平嶋彰彦のエッセイ「東京ラビリンス」のあとさき

その34 鳥越—大盗賊をまつる甚内神社という小祠の伝説

文・写真 平嶋彰彦


 浅草橋は神田川に架かる橋で、浅草の南側を呼ぶ地名にもなっている。JR総武線にのると江戸川をわたった小岩から先が東京だが、千葉県育ちの私の土着的感覚では、両国駅までが千葉であり、東京は隅田川をわたった浅草橋から西側のことである。
 大学に入るとすぐに授業が嫌になり、映画ばかり観ていた。新聞に載る映画の案内欄をみて、山手線が通っているならどこでも出かけた。浅草は東京でも指折りの繁華街だが、山手線の外側である。JRに浅草橋駅はあっても、浅草駅はない。交通の便が悪かった。何度か訪れたことがあるが、私が学生だった1960年代には、浅草六区の映画街はすっかり寂れていて、噂に聞いた賑わいぶりはみるかげもなくなっていた。

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ph1 総武線隅田川鉄橋西詰。高架天井のひび割れ調査跡。柳橋1-1。2016.10.20

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ph2 総武線浅草橋駅プラットホーム。浅草橋1。2024.02.21

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ph3 総武線浅草橋駅の高架北側。1階は事業所、2階は住居になっている(画面右端)。浅草橋1-12付近。2024.02.21

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ph4 総武線浅草橋高架南側。道を隔てて、焼肉屋など飲食店がならぶ。浅草橋1-12。2024.02.21

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ph5 総武線浅草橋高架南側。1階は事業所、2階は住居になっている。浅草橋1-17。2024.02.21

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ph6 柳橋桜南通り。浅草橋駅前交差点。柳橋1-13。2024.02.21

 皮肉なことだが、浅草は古代から近世にいたるまで、水陸交通の要衝として発達した。平安時代の延喜式に載る武蔵国に駅馬には、西から店屋(町田市南鶴間)・小高(川崎市高津区)・大井(品川区大井)・豊嶋(台東区浅草花川戸)の四駅があった。大井駅より先をたどると、品川、高輪、芝土器坂(飯倉付近)から霞ケ関へ、それより皇居西丸下から大手町、常盤橋にかかり、さらに小伝馬、鳥越をへて、豊島駅(浅草花川戸)に至る道筋だったとされる。豊島駅の近くには隅田の渡しがあり、そこから下総国に入ったのである。(註1)
 常盤橋から浅草花川戸までの道筋は、現在の江戸通りにおおむね相当する。もう少し正確には、江戸通りの南側約100メートルを併行して浅草橋に通じる旧日光街道のことである。
 浅草橋と浅草花川戸の中間に鳥越がある。鳥越は鳥越明神(鳥越神社)のあたりから大倉(浅草御藏)前の辺までの通称である。その産土神が鳥越神社で、祭神に日本武尊を祀っている(ph19)。浅草の古跡として名高いが、旧記等は散逸して創建の次第は不明だという(註2)。
 室町時代になるが、道興准后の『廻国雑記』に鳥越の里が出てくる。(註3)

  鳥越の里といふところに行きくれて、
   暮れにけりやどりいづくといそぐ日になれも寝に行く鳥越の里 道興准后


 道興は聖護院門跡(本山派修験の総元締)の大僧正で、新熊野検校を兼任した。1486(文明18)年というから、関東では太田道灌が主君の上杉定正に謀殺されているが、道興はこの年の6月から約10ヵ月にわたり、北陸から関東さらに東北の諸国を廻る旅をした。『廻国雑記』はその紀行文である。
 現在のGoogle地図をみると、旧日光街道(江戸通り)は鳥越の辺りで蔵前通りと交差する。蔵前通りは近代に造られた道路だが、この交差点付近に、江戸時代中期までは、旅籠町と呼ばれる宿場があった(註4)。
 旅籠とは木賃宿にたいする賄つきの宿のこと。もともとは旅行に持参する馬の飼料をいれる竹籠を意味したらしい。馬は牛とちがい、そこかしこに生えている道草を喰わせながら、旅をするわけにはいかなかった。中世に宿屋ができると、宿屋は馬のために食事を用意し、目じるしに馬槽(うまぶね)すなわち飼い葉槽を掲げた。それより宿屋を旅籠と呼ぶようになった、ということである(註5)。
 浅草は下総に入る隅田川の渡河点というばかりでなく、東北諸国へ通じる水陸交通の要衝だった。そのため、古代には駅馬の豊嶋駅が浅草花川戸に設けられ、中世になると賄つきで馬の宿泊できる浅草旅籠町ができた。江戸時代に御用米を納める蔵が設けられた背景にも、諸国からの物資が集散する流通の拠点として発展した歴史があった、とみられる。

