関東大震災から100年を迎えました。
我が家の歴史について少し書きます。
左は今から28年前の1995年(平成7)2月9日付の東京新聞の記事です。
同年1月17日に発生した阪神・淡路大震災の直後の新聞です。
筆者は医師で作家の佐賀純一さん(1941~)、亭主より4歳年長の方です。
「二大震災に時代が映る」とある通り、悲惨極まりない被害にも関わらず、神戸の人たちが沈着に行動したことを父君(佐賀進さん)が賞賛したと書いておられます。
しかし「関東大震災のときはそうではなかった」とも。
東京新聞 1995年2月9日(木)
佐賀純一「二大震災に時代が映る」
<私が育った家は祖父が関東大震災直後に建てた西洋館だが、職人は東京の人だった。避難民の中に大工の棟梁がいて、仕事を探していたので、祖父は医院の建設を依頼したのだ。(中略)
当時、父は旧制中学一年だったが、話を聞くと、「今度の地震とは何もかも比較にならない」という。
「何よりすばらしいのは神戸市民の冷静さだ。家族を失い、家を焼かれた人々が沈着に行動している様を見ると、心から敬服する。関東大震災のときはそうではなかった。戒厳令を布いて軍隊が治安に当たったにもかかわらず、虐殺事件が発生した。多くは流言蜚語に惑わされた自警団の暴走によるものだ。しかし大杉栄の虐殺はそうではない。国民を守るはずの軍人が手を下した。この話を聞いたのは中学の授業中だった」
「国語、数学、なんでもできる万能の教師で、抜群の人気のあった篠崎龍作(ママ 正しくは篠原龍策)という先生が、修身の時間にいつもとは違った沈うつな表情でこう言った。『今回の大地震は帝都を壊滅に至らしめる大惨事でありましたが、先日更に大きな悲劇が生じました。無政府主義者として知られる大杉栄が甘粕という陸軍の大尉に殺されたのです。大杉だけではない、その妻と七歳になる甥までも殺された。甘粕大尉は三人を殺した後、死体を井戸の中に投げ入れてしまった。君たちは大杉栄という人物については何も知らないでしょうが、この人物は過激な思想家として知られています。その思想は大いに偏っている。しかし、考えが違うからといって、軍人が震災の混乱に乗じて思想家を殺すとは何事でしょうか。軍人は国を守るのが役目です。裁判官や死刑執行人などになってはいけない。特にこの場合罪が重いのは、夫人と、子供を殺したということです。絞め殺したのです。こうしたことは絶対に許してはなりません。人間は、どんなことがあっても、人を殺したりしてはいけないんです。日本人同士は勿論、外国人も同様です。よくよくこのことを考えてくれるように』」
(中略)
「ともかくも関東大震災と今回の震災とは全く意味が違う。七十年前には、震災を境に日本は暗い泥沼にはまりこんで世界から孤立した。ところが今は、政府が少々だらしなくても、自衛隊が無力でも、市民はものすごくしっかりしている。ボランティアやマスコミ、そして外国の救助隊も、必死で活動している。その姿を見ていると、日本は変わった、ほんとうにいい国になったと思う。特に神戸市民の行動はすばらしい。国民栄誉賞、それよりはるかに優れたものに価する」。父はこう言って白髪を掻きあげた。>
(医師・作家 土浦市在住)
---------------------------
*関東大震災の混乱に乗じて権力が暴走し、一般の人もデマ、流言蜚語に惑わされて朝鮮人を虐殺したことは歴史の汚点で、現代の私たちにも大きな教訓を残しています。
佐賀純一さんの父・佐賀進さんの回顧談に出てくる<考えが違うからといって、軍人が震災の混乱に乗じて思想家を殺すとは何事でしょうか>と教え子たちに語った土浦中学の教師・篠原龍策は亭主の母方の祖父です。
亭主は群馬県吾妻郡名久田村(現中之条町)に生まれたのですが、幼かった頃草津温泉に母と二人で移り、小学1年からは母方の地、嬬恋村で育ちました。
ヤマトタケル(日本武尊、倭建命)東征の折、海に身を投げて危急を救った弟橘姫を偲んだという故事にならった嬬恋村(つまごいむら)という名称は、明治初年に初代村長を務めたわが一族の篠原仙吉がつけました。
篠原龍策は代用教員となり各地を転々とし、最後は茨城県土浦中学に奉職し、退職後は昭和女学校(土浦第一女子高校の前身)を創立しますが昭和10年に67歳で死去しました。
家庭の父としては厳格で子供たち(9人!)にスパルタ教育を施したと母からいつも聞かされていましたが、学校では人気教師だったようです。高田保(ぶらりひょうたん)はじめ教え子の人たちが幾人も祖父篠原龍策の思い出を書き残してくれています。
教え子のひとり佐野道之助さんによれば、篠原龍策はリベラルな思想の持ち主であったと同時に、ユーモアを解し<頭がつるつるはげていて、酒が好きで、生徒に向ってね「卒業したらお酒を持っておいで、香典はいらないんだから」なんて冗談半分に言>うような人柄だったらしい。
亭主は昭和20年生まれなので、残念ながら祖父には会っていません。
●本日のお勧め作品は磯崎新です。

磯崎新 Arata ISOZAKI
「ザ・パラディアム(NY)」
1995年 紙・ドローイング
Image size : 42.0x56.0cm
Sheet size : 46.0x72.1cm
Signed
●ときの忘れものの建築は阿部勤先生の設計です。

