ウォーホルと栗山豊の時代

番外編・第4回 栗山資料からわかるもの

森下泰輔
(現代美術家/美術評論家)  

ときの忘れものでの「アンディ・ウォーホル展」、副題「史上最強!ウォーホルの元祖オタク栗山豊が蒐めたもの」では、1967~2001年までの栗山豊ファイルの新聞雑誌、チラシ、ポスターなどの様々なコピーがまるで牛の壁紙のように坂倉準三の弟子筋、阿部勤の設計したLAS CASASの玄関から吹き抜けの階段、回廊までびっしりと貼られ、その上に《KIKU》《LOVE》7種の旧・現代版画センターがなしたジャパン・エディションのウォーホル作品が展示されていた。
まさしく、牛や自画像、魚の壁紙の上に作品を展示するアンディ・ウォーホルに対する厳密なオマージュになっていた。栗山豊の収集がなければこのような本格的な構成もあり得なかった。草葉の陰で栗山も喜んでいることだろう。
これは単なる資料展示ではなく、りっぱにインスタレーションを構成していたのだが、考えてみれば、当のA.W.はなぜこの方法を使わなかったのか、と思えてくる。
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1. および2.「アンディ・ウォーホル展 史上最強!ウォーホルの元祖オタク栗山豊が蒐めたもの」ときの忘れもの展示風景

「死んで35年経ったいま、彼の業績を振り返る展覧会だけでは伝わらない、アンディ・ウォーホルという人間の存在感というものが、本人の作品よりもむしろこうした資料の大海から見えてくる。『オリジナル』の作品ではなく、こんなふうに無限に拡散していった『ウォーホルのイメージ』のほうに、彼のポップ・アーティストとしての本質があるのではないか、という気すらして、すごく興味深い。」(都築響一 ROADSIDERS' weekly 2022/11/02号 Vol.523 栗山豊とアンディ・ウォーホルより)。

同様の感想を筆者も持った。
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3. Magazine and History (FS II.304A)
Year: 1983
Size: 33 1/2” x 27 1/2”
Medium: Screen print and offset lithograph on Rives paper
Edition: Edition of 500. Signed and numbered in pencil.

《Magazine and History》 (FS II.304A 1983)というウォーホル作品はときの忘れもの展示と同様な切り口を持っている。センセーションや過激なゴシップで売るドイツの「Bunte Magazine」の当時でも古い表紙25種をウォーホル流の極彩色で作品化したものである。「Bunte」はウォーホルが創刊した「インタヴュー」誌と、参考にし参考にされた相互影響関係にあるマガジンであり、お金、有名人、ありふれた食品、グルメ店のアイテムの話題中心の展開は、ウォーホルのアートがいかにこうしたイエロージャーナリズムに至近しているのかを証明する。今回のときの忘れものでの壁面インスタレーションは、こうしたウォーホルの世界観の縮図であろう。まず、美術専門誌よりも新聞・雑誌は破格の部数で、大体30万から500万部くらい出ていてそれだけに社会への波及力は大きいのだ。

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4. 東京・上野「イトウコーヒー店」広告 スイングジャーナル1955年5月号より 

ウォーホルや栗山豊が生きた時代、といっても、栗山が収集を始めた1967年から50年以上が経過している。当然のごとく収集品には博物的価値が生じているだろう。
収集品は各々独自の「考現学」(すでにポップ考古学?)を醸し始めている。たとえば上野池之端にあったジャズ喫茶「ITO」のマッチラベルから何がわかるか。
この喫茶店の前身は昭和8年か9年(1933~34)に故・伊藤栄治郎が下谷に開店した。はじめは「アメリカン茶房」といっていたらしい。戦後上野池之端仲町に移転した。おいしいコーヒーとドーナツが売りで庶民には高嶺の花だったジャズのレコードを流していた。上野「仲町通り」付近には守田宝丹(薬)や蓮玉庵(そば)、伊豆栄本店(うなぎ)など、江戸時代からの老舗店が多いところだから商店街には独特の雰囲気があった。栗山が収集した時点でもすでに35年ほどの歴史があった。戦後は音楽喫茶、1950年くらいから本格的なジャズ喫茶となる。
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5. ITOのマッチラベルとケニー・バレルBlue Lightsのレコードジャケット (1958 モノラル)  イラストレーションがアンディ・ウォーホル、アートディレクターがブルーノートのジャケットワークを数多く手がけたリード・マイルス。