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ph7  神田川。柳橋の船溜まり。屋形船や遊漁船がならぶ。奥は浅草橋。柳橋1-2。2024.02.21

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ph8 柳橋。神田川の隅田川との合流点に架かる橋。現在の橋は1929年の架橋で、永代橋がモデルだという。2024.02.21

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ph9 料亭伝丸。現在はマンションになっている。柳橋1-6。左は篠塚稲荷神社。2016.10.12

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ph10  木造二階建ての住宅。柳橋1-26-9。2016.10.20

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ph11 美屋古鮓本店。柳橋1-10-5。2016.10.20

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ph12 原歯科医院。すでに診療をやめていた。柳橋1-24。2016.10.12

 蔵前通りのひとつ南側に北西から南東方向に通う道路がある。現在は暗渠になっているが、かつてはこの道路を鳥越川という川が流れていた。水源は上野不忍池で、上流は忍川と呼ばれた。北西から南西方向に流れ、三味線堀(小島町2丁目)から鳥越を流れたあと、隅田川に合流した。駒込の染井霊園を水源とし、不忍池に注いでいたのが藍染川(谷戸川)である。この川については、一度ならずこの連載で触れているが、不忍池から先にも流れがあったわけで、鳥越川は藍染川の下流ということになる(註6)。
 『江戸切絵図』をみると、鳥越神社の南側にその鳥越川に架かる橋があり、甚内橋と書かれている。現在の浅草消防署浅草橋出張所(浅草橋3-10-5)のすぐそばで、「甚内橋遺跡」の石碑が残されている。もとはそこに甚内神社があったのだが、関東大震災で焼失した。その後、社地を現在地(浅草橋3-11)に移転し、1930年に社殿を再建した(ph15、註7)。
 甚内神社は祭神として高坂甚内を祀る。甚内は江戸時代初期の大盗賊である。瘧(おこり)の病に罹っているところを召捕られ、鳥越の刑場で磔刑にされた。境内に台東区教育委員会による掲示板があり、甚内神社の由緒を次のように記している。

 当社は「甚内霊神」の名で、江戸時代初期に創建された。
伝承によれば、甚内は武田家の家臣高坂弾正の子で、主家滅亡後、祖父に伴われ諸国を行脚するうち宮本武蔵に見出されて剣を学び奥義を極めた。武田家再興をはかり、開府早々の江戸市中の治安を乱したため、瘧(マラリア)に苦しんでいたところを幕府に捕えられた。
 鳥越の刑場で処刑されるとき「我瘧病にあらずば何を召し捕れん。我ながく魂魄を留、瘧に悩む人もし我を念ぜば平癒なさしめん」といったことから、病の治癒を祈る人々の信仰を集めたという。八月十二日の命日は、今も多くの人で賑わっている。


