梅津元「瑛九-フォト・デッサンの射程」

第15回「True Faith -第33回瑛九展・湯浅コレクション(その8)」

梅津 元


 True Faith-まさかのニュー・オーダー来日!3回にわたるスピン・オフの渦中に、横須賀美術館において瑛九の個展「瑛九-まなざしのその先に-」が開催され、願ってもないその幸運を、心ゆくまで堪能した。そして、その余韻も醒めやらぬうちに、今度は、なんと、8年振りのニュー・オーダーの来日がアナウンスされたのだ。驚きと、喜びと、不思議な気持ちで、そのニュースを聞いた。前回、瑛九についての連載なのだから、瑛九にまつわる出来事に触れないのは不自然ではという思いから、その時々の思いを綴っていると書いたのだが、今回、同じことがニュー・オーダーについても起きている。
 瑛九展が開催され、ニュー・オーダーの来日公演が実現する、まるで、この連載を現実の出来事が追いかけているようで、にわかには信じがたい、これは本当に現実なのだろうか、全ては幻なのではないか……。その不思議な気持ちは、いつしか、横須賀美術館の瑛九展のタイトルを、ニュー・オーダーの来日公演の呼び名へと変容させている。その呼び名とは、「ニュー・オーダー|まぼろしのその先に」、そんな夢想をもたらすほどの幻惑的な感覚が、この曲を呼び寄せているのだろうか、そう、「True Faith」。

瑛九へのオマージュ展

 浦和の柳沢画廊で開催されている「瑛九へのオマージュ展」(11月8日~11月24日)の会場を訪れたところ、驚くべき出会いが待ち受けていた。なんと、1935年のデッサンが展示されていたのである。目録には、《愛のデッサンシリーズ No.16》(1935年)と記載されている。赤と黒のペンを用いたこのタイプは、瑛九と名乗る前の杉田秀夫(以下、秀夫)が、教師として宮崎に赴任してきた山田光春(以下、光春)と交流を深めた、1934年から1936年の間に描いた、極めて貴重な作例である。
 宮崎の地で意気投合した二人は、互いに影響を与え合い、1934年12月下旬から翌年初めにかけて、鹿児島の指宿へと写生旅行に出かける。その際に持参したものと思われるスケッチブックが現存しているのだが、そのスケッチブックには、このデッサンと同じタイプのデッサンも描かれていたと記憶している。この時期の二人のデッサンには、極めて近似しているものもあり、一方から他方への影響というよりも、時と場所を同じくして、同じ課題に向き合った二人が、近しい感覚の作品を生み出したとみるべきだろう。

 参考に、この《愛のデッサンシリーズ No.16》(1935年)と近い作風のデッサンを紹介しておこう。この3点のペンデッサンは、は、宮崎県立美術館に所蔵されている貴重な作例であり、いずれも、1935年頃に描かれている(fig.1、fig.2、fig.3)。共通する赤いインクと黒いインクによる細い線が印象的である。これらのデッサンと同じく、90年近く前に描かれた、瑛九と名乗る前の秀夫が描いた極めて貴重なデッサンが、今、目の前に展示されていることに大きな驚きと喜びを感じ、その感触を、長く深く噛み締めた。

乙女のあこがれ
fig.1:乙女のあこがれ 1935年頃 宮崎県立美術館蔵

3人
fig.2:3人 1935年頃 宮崎県立美術館蔵

少女
fig.3:少女 1935年頃 宮崎県立美術館蔵

 同展は、この連載でも紹介している「瑛九アトリエを生かす会」のメンバーが中心となって企画したものである。展示は3部構成となっており、このデッサンは、[I. 近くに住んでいた「瑛九さん」]というセクションに展示されていた。この名称が示すように、このデッサンも、瑛九の近くに住んでいた方が保管していたものと聞いた。瑛九のアトリエ、私にとっての「ミーニョとヒーチョの家」は、残念ながら解体されてしまったが、「瑛九アトリエを生かす会」の活動によって、近隣住民の手元に保管されていた瑛九の作品が救出され、日の目を見ることになったことは、その活動の大きな成果である。

