酒井実通男のエッセイ「西脇順三郎をめぐる私のコレクション」第5回
「没後40年 一日だけの私的・西脇順三郎展と茶席」
2022年 (令和4年) 11月6日に表題のような没後40年展を私の自宅で開催しました。年も押し迫ってきていましたが、没後20年、30年と開催してきましたから、やっぱり継続的にも没後展をしないわけにはいかないような気がだんだんとしてきて、思い切って開催することにしました。決めるまで時間がかかったのは、経済的な問題が多々ありましてこの十年の間に作品が手に入らなかったので躊躇していたのでした。同じものをまた見ていただくのがはばかれたのです。そうは言っても20年、30年と展示してきたのだから没後40年展も一日だけでもいいから西脇作品を皆さんに見て頂ければと、決めました。
それで、地元の西脇ファンの方々に、密かに、親しくせまい我が家で見ていただくのがいいのかな、と考えたのでした。
招待状を20人の方に出したところ、13人の方々から集っていただきました。そして知り合いのお茶の先生にお願いしておいたのですが、私のデザインした“お茶室もどき”の四畳半の部屋で茶席を設けていただきました。懐石料理というわけにはいかなくて割烹屋さんからお弁当を届けてもらって、本当に“一日だけ”の記念の日になったのでした。
「西脇順三郎を偲ぶ会」会長の中村忠夫氏に主客になっていただき白磁の茶碗でお茶を出したところ「アチチ!アチチ!」と相好を崩されて、茶席のアンフォルメルであったのが印象的でした。お茶は磁器ではなくて陶器で出した方がいいですね。また中村氏はたいへん西脇に似ておりまして、そのことを聞いてみると「昔の小千谷人はだいたい西脇先生のような骨格の方が多いです」と。
ここに40年展の写真を何枚か掲載します。



今、改めて思えば、絵画が生活の場にいつも在るということはこんなにも喜びになる、ということでした。ポエジーなんて言うのは生活感から遊離した感覚であると思いがちですが、しかしそんなことは無くて、一枚の絵が精神的介在 (これをポエジーと言うのかも知れません) として私の生活を救ってくれているように思っています。それは平面から立体的なものへと変換された感覚なのでした。それは日々の暮らしをデフォルメすること、ということになります。デフォルマシオンはなにも造形芸術に限ったことではなくて、わが身の生活形態へも意識感覚へも適用できる言葉でもあると思います。自然に対する人間の行為は言ってみれば、全て自然のデフォルマシオンであると思います。ポエジーは特別な場所に鎮座ましましているのではなく、具体的に感覚的に認識できるものである、ということを思うのです。うまく説明できませんが、ただ、自分が今までに何に価値を見出していたのかという認識を得たのでした。
シュルレアリスムの詩人マックス・ジャコブ (1876-1944) の『詩法』(堀口大學訳 昭和6年第一書房刊) にこんな言葉があります。
君が若し自分が愛するものと、自分が卑しむものとを知っているなら、君は
すでに自分を定義したのである。
自分というものを定義することがいいのかどうか知りませんが、しかし自分は何と関わって暮らして行きたいのか、ということも知っていていいのかなと思っています。自分自身のデフォルマシオンは更新し続けたい、という欲求はこの年になってもまだ残存しているようです。そう言った意味においても私は、西脇順三郎の絵画と詩文に今なお新鮮なものを感じています。
今回もポスターを作りまして、玄関正面にかけて雰囲気を出しましたがどうでしょうか。特装限定版『詩集えてるにたす』(昭森社)の扉の絵を使いました。この絵のオリジナルは手元にあったのですが30年展の時に、譲りました。

今年2024年は西脇順三郎生誕130年の記念年の年になります。ゆかりのところではどんな催しがなされるのか期待するところですが、どうでしょうか。生誕100年の時は神奈川県立近代美術館で「馥郁タル火夫ヨ 生誕100年 西脇順三郎 その詩と絵画」が開催されました。私も、鎌倉八幡宮境内にあった近代美術館に見に行きました。質・量共に素晴らしい展覧会でした。下の写真はその時のカタログです。背表紙には「馥郁タル火夫ヨ―西脇順三郎」とあります。