建築空間についてはWEBマガジン<コラージ2017年12月号18~24頁>に特集されています。
〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531
E-mail:info@tokinowasuremono.com
http://www.tokinowasuremono.com/
営業時間=火曜~土曜の平日11時~19時。日・月・祝日は休廊。
JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。
我が家の歴史について少し書きます。
左は今から28年前の1995年(平成7)2月9日付の東京新聞の記事です。同年1月17日に発生した阪神・淡路大震災の直後の新聞です。
筆者は医師で作家の佐賀純一さん(1941~)、亭主より4歳年長の方です。
「二大震災に時代が映る」とある通り、悲惨極まりない被害にも関わらず、神戸の人たちが沈着に行動したことを父君(佐賀進さん)が賞賛したと書いておられます。
しかし「関東大震災のときはそうではなかった」とも。
東京新聞 1995年2月9日(木)
佐賀純一「二大震災に時代が映る」
<私が育った家は祖父が関東大震災直後に建てた西洋館だが、職人は東京の人だった。避難民の中に大工の棟梁がいて、仕事を探していたので、祖父は医院の建設を依頼したのだ。(中略)
当時、父は旧制中学一年だったが、話を聞くと、「今度の地震とは何もかも比較にならない」という。
「何よりすばらしいのは神戸市民の冷静さだ。家族を失い、家を焼かれた人々が沈着に行動している様を見ると、心から敬服する。関東大震災のときはそうではなかった。戒厳令を布いて軍隊が治安に当たったにもかかわらず、虐殺事件が発生した。多くは流言蜚語に惑わされた自警団の暴走によるものだ。しかし大杉栄の虐殺はそうではない。国民を守るはずの軍人が手を下した。この話を聞いたのは中学の授業中だった」
「国語、数学、なんでもできる万能の教師で、抜群の人気のあった篠崎龍作(ママ 正しくは篠原龍策)という先生が、修身の時間にいつもとは違った沈うつな表情でこう言った。『今回の大地震は帝都を壊滅に至らしめる大惨事でありましたが、先日更に大きな悲劇が生じました。無政府主義者として知られる大杉栄が甘粕という陸軍の大尉に殺されたのです。大杉だけではない、その妻と七歳になる甥までも殺された。甘粕大尉は三人を殺した後、死体を井戸の中に投げ入れてしまった。君たちは大杉栄という人物については何も知らないでしょうが、この人物は過激な思想家として知られています。その思想は大いに偏っている。しかし、考えが違うからといって、軍人が震災の混乱に乗じて思想家を殺すとは何事でしょうか。軍人は国を守るのが役目です。裁判官や死刑執行人などになってはいけない。特にこの場合罪が重いのは、夫人と、子供を殺したということです。絞め殺したのです。こうしたことは絶対に許してはなりません。人間は、どんなことがあっても、人を殺したりしてはいけないんです。日本人同士は勿論、外国人も同様です。よくよくこのことを考えてくれるように』」
(中略)
「ともかくも関東大震災と今回の震災とは全く意味が違う。七十年前には、震災を境に日本は暗い泥沼にはまりこんで世界から孤立した。ところが今は、政府が少々だらしなくても、自衛隊が無力でも、市民はものすごくしっかりしている。ボランティアやマスコミ、そして外国の救助隊も、必死で活動している。その姿を見ていると、日本は変わった、ほんとうにいい国になったと思う。特に神戸市民の行動はすばらしい。国民栄誉賞、それよりはるかに優れたものに価する」。父はこう言って白髪を掻きあげた。>
(医師・作家 土浦市在住)
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*関東大震災の混乱に乗じて権力が暴走し、一般の人もデマ、流言蜚語に惑わされて朝鮮人を虐殺したことは歴史の汚点で、現代の私たちにも大きな教訓を残しています。
佐賀純一さんの父・佐賀進さんの回顧談に出てくる<考えが違うからといって、軍人が震災の混乱に乗じて思想家を殺すとは何事でしょうか>と教え子たちに語った土浦中学の教師・篠原龍策は亭主の母方の祖父です。
亭主は群馬県吾妻郡名久田村(現中之条町)に生まれたのですが、幼かった頃草津温泉に母と二人で移り、小学1年からは母方の地、嬬恋村で育ちました。
ヤマトタケル(日本武尊、倭建命)東征の折、海に身を投げて危急を救った弟橘姫を偲んだという故事にならった嬬恋村(つまごいむら)という名称は、明治初年に初代村長を務めたわが一族の篠原仙吉がつけました。
篠原龍策は代用教員となり各地を転々とし、最後は茨城県土浦中学に奉職し、退職後は昭和女学校(土浦第一女子高校の前身)を創立しますが昭和10年に67歳で死去しました。
家庭の父としては厳格で子供たち(9人!)にスパルタ教育を施したと母からいつも聞かされていましたが、学校では人気教師だったようです。高田保(ぶらりひょうたん)はじめ教え子の人たちが幾人も祖父篠原龍策の思い出を書き残してくれています。
教え子のひとり佐野道之助さんによれば、篠原龍策はリベラルな思想の持ち主であったと同時に、ユーモアを解し<頭がつるつるはげていて、酒が好きで、生徒に向ってね「卒業したらお酒を持っておいで、香典はいらないんだから」なんて冗談半分に言>うような人柄だったらしい。
亭主は昭和20年生まれなので、残念ながら祖父には会っていません。
●本日のお勧め作品は磯崎新です。

磯崎新 Arata ISOZAKI
「ザ・パラディアム(NY)」
1995年 紙・ドローイング
Image size : 42.0x56.0cm
Sheet size : 46.0x72.1cm
Signed
●ときの忘れものの建築は阿部勤先生の設計です。

建築空間についてはWEBマガジン<コラージ2017年12月号18~24頁>に特集されています。
〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531
E-mail:info@tokinowasuremono.com
http://www.tokinowasuremono.com/
営業時間=火曜~土曜の平日11時~19時。日・月・祝日は休廊。
JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。
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