梅津元「瑛九-フォト・デッサンの射程」

第22回「We are here to stay-第33回瑛九展・湯浅コレクション(その15)」

梅津 元

 We are here to stay、私たちはまだここにいる、そんなフレーズが私をとらえる、「Here to Stay」の一節だ。「Here to Stay」は、2001年、アルバム「Get Ready」によって奇跡の復活を遂げたニュー・オーダーが、その翌年、2002年にリリースしたシングル曲である。映画「24 Hour Party People」の中で流れるこの曲に、鳥肌が立つほど感動したファンがどれほどいたことだろう。ニュー・オーダーとケミカル・ブラザースが共同プロデュースした曲としても話題となった名曲である。今回、この曲が前のめりに訪れた理由はわかっている。連載の終了が近づき、最終回で取り上げる作品の調査のために、宮崎を訪れたからである。
 哀愁を帯びた疾走感のあるダンス・ビートと硬質なサウンドは、往年のニュー・オーダーを彷彿とさせるもので、ファンには感涙ものに違いない。この曲が最終回にやってくるのではないかという予感もあったが、宮崎訪問を経てこの曲が舞い込んできたのなら、その流れに身を任せるしかない。切なさ、愛おしさ、狂おしさ、としか言いようのない、この曲のメロディーと歌詞が醸し出す世界を、いま、私が、切実に欲しているということも、囁くような小さな声で、そっと呟きながら。

宮崎の光

 のっけから好き勝手なことを書くことになるが、「Here to Stay」は、ジョイ・ディヴィジョンのボーカル、イアン・カーティスに捧げられた曲なのだと感じる。「He’ll drive you away, he’ll drive you insane. But then he’ll remove all of your pain.」と歌われる、その歌詞における「he」とは、イアンのことなのではないか。そうでなければ、この曲が、これほどまでに切なく、愛おしく、狂おしく響いてくることの説明がつかないではないか。正解はない、ファンの意見もそれぞれだ、それでいい。
 ここで唐突に飛躍するが、この「He’ll drive you away, he’ll drive you insane. But then he’ll remove all of your pain.」の前のフレーズ、「Like a bright light on the horizon. Shining so bright, he’ll get you flying.」における「he」とは、瑛九のことなのではないかと、感じてしまう。この歌詞における「地平線の明るい光」というフレーズから、山田光春(以下、光春)が《田園》や《田園B》に見出した、太陽の光が降り注ぐ宮崎の風景を、思い起こしてしまう。光春が瑛九の評伝に書き記した言葉に耳を傾けてみよう。(《田園》は第3回に掲載:fig.21、《田園B》は第4回に掲載:fig.16。)

 「こうして描き始めたのが、「田園」、「田園B」と後に名づけられる田園シリーズであって、彼はそこに燦々と照り輝く太陽の下の宮崎風景であり、同時に彼の心の奥に拡っていた心象風景を描き出していったのである。かつて彼は田園交響楽を繰り返し聴いた時、それを、耳はきこえなくなり、借金に苦しめられて人々から嘲笑される中で、それゆえにこそねがった天上的な音楽、悲痛な悩みを通して歓喜に至った音楽であると言った。(中略)ぼくはそこに、彼がかつて号泣しながら見た宮崎の茫洋として厳粛な風景を見たし、またある夏の夕べに大淀河畔にあるホテルの屋上から宮崎平野の彼方に沈む夕日を見た時には、その情景、雰囲気があまりにも、そのすぐ近くの宮崎県立図書館のロビーに飾られている「田園B」のかもし出すものに似ているのに驚いたことがある。」

(出典:山田光春『瑛九 評伝と作品』青龍洞、1976年、443頁。)

 「ぼくはそれから後の二日間、時間の許すかぎり兜屋の個展会場へ出かけ、会場の隅におかれた椅子に腰を下して、彼の作品と一緒にいた。銀座を歩く人の数は実に多かったが、会場へ足を踏み入れる人はまれで、鑑賞者の入っている時より、ぼくひとりが彼の作品の中に沈んでいる時間の方がはるかに多かった。
 《街にはあんなに多くの人が行き来しているのに、瑛九とぼくとの対話に遠慮してか、ここの会場を訪れる人は稀だ。
 瑛九よ、ぼくは今君の作品の林の中にいて、じっと『田園』を見ている。ぼくにはこの百二十号の作品の中に、二十年前の正月のあの日、北尾さんたちと登って行った岡山公園から眺めた宮崎平野の広大な風景が見える。あの時君がサンザンと涙を流して見たあの風景と重って、その後でこれまた君がそれを聞きながら手ばなしで泣いたあのバッハのパルチータもきこえる。それになお耳をこらすと、君の好きだった一つ葉の浜や、青島の海の音だって聞こえてくる。君はきっと、そんなものを描いたのではないと言うだろうが、ぼくには太陽のさんさんと照り輝く宮崎の風景がはっきり見えるのだ。(後略)》
 これは、個展の二日目に会場の隅の机の上で、ぼくが手帳に書きつけたものの一部である。ぼくはこのあと、会場にやって来た十三子、杉子の姉妹に十五年振りに会い、そこの隣の、名前は忘れたが、熱帯植物の多い喫茶店で、瑛九のことや、一別以来のことなどについて語り合った。彼がこの場にいたなら……と思いながら。」