杉田秀夫と山田光春

 秀夫は、1936年に、瑛九の名前でフォト・デッサン集『眠りの理由』を発表し、光春は1937年の自由美術家協会展にガラス絵《門》を出品して協会賞を受賞する。二人が出会った1930年代中頃は、それぞれが美術家として新たな方向を模索し、新しい技法を開拓してゆく重要な時期にあたる。光春は驚嘆すべき書物『瑛九 評伝と作品』(青龍洞、1976年)の著者として知られているが、画家としての業績の検証は、まだその途上にある。
 瑛九との関係で言えば、作品や資料を検証する前に、光春が瑛九から影響を受けたという図式が前提とされやすい。この点は大いに反省し、先入観なく、秀夫と光春の作品や資料を調査し、それぞれの作品の成立の様相と、二人の間で交わされた芸術上の交流を、丁寧に検証しなければならない。例えば、ガラスに油彩で描画を重ね、ガラスを裏返して、描画が施された面とは逆の面から見るガラス絵では、層の重なり方と見え方が一般的な絵画とは逆の関係になるが、この特徴は、瑛九において、層やレイヤーを意識的に活用する技法を開拓する際に、重要な意味を持っている。

 光春が宮崎から愛知県刈谷市に移ってからも、光春は度々訪ねてきた瑛九にガラス絵の制作を励まされたと記しており、二人の密接な交流が、しばらくは継続した。瑛九は『眠りの理由』でデビューを飾り、フォト・デッサンが大きな注目を集めている時期に、第1回自由美術家協会展(1937年)にコラージュを出品する。光春が同展に出品したガラス絵《門》は協会賞を受賞する。同展に、絵画でもフォト・デッサンでもなくコラージュを出品した瑛九と、一般的な絵画と異なる技法であるガラス絵を出品した光春は、同志的共感を携え、互いを鼓舞し、新しい芸術表現の開拓に取り組んでいた。

指宿への写生旅行

 「瑛九へのオマージュ展」に出品されていた1935年のデッサンを見ることができたことは、今回の執筆にとって、重要な意味を持っている。まず、このデッサンが、瑛九という名前が生まれる前に秀夫が描いたものであること。次に、このデッサンが、光春と秀夫の深い交流の中から生まれたものであること。そして、このふたつのことが理由となり、改めて、光春による瑛九の評伝を、特に光春と秀夫の出会いから瑛九の誕生までを、読み直し、これまで見逃していた、ある重要な記述を見つけたことである。まず、二人の交流を示す指宿行きの経緯と、その時間が秀夫にとっていかに重要であったかを示す光春の記述を引用する。文中、「彼」は秀夫であり、「その年」は1934年である。

「ぼくが彼を誘って指宿へ写生旅行に出かけたのは、その年の冬休みに入ってからであった。九州の南端まで行って見たいとのぼくの希いに、彼が重い腰を上げて同調することになったのは、彼のきょうだいたちが口を揃えて同行をすすめたからで、そこには、奇行の重なったこの年の暮れを静かな旅先の温泉町で過ごさせることが、彼の精神衛生上に好ましい結果をもたらすであろうとの肉身の思いがこめられていたものと思われる。」
(出典:山田光春『瑛九 評伝と作品』青龍洞、1976年、99頁。以下、同じ出典からの引用をは、掲載頁数のみで示した。)

「われわれの借りた湯治客用の部屋を出て松林を抜けたところに有名な砂場があった。三度の食事を自炊ですましてスケッチに出るのがそれからの毎日で、辺りの風景は平凡であったが、海岸に添って少し南へ行った所の崖寄りにコンクリートで築いた一角があって、そこの階段や橋のある構造が面白かったので、ぼくらはそこを「別荘」と名づけて何度もスケッチに出かけた。そして夜になると、彼はその頃さかんに描くようになっていた黒インキによるペンデッサンを描いた。波の音を聞きながら、細いペンの先から生まれるオートマチックな線に超現実的なイメージを托そうとしていた深夜の彼の姿は、悪戯描きに夢中になっている幼児のようでもあり、祈る聖者のようでもあった。」(100頁)

