「ときの忘れものの本棚から」第18回
「難波田史男:宇宙ステーションへの旅」(7)
中尾美穂

「夭折の画家 難波田史男展―海と太陽の詩」カタログ(西武美術館、1981年)、難波田家蔵より
表紙:難波田史男《夢の街角》1969年(部分)
*表紙デザインは田中一光
1974年に32歳の若さで他界した難波田史男。その足跡をふりかえる大きな展覧会として、フジテレビギャラリーや小田急百貨店の遺作展、池田二十世紀美術館の親子三人展に続き、没後7周年の回顧展があった。1981年、西武美術館(東京・池袋)で開かれた「夭折の画家 難波田史男展―海と太陽の詩」である。1975年のオープン以来、コンテンポラリー・アートの新しい展望を活動の軸に据えた同館は、史男が遺した2,000点を超える作品のうち約180点をあらためて展覧し、作家の基礎資料となる本格的な図録を刊行した。彼の並外れて豊かで繊細な感受性や尽きない創作欲を、多くのカラー図版に見ることができる。

同展カタログより
難波田史男 1962年の作品(表記のないものはインク、水彩)
左上《無題》770×1085mm、左下《無題》インク、グワッシュ770×1090mm、右上《無題》310×490mm、
右下《涙の川》160×310mm

同展カタログより
難波田史男 1967年の作品(インク、水彩、または卵)
左上《水中少女》210×320mm、左下《無題》220×325mm、右上《無題》580×775mm、右下《石庭》270×380mm
※このころから卵を用いたテンペラ技法を始め、1969年、Gallery Okabeでのテンペラ画展に「太陽シリーズ」を出品

同展カタログより
難波田史男1967-68年の作品(インク、水彩、または卵)
左上《トンガリ帽子のピエロと駅馬車》270×380mm、左下《グッドモーニングサン(good morning our sun)》215×280mm、
右上《太陽・この未知なるもの》210×280mm、右下《異郷の太陽とバレリーナ》210×280mm

同展カタログより
難波田史男1969年の作品(いずれもインク、水彩、卵)、右上が表紙掲載作品
左上《国境の村》210×330mm、左下《花の精》210×330mm、右上《夢の街角》315×480mm、右下《無題》220×345mm

同展カタログより
難波田史男1970年の作品(いずれもインク、水彩、卵)
左上《無題》210×320mm、左下《夕映え》210×320mm、右上《無題》210×320mm、右下《無題》210×320mm

同展カタログより
難波田史男1971-72年の作品(表記のないものはインク、水彩)
左上《空の旅人》270×380mm、左下《無題》320×480mm、右上《無題》310×470mm、
右下《残照》インク、水彩、グワッシュ 210×320mm

