景にしてあった。
かつてダリにもやらせたが(1939)、1955、ボンウィット・テラーは百貨店のウィンドウディスプレイをハイアートのラウシェンバーグとジョーンズに担当させる。さすがにハイアート界的に名前を出すのをはばかられた二人は「マトソン・ジョーンズ」名で引き受ける。ピッツバーグのカーネギー工科大学絵画・デザイン科時代よりウィンドウディスプレイに手を染めていたウォ―ホルは、彼らが同業に進出したことに嫉妬をする。
やがて、ボンウィット・テラーが買収したギュンター・ヤッケル百貨店のウィンドウディスプレイを担当したのはアンディがハイアートに転じた直後の1961年だった。

3.ギュンター・ヤッケル百貨店のウィンドウディスプレイ 1961
ここでアートはニューヨークポップの胎動を目の当たりにしたが、商業ウィンドウ内に出現した大型キャンバスの《スーパーマン》《ポパイ》《ペプシ・コーラ》整形手術の《ビフォア・アンド・アフター》は通り過ぎる人々からは普通の商業アートであり、なんの衝撃ももたらさなかった。人々がアッと声をあげたのはこれらがギャラリーに展示された時だった。それはアートなるメタレベルの概念を根本から崩すこととなったのだ。ウォーホルの逆説(パラドックス)が始まる。
膨張する商業消費運動はとうとうアートの領域に殴り込んだのである。
そして、56年からのエルヴィスの白いロックン・ロールの台頭、そしてまたハリウッドのジェームズ・ディーン(*55年死去)。グリニッチ・ヴィレッジ文化はビート二ク運動を経て全米に影響を与え始めていた。
アンディがスポットを浴びるのは1962年にLAフェラスギャラリーで開催したキャンベルスープの個展であろう。このとき、ウォ―ホルが用いた「レディメイド・イメージ」はまさしくこのスープ缶が創業以来用いてきた広告看板や宣材に何一つ手を加えることのないシミュレーションであった。キャンベルスープに関してはスーザン・ソンタグ提唱の「キャンプ」概念のもじりと同時に、米国が太平洋戦争中にも食料物資として戦地に落下傘降下させていたコンビーフ、コカ・コーラとならぶ緊急時の缶詰・物資でもあった。「いつもあれを食べていたからね」と当人が語るごく日常的な側面を有しつつ、戦時の予備食料としての親和性も含有していたものだ。
それだけに米国にしてみれば、空気のような汎用な食物だったわけだ。

4.1920 年頃の珍しいキャンベル スープの湾曲した磁器の広告看板。

5.USA 1950s Campbell’s Soup advertising covers

6.Vintage Print Ad - 1943 - Campbell’s Soup - WWII Soldiers - First Class Food
さて、栗山豊が故郷・田辺を出て上京し、銀座・すずらん通りにイーゼルを立てて街頭似顔絵描きを始めたのは先の東京五輪の翌年1965年5月だった。この時期の東京は高度成長期の波に洗われ狂乱物価といわれた未曽有のインフレ期であって諸物価が高騰しており、日本人にはついぞ経験することがなかった物質文明と米国型資本主義が跋扈している時代の只中だった。

7.銀座・すずらん通りの栗山豊 1974
街は活気づき物質文明を謳歌していた。そんななかで東京のポップカルチャーともいえる諸現象がまた戦後ベビーブーマー世代の若者文化が主導してきた。
同時に学歴社会、受験競争もまた勢いを増加させていた。反対に物質文明、拝金主義社会に反発する若い世代もまた台頭した。安保闘争の1960年国会突入、敗北の中でシラケ世代も現れ、「フーテン」なる社会現象も登場する。「フーテン」とは何か? 調べてみるに早い時期、永島慎二漫画「フーテン」は美大生崩れ、漫画家崩れの自暴自棄な世界を描写していたが、風月堂をめぐりフーテン族、また、1969年山田洋次監督により渥美清主演の国民的映画「男はつらいよ」フーテンの寅さんも登場する。過剰な消費社会、拝金社会の裏面で世捨て人のような、また、折口信夫のいう「まれびと」のような的屋・寅次郎の存在が世間の慰めとなった。高度成長期の裏で疲れた人々の郷愁を誘った。栗山豊が的屋のような街頭似顔絵描きを生業(なりわい)として全国津々浦々を、お祭りをめぐりながら放浪していたのもこのような時勢における一種の日本的情緒性への共鳴であったろう。
瘋癲(ふうてん)とは、もともと精神疾患者や定職を持たず街をふらついている人々を総称したものだが、この時代では急速に拡張する物質文明を批判的に逃れる人々をさした。それが「フーテンの寅さん」となると、まれびと的な一種の人間離れした自由人、古き良き義理人情を忘れない話の分かる昭和の古い叔父さん=たぶんに大人のファンタジーを形成した。
ここで話をウォ―ホルに戻せば、彼は新たな時代の波を感知し、いわゆるグリニッジ・ヴィレッジのゲイ文化にかかわり、当時ギンズバーグらのビート詩人、ディランのようなプロテスト・フォーク歌手の動向を見た。そしてアラン・カプロー、オルデンバーグなどの新しい芸術、ハプニングがマンハッタン全体に展開しはじめていた時期でもあった。
ウォ―ホルは当初傍観者だったが、やがてヴィレッジ文化を吸収し、アップタウンの折り目正しいトラッドで富裕な広告デザイナーから過激なシリアス・アーティストに変身を始めていたのだが、爆発する60年前後のヴィレッジ文化の波に乗ることが背景にはあった。シルヴァー・ファクトリーの不良のサングラス、バイカ―の革ジャンに汚れたリーバイスは、反逆者の危険なイメージを演出するのに十分だった。
その基底には「キャンプ」すなわち、既成の価値観をぶち壊して新たな芸術を生み出すという運動が働いていた。
こうしたヴィレッジ文化の流れは、同時代の新宿にも影響を及ぼしていた、風月堂には実際にヴィレッジやパリ・カルチェラタンからの放浪者も集っていた。「一日5ドルでできる日本旅行」という東京にも住んだニューヨークタイムズ旅行担当記者ジョン・ウィルコックによる本にも「東京に行ったら風月に行け」と出ていた。