 甚内の苗字を、『江戸砂子』は上記引用文と同じように高坂と書いている。しかし、『慶長見聞集』は向崎とし、『遊歴雑記』は幸坂としている(註8)。
 また境内掲示では、甚内が召し捕られ、処刑されたのは江戸初期だというが、これも史料により一定しない。『江戸砂子』にはそもそも年次の言及がない。『慶長見聞集』は、1613(慶長18)年のことだとしている(註9)。いっぽう、『遊歴雑記』は、甚内を「寛永(1622~44)の中頃より正保年間(1644~48)まで、「赤坂に住て世に唄し悪党」だと書いている(註10)。つまり、江戸初期といっても、処刑の時期に30年以上も食い違いがある。
 甚内の素性と罪状を、上記引用文は「伝承によれば、甚内は武田家の家臣高坂弾正の子」云々としている。ここにいう「伝承」とは、なにを指すのか気になるところだが、どうやら『遊歴雑記』であった可能性が高い。というのも、甚内が刑場で言い残した最期の言葉は、『遊歴雑記』の記述と、言いまわしのみならず、仮名遣いを含め、「我瘧病にあらずば何を召し捕れん」の「を」が「そ」である以外は、すべて一致するからである。ちなみに、『遊歴雑記』は江戸を中心とした紀行文集。筆者は釈敬順(津田大浄)で、(1812~29・文化9~文政11年)の成立である(註11)。
 境内掲示文の全体を比較すると、武田家の家臣高坂弾正の子であったこと、祖父に伴われ諸国を行脚したこと、宮本武蔵の高弟になったことは、『遊歴雑記』の記述に即している。しかし内容が矛盾するところが一箇所ある。
 境内掲示には「武田家再興をはかり、開府早々の江戸市中の治安を乱した」とある。それにたいして『遊歴雑記』は「悪行にて奪ひし金銀みな此処にて遣ひ捨ぬ」としている。「此処」とは鎌倉河岸(現在の千代田区内神田)にあった「風呂屋女(ふろやてなご)」のことで、「湯女に似て色を売」っていたというから売春宿にほかならない(註12)。
 さきに述べたように、『慶長見聞集』は甚内の処刑を1613年としている。この著作の成立は翌1614年である。直近の事件だから、記述の信憑性はかなり高いとみられる。甚内が盗賊であることは同じだが、その人物像は天地ほどの差がある。
 『慶長見聞集』によれば、甚内は「下総の国向崎」(現在の千葉県香取郡神崎町のことか)の「大盗人」であった。「訴人に出て」、つまり公儀に願い出てその手先となり、関東諸国にたむろする1000人とも2000人ともいわれた盗人狩りの案内役を買って出た(註13)。町奉行所の手先というのは、目明し・岡っ引きのことで、訴人とも呼ばれた(註14)。見方を変えれば、密告者のことある。
 ところが、盗人狩りで捕らえた盗賊どもを問い糺すと「是は向崎が被官、かれは甚内がけんぞく」であるという答えが返ってきた。被官は子分、けんぞく(眷属)は仲間の意味で、甚内が二足の草鞋を履いていることが発覚した。
 とうぜん、黙認するわけにはいかなかった。町奉行所は、甚内を召し捕り、盗人どもへの見せしめに「首につなさし馬にのせ旗をさゝせ、江戸町を引めぐり、浅草原にはりつけにかけ給ふ」云々、ということになった。
 ところで、甚内が瘧の持病があったことに『慶長見聞集』は触れていない。瘧は毎日とか隔日とか、周期的に悪寒と発熱を繰り返す病の総称らしい。江戸時代まではよく発生した記録があり、その主体はマラリアではないかといわれる(註15)。これは逮捕のきっかけになった重要事項だから、もし著者の三浦浄心が見聞きしていれば、書き洩らすはずがない。
 わずかな史料しか見ていないから断定はできないが、「我死て後この水中に魂魄をとゞめ、瘧を病むもの我をいのらばたちまち癒すべし」(『江戸砂子』)とか「我ながく魂魄を留、瘧に悩む人もし我を念ぜば平癒なさしめん」(『遊歴雑記』)という末期の請願は、後世になって創作された伝説ではないかと推察される。

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ph13 甚内神社の近く。瓦葺二階建ての木造住宅。浅草橋3-7。2024.02.21

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ph14 甚内神社の近く。工務店。浅草橋3-11。2024.02.21

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ph15 甚内神社。甚内は江戸初期の盗賊。病治しの神として信仰される。浅草橋3-11-5。2016.10.12

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ph16 甚内神社の近く。木造二階建て民家。現存しない。浅草橋3-9。2016.10.12

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ph17 瓦葺木造二階建ての四軒長屋。浅草橋5-1。016.10.12

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ph18 銭湯鶴の湯。浅草橋5-27-2。2016.10.12

 『遊歴雑記』は甚内神社の由緒を説く前段で、江戸の刑場の変遷をこう書いている。

 その頃は東武御城下も今の如く広き事にはあらざりしにや、南の方の刑罪場は本材木町五丁目、北の方は浅草元鳥越橋の際なりし、その後浅草今戸橋手前東側へ引移、また千住小塚原へ引たり、既に太田道灌翁さくら田在城の頃は、今の本町三丁目刑罪の場所なりし