「上野池之端の『イトウ』がノスタルジックだ。飾りガラスのはまったほの暗い店内は、戦前の美大生好みのモダン感覚をのこしている。この店でジャズを聴いていると、夜汽車で旅をしているような気持ちになった」(「昭和ジャズ喫茶伝説」平岡正明 平凡社刊 2005年)

ジャズ評論家の平岡はハイレッド・センターともかかわりが深い「犯罪者同盟」創立者だが、早大学生の60年安保闘争当時からこの店に通っていた。

60年代初頭はEICO社製という優秀な装置と天井の高い店内で大音量ジャズを聞かせる店だった。米国EICO社は1945年創業の電子試験装置製造メーカー。本社はニューヨークシティ。60年代にオーディオ分野に進出し、アンプおよびプリアンプを製造していた。EICO社がオーディオ市場から撤退したのは70年代後半のことだ。しばらくしてアンプはDYNACO社、スピーカーはJBL社の製品に変わった。栗山豊が文化学院美術科のあるお茶の水から通った60年代後期は、大音量と薄暗い店内、そして談話お断り、70年安保へと向かう学生運動の真っただ中で、本郷・神田界隈の運動家も集っていて、当時東京のジャズ文化の一翼を担っていた場所だ。「ITO」は1991年10月末日を持って、その長い歴史にピリオドを打った。
で、問題のマッチだが、ケニー・バレル Blue Lightsのレコードジャケットで、背景色が異なる 2 つのボリュームでリリース (1958 モノラル)されたものからとっている。おそらく無許可で複写したのだろう。ゆえに「ITO」が輸入盤で仕入れたとしてもマッチ制作年は1958以後となる。ステレオ版での再発が1967であるので、そのころまでに制作されたものだろう。背景はグレーに変わり、右上の演者のクレジット部ははずしている。さらにこのマッチではBlue Lightsウォーホルのイラストの端でカットされた髪の部分も描かれていることから、版下段階でデザイナーがレタッチしていたと思われる。マッチは30㎝LPからの極端な縮小のため繊細な線が消えるのを恐れ、だいぶ濃度をあげているため線は太く細部がつぶれているのだが、さらに数か所にレタッチを入れている。
同LPジャケット、イラストレーションがアンディ・ウォーホル、アートディレクターがブルーノートのジャケットワークを数多く手がけたリード・マイルス。当時ウォーホルはこの「ブルーノート」シリーズのジャズ・ジャケットを数枚手がけていた。
ここで参照にした絵は、1949 年のエスクワイア・カレンダーの 12 月のページに掲載された40~50年代のピンナップアーティスト、アル・ムーアによるものだといわれる。マイルスはエスクワイアにもかかわっていたからだ。
ウォーホルは、アメリカン・ポップアート全盛期のメル・ラモスのようにはこのピンナップ様式をストレートには用いなかった。本質的に「僕は女の子だった」というようにゲイであり、女性のセックスには無反応だったからだろう。
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6. アンディ・ウォーホルが参考にしたと思われる1949 年のエスクワイア・カレンダーの 12 月のページに掲載されたピンナップ  アル・ムーアによる

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7. 「シルバーポイントからシルバースクリーンへ」(ルイジアナ美術館 デンマーク ダニエル・ブラウ監修 2013年)に出品されたアンディ・ウォーホルBlue Lights原画 紙にインク 1958

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8. 仮説としてアンディ・ウォーホルがブロテッド・ラインにより、反時計回り90度に下半身部を回転させておこなった場合の想定図

