梅津元「瑛九-フォト・デッサンの射程」
第16回「Bizarre Love Triangle-第33回瑛九展・湯浅コレクション(その9)」
Bizarre Love Triangle-前回、勢い余って、まさかのニュー・オーダー来日について書いてしまったが、今回、ついにこの曲が登場したのも、8年振りのニュー・オーダーの来日というニュースに接したからに違いない。この曲が特別であるのは、楽曲の素晴らしさはもちろんのこと、ミュージック・ビデオの素晴らしさによるところが大きい。この曲のミュージック・ビデオは、ロバート・ロンゴが監督している。学生時代、この曲をはじめとして、ロンゴが監督したミュージック・ビデオに圧倒的な影響を受けた。
ロンゴが監督したその映像は、俗に「フレーム編集」と呼ばれる、極めて短いカットの集積によって構成されている。ビデオ映像は、1秒に30コマの画像で成り立っており、このコマをフレームと呼ぶことから、数フレーム単位の高速編集を「フレーム編集」と呼ぶのである。例えば、3フレームごとに映像を切り替える編集ならば、1秒間に10カットの映像が叩き込まれることになる。この曲のミュージック・ビデオに憧れて、フレーム編集に明け暮れた日々を思い出さずにはいられない。
フォト・デッサンを「見る」ことについて
3回にわたるスピンオフから湯浅コレクションの作品へと戻ったものの、第14回と第15回は、紹介する作品と、その作品についての記述がずれてしまい、この連載を読んでくださっている方々に申し訳なく思っている。今回は、そのズレを、本来の記述のペースへと戻すために、第14回で取り上げた作品についての補足から始めたい。まず、下記の2点のフォト・デッサンを見ていただきたい。

fig.1:会話 1951年 宮崎県立美術館蔵

fig.2:会話 1951年 福岡市美術館蔵
どちらのフォト・デッサンも、《会話》という同じ題名がつけられており、制作年は1951年とされている。見てわかる通り、同じ構図で、明暗が反転している。fig.1 は、二人の人の形が切り抜かれた型紙を用いている。二人の人の形が抜けており、その形の部分を光が透過するため、人の形の部分が露光し、黒となっている。逆に、fig.2 は、切り抜かれた二人の人の形の型紙を用いている。その形の部分が光を遮るため、人の形の部分が露光せず、白となっている。このように、ある形を紙から切り抜くことで生まれる二種の型紙の、その両方を用いる手法は、瑛九のフォト・デッサンの重要な特徴となっている。
さて、それはともかく、この2点を見ていて、思い当たることはないだろうか。そう、この2点の人の形は、第14回で紹介し、前回の第15回で詳しく論じた、湯浅コレクションの中の1点と、同じなのである。ぜひ、fig.1 とfig.2 を、湯浅コレクションの作品(第14回のfig.5、第15回のfig.7)と、じっくりと見比べていただきたい。湯浅コレクションの作品は、人の形が白く抜けているため、制作において、上記のfig.2 と同じ型紙が用いられたはずである。だが、これまで、そのことには、全く気が付いていなかった。fig.1 と fig.2 は、2点が並ぶ形で、宮崎県立美術館