ここで西脇順三郎が絵画についてどんな考え方をしていたか。一端を『斜塔の迷信―詩論集』(昭和32年 研究者出版刊) の中から「現代画の悲劇」という文章の一部を紹介しておきます。
「自然」ということは、画の方では、ありのままに模倣することであるから、アカデミックの画法は自然画法であるといわなければならない。モダニズムはありのままにかかないことがその画法である。それは写真的写実主義でない。それはロマンティクである。
モダニズムの画法を文学の方面でたとえれば、詩的であるということになる。詩的であるということは、ベーコンの定義では、創造的で奇想的であるということである。
アカデミックの芸術はアリストテレスの考えのように、模倣のよろこびである。しかしモダニズムの芸術は詩的であるから創造的で奇想的であって自然の模倣ではない。
モダニズムは対象を出来るだけありのままに描かないことである。そこに画家の創造的思念のみが全部占領することになる。(以下略)
モダニズムは予想もしないことを発見することにその生命があるというのです。新しい美はこの「奇想」の中にある、と言う。また、モダニズムはロマンティクである、と言うのも面白いと思います。
そして、ロマンティクは我が内部に生成する“喜び”というエモーションではないだろうか、とも思ったりしています。
■酒井実通男(さかいみちお)
昭和27年(1952)12月、新潟県長岡市生まれ。中央大学理工学部卒。
エンジニアとしてサラリーマン生活を続ける傍ら、2004年7月東京目黒にて、絵画と本と椅子のギャラリー“gallery artbookchair”を開店(金・土・日のみ)。2008年6月故郷・長岡市にUターンする。現在は、集めた本の整理とフラヌールの日々。長岡市栃堀在住。
・酒井実通男のエッセイ「西脇順三郎をめぐる私のコレクション」(全6回)は毎月23日の更新です。次回は2024年2月23日掲載となります。
●本日のお勧め作品は、倉俣史朗です。
"Floating Feather"(白)
c.a. 2004年
Acrylic
14.0×9.5×8.0cm
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください。
●ときの忘れものの建築は阿部勤先生の設計です。
建築空間についてはWEBマガジン<コラージ2017年12月号18~24頁>に特集されています。
〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531 E-mail:info@tokinowasuremono.com
http://www.tokinowasuremono.com/
営業時間=火曜~土曜の平日11時~19時。日・月・祝日は休廊。
JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。
「没後40年 一日だけの私的・西脇順三郎展と茶席」
2022年 (令和4年) 11月6日に表題のような没後40年展を私の自宅で開催しました。年も押し迫ってきていましたが、没後20年、30年と開催してきましたから、やっぱり継続的にも没後展をしないわけにはいかないような気がだんだんとしてきて、思い切って開催することにしました。決めるまで時間がかかったのは、経済的な問題が多々ありましてこの十年の間に作品が手に入らなかったので躊躇していたのでした。同じものをまた見ていただくのがはばかれたのです。そうは言っても20年、30年と展示してきたのだから没後40年展も一日だけでもいいから西脇作品を皆さんに見て頂ければと、決めました。
それで、地元の西脇ファンの方々に、密かに、親しくせまい我が家で見ていただくのがいいのかな、と考えたのでした。
招待状を20人の方に出したところ、13人の方々から集っていただきました。そして知り合いのお茶の先生にお願いしておいたのですが、私のデザインした“お茶室もどき”の四畳半の部屋で茶席を設けていただきました。懐石料理というわけにはいかなくて割烹屋さんからお弁当を届けてもらって、本当に“一日だけ”の記念の日になったのでした。
「西脇順三郎を偲ぶ会」会長の中村忠夫氏に主客になっていただき白磁の茶碗でお茶を出したところ「アチチ!アチチ!」と相好を崩されて、茶席のアンフォルメルであったのが印象的でした。お茶は磁器ではなくて陶器で出した方がいいですね。また中村氏はたいへん西脇に似ておりまして、そのことを聞いてみると「昔の小千谷人はだいたい西脇先生のような骨格の方が多いです」と。
ここに40年展の写真を何枚か掲載します。