現存する原画は、ウォーホルのインクのしみを転写した前後の左右反転であり、その元の絵は少し異なって見える。実際、エスクワイアのカレンダーのページと同じように、女性の膝が上を向いている。最終段階で図面を半分に切り、膝を90度回転させ水平に配置した。元絵は展覧会カタログ「シルバーポイントからシルバースクリーンへ」の表紙、ダニエル・ブラウ監修、2013年(ルイジアナ美術館 デンマーク)にも主要作として扱われている。
300 点以上の「新しい」ウォーホルの絵(*ほとんどは半透明の紙に描かれたブロテッド・ラインの原画 *ブロテッド・ラインとはペンで紙にまずイメージを描き、別の紙の上に押しあてて抑揚をつけて擦るなどしてインクを転写する方法)が見つかり、1990年、それらは「アーカイヴ資料」としてニューヨークのアンディ・ウォーホル財団に保管された。忘れられていたが、やがてドイツのギャラリストであるダニエル・ブラウが2011 年に手付かずの状態でそれらを再発見し、その重要性が認識された。2013年初め、この展覧会がコペンハーゲンのルイジアナ美術館で開催された。Blue Lightsの原画もここに含まれていた。

Blue Lightsの上部下半身部分を30㎝LPジャケット用にトリミングしたのはアンディ・ウォーホルか、それともアートディレクター、リード・マイルスなのか。現在2説ある。
しかし、ブロテッド・ラインの手法は元絵を転写することで、何枚でも異なる同じ絵を作り出せる(*すでにポップ時代のシルクスクリーン転写のアイデアがある)ことを考慮すれば、これはアートディレクターのリード・マイルスではなくアンディ・ウォーホルがなしたのではないか? 版下につかったイラストがないのでなんともいえない。しかし、ひな形の原画は、ジャケットの絵と線が微妙に異なる。ブロテッド・ラインで転写される側の線だからだろう。さらに右上が直角にカットされているが、ブロテッド・ラインで上半身を写した後、90度反時計回りで回転させて下半身を横にして転写したのではないか。その際右上をカットしたほうが最初の上半身の反転した絵が見えやすくバランスがとりやすい。その場で即興的に手で破いたような状態だ。
あるいは、一度作成した転写をジャケットのフレームに合うように切断してコラージュしたのかもしれない。それをなしたのはマイルスなのか、ウォーホルだったのか、事実はやぶの中である。
新発見ドローイングといっても、ブロテッド・ラインでは、浮世絵版画のように下絵・版木と刷られた絵のように2種が残ることになりややこしい。みつかったものはおもに、転写する側の原画のために左右反転している。

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9. 1950年代に描かれたアンディ・ウォーホルのレコードジャケット・イラスト

さように50年代のウォーホルはあまたのジャズやクラシックのレコジャケを制作している。それどころか1952年若干23歳で初のニューヨーク・アートディレクターズ・クラブ賞を受賞した「ネーションズ・ナイトメア(国家の悪夢)」。これは1951 年の夏に放送された青年のドラッグ禍やNY港湾のギャングや青年の犯罪に関する 2 つの CBS ラジオ ドキュメンタリーを録音し、翌1952にリリースされた音声ドキュメントのレコードだが(*マーロン・ブランド「波止場」1954はこの湾岸犯罪に題を取っている)、ドラッグの章では、マリファナ、ヘロイン、コカインなど麻薬の米国汚染に言及している。ジャケットと新聞広告をウォーホルが担当している。ここではのちの「死と惨事シリーズ」でモチーフとするジャーナリスティックな主題がすでに最初期にあらわれていた。10年後にドラッグ漬けの若者らとシルヴァー・ファクトリーの危険な伝説をつくってしまうのは何とも皮肉だ。後年の「ローリング・ストーンズ スティッキー・フィンガーズ」「ヴェルヴェット・アンダーグラウンド バナナ」のジャケットワークはしごく必然だった。
10andy-warhol-dead-stop-ca-1954

10. アンディ・ウォーホル《Dead Stop》ブロテッド・ライン技法の転写する側
1954
ink on paper

11warhol-cover-nations-nightmare-1のコピー

11. アンディ・ウォーホルが1952年若干23歳で初のニューヨーク・アートディレクターズ・クラブ賞を受賞した「ネーションズ・ナイトメア(国家の悪夢)」イラストレーション

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12. アンディ・ウォーホル《ネーションズ・ナイトメア(国家の悪夢)》1951 ブロテッド・ライン技法の転写する側 麻薬注射を打つ若者 注射器やジャケットの角度を何度も書き直している