 「その頃」というのは、甚内が処刑された正保年間(1644~48)のこと。江戸の刑場は南北二カ所に設けられ、南は「本材木町五丁目」(現在の中央区京橋1丁目)、北は「浅草元鳥越橋」(浅草橋3丁目)にあった。「その後」、北の方は鳥越から「浅草今戸橋手前東側」に移転したという。では「その後」というのは、いつなのだろうか。
 鳥越のあたりは、1590(天正18)年に徳川家康が関東に入国すると御用地になるが、1620(元和6)年に浅草御蔵(現在の蔵前1・2丁目)が普請され、1645(正保2)年には矢ノ倉(現在の中央区東日本橋1丁目)の普請が計画された。それにともなう大川端の造成工事のため、鳥越一帯の丘陵は切り崩され、住民は山谷村に移転させられた(註16)。
 ということは、住民ばかりか刑場もまた山谷に移転したにちがいない。いや、おそらくその逆で、刑場の移転と共に、住民も移転させられたのではないだろうか。それにつけていうと、『新編武蔵風土記稿』は、その移転先を「浅草今戸橋手前東側」ではなく、橋手前西側の「聖天町西芳寺の向」(現在の浅草7丁目)としている。たぶん、こちらの方が正しい。『江戸切絵図』をみると、「西芳寺」は山谷堀右岸、聖天橋の袂にある(註17)。
 さらにその後、刑場は浅草今戸から千住小塚原(現在の南千住2丁目)へ移転することになるのだが、そもそも太田道灌が江戸城を拠点にした室町時代には、刑場は一箇所で、その場所は本町3丁目だという。それにたいして『新編武蔵風土記稿』は、本町三丁目ではなく、4丁目としている。
 これもこちらの方が正しいと思われる。というのは『新編武蔵風土記稿』が参考にしたのが他ならぬ『遊歴雑記』で、それに訂正を加えて記事にしているとみられるからである。どちらにしても、現在の日本銀行本店(中央区日本橋本石町2-1-1)のあたりのことで、常盤橋御門の目の前ということになる。
 「東武御城下も今の如く広き事にはあらざりしにや」とある。この引用文に続けて、むかしは「江戸八百八町四里四方」といわれたが、いまや(既述のように『遊歴雑記』の成立は1812~29・文化9~文政12年)、「三千町に余りて凡八九里四方もあらんかし」とも書いている。江戸の刑場は本町から鳥越・今戸・千住というように、旧日光街道(奥州街道)沿って移動している。江戸の都市圏が膨張するにつれ、刑場は江戸城の近辺からその周縁に向かって遠ざけられていったのである。
 鳥越からもとの居住者たちが移転すると、跡地は御家人地・町屋となった。『遊歴雑記』によれば、甚内神社が祀られていたのは、猿屋町の西側で、鳥越川に沿った小出兵庫の屋敷内だった。小出氏は扶持2千百石の御家人で、隣家は阿部伊織だという。これも『江戸切絵図』で確認できる。阿部伊織は代替わりしたのか、「阿部数馬」になっている(註18)。
 「表門の番人へ甚内の宮へ参詣するよしを断て門を入」というから、誰でも自由にお参りできたのである。九尺二間というから小社であるが、「永護霊神」の額が掲げられ、幸坂様または甚内様と表書きした病気平癒を祈る願書が夥しく積まれていた(註19)。

 瘧病一道に願をかくるに、果して平愈し、又瘧にあらずとも一切の願ひを瘧病ぞと、願書にしたゝめ念ずるに必しも治するとかや、願満(ミチ)て後鳥越橋より魚の乾物と酒を河中へ投し礼参りする事とぞ、