8.「Japan on 5 dollars a Day 一日5ドルでできる日本旅行」ジョン・ウィルコック 1964版

9.栗山豊 写真:安土修三ガリバー 1974
ウィルコックはグリニッチ・ヴィレッジで1955に創刊された「ヴィレッジ・ボイス」(ジョナス・メカスもコラムニストだった)の創立メンバーの一人でもあり、のちにアンディ・ウォ―ホル・インタヴューの共同設立者となった。
スーザン・ソンタグが名著「ノート・オン・キャンプ」を出版したのは1964であったが、55年くらいから激しさを増したヴィレッジのクィアサークル、ゲイコミュニティのなかで生じた概念でありハイとローの間を往復するおかま趣味という意味では、ヴィレッジを通過したアンディ・ウォ―ホルのアートも含んでいるだろう(*とりわけジャック・スミスやウォ―ホルの実験映画に適用されることが多いが)。
ラフで廃材を用いる日常性やアーバンのローレベルからハイアートを制作する傾向にあった(ジャンクアート)。ウォ―ホルの場合はたとえばラウシェンバーグのジャンクアート、アッサンブラージュのような直に廃材を用いずにブリロボックス、キャンベルスープのようなレッテルを再制作した。
ヴィレッジでウォ―ホルにも影響を及ぼしたといわれるレイ・ジョンソンはメールアートを始める。

10.レイ・ジョンソン《Not Nothing》1956 メールアート POP ART 1956の文字が見える。NYでは早い時期のPOP標榜である。
元のイメージを付加したポストカードを各地のアーティストに送り、アーティストは自分の作品をそれに付加しまた誰かに送付していき繰り返す永遠に未完成の作品だという点が新しかった。
栗山豊もこのメールアートの手法を同時代的に用いている。
こうした権威や美術界に回収されない前衛的な方法論による制作は、ヴィレッジや新宿のような解放を内包している都市特有のものだった。だが、70年安保闘争を経て若い左翼政治運動は自然衰退していった。
つまりいいたいことは、カウンターな前衛芸術はヴィレッジや新宿のような当時突出していた街の芸術コミュニティがあって生まれていったということである。
我々の日常の生活環境は基本的に衣食住。陸海空、動物や植物、花鳥風月、四季や温度。
農業、商業、工業の産業。ビジネス。貨幣、交通、経済の流通。メディア、システム。電気製品やプラスティック、サイエンスに記号。プレイ、スポーツ、エンターテイメント、テクノロジー。セックス、人間関係、政治、冠婚葬祭、歴史の重力。自動販売機、マイコン、メトロポリス、くちこみからエレクトロニクス。素粒子から銀河系宇宙の無限大まで、不確定性に連続し、息づいている(中略)デジタル的な横へ拡大する生き方とアナログ的な縦に知的探求な生き方とに類型すれば、前者は現象やメディアそのものではば広く活動しているスーパースター、アンディ・ウォーホルだろうか、現代なお進行形のウォーホルは数学の量、「すべてを数に」というアメリカの現代数学者の故・クルト・ゲーデルを連想する。(栗山豊 1982年《エアメール・メッセージ》より抜粋)