13最後の晩餐

13. アンディ・ウォーホル《最後の晩餐》 1986年  アンディ・ウォーホル美術館蔵  麻にアクリル、シルクスクリーン・インク  294.6 x 990.6 x 5.1cm
c The Andy Warhol Foundation for the Visual Arts, Inc. / Artists Rights Society (ARS), New York
ANDY WARHOL KYOTO(2023年2月12日まで) 京都市京セラ美術館出品作
THE BIG C(*偉大なキリストの意と同時に癌を彷彿させる) 死出の旅を象徴させる無人の空飛ぶバイク、など奇しくも「死」を象徴させるモチーフが現れる 繊細なドローイングは50’sの若い日に回帰しようとしているようだ。アンディ・ウォーホル美術館が発行した公式データにシルクスクリーン・インクとあるが手描きのはずである。塗料として用いているのか。

ウォーホルは美大時代よりアカデミックな油絵の授業では評価は高くなかった(*というよりもアンディには興味がなかったのかもしれない)が、ドロワーとしての資質は教授も認めるところだった。実際20代のアンディ・ウォーホルの線は大変流麗である。
こうしてみても絵画の才能がないどころか、豊かな素養の主だったことがわかる。ゴプニクによれば、20代半ばで当時のイラスト界の巨匠、ベン・シャーン (*その描線はアンディ自身が参考にしているがよりナイーブである)なみに稼いでいたという。エゴン・シーレ、ゲオルグ・グロッス、オットー・ディックスなど、20 世紀初頭のドイツとオーストリアのアーティストの表現力豊かなスタイルを参照する批評家もいる。
やはりこの描線が魅力だったのだ。「アンディ・ウォーホル・キョウト」の目玉のひとつが、《最後の晩餐》(1986)だったが、ここでは往年の写真製版は鳴りを潜め、写真投射だとしても、流麗な一発描きの線は見事である。
線描という意味で50年代からのウォーホルは連続性を持つ。アンディは晩年、50年代に回帰しようとしていたのかもしれない。むろん70~80年代に生じた絵画の復活の流れもあったろう。
(「アンディ・ウォーホル・キョウト」ではポmagazineが筆者と同展担当の土屋隆英キュレーターとの対談を会場で試みているので参照されたい。)
https://www.potel.jp/kyoto/cityguide/feature/andywarhol/?fbclid=IwAR25V88WH8wf4tDv7UV4jwrzFZWvTplu1-w7pXBZABc0iwI912ZTakGJ9i4

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14. アンディ・ウォーホル365日展 1983 での《KIKU》の刷り師・石田了一

もうひとつ、栗山ファイルから見てとれるものは、ジャパン・エディションの《KIKU》に関してだ。この稀有な版画の経緯は「KIKUシリーズの誕生 綿貫不二夫http://blog.livedoor.jp/tokinowasuremono/archives/cat_50039040.htmlに詳しい。
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15. 版画を先行予約した現代版画センター会員53名に対するアンディ・ウォーホルの賛辞
Gokigenyooとある 1983年6月20日の記述