 瘧はマラリア性の疾患というよりも、おそらく原因不明の難病の総称だった。願いごとはなにも病気だけに限らなかった。「一切の願いを瘧病ぞ」云々とある。これは、難病からさらに転じて、あれこれの深刻な悩み事の象徴として見立てられたことを意味する。
 願いごとが叶ったときのお礼参りには、魚の乾物と酒を河中に投じるのが習わしになっていた。酒の訓の一つにクシがあるが、クシは薬に関係があるらしい(註20)。では、魚の乾物の由緒はなんだろう。ひょっとすると、こういうことかもしれない。塩は湿気に弱い。そのため、むかしは魚の塩漬けの乾物にして保存した(註21)。いまもむかしも、塩は邪気を清めるために使われる。
 刑場の跡地が御家人地・町屋となれば、新たに住人がやって来て、住居や店舗などを建てる。いまでも土木や建築の工事にさいして、地鎮祭をする風習が根強く残っている。ましてそこが刑場であればなおさらである。目に見えないけれども、処刑された罪人の無念や怨念が渦巻いている。死者のなかでもとりわけ横死した者は、肉体は朽ちても霊魂はこの世に留まり、諸々の災厄をもたらす凶霊魂として恐れられた(註22)。
 この世への執着を断つために、供養をあつく施してやり、すみやかにあの世に旅立ってもらわなければ、そこで暮らす者は落ち着いた気分になれなかった。それが甚内神社を創建する原点だったのではないだろうか。
 「敬して遠ざける」という諺については、連載その32でも触れたことがある(註23)。『慶長見聞集』は甚内を、世間を騒がす盗賊でありながら、二足の草鞋をはき、仲間を密告してなんとも思わない裏切り者に描いている。たぶん、こちらの方が『遊歴雑記』よりも実像に近い。ふつうなら末期の言葉は「我ながく魂魄を留め、禍を諸々もたらし、怨みを晴さん」とあるところだが、「敬して遠ざける」という庶民信仰の処世術にのっとり、「瘧に悩む人もし我を念ぜば平癒なさしめん」というふうに虚構を凝らしたのである。

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ph19 鳥越神社。鳥越一帯の産土神。日本武尊をまつる。鳥越2-4-1。2016.10.12

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ph20 おかず横丁。高岡酒店。鳥越1-1。2024.02.21

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ph21 おかず横丁。入舟屋。鳥越1-4-5。2024.02.21

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ph22 おかず横丁。大佐和茶鋪。鳥越1-10-1

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ph23 おかず横丁。うおよね鮮魚店。鳥越1-6。2024.02.21

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ph24 おかず横丁。規模の大きい店舗だが、営業をやめている。鳥越1-7。2024.02.21

 『遊歴雑記』で見落とせないのはそればかりではない。幸坂甚内は「日本三甚内」の一人だというのである(註24)。あとの二人を庄司甚内と飛沢(鳶沢)甚内という。いずれも同時代に実在した人物である。
庄司甚内は、「剣槍に一流を極め忍術に妙を得」た盗賊だったが、幕府に願い出て、駿府の遊女屋を江戸に移転させるいっぽう、江戸の所々に散在する「風呂屋女」を一箇所にあつめ、日本橋葺屋町の湿地を造成し、吉原遊郭を設立した(註25)。
 庄司甚内(改称して甚右衛門)が幕府に上申した傾城町設立の願書には、「見届けざるもの傾城町へ徘徊仕り候わば、そのものの出所吟味仕り、いよいよ恠(あや)しく存じ奉り候わば、急度口訴申し上ぐべく候事」と書かれているという(註26)。
 もう一人の飛沢甚内もやはり「剣術柔術早業に一流」を極めた盗賊だった。捕縛されると、「大久保彦左衛門忠教が命乞によりて死罪を許され、身持を改み苗字を富沢と替、横目の御用を蒙り古着屋商売に転じた」とされる(註27)。富沢は現在の日本橋富沢町のことで、その開発名主となり、盗賊から古着屋に転向した(註28)。横目は監視とか内偵の意で、奉行所の手先となったのである。(註28)。
 大久保彦左衛門忠教に『三河物語』の著作がある。主君である徳川家累代の功績、大久保家のつくした忠節、加えて自身の業績、子孫への教訓を述べたものである。冒頭に家康の八代前、徳川将軍家の始祖とされる松平親氏のことが出てくる(註29)。
 親氏は新田氏の出自で、南北朝の動乱で足利高氏(尊氏)に追われると、窮余の策から、時宗となった。時宗のなかには陣僧(従軍僧)といって軍陣に相伴し戦場に赴く僧が多かった。彼らは敵味方の区別なく戦死者を弔ったことから、たとえ敵国であっても往来が安全かつ自由だったとされる(註30)。
 親氏は諸国を遍歴したあと、三河国(松平郷)の松平氏に婿入りし、そこで徳川将軍家の基礎となる最初の武士団を結成するのだが、弓矢の術に長けていたばかりだけでなく、慈悲においてもならぶ者がなく、「民百姓乞食非人」にいたるまで、哀れみを加えたというのである。『三河物語』は、親氏に仕えた面々について、こう書いている。