同展カタログより
難波田史男1973年の作品(いずれもインク、水彩)
左上《無題》210×320mm、左下《無題》210×320mm、右上《無題》210×320mm、右下《秋》210×320mm
時おりあらわれる題名のおかげで、彼が太陽、街、都市、海、少女、精霊などをモチーフに描いているらしいことはわかる。それでも全体が曖昧模糊として、連載(1)で紹介した、<すべてが「のようなもの」>という千葉成夫氏の指摘どおりである。さらに、それらしいものたちは固有の姿ではなく、別の時期の別の幻想のなかへ、あらたな何かになって紛れていく。彼の幻想ははかなく、気まぐれなものなのだろう。少なくとも強迫観念的ないびつさは感じられない。しかし紙上へつなぎとめられると妙に生々しく鮮やかで、その質量に眩暈すらする。滑稽さ、郷愁、不安、孤独、死、絶望、歓喜……さまざまな情感が、インクのふるえる線や溜まりやにじみ、色彩の重なりから溢れだすのにも驚かされるのだ。
美はぼくの心の中に、記憶の中に存在しています。ぼくが線を引く、一本の純粋な線。ぼくが線を引く、三角形、円、四角形が生まれる、何時の間にか、線は家に、人、木、机になっている。そして、よりあつまって、社会生活になっている。
(難波田史男「美」早稲田大学在学中の文集に掲載、同展カタログに再録)
つづけて彼は、美は自身の周囲にある人々の顔にあり、「誰でも、持っている二つの顔。笑いと、涙。それがぼくの美です」「心の素直さ、心の清潔さ、それが、僕の(ママ)美です。ここから絵は生まれます。ここから絵は出発します」と述べている。
史男はクラシック音楽好きで、しばしばレコードをかけながら制作したという。彼が「純粋な」という線は音に似ている。一般に、音は表象、つまり誰もが同じく関連づける事物や情景がない。そんな音から曲が生まれ、人々の琴線に触れるさまを想像し、自らも作曲するように筆を走らせていたように思えてならない。
高校・大学の恩師で仏文学者の窪田般彌(はんや)は、史男の内面をよく知る人物であったようだ。小田急の遺作展カタログに「史男君は口数の少ない、おとなしい感じの学生だった。しかし。その内部には情熱が烈しく燃えたち、いかにしたら純粋に生きられるかという理想に苦しみ、悩んでいた」と書いている。没後7周年展には詩を寄せ、その年刊行の自著『フランス文学夜話』へ、追悼のエッセイ「海と太陽の画家」(初出は『みずゑ』1976年2月)を収めた。史男がカミュ、ニーチェ、ル・クレジオ、ランボー、ヴェルレーヌ、ボードレールらの太陽を主題とした詩文を人知れずノートに書き写していたり、大学のレポートに、好きな音楽家としてベートーヴェン、ストラビンスキー、ワーグナー、ベルリオーズほかの名を挙げたりしたことに言及している。一口に文学・音楽からの影響といってもかなりの偏向をみせていて興味深い。

窪田般彌著『フランス文学夜話』(青土社、1981年)、難波田家蔵より
表紙:難波田史男《無題》インク、水彩 235×325mm 1963年
没後7周年展では、母の長い手記の再録(難波田澄江「想い出すままに」、1978年3月 ※初出はフジテレビギャラリーの追悼展パンフレット)をはじめ、史男の素顔に触れる文章が多かった。大学時代に立て続けに個展を開き「彼ほど晴れがましい存在もほかになかった」という宝木範義や、同じく学友として史男のアトリエを訪れた千葉成夫ら研究者、「旅を楽しむ若者の氾濫する時代ではまだなかった」ころ、北海道での生活を夢見たが叶わずに帰路につく史男と出会った画家の村上善男、「お母さんのような優等生にはわからないだろうけれども、僕のように多分に不良性を持っている者」には、罪を犯した少年や過激派の若者の気持ちがわかるとの言葉が心に残っているという母。各人の文章からは真面目で柔和な青年像が浮かぶ。いったい「不良性」はどこにあったのだろう。同世代、同じように多感な若者として、自分がそうなる選択肢を考えたことがあったのかもしれない。文学や音楽の偏向も、史男の強い感受性で説明がつくように思える。ちなみに同展で、評論家の針生一郎は丁寧に足跡をたどった。再評価の動きはこのころから始まったようである。
※テキストおよび図版は著作権者等の許諾を得て掲載しています。転載はご遠慮ください。
(なかお みほ)
■中尾美穂
1965年 長野市生まれ。
1997年から2017年まで池田満寿夫美術館学芸員。
池田満寿夫研究をライフワークとする中尾美穂さんの連載エッセイ「ときの忘れものの本棚から」は奇数月の19日に掲載します。
次回は5月19日の予定です。
●本日のお勧め作品は難波田史男です。
難波田史男
「野と空」
1971年
水彩、インク
27.0x38.1cm
サインあり
こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください。
●ときの忘れものは2017年に青山から〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました。阿部勤が設計した個人住宅だった空間で企画展の開催、版画のエディション、美術書の編集等を行なっています(WEBマガジン コラージ2017年12月号18~24頁の特集参照)。
JR及び南北線の駒込駅南口から徒歩約8分です。
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531
E-mail:info@tokinowasuremono.com
http://www.tokinowasuremono.com/
「難波田史男:宇宙ステーションへの旅」(7)
中尾美穂