「『日本の花をテーマに』
『日本の紙(和紙)で』
『日本の刷り師を使って』作品を作って欲しい。
宮井(*陸郎)さんが私の代理人としてニューヨークに渡ったのは1982年の晩秋だったと思いますが、そのときに持参したのが大量の桜と菊のポジフィルムでした。
秋なので桜のポジは某団体から借りました。
菊は、渋谷の東急プラザの1階にあった花屋さんから一束数百円の特価品を五十嵐恵子さんという制作担当の女性スタッフが買ってきて、当時私たちの専属カメラマンのような存在だった酒井猛さんが、現代版画センターの事務所でばちばちと撮影したものを宮井さんに託しました。」(「KIKUシリーズの誕生3」綿貫不二夫)
こんな風に半径数メーター的に撮り下ろされた菊の写真が世界的傑作として残ったというのはなんとも面白い。
一色与志子、季刊「版画藝術」第42号(1983年7月)の「1982年暮れにアンディに会った」の記述から、ニューヨークのアンディは翌々日のうちに当時お抱えの刷り師ルパート・スミスに一輪の菊のみの30枚ほどの荒い試作を作らせていた。数日後には新たに二種の写真からさらに数十枚の菊を刷りだしていたという。ウォーホルは大判の色紙をコラージュしてその上に写真版を刷らせたりした。カラリングの手間を短縮するためだったのだろう。《レイディス・アンド・ジェントルマン》や《ミック・ジャガー》のシリーズでは色紙の切り絵版からそっくりにシルクプリントする手法もとっている。
菊の写真をウォーホルはさらに拡大してトリミングした。試し刷りで選別され刷り順など制作過程が指示された写真製版のフィルムを持って日本に戻る。「グラデーションハ刷リ師がイソイデスッタモノダカラ、自然ナモノニスルコト」と一言指示があった。刷り担当の石田了一は複数の試し刷り(ユニーク)を現在でも保管しているという。そして完成した数枚のプリント(E.P.)と、40枚ほどの刷りの順序や色彩を変えた試作品をニューヨークのスタジオに持っていき、E.P.にサインをもらって持ち帰りほかは預けてきたという。
16kikus

16. ルパート・スミスと石田了一版のアンディ・ウォーホル《KIKU》1983 ユニークの数々
この10年、《KIKU》《LOVE》のユニークが多数世界美術市場を賑わわせているが、この時のルパート版や石田了一版計およそ90~100点が流出したのであろう。ノーサインのものがほとんどで、裏面にウォーホル・ファウンデーションのスタンプが押され高値で取引されている。この試し刷りはウォーホルのシルクスクリーンプロセスの生成過程や、彼のトリミング過程が手に取るようにわかり、ウォーホル芸術の秘密も垣間見られる。とりわけ構成と色彩に関してそれまでのアート作品にはない実験性があって、事実現在のウォーホル以後のアートシーンにおいてもその原初的表出がここにあるのが理解できる。


これらユニークの存在はカタログレゾネ「Andy Warhol Prints」にも出ている。註釈として「Based on the insignia of Royal House of Japan」とあり、皇室のシンボル=御紋章に基づく、と公式見解を記述している。つまりは皇居に寄贈もしくは飾られていてもおかしくないわけだ(現時点ではありえないのだろうが)。また、彼のプリント法というものは、同時に膨大なプリントに無数のT.P.(トライアル・プルーフ)が存在するわけだから気が遠くなる。正式エディションそのものも果てしなく無意味化するような戦略だった。

ギャラリー360°根本寿幸によれば、「長嶋茂雄、美空ひばり、山口百恵、富士山も最初の候補」だったが、最終的に菊と桜から、「日本は天皇の国だから菊を選ぶ」といったウォーホルは、やはりこの花を記号論的に捉えている。そういえば70年万博時の《レインマシン》もヒナギクの連続であった。アンディがやったのは、ジャスパー・ジョーンズとは少し違い単に記号論の再解釈ではなく、「レディメイドとしての情報」だったわけで、その情報には深層心理学的にも「象徴性」があり、まさにシニフィエ(意味されるもの)とシニフィアン(意味するもの)をメタファーとして抽出した芸術表現だった。
日本のパスポートには菊の御紋章が施されているので国際的にはどうしても「菊」なのであろう。
この作品《KIKU》を1983年、私は栗山豊から15万円で一点購入した。アンディ・ウォーホル365日展アシストのギャラ代わりにオリジナルプリント3種が支給されていたのだった。この作品用に注文したアクリル額を受け取った日に、ちだういとゴールデン街に飲みに行ったことも同時に思い出した。そういえばゴールデン街で思い出すが、栗山豊が1979年に秋山祐徳太子都知事選で祐徳太子を負ぶっている街頭応援の図があるが、《ダリコ》で裸女を背負った田んぼでの原榮三郎写真のシミュレーションを栗山はやっていたのだろう。
また、1500部印刷のうち500部をアンディに渡したというが、その500部の一枚なのだろう。図録挿入版のアンディ・ウォーホル、サインいりという珍しいヴァージョンも筆者は所有している。
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17. 「巨大地下空間とウォーホル展」ポスター
1983年7月 オフセット
シートサイズ:84.0×59.4cm
デザイン:セラデザインアート研究所
会場:宇都宮市大谷町屏風岩の地下空間
制作:地下空間とウォーホル展実行委員会(渡辺興平)