 詳細は省略するが、その後、二人は指宿を離れ、秀夫だけが再び指宿に向かった。そこで秀夫は、時折訪ねてくる姉や妹と過ごす時間を除けば、ほぼ一ヶ月を、デッサンとの、絵画との、激しく深い格闘に費やした。その期間、絶え間なく送られてきた多数の手紙の内容と、宮崎に戻る旨の手紙を受け取って秀夫を出迎えた時の出来事を記した後、光春は、秀夫の指宿での一ヶ月を、次のように書いている。

「彼は、こうした手紙を受けとって迎えに行ったぼくと、二月四日に宮崎に帰って来た。その時鹿児島で黒ビールを飲んだかどうかは憶えていないけれども、六十号の何点かの油絵を含む大きな荷物をかついできたことははっきりと記憶している。その中にあった多くのデッサンや油絵作品が彼のその後の活動を展開する上の基盤となったことはいうまでもなく、ぼくは、彼が指宿でただひとり孤独な生活の中で自己の進むべき道を探求したこの時のほぼ一か月間を、彼の芸術形成の上での、大へんに重要な期間であったとみている。」(106頁)

 最初の引用に「奇行」とあるように、秀夫は精神的に不安定な時期を過ごしており、光春が宮崎にやってきて、芸術上の交流を深める相手を見つけたことにより、その精神的な危機を独自の芸術形成へと昇華させる手がかりを掴んだように思われる。光春は教師であったため、二人の日常的な交流は週末ということになるのだが、文中にある通り、光春の冬休みという期間を利用して、二人は指宿への写生旅行を敢行したのである。
 二番目の引用には、黒インキによる細い線のペンデッサンのことが書かれている。赤インキも使われている細い線のペンデッサンは、おそらく、これに続いて描かれるようになったものと推測される。ともに貴重な時間を過ごした光春が記す、「波の音を聞きながら、細いペンの先から生まれるオートマチックな線に超現実的なイメージを托そうとしていた深夜の彼の姿は、悪戯描きに夢中になっている幼児のようでもあり、祈る聖者のようでもあった。」という表現は、極めて貴重であり、説得力に満ちている。

 そして、三番目の引用は、その後に果たされることになる、杉田秀夫から瑛九へという芸術上の展開を把握する上で、「指宿でただひとり孤独な生活の中で自己の進むべき道を探求したこの時のほぼ一か月間」が、いかに重要であったかを正確に記している。旅の途中まで、ともに行動し、ともに写生し、ともにスケッチブックに多数のデッサンを描いた光春にしか書けない迫真の記述である。このように、秀夫の芸術形成の過程において極めて重要な期間に描かれたペンデッサンが、描かれてから90年近くを経て、浦和の地で救出され、展示されたことは、ささやかながら、奇跡的な出来事といえるだろう。

フォト・デッサンと玩具

 前項において、「改めて、光春による瑛九の評伝を、特に光春と秀夫の出会いから瑛九の誕生までを、読み直すことによって、これまで見逃していた、ある重要な記述を見つけた」と書いた、その重要な記述をここで示したい(「長谷川宅」は長谷川三郎の自宅)。

「その頃京都西陣から東京に出る度に長谷川宅に寄ることを習わしとしていた龍村健は、よく長谷川や瑛九と博物館に行って土偶や土器、埴輪などを見ながら、日本美術史を書き改めなければならぬなどと話し合い、夜店の並ぶ銀座で、瑛九がフォト・デッサン用にと玩具のこわれなどを拾うのに協力して、三人が柳の根元をのぞきこみながら歩いたこともあったと語っている。」(127頁)