(出典:前掲書、453-454頁)

 今回の宮崎訪問では、宮崎県立美術館の瑛九展示室において、《田園B》と、ゆっくりと、じっくりと、時間をかけて、向き合うことができた。光春の記述を思い出しながら、宮崎の地で出会う《田園B》は、格別であり、至福の時を過ごすことができた。

 

狂気の純粋さに

 今回の宮崎訪問の際、宮崎空港から宮崎市内の中心部へと向かう途中、橘橋を渡ったところでタクシーを降り、橋のたもとから大淀川を眺めた。冒頭の光春の文章の引用にも、大淀河畔にあるホテルの屋上から宮崎平野を眺めた時のことが記されているが、以下の光春の記述にも、大淀川にかかる橘橋にまつわるエピソードが記されている。

 「大淀駅で下車して橘橋を渡った時、これから四つんばいでどこまで行けるか競走しようと彼が言い出し、また一行の珍妙な競争が始った。今日とは比較にならない交通量だったとはいえ、炎天下の目貫通りをそんな格好で歩くことは恥かしくもあり苦痛でもあったので、子供たちは直ぐに止めた。だが、彼だけは息をはずませ、歯を食いしばっていつまでも止めようとしなかったという。彼が長い髪を剃り落としたのもそれから間もない頃のことで、ある朝、頭を剃ると言い出した彼のために郡司家の縁側にその用意がされ、茂之と盛男とが面白がって彼の髪を剃ってしまったというのである。
 こうした彼の帰郷以来の奇異な行動が周囲のものたちを心配させなかったはずはなく、きょうだいたちすら、彼が発狂するのではないかと憂慮したほどであったという。それらのことは、従弟や甥たちの茶目っ気に覆われて深刻さを隠してはいたものの、当時の彼が精神の危機に臨んでいたことは間違いないようである。
 今になって思うと、ぼくが始めて会った時の彼は、その時剃った髪を五分刈り程に延ばした時であって、それが宮崎美術協会発足の会合のあった日であったことについてはすでに述べた。」

(出典:前掲書、96頁。)

 この記述は、「第二章 展開期(193437)」の冒頭、「狂気の純粋さに」と題された項の中の一節である。1934年、光春が、瑛九と名乗る前の杉田秀夫(以下、秀夫)と出会う少し前の出来事であり、この記述の前後にも、秀夫の奇異な行動がいくつか紹介されている。また、宮崎の地で知り合った光春と秀夫が親交を深めてゆく時期の記述にも、橘橋や大淀川が登場する。

 「宮崎の地で秀夫という、唯一人の友人をもつことになったぼくは、その後は土曜日の午後になると急いでバスに乗って宮崎に行き、橘通りの停留所から郡司家に「ヒデチャンいますか?」と電話するようになった。電話嫌いの彼の電話口での応対はそっけなかったが、間もなくそこへやって来て、それから日曜の夜までのぼくらの生活が始まるのだった。よく橘橋の袂にあった日房というレストランの二階へ上って、霧島連峰や大淀川の静かな流れを眺めながらビールで気炎をあげたもので、それからは大淀川の堤の上を歩いたり、街にもどって古本屋をのぞいたり、時には映画を見たりして、結局は郡司家の彼の部屋にたどりついて夜おそくまで話したのであって、翌日もまた近郊を歩いたり、彼の画室に集って来る若者たちと語り、夜になって妻に帰るのだった。」

 (出典:前掲書、99頁。)

 この後も、光春と秀夫の親密な交流が続き、1935年の暮れには、光春が秀夫を誘い、二人は鹿児島の指宿に写生旅行に出かける。光春がこの項のタイトルに掲げた「狂気の純粋さ」とは、先に戻った光春に向けて、ひとり指宿に残った秀夫が送った手紙に記された以下の言葉から取られている(1935年1月23日付、秀夫が光春に送った手紙より)。

 「《(前略)ペン画の上で狂気のジュンスイさにもふれたがちょっと言いにくい。おれの作品はカタワだ。おれは狂犬のように描いている。(後略)》(’35・1・23・山田宛)
 これらの一連の手紙の中に見えている言葉によって、指宿での彼が孤独の中でいかに絵画と格闘していたかを窺うことができよう。彼がこの時ペンデッサンによって狂気の純粋さにふれたと言っていることは見逃すことのできぬ発言で、それがどのようなものであったかは一寸言いにくいが、彼の芸術はそれを突破口として進展していった所に生れたものといえるであろう。」