栃木県宇都宮市大谷石の巨大地下空間でのウォーホル展の記録映像やポスターも今回の展示では重要な位置を占めていた。このとき(1983年7月23日)私も現代版画センターがチャーターしたバスに乗って現地へ出かけている。1919年(大正8年)から1986年(昭和61年)までの約70年をかけ大谷石を掘り出して出来た巨大な地下空間で、広さは、2万平方メートル(140m×150m)にもおよび、野球場が一つ入ってしまう大きさだという。坑内の年平均気温は8℃前後で、外気温30数度の猛暑に地下巨大冷蔵庫といった感じで中に入るとひんやり冷気を感じた。戦時中は地下秘密工場として、戦後は政府米の貯蔵庫として利用されている。
関根伸夫が会場構成を担当、マリリン・モンローが連続した巨大バナーもいい雰囲気を醸し出していた。このような神秘ですらある地下空間で見られたウォーホル作品の数々も格別だったことを思い出す。以降、同会場ではコンサートや美術展は常態化している。
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18. 撮影:村井修 宇都宮市大谷町屏風岩の地下空間でのウォーホル展 1983

以上のように栗山豊のアーカイヴからウォーホルの作品を紐解くと、同時代の社会性や習俗にまで拡大して捉えることになる。ただの作品主義的批評にならないところが、現在のソーシャリー・エンゲイジド・アートまでの外部拡張性をすでに備えていたともいえる。無数の栗山収集物からは、その10倍、100倍の解釈がなされよう。その意味で栗山の生涯かけた収集のたまものなのだ。栗山豊のアーカイヴだが日本のどこかに新たにアンディ・ウォーホル美術館を設立し、そこにパーマネントされるのがいいのではないか。あるいは本家、ピッツバーグか。
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19. 栗山豊 《長谷川真紀男》 紙にシルクスクリーン

さて、栗山豊は、長谷川真紀男ポートレイトをシルクで制作していた。聖徳太子の千円札肖像のコピー作(1975)は承知していたが、この作品は初見だった。
長谷川真紀男はニューヨークに渡り現在はデジタル版画のスタジオを設立したと聞く。もともと、70年代には《簡易曼陀羅図作成写真機》(1974)などメディアを介在させた概念芸術を制作していた。(*メディア・アートという言い方はどうなのか? 単に絵具・キャンバス以外のメディアを用いた芸術なだけだ。故・三上晴子にしてもメディア・アーティストといった定義不明の呼称でくくられるのはおかしいのではないか)。
栗山豊はテクノロジーやメディアを介在させた概念芸術に敏感だった。幸村真佐男の初期コンピューターアートなどにも興味を抱いていた。
NFTに関しては、ネット社会やブロックチェーンの組成そのものを作品化するのが本当だろう。
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20. 栗山豊 《寺山修司》 1993  キャンバスにアクリル

ときの忘れものでの展示では、1993年作の寺山修司の肖像も展示されていた。新聞の肖像写真の荒い網点を手描き拡大したものだが、60年代にはジグマー・ポルケも手描きで網点を拡大した絵画を描いていたし、フレンチ・ポップアーティスト、マルシャル・ライスも網点を用いた。網点は描かなかったもののリヒターも写真の「ボケ」を意図的に採用した。1960年代はウォーホルならずとも「写真と印刷(コピーからその先の情報化)」そのものの概念が現代絵画の大きな主題であった。だが、絵画論として日本で印刷(複製)への概念的絵画論的アプローチの作家は希少で、栗山はそこを追及していたのだろうと思う。キャンバスに描かれた宮井陸郎、寺山修司の肖像画はある。ここに安斎慶子のキャンバスものが加わっていれば1974年ウォーホル来日展三人組が完成していただろう。

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21. 寺山修司、三宅一生、黒柳徹子、草間彌生、赤塚不二夫「アンディ・ウォーホル展 1983~1984」展図録掲載の生原稿