 光春の『瑛九 評伝と作品』は、何度も読んでいるけれど、その圧倒的な情報量のすべてを、同じ程度で受容できているわけではないことに、改めて、気づかされる。例えば、「長谷川や瑛九と博物館に行って土偶や土器、埴輪などを見ながら、日本美術史を書き改めなければならぬなどと話し合い」という記述は、瑛九における日本美術史への意識のあり方という大きな論点と関わるエピソードとして、印象に残りやすい。
 それに対して、「夜店の並ぶ銀座で、瑛九がフォト・デッサン用にと玩具のこわれなどを拾うのに協力して、三人が柳の根元をのぞきこみながら歩いたこともあった」という記述は、ささやかなトピックとして読まれた途端に意識からこぼれてしまうのだろう。これほど重要な事実が記述されているにも関わらず、これまで、この箇所を意識したことはなく、今回、この記述と初めて出会ったような気持ちで読んだのだから。

 この夜店のくだり、「瑛九がフォト・デッサン用にと玩具のこわれなどを拾う」という記述が、なぜ、重要な意味を持つのか、その点について、詳しくは、前々回の第13回をお読みいただきたい。この第13回では、掲載したフォト・デッサン(第13回の fig.4 , fig.9, fig.10)に、「はずみ車」という玩具が用いられていることを指摘した。なおかつ、その「はずみ車」という玩具は、車輪と人を組み合わせた形であるため、これをフォト・デッサンに用いると、印画紙の上に「人の形」が出現する。
 ここで、その2点と関連作品1点を、改めて示しておく。fig.4 と fig.5 は、『カメラアート』1936年6月号に瑛九が寄稿した「感光材料への再認識」に掲載されている。(誌面にキャプションの掲載がないためfig.番号のみ記載した。)fig.6 は、fig.5 と同じ構図のフォト・デッサンであり、天地が逆転しているため、右下の「はずみ車」の方向がfig.4 とほぼ同じになるため、同じモチーフが用いられたことがよりわかりやすい。

fig.9
fig.4

fig.4
fig.5

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fig.6:《作品(26)》 制作年不詳 埼玉県立近代美術館蔵

 ここで、瑛九のフォト・デッサン全体に関わる極めて重要な論点を再度示すならば、次の事実をまず、指摘すべきだろう。瑛九のフォト・デッサンに出現する「人の形」は、そのすべてが、瑛九自身が準備した「人の形の型紙」に由来するわけではない。まず、平面的なモチーフとしては、コラージュに見られるように、フォト・デッサンにおいても、写真や印刷物を切り抜くなどして得られた「人の形」や「身体の部分」などが、用いられている可能性があるのだ。
 さらに、「人の形」を成している、何らかの3次元の物体がフォト・デッサンに用いられていることを、見逃してはならない。第13回では、具体的に「はずみ車」という玩具が用いられていることを指摘したが、今回は、光春の記述から、瑛九が「玩具のこわれ」などをフォト・デッサン用に探していたことがはっきりした。3次元の物体の場合、平面的な型紙とは異なり、立体的な形状の特徴が印画紙に定着される。この連載では、型紙以外の「人の形」を示す何らかの物体-人形や玩具など-は、瑛九の身近にあったものと推測してきたが、それに加えて、自ら材料を探していたことも、明らかとなった。

フォト・デッサンとゲシュタルト

 ここで、前回は紹介にとどまってしまった、湯浅コレクションのフォト・デッサンを、改めて見てみよう。見れば見るほど、魅力的な作品である。実は、前回、作品の紹介にとどめざるを得なかった理由がある。この作品を含め、この連載に向けて、湯浅コレクションのフォト・デッサンを集中的に調査した時と、前回、具体的な執筆の対象として、この作品を取り上げようとした時とで、作品の印象が、大きく変わってしまったのである。
 このようなことは、一般論として、起こり得ることであるが、瑛九の作品、特にフォト・デッサンにおいては、度々起こり、しかも、作品の印象の差が、かなり大きい点が、一般論にはおさまらない特徴なのではないかと感じている。その理由は、ゲシュタルト的な認知では作品の全貌を把握できず、用いられている材料や技法に由来するディテールの効果を見極めることと、完成した作品が結果として生み出している複雑な空間を把握することが、どちらも、かなり難易度が高いことに由来する。