(出典:前掲書、102-103頁。)

 光春が書き留めた奇異な行動だけに気を取られると、当時の秀夫の精神的な危機のみがクローズアップされてしまうが、その危機こそが、そして、その危機の時期に指宿で過ごした濃密な日々こそが、1936年の「瑛九」のデビューへとつながっていることを見落としてはならない。それは、光春が、上記の引用箇所において、指宿での写生旅行が、秀夫の芸術の突破口となったことを指摘している通りである。その意味で、秀夫を指宿へと誘った光春の功績は、極めて大きいのである。光春が瑛九の誕生を導いたと言っても過言ではないのであり、だからこそ、光春は瑛九の評伝の執筆に異様なほどの情熱を注いだのだ。

 

型紙の由来について、再び

 さて、宮崎訪問を契機として、光春の評伝からの引用が多くなってしまったが、思わぬ発見もあった。その発見の嬉しさもあるが、それよりも、今まで見過ごしていたことを恥じる思いの方が、ずっと強い。早速、その発見を示すために、2枚の写真を紹介する。


fig.1:『フォトタイムス』1930年8月号、95頁


fig.2:《踊り子》  1931年

 まず、fig.1であるが、これは、『フォトタイムス』1930年8月号に杉田秀夫の名前で発表した「フォトグラムの自由な制作のために」に掲載されている5点の作品のうちの1点である。この5点については、第12回で詳しく紹介しているので、そちらを参照していただきたい。その第12回において、fig.1に掲載されている作品について、私は「杉田秀夫が描いたイメージを切り抜いた型紙である可能性は低いと推測できる」と書いた。それは、この踊り子のイメージが、均整が取れたフォルムで、つま先まで再現性が高く、秀夫が描いたイメージを切り抜いた型紙だとすると、出来過ぎな感じがしたからである。
 そして、その記述を裏付けるのが、fig.2、《踊り子》と題された作品である。今までなぜ気がつかなかったのか、繰り返しになるが、そう思わずにいられないほど、自分の目が節穴であることを、つくづく嘆かわしく思うのだが、嘆いている暇はない。fig.2、《踊り子》は、光春による瑛九の評伝の「第一章 萌芽期(1911〜1934)」の扉頁に掲載されている作品である。図版の右下には、縦書きで「「踊り子」フォトグラム ‘31」という記載がある通り、1931年の制作とされている。

 fig.2、《踊り子》では、画面全体にうっすらと見えている女性の顔を背景に、踊り子のような3人の女性のイメージが見えている。女性の顔も、3人の姿も、ポジ像で見えているため、技法的にはフォトグラムではないと推測される。フォトグラムであれば、3人の姿は輪郭だけになるはずである。もしくは、紙が薄くて光を透過するならば、ネガポジが反転する像として定着されるはずである。そのため、技法に関して推測するならば、この《踊り子》は、多重露光の原理を活用して制作されたのではないかと思われる。
 そのことを確認した上で、注目していただきたいのは、右上の、バレリーナのようなイメージである。頭部と左手の先の方が画面のフレームの外にはみ出すように配置されているが、このイメージが、fig.1の『フォトタイムス』に掲載されているイメージと同じであることは間違いない。fig.1の方は、まさしく、輪郭だけのイメージとなっており、その形の内側には、異なるイメージが確認できる。つまり、fig.1のバレリーナのようなイメージは、フォトグラムの技法を用いて定着されていると推測できるのである。

 技法に関しては推測の域を出ない面もあるが、重要なことは、fig.1のイメージが、秀夫が描いた形を切り抜いた型紙に由来するものではないことが、明確に立証されたという点である。fig.2の右上のイメージは、何らかの印刷物に掲載されていた既存のイメージであることが判明したからである。この点は、第11回から第13回まで、3回に渡って展開されたスピンオフの重要な論点である。
 瑛九のフォト・デッサンに登場する人物のイメージを、瑛九が描いた形を切り抜いた型紙に由来するものと無意識にみなしてしまうことを指摘し、特に初期の頃は、既存のイメージや何らかの物体を用いて、人の形が表現されていた可能性が高いことを述べたのである。実際に、第13回では、「はずみ車」という玩具が制作に用いられている事例を示すことができたのであるが、今回は、それに加えて、既存のイメージが用いられていることを明確に示すことができた。

 今に至るまで、上記の事実を見過ごしていたことを恥ずかしく思うのであるが、今回、そのことに気がつくことができたのは、光春による瑛九の評伝を度々手に取り、繰り返しページをめくったからである。そして、その行為そのものが、宮崎訪問に起因することに思いを馳せるならば、宮崎に行ったからこそ、上記の事実に気がつくことができたのであると、ここで述べておきたい。