今、改めて思えば、絵画が生活の場にいつも在るということはこんなにも喜びになる、ということでした。ポエジーなんて言うのは生活感から遊離した感覚であると思いがちですが、しかしそんなことは無くて、一枚の絵が精神的介在 (これをポエジーと言うのかも知れません) として私の生活を救ってくれているように思っています。それは平面から立体的なものへと変換された感覚なのでした。それは日々の暮らしをデフォルメすること、ということになります。デフォルマシオンはなにも造形芸術に限ったことではなくて、わが身の生活形態へも意識感覚へも適用できる言葉でもあると思います。自然に対する人間の行為は言ってみれば、全て自然のデフォルマシオンであると思います。ポエジーは特別な場所に鎮座ましましているのではなく、具体的に感覚的に認識できるものである、ということを思うのです。うまく説明できませんが、ただ、自分が今までに何に価値を見出していたのかという認識を得たのでした。
シュルレアリスムの詩人マックス・ジャコブ (1876-1944) の『詩法』(堀口大學訳 昭和6年第一書房刊) にこんな言葉があります。
君が若し自分が愛するものと、自分が卑しむものとを知っているなら、君は
すでに自分を定義したのである。
自分というものを定義することがいいのかどうか知りませんが、しかし自分は何と関わって暮らして行きたいのか、ということも知っていていいのかなと思っています。自分自身のデフォルマシオンは更新し続けたい、という欲求はこの年になってもまだ残存しているようです。そう言った意味においても私は、西脇順三郎の絵画と詩文に今なお新鮮なものを感じています。
今回もポスターを作りまして、玄関正面にかけて雰囲気を出しましたがどうでしょうか。特装限定版『詩集えてるにたす』(昭森社)の扉の絵を使いました。この絵のオリジナルは手元にあったのですが30年展の時に、譲りました。

玄関にポスター(左側に掛かっている)
今年2024年は西脇順三郎生誕130年の記念年の年になります。ゆかりのところではどんな催しがなされるのか期待するところですが、どうでしょうか。生誕100年の時は神奈川県立近代美術館で「馥郁タル火夫ヨ 生誕100年 西脇順三郎 その詩と絵画」が開催されました。私も、鎌倉八幡宮境内にあった近代美術館に見に行きました。質・量共に素晴らしい展覧会でした。下の写真はその時のカタログです。背表紙には「馥郁タル火夫ヨ―西脇順三郎」とあります。

ここで西脇順三郎が絵画についてどんな考え方をしていたか。一端を『斜塔の迷信―詩論集』(昭和32年 研究者出版刊) の中から「現代画の悲劇」という文章の一部を紹介しておきます。
「自然」ということは、画の方では、ありのままに模倣することであるから、アカデミックの画法は自然画法であるといわなければならない。モダニズムはありのままにかかないことがその画法である。それは写真的写実主義でない。それはロマンティクである。
モダニズムの画法を文学の方面でたとえれば、詩的であるということになる。詩的であるということは、ベーコンの定義では、創造的で奇想的であるということである。
アカデミックの芸術はアリストテレスの考えのように、模倣のよろこびである。しかしモダニズムの芸術は詩的であるから創造的で奇想的であって自然の模倣ではない。
モダニズムは対象を出来るだけありのままに描かないことである。そこに画家の創造的思念のみが全部占領することになる。(以下略)
モダニズムは予想もしないことを発見することにその生命があるというのです。新しい美はこの「奇想」の中にある、と言う。また、モダニズムはロマンティクである、と言うのも面白いと思います。
そして、ロマンティクは我が内部に生成する“喜び”というエモーションではないだろうか、とも思ったりしています。
■酒井実通男(さかいみちお)
昭和27年(1952)12月、新潟県長岡市生まれ。中央大学理工学部卒。
エンジニアとしてサラリーマン生活を続ける傍ら、2004年7月東京目黒にて、絵画と本と椅子のギャラリー“gallery artbookchair”を開店(金・土・日のみ)。2008年6月故郷・長岡市にUターンする。現在は、集めた本の整理とフラヌールの日々。長岡市栃堀在住。
・酒井実通男のエッセイ「西脇順三郎をめぐる私のコレクション」(全6回)は毎月23日の更新です。次回は2024年2月23日掲載となります。
●本日のお勧め作品は、倉俣史朗です。
"Floating Feather"(白)c.a. 2004年
Acrylic
14.0×9.5×8.0cm
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください。
●ときの忘れものの建築は阿部勤先生の設計です。
建築空間についてはWEBマガジン<コラージ2017年12月号18~24頁>に特集されています。
〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531 E-mail:info@tokinowasuremono.com
http://www.tokinowasuremono.com/
営業時間=火曜~土曜の平日11時~19時。日・月・祝日は休廊。
JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。
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