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fig.7:《題不詳》 制
作年不詳

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fig.8:《作品(74)》 制作年不詳 埼玉県立近代美術館蔵

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fig.9:《(女)》 1951-1952年

 まず、fig.7 について、より具体的に見てみよう。まず、ゲシュタルト的な認知、すなわち、作品全体を、その形状において把握する際に、視覚がどのように働いているかに注目すると、当初の印象とは全く異なる把握がなされたことを書くべきだろう。当初、湯浅コレクションのフォト・デッサンを集中的に調査した際、この作品の基本的な形状は、抽象的なイメージとして把握された。すなわち、矩形の画面に内包される円形、背景に見える網目状の形、白と黒の切り返すような形、そこに見られるパンチ穴が連続する効果、などである。
 ところが、前回の執筆の途中、突然、画面内の円形の内側に、二人の人物が重なるような様子が、見えてきた。感覚的には、右側が男性、左側が女性、という印象である。一度、人の形が見えてくると、それまで、どうしてそのように見えていなかったのだろうかと、不思議でならない。俗な言い方をすれば、ロールシャッハテストや心理テストで見かけるような、異なるパターンのゲシュタルト的認知が可能な形状なのである。

 さらに、この作品に魅力的な空間を出現させているのが、円形のモチーフに見られる、浮き上がったような感覚である。左下から右上に向かう方向で光が放たれたのではないかと想像することができるように、少しの厚み、空間の奥行きを湛えて、黒い円形のパーツの影が、二重写しのように、定着されている。奥行きといっても、いわゆる遠近法的なパースが生じているわけではなく、黒いパーツとその影の間に、厚みのある透明なガラスが差し込まれているような、画面全体に等質な深さや厚みを感じるような印象である。
 そして最後に、背景に見える網状の形状と、画面全体に見られるパンチ穴の効果が注目される。矩形の画面全体に広がり、緩やかな規則性を感じさせる網目に対して、型紙に由来する白い形をなぞるようにも見えるパンチ穴の配置は、円形と人の形という、強いゲシュタルトをもたらす構図を、その内側から瓦解させるように、リズミカルな面的な把握を促す。つまり、抽象的な視覚のリズム、反復的な効果を、見るものにもたらし、その全体的な、極めて複雑な構成により、幻惑的で魅力的な空間が出現するのである。

フォト・デッサンとレイヤー

 ここで、fig.7 の参考作品として、fig.8 を見てみよう。私自身の見解では、この作品の制作年代はかなり古く、1930年代、それも、場合によっては、『眠りの理由』よりも前に遡る可能性もあると考えている。ここではその点には立ち入らない。この作品が、fig.7 と関連している点を示すことが、ここでこの作品を紹介する目的である。うっすらとしか見えないため、確認いただけるかわからないのだが、この作品の画面全体に、網目状の形状が映りこんでいるのである。
 画面の右上から右下にかけてが、比較的見えやすいため、じっくりと見ていただきたい。右上の角が三角形に見えるように、この網目状の形は、画面に対して、右が下がるように、斜めに配置されている。そして、その網目の形状や、少しブレたような紐状の部分の輪郭や、その紐状の部分が交差する箇所など、細部を注意深く観察するならば、次のことがわかってくる。このfig.8 の背景にうっすらと映り込んでいる網目状の形が、fig.7 に見られる網目状の形と、おそらくは、同じモチーフに由来するものであると。