栗山豊はなぜかアンディ・ウォーホルの肖像はキャンバスに描かなかったようだ。ウォーホルが図像一枚で表象しきれないことが分かっていたからだろう。
同一ケースは飯村隆彦のエクスペリメンタル・ムーヴィー《フィルムメーカーズ》1969にもいえる。当時ニューヨークにいた飯村は実験映画作家を次々に撮影するが、アンディ・ウォーホルだけは複製を撮影した。「ウォーホルの実体を撮影する意味がなかったので憚られた」(飯村隆彦)。それが非在のアーティスト、アンディなのだ。ブレイク・ゴプニク「Warhol: A Life as Art」(2020刊)表紙。Photo by Michael Childers, Andy in New York Studio、1976 この写真のサングラス、皮ジャン姿は1965~66あたりのシルヴァー・ファクトリー時代のものだ。何度観察しても、これは本当にウォーホルなのか? アレン・ミジェットのコスプレかもしれない。そう思わせるのがアンディ・ウォーホルなのだ。

晩年のインタヴューでいわく、「つまり僕としてはこういいたいんだ。みんな“虚構”でしたと」。

最後に栗山が描かなかったアンディ・ウォーホル像をシミュラークルであるバーコードにより構成した自作を掲載して、栗山豊とアンディ・ウォーホル、ときの忘れものに敬意を表したい。資本主義流通・情報化社会の“虚像”が作り上げた“虚像”のために。

22MORISHITA作品「ウォーホール」

22. 森下泰輔 《バーコードの集積により生成された1965年のアンディ・ウォーホルの肖像》2020 キャンバスにアクリル、顔料インク 910 ×727mm(Creative support: Kenji Ichikawa) 右は部分

(もりした たいすけ)

森下泰輔(Taisuke MORISHITA 現代美術家・美術評論家)
新聞記者時代に「アンディ・ウォーホル展 1983~1984」カタログに寄稿。1993年、草間彌生に招かれて以来、ほぼ連続してヴェネチア・ビエンナーレを分析、新聞・雑誌に批評を提供している。「カルトQ」(フジテレビ、ポップアートの回優勝1992)。ギャラリー・ステーション美術評論公募最優秀賞(「リチャード・エステスと写真以降」2001)。現代美術家としては、 多彩なメディアを使って表現。80年代には国際ビデオアート展「インフェルメンタル」に選抜され、作品はドイツのメディアアート美術館ZKMに収蔵。90年代以降ハイパー資本主義、グローバリゼーション等をテーマにバーコードを用いた作品を多く制作。2010年、平城遷都1300年祭公式招待展示「時空 Between time and space」(平城宮跡)参加。本年のホイットニービエンナーレに作品が掲載された資料が展示された。Art Lab Group 運営委員。表現の不自由展・東京実行委員。
・森下泰輔 「ウォーホルと栗山豊の時代」連載中
・森下泰輔 「私のAndy Warhol体験


・栗田秀法 「現代版画センターの冒険の縮図としての『アンディ・ウォーホル展 1983~1984』図録
・中谷芙二子 「ウォーホル 東京の夜と朝 」(再録)
・画廊亭主 「アンディ・ウォーホル『KIKUシリーズ』の誕生
・1983年6月7日 渋谷パルコ「アンディ・ウォーホル展」全国展オープニング
・1983年7月23日 宇都宮大谷「巨大地下空間とウォーホル展」オープニング
・1984年9月1日 韓国ソウルで「アンディ・ウォーホル展」開催
・2012年1月31日 「石岡瑛子さん逝く(私のウォーホル)
・ただいま順次掲載中「170人の私のウォーホル

◆「アンディ・ウォーホル展 史上最強!ウォーホルの元祖オタク栗山豊が蒐めたもの
会期:2022年11月4日[金]~11月19日[土] (終了しました)
展示の様子は都築響一さんのメルマガ「ROADSIDERS' weeklyより、アンディ・ウォーホル展をご覧ください。
アンディ・ウォーホル展_案内状_表面1280

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※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください。

12月28日(水)~2023年1月4日(水)まで冬季休廊いたします。
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