「夭折の画家 難波田史男展―海と太陽の詩」カタログ(西武美術館、1981年)、難波田家蔵より
表紙:難波田史男《夢の街角》1969年(部分)
*表紙デザインは田中一光
1974年に32歳の若さで他界した難波田史男。その足跡をふりかえる大きな展覧会として、フジテレビギャラリーや小田急百貨店の遺作展、池田二十世紀美術館の親子三人展に続き、没後7周年の回顧展があった。1981年、西武美術館(東京・池袋)で開かれた「夭折の画家 難波田史男展―海と太陽の詩」である。1975年のオープン以来、コンテンポラリー・アートの新しい展望を活動の軸に据えた同館は、史男が遺した2,000点を超える作品のうち約180点をあらためて展覧し、作家の基礎資料となる本格的な図録を刊行した。彼の並外れて豊かで繊細な感受性や尽きない創作欲を、多くのカラー図版に見ることができる。

同展カタログより
難波田史男 1962年の作品(表記のないものはインク、水彩)
左上《無題》770×1085mm、左下《無題》インク、グワッシュ770×1090mm、右上《無題》310×490mm、
右下《涙の川》160×310mm

同展カタログより
難波田史男 1967年の作品(インク、水彩、または卵)
左上《水中少女》210×320mm、左下《無題》220×325mm、右上《無題》580×775mm、右下《石庭》270×380mm
※このころから卵を用いたテンペラ技法を始め、1969年、Gallery Okabeでのテンペラ画展に「太陽シリーズ」を出品

同展カタログより
難波田史男1967-68年の作品(インク、水彩、または卵)
左上《トンガリ帽子のピエロと駅馬車》270×380mm、左下《グッドモーニングサン(good morning our sun)》215×280mm、
右上《太陽・この未知なるもの》210×280mm、右下《異郷の太陽とバレリーナ》210×280mm

同展カタログより
難波田史男1969年の作品(いずれもインク、水彩、卵)、右上が表紙掲載作品
左上《国境の村》210×330mm、左下《花の精》210×330mm、右上《夢の街角》315×480mm、右下《無題》220×345mm

同展カタログより
難波田史男1970年の作品(いずれもインク、水彩、卵)
左上《無題》210×320mm、左下《夕映え》210×320mm、右上《無題》210×320mm、右下《無題》210×320mm

同展カタログより
難波田史男1971-72年の作品(表記のないものはインク、水彩)
左上《空の旅人》270×380mm、左下《無題》320×480mm、右上《無題》310×470mm、
右下《残照》インク、水彩、グワッシュ 210×320mm