 このような発見は、瑛九のフォト・デッサンを見る楽しみのひとつでもある。同じ素材や型紙が使われていることを見つけることだけでも楽しいが、同じモチーフが用いられている複数の作品を比較し、それぞれの作品の成り立ちに、そのモチーフが果たしている役割を探ることで、その楽しさは何倍にもなる。このようなことが起こりうるのは、瑛九のフォト・デッサンが、層やレイヤーを駆使した表現を、相当なレベルまで開拓していることに由来する。今回の論述の前半において、光春のガラス絵について、そして、ガラス絵が瑛九に与えた影響について言及したのは、その影響が、フォト・デッサンにおけるレイヤー表現の活性化に反映していると思われるからである。
 fig.7 について論じたように、この作品の空間を把握しようとすると、型紙とその影のような関係から、厚みのあるガラスがその間に差し込まれているような感覚がもたらされる。この感覚こそ、まさに、深いところで、ガラス絵と通底しているように思われる。そして、その感覚は、例えば、fig.9 のように、型紙に由来する形が基調をなすフォト・デッサンにおいても、型紙の輪郭の出現の様相に、反映している。このような局面を含めて、fig.9 については、次回、具体的に考察してみたい。

 1963-まさかのニュー・オーダー来日の一報に触れて、ほとんど考えることなく、瞬間的に、「True Faith」がやってきた。「True Faith」は、1987年に発売されたニュー・オーダーのベスト・アルバム『SUBSTANCE』に先行する形で、シングルとしてリリースされた(『SUBSTANCE』にも収録されている)。ファンの間ではよく知られたエピソードである、歌詞をめぐる経緯もありながら、よく出来たプロモーション・ビデオと共に、強く印象に残る、ニュー・オーダーを代表するヒット曲のひとつとなった。その、シングルとしてリリースされた「True Faith」のカップリング曲が「1963」である。
 個人的に、ニュー・オーダーの中で最も切ない楽曲なのではないかと思うほど好きな曲なので、この連載が始まってからも、「1963」は大事に温存していた。しかし、何も考えないままに「True Faith」が登場し、その流れで、カップリング曲である「1963」が、ここで、満を持して、出番を迎える。世界的に有名な人物が曲のモチーフとなっているが、そのことは、ほとんど意識したことがない。それよりも、この連載が始まってからは、この「1963」という年代が、ある意味を持ち始めている。
 瑛九は1960年に亡くなっている。私は1966年に生まれている。瑛九の命があと3年と少し長らえ、私があと3年と少し早くこの世に生まれていたら、瑛九と私が、この世界において、同時に生きている時間が、ほんのわずかでも、あったのではないか。ニュー・オーダーの名曲中の名曲である「1963」を聴くとき、いつからか、ふと、そんなことを思うようになっているのである。その思いには、もしかしたら、私の誕生日が、瑛九と同じ4月28日であるということも、反映しているのかもしれない。

(うめづ げん)

図版出典
fig.1, fig.2, fig.3:『魂の叙事詩 瑛九展』宮崎県立美術館、1996年
fig.4, fig.5:『カメラアート』1936年6月号
fig.6, fig.8:『光の化石』埼玉県立近代美術館、1997年
fig.7, fig.9:「第33回瑛九展・湯浅コレクション」より


梅津 元
1966年神奈川県生まれ。1991年多摩美術大学大学院美術研究科修了。専門は芸術学。美術、写真、映像、音楽に関わる批評やキュレーションを中心に領域横断的な活動を展開。主なキュレーション:「DE/construct: Updating Modernism」NADiff modern & SuperDeluxe(2014)、「トランス/リアル-非実体的美術の可能性」ギャラリーαM(2016-17)など。1991年から2021年まで埼玉県立近代美術館学芸員 。同館における主な企画(共同企画を含む):「1970年-物質と知覚 もの派と根源を問う作家たち」(1995)、「ドナルド・ジャッド 1960-1991」(1999)、「プラスチックの時代|美術とデザイン」(2000)、「アーティスト・プロジェクト:関根伸夫《位相-大地》が生まれるまで」(2005)、「生誕100年記念 瑛九展」(2011)、「版画の景色-現代版画センターの軌跡」(2018)、「DECODE/出来事と記録-ポスト工業化社会の美術」(2019)など。

・梅津元のエッセイ「瑛九-フォト・デッサンの射程」は毎月24日更新、次回は2024年12月24日です。どうぞお楽しみに。

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〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS
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