 重罪の御与がを申上申者成を、妻子ともに火水の責に而責戮(せめころ)させらではかなはざる者を、妻子眷属ゆるしおかるゝのみならず、其身が一命迄御ゆるされ賸(あまつさえ)何ものごとく、御前得召被出召つかわさるゝ


 「御与が」はお咎のこと。妻子まで責め殺されて当然の罪人であるにも拘わらず、一命を許すばかりか、家来として召し抱えてくれた。その慈悲に報いるため、「人寄先に(他の人より先に)一命をすてゝ御奉公」することをつねに心掛けていた、というのである。
 折口信夫に「ごろつきの話」の論考がある(註31)。
 ごろつきは、石塊がごろごろしているような生活をしている者の意味で、江戸時代には無宿者・無頼者・無宿渡世などと呼ばれた。
 また「武士」の文字は宛て字で、「ぶし」の語源は、野ぶし・山ぶしではないかとも述べている。野ぶし・山ぶしは、山野に止宿し仏道修行する民間宗教者のことである。ごろつきはその落伍者で、窃盗や強盗を専門職とし、「すり・らっぱ・すっぱ」とも呼ばれた。
 大名や華族の身元をたどると、このごろつきから出世した者が少なくない。その出世頭ともいうべき存在が徳川将軍家であり、「上州徳川の所領を失うたといふ徳阿弥父子が、三河の山間松平に入り婿となる迄の間は、遊行派(時宗)の念仏聖として、諸方を流離した」というのである。
 「戦国時代に出世の機会はいくらもあった」。しかし、ごろつきの大多数は盗賊稼業から足を洗えなかった。「此機会をとり逃がし、それより遅れたものは、遂に徳川三百年を失意に送らねばならなかつた」とも折口は書いている。
 徳阿弥が慈悲をもって「民百姓乞食非人」まで召し抱えたことは、身分の貴賤を問わず平等に接するという意味で、これは時宗の開祖一遍上人を彷彿させる(註32)。徳阿弥の主従は、儒教的な武士道ではなく、仏教思想でいう慈悲の精神で結束していた。大久保彦左衛門忠教はこの逸話を過ぎ去りし世の憧憬として描いている。裏をかえせば、それに比べ、江戸開府以降の徳川将軍家の治世は無慈悲で人情に欠けると暗黙裡に批判しているのである。
 「日本の三甚内」のうち、幸坂(高坂)甚内は一命を許されることなく磔にされた。しかし、刑場の露と消えたあと、やがて江戸庶民の悩み事に耳を傾けてくれる救い主として、この世に蘇ったのである。そんなことはありえない。しかし、現実の世界ではそうであっても、幻想の世界ではありえるのである。
 大久保彦左衛門は天下のご意見番として巷間もてはやされた(註33)。私が大久保彦左衛門の名前を知ったのは、東映時代劇の『一心太助』で、まだ小学生だった。彦左衛門を演じたのは月形龍之介、魚屋の太助は中村錦之助である。
 慈悲という言葉を辞書で引くと、慈は人々に楽を与えること、悲は人々の苦を抜くことであるという(註34)。大久保彦左衛門の死後、この三河以来の旧臣を天下のご意見番に祭りあげたのも、幸坂甚内が刑死したあと、ごろつきという嫌われ者から一転して、病直しの救世主に生まれ変わせたのも、幕府に不満をかこつ下級武士や町民たちの想像力ではなかったかと思われるのである。