11.ウォーホル展(パルコ)での栗山豊 1983
栗山はウォ―ホルのことを82年のコピー印刷アート本《エアメール・メッセージ》において「アートがアナログからデジタルへの移行期の芸術家」と規定したが、その後にきたポストポップのシミュレーショニズムにおいて、その形質はより鮮明なオリジナルなきコピー(すなわちシミュラークルの対象化)といった方向付けを得た。もともと30年代のベンヤミン「複製技術時代の芸術」、60年代のマス・メディアの影響を説いたブ―アスティン「幻影(イメジ)の時代」、マクルーハンのメディア論、ボードリヤールのシミュラークル論を経て現在はデジタルが社会全体、世界全体を覆い尽くしてしまったが(電子マネー、仮想通貨、NFTを見よ)栗山も意外にコンピュータやAIが芸術に及ぼす影響に関して80年代には思考し始めていた。
1985年ウォ―ホルはブロンディ、デボラ・ハリーをともなってコモドール「AMIGA1000」のデモンストレーション・イベントの会場、ニューヨークのビビアン・ボーモント・シアターにいた。CG作品を制作するためだ。
この年にさらに数枚のCGアートを制作したが、コモドールコンピュータのプログラム老朽化で長い間再生できずにいた。2014年カーネギーメロン大学のゴラン・レヴィンによって復元が試みられた。復元された5つのデータは、「花」「キャンベルのスープ缶」「バナナ」そして2つの「自画像」と、それぞれにウォーホル作品の代表的なモチーフが描かれている。(*これらの再生された作品はNFTとして2021年Christie's New Yorkで競売にかけられ、それぞれ 87 万ドルと 56 万 2,000 ドルで落札された 2 つの自画像、52 万 5,000 ドルで落札された彼の代表的な花、25 万ドルで落札されたバナナの画像、 117 万ドルを稼いだ象徴的なキャンベルのスープ缶のモチーフ。トータル338万ドル=約3億6800万円だった)。

12. Andy Warhol, Untitled (Campbell’s Soup Can) (1985, minted as an NFT in 2021). cThe Andy Warhol Foundation.

13.Andy Warhol, Untitled (Self-Portrait) (1985, minted as an NFT in 2021). cThe Andy Warhol Foundation.
こうしたことを見ても晩年アンディの新機軸が始まっていたのだろう。デジタル革命の矢先、ニューヨーク病院の医療ミスで急逝してしまった。
アンディや栗山が生きていたらCG作品を大量に制作し、インターネット時代の新しいコンセプチュアルアートに行き着いていたかもしれない。

14.栗山豊「ジャパン・プロセス」個展案内状 1987年 Gallery 360°似顔絵で尋ねた各地から作品を送付する概念芸術

15.栗山豊「アンディ・ウォーホル・ポスター」1977 撮影:栗山豊
追記資料として新旧2つの「アンディ・ウォーホルの死」を貼っておく。
Transvision Vamp - Andy Warhol's Dead
アーティスト:トランスヴィジョン・バンプ Vo: ウェンディ・ジェームズ
リリース:1988年
「ウィリアムB.がアンディは死んでいない、眠っているだけ」という歌詞
Sharon Needles - Andy Warhol Is Dead
アーティスト: シャロン・ニードルズ
アルバム: Battle Axe
リリース: 2017年
ジャンル: オルタナティブ/インディーズ、 ダンス/エレクトロニック、 ポップ
「60年代のインタビュー、トロントの税関がウォーホルのブリロボックスをオリジナルの彫刻(つまり芸術として)と認めなかった件でウォーホルが、そうだよ、といい、インタヴュアーの、なぜそうなの?、に対し、だってオリジナルじゃない(コピーだ)からだ、という声がそのまま使用されている」
(了)
(もりした たいすけ)
■森下泰輔(Taisuke MORISHITA 現代美術家・美術評論家)
新聞記者時代に「アンディ・ウォーホル展 1983~1984」カタログに寄稿。1993年、草間彌生に招かれて以来、ほぼ連続してヴェネチア・ビエンナーレを分析、新聞・雑誌に批評を提供している。「カルトQ」(フジテレビ、ポップアートの回優勝1992)。ギャラリー・ステーション美術評論公募最優秀賞(「リチャード・エステスと写真以降」2001)。現代美術家としては、 多彩なメディアを使って表現。80年代には国際ビデオアート展「インフェルメンタル」に選抜され、作品はドイツのメディアアート美術館ZKMに収蔵。90年代以降ハイパー資本主義、グローバリゼーション等をテーマにバーコードを用いた作品を多く制作。2010年、平城遷都1300年祭公式招待展示「時空 Between time and space」(平城宮跡)参加。本年のホイットニービエンナーレに作品が掲載された資料が展示された。Art Lab Group 運営委員。表現の不自由展・東京実行委員。
・森下泰輔 「ウォーホルと栗山豊の時代」連載中
・森下泰輔 「私のAndy Warhol体験」
・栗田秀法 「現代版画センターの冒険の縮図としての『アンディ・ウォーホル展 1983~1984』図録」
・中谷芙二子 「ウォーホル 東京の夜と朝 」(再録)
・画廊亭主 「アンディ・ウォーホル『KIKUシリーズ』の誕生」
・1983年6月7日 渋谷パルコ「アンディ・ウォーホル展」全国展オープニング
・1983年7月23日 宇都宮大谷「巨大地下空間とウォーホル展」オープニング
・1984年9月1日 韓国ソウルで「アンディ・ウォーホル展」開催
・2012年1月31日 「石岡瑛子さん逝く(私のウォーホル)」
◆「アンディ・ウォーホル展 史上最強!ウォーホルの元祖オタク栗山豊が蒐めたもの」
会期:2022年11月4日[金]~11月19日[土] ※日・月・祝日休廊
展示の様子は都築響一さんのメルマガ「ROADSIDERS' weeklyより、アンディ・ウォーホル展」をご覧ください。

コメント