同展カタログより
難波田史男1973年の作品(いずれもインク、水彩)
左上《無題》210×320mm、左下《無題》210×320mm、右上《無題》210×320mm、右下《秋》210×320mm
時おりあらわれる題名のおかげで、彼が太陽、街、都市、海、少女、精霊などをモチーフに描いているらしいことはわかる。それでも全体が曖昧模糊として、連載(1)で紹介した、<すべてが「のようなもの」>という千葉成夫氏の指摘どおりである。さらに、それらしいものたちは固有の姿ではなく、別の時期の別の幻想のなかへ、あらたな何かになって紛れていく。彼の幻想ははかなく、気まぐれなものなのだろう。少なくとも強迫観念的ないびつさは感じられない。しかし紙上へつなぎとめられると妙に生々しく鮮やかで、その質量に眩暈すらする。滑稽さ、郷愁、不安、孤独、死、絶望、歓喜……さまざまな情感が、インクのふるえる線や溜まりやにじみ、色彩の重なりから溢れだすのにも驚かされるのだ。
美はぼくの心の中に、記憶の中に存在しています。ぼくが線を引く、一本の純粋な線。ぼくが線を引く、三角形、円、四角形が生まれる、何時の間にか、線は家に、人、木、机になっている。そして、よりあつまって、社会生活になっている。
(難波田史男「美」早稲田大学在学中の文集に掲載、同展カタログに再録)
つづけて彼は、美は自身の周囲にある人々の顔にあり、「誰でも、持っている二つの顔。笑いと、涙。それがぼくの美です」「心の素直さ、心の清潔さ、それが、僕の(ママ)美です。ここから絵は生まれます。ここから絵は出発します」と述べている。
史男はクラシック音楽好きで、しばしばレコードをかけながら制作したという。彼が「純粋な」という線は音に似ている。一般に、音は表象、つまり誰もが同じく関連づける事物や情景がない。そんな音から曲が生まれ、人々の琴線に触れるさまを想像し、自らも作曲するように筆を走らせていたように思えてならない。
高校・大学の恩師で仏文学者の窪田般彌(はんや)は、史男の内面をよく知る人物であったようだ。小田急の遺作展カタログに「史男君は口数の少ない、おとなしい感じの学生だった。しかし。その内部には情熱が烈しく燃えたち、いかにしたら純粋に生きられるかという理想に苦しみ、悩んでいた」と書いている。没後7周年展には詩を寄せ、その年刊行の自著『フランス文学夜話』へ、追悼のエッセイ「海と太陽の画家」(初出は『みずゑ』1976年2月)を収めた。史男がカミュ、ニーチェ、ル・クレジオ、ランボー、ヴェルレーヌ、ボードレールらの太陽を主題とした詩文を人知れずノートに書き写していたり、大学のレポートに、好きな音楽家としてベートーヴェン、ストラビンスキー、ワーグナー、ベルリオーズほかの名を挙げたりしたことに言及している。一口に文学・音楽からの影響といってもかなりの偏向をみせていて興味深い。

窪田般彌著『フランス文学夜話』(青土社、1981年)、難波田家蔵より
表紙:難波田史男《無題》インク、水彩 235×325mm 1963年
没後7周年展では、母の長い手記の再録(難波田澄江「想い出すままに」、1978年3月 ※初出はフジテレビギャラリーの追悼展パンフレット)をはじめ、史男の素顔に触れる文章が多かった。大学時代に立て続けに個展を開き「彼ほど晴れがましい存在もほかになかった」という宝木範義や、同じく学友として史男のアトリエを訪れた千葉成夫ら研究者、「旅を楽しむ若者の氾濫する時代ではまだなかった」ころ、北海道での生活を夢見たが叶わずに帰路につく史男と出会った画家の村上善男、「お母さんのような優等生にはわからないだろうけれども、僕のように多分に不良性を持っている者」には、罪を犯した少年や過激派の若者の気持ちがわかるとの言葉が心に残っているという母。各人の文章からは真面目で柔和な青年像が浮かぶ。いったい「不良性」はどこにあったのだろう。同世代、同じように多感な若者として、自分がそうなる選択肢を考えたことがあったのかもしれない。文学や音楽の偏向も、史男の強い感受性で説明がつくように思える。ちなみに同展で、評論家の針生一郎は丁寧に足跡をたどった。再評価の動きはこのころから始まったようである。
※テキストおよび図版は著作権者等の許諾を得て掲載しています。転載はご遠慮ください。
(なかお みほ)
■中尾美穂
1965年 長野市生まれ。
1997年から2017年まで池田満寿夫美術館学芸員。
池田満寿夫研究をライフワークとする中尾美穂さんの連載エッセイ「ときの忘れものの本棚から」は奇数月の19日に掲載します。次回は5月19日の予定です。
●本日のお勧め作品は難波田史男です。
難波田史男「野と空」
1971年
水彩、インク
27.0x38.1cm
サインあり
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※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください。
●ときの忘れものは2017年に青山から〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました。阿部勤が設計した個人住宅だった空間で企画展の開催、版画のエディション、美術書の編集等を行なっています(WEBマガジン コラージ2017年12月号18~24頁の特集参照)。
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