【註】
註1 『日本の特殊部落』「第五章 第二節 浅草弾左衛門』(菊池山哉、東京史談会、1961)。 『デジタル版 新修港区史』港区-デジタル版 港区のあゆみ:新修港区史 (adeac.jp)
註2 『新訂 江戸名所図会 5』「巻之六 鳥越の里/鳥越神社」(市古夏生・鈴木健一校訂、ちくま学芸文庫 、1997)
註3 『精選版 日本国語大辞典』「廻国雑記」(小学館)及び『改訂新版 世界大百科事典』「廻国雑記」(平凡社)。なお、『廻国雑記』は『続群書類従第十八輯』(続群書類従完成会、 1959)に収録されている。
註4 『日本歴史地名大系13 東京の地名』「台東区 浅草旅籠町一丁目」(平凡社、2002)。『江戸切絵図』「東都浅草絵図」(尾張屋板、嘉永6・1853年、国会図書館デジタルコレクション)。〔江戸切絵図〕 浅草御蔵前辺図 - 国立国会図書館デジタルコレクション (ndl.go.jp)。『日本の特殊部落』「第五章 第二節 浅草弾左衛門』(菊池山哉、東京史談会、1961)。
註5 『精選版 日本国語大辞典』「旅籠」(小学館)。『塩の道』(宮本常一、講談社学術文庫、1985)
註6 『日本歴史地名大系13 東京の地名』「台東区 下谷小島町」(平凡社)
註7 台東区教育委員会による甚内神社の境内掲示
註8 『江戸砂子』(菊岡沾涼、1732・享保17年)。『慶長見聞集』(三浦浄心、1614・慶長19年)。『遊歴雑記』(釈敬順、1812~1831・文化9~文政12年)。以上、『精選版 日本国語大辞典』、『国立公文書館デジタルアーカイブ』などによる。
註9 『慶長見聞集』「関八州盗人狩りの事」(三浦浄心、『雑史集』所収、国民文庫刊行会 編、1912)。雑史集 - 国立国会図書館デジタルコレクション (ndl.go.jp)。慶長見聞集/巻之七 - Wikisource
註10 『十方庵遊歴雑記 第三編』「参拾弐 幸坂甚内の宮例祭縁」(釈敬順、『江戸叢書 巻の五』所収、江戸叢書刊行会、1916)「十方庵遊歴雑記||江戸雀 : 前編. 初巻-6巻目 - 次世代デジタルライブラリー (ndl.go.jp)
註11 『十方庵遊歴雑記 第三編』「参拾弐 幸坂甚内の宮例祭縁」。『遊歴雑記』の書誌情報については「国立公文書館デジタルアーカイブなど」による。
註12  『十方庵遊歴雑記 第三編』「参拾弐 幸坂甚内の宮例祭縁」
註13 『慶長見聞集』「関八州盗人狩りの事」
註14 『精選版 日本国語大辞典』「訴人」(小学館)
註15 『精選版 日本国語大辞典』「瘧」
註16 『改訂新版 世界大百科事典』「浅草御蔵」(平凡社)。『日本歴史地名大系13 東京の地名』「台東区 浅草元鳥越町」(平凡社)
註17 『大日本地誌大系⑦新編武蔵風土記稿 第一巻』「巻之十九豊島郡之十一 刑罪場」(蘆田伊人校訂・根本誠二補訂、雄山閣、1996)。『江戸切絵図』「東都浅草絵図」(尾張屋板、嘉永6・1853年)。〔江戸切絵図〕 浅草御蔵前辺図 - 国立国会図書館デジタルコレクション (ndl.go.jp)
註18 『日本歴史地名大系13 東京の地名』「台東区 浅草元鳥越町」。『江戸切絵図』「東都浅草絵図」。
註19 『十方庵遊歴雑記 第三編』「参拾弐 幸坂甚内の宮例祭縁」
註20 『精選版 日本国語大辞典』「酒」
註21 『高取正男著作集4』「Ⅱ暮らしの中の中世と現代/生活の知恵 無塩」(法蔵館、1982)
註22 『葬と供養』「Ⅰ葬法論―凶霊魂と鎮魂/一 はじめに」(五来重、東方出版、1992)
註23 その32 イノシシ—野菜畑の歓迎されない訪問客 平嶋彰彦のエッセイ「東京ラビリンス」のあとさき その32 : ギャラリー  ときの忘れもの
註24 『十方庵遊歴雑記 第三編』「参拾弐 幸坂甚内の宮例祭縁」
註25 同上
註26 『徳川制度(中)』「吉原の遊郭 吉原の起源」(加藤貴校注、岩波文庫、2015)
註27 『十方庵遊歴雑記 第三編』「参拾弐 幸坂甚内の宮例祭縁」
註28 『日本歴史地名大系13 東京の地名』「中央区 富沢町」
註29 『三河物語』(斎木一馬, 岡山泰四 校注、『日本思想体系26』所収、岩波書店、1974)。三河物語 - Wikisource
註30 『世界大百科事典(旧版)』「時宗」「従軍僧」「遊行」(平凡社)など
註31 『ごろつきの話』(『折口信夫全集第三巻』所収、中公文庫、1975)
註32 『一遍聖』「第五章 政権の所在地鎌倉と京 尾張国甚目寺で」(大橋俊雄、講談社学術文庫、2001)
註33 『世界大百科事典(旧版)』「大久保彦左衛門」、「三河物語」(平凡社)
註34 『改訂新版 世界大百科事典』「慈悲」(横山紘一、平凡社)