 

子供達の音楽会

 ようやく、今回の作品を紹介するところまで辿り着いた。今回紹介する作品は、まさに、型紙による表現の真骨頂を示す作品なのである。だからこそ、瑛九における型紙が何に由来するのかという、この連載において重要な論点に関わる発見について、書いておきたかったのである。


fig.3:《子供達の音楽会》  1951年

 この作品において特徴的なことは、ある形がくり抜かれた型紙と、その形にくり抜かれた型紙の、両方が同一の画面に出現していることである。便宜上、形がくり抜かれた型紙を「ネガの型紙」と、そして、くり抜かれた形の型紙を「ポジの型紙」と呼ぶことにするならば、同一イメージの「ネガの型紙」と「ポジの型紙」をひとつの印画紙の上で用いる、という手法が、4種類も確認できるのである。このような重要な点も含め、次回取り上げる作品と合わせて、より具体的に論じてみたい。

 なお、今回、宮崎訪問のことを前倒しで書くことになったのは、最終回だけでは、宮崎訪問を通じて得られた成果や、調査の合間に考えたことなどを、書き切ることはできないだろうと実感しているからである。宮崎訪問が近づく頃から、光春による瑛九の評伝に散りばめられた数々のエピソードが、時折、脳裏に浮かぶようになっていた。短いながらも、宮崎滞在中、そうしたエピソードに想いを馳せることのできる場所に身を置いてみたことにより、作品の調査にとどまらない重要な経験をすることができた。お世話になった多くの方々に、この場を借りて深く感謝申し上げます。

 

He’s the rising sun

 「Here to Stay」の「Like a bright light on the horizon. Shining so bright, he’ll get you flying.」というフレーズと呼応するような、「He’s the rising sun」というフレーズが私をとらえる。ニュー・オーダーの2005年のアルバム『Waiting For the Sirens’ Call』に収録されている「Working Overtime」の一節だ。ここでもまた、この「He」は、瑛九のことなのではないかと感じてしまう。そして、そのように感じ始めると、「All alone, by his self」、「You can’t change his mind」、「He did all he could」といった、「Working Overtime」の歌詞が次々と意識されるようになり、ここで歌われている「his」や「He」もまた、瑛九のことを示しているように聴こえてくる。
 「He did all he could」、瑛九はできるだけのことをした、自分はどうか、やるだけのことをやれたのか、全くそうではない、それぐらいの自覚はある。ならば、やるだけのことをやれたと実感できるその時まで、瑛九について、瑛九の作品について、考え続けなければならない。どこか少し「破れかぶれ」な印象の、パンクでアグレッシヴな「Working Overtime」のドライヴ感を頼りに、とにかく最終回まで書いてみるしかない。

(うめづ げん)

図版出典
fig.1:『生誕100年記念 瑛九展』宮崎県立美術館ほか、2011年
fig.2:山田光春『瑛九 評伝と作品』青龍洞、1976年

■梅津 元
1966年神奈川県生まれ。1991年多摩美術大学大学院美術研究科修了。専門は芸術学。美術、写真、映像、音楽に関わる批評やキュレーションを中心に領域横断的な活動を展開。主なキュレーション:「DE/construct: Updating Modernism」NADiff modern & SuperDeluxe(2014)、「トランス/リアル-非実体的美術の可能性」ギャラリーαM(2016-17)など。1991年から2021年まで埼玉県立近代美術館学芸員 。同館における主な企画(共同企画を含む):「1970年-物質と知覚 もの派と根源を問う作家たち」(1995)、「ドナルド・ジャッド 1960-1991」(1999)、「プラスチックの時代|美術とデザイン」(2000)、「アーティスト・プロジェクト:関根伸夫《位相-大地》が生まれるまで」(2005)、「生誕100年記念 瑛九展」(2011)、「版画の景色-現代版画センターの軌跡」(2018)、「DECODE/出来事と記録-ポスト工業化社会の美術」(2019)など。

・梅津元のエッセイ「瑛九-フォト・デッサンの射程」は毎月24日更新予定です。次回は9月24日の予定です。どうぞお楽しみに。

8月24日(日)~9月1日(月)は夏季休廊いたします。誠に勝手ながらメール等のお問い合わせには9月2日以降に対応しますのでご了承ください。

生誕120年 難波田龍起展

2025年9月3日(水)~9月20日(土)11:00-19:00 ※日・月・祝日休廊 
ギャラリートーク
9月13日(土)16時~17時半
対談:難波田武男さん(龍起三男)×福士理さん(東京オペラシティ アートギャラリー シニア・キュレーター)
要予約(予約はこちらから)、参加費1,000円

●ときの忘れものの建築空間(阿部勤 設計)についてはWEBマガジン<コラージ2017年12月号18~24頁>に特集されています。
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