(ひらしま あきひこ)

平嶋彰彦のエッセイ 「東京ラビリンス」のあとさき は隔月・奇数月14日に更新します。
次回は2025年1月14日です。

平嶋彰彦 HIRASHIMA Akihiko
1946年、千葉県館山市に生まれる。1965年、早稲田大学政治経済学部入学、写真部に所属。1969年、毎日新聞社入社、西部本社写真課に配属となる。1974年、東京本社出版写真部に転属し、主に『毎日グラフ』『サンデー毎日』『エコノミスト』など週刊誌の写真取材を担当。1986年、『昭和二十年東京地図』(文・西井一夫、写真・平嶋彰彦、筑摩書房)、翌1987年、『続・昭和二十年東京地図』刊行。1988年、右2書の掲載写真により世田谷美術館にて「平嶋彰彦写真展たたずむ町」。(作品は同美術館の所蔵となり、その後「ウナセラ・ディ・トーキョー」展(2005)および「東京スケイプinto the City」展(2018)に作者の一人として出品される)。1996年、出版制作部に転属。1999年、ビジュアル編集室に転属。2003年、『町の履歴書 神田を歩く』(文・森まゆみ、写真・平嶋彰彦、毎日新聞社)刊行。編集を担当した著書に『宮本常一 写真・日記集成』(宮本常一、上下巻別巻1、2005)。同書の制作行為に対して「第17回写真の会賞」(2005)。そのほかに、『パレスサイドビル物語』(毎日ビルディング編、2006)、『グレートジャーニー全記録』(上下巻、関野吉晴、2006)、『1960年代の東京 路面電車が走る水の都の記憶』(池田信、2008)、『宮本常一が撮った昭和の情景』(宮本常一、上下巻、2009)がある。2009年、毎日新聞社を退社。それ以降に編集した著書として『宮本常一日記 青春篇』(田村善次郎編、2012)、『桑原甲子雄写真集 私的昭和史』(上下巻、2013)。2011年、早稲田大学写真部時代の知人たちと「街歩きの会」をつくり、月一回のペースで都内各地をめぐり写真を撮り続ける。2020年6月で100回を数える。
2020年11月ときの忘れもので「平嶋彰彦写真展 — 東京ラビリンス」を開催。

●本日のお勧め作品は平嶋彰彦です。
tokyo_labyrinth_1平嶋彰彦ポートフォリオ『東京ラビリンス』
オリジナルプリント15点組
各作品に限定番号と作者自筆サイン入り
作者: 平嶋彰彦
監修: 大竹昭子
撮影: 1985年9月~1986年2月
制作: 2020年
プリント: 銀遊堂・比田井一良
技法: ゼラチンシルバープリント
用紙: バライタ紙
シートサイズ: 25.4×30.2cm
限定: 10部
発行日: 2020年10月30日
発行: ときの忘れもの
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●ときの忘れものの建築空間についてはWEBマガジン<コラージ2017年12月号18~24頁>に特集されています。
photo (9)〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS ときの忘れもの
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531 
E-mail:info@tokinowasuremono.com 
http://www.tokinowasuremono.com/
営業時間=火曜~土曜の平日11時~19時。日・月・祝日は休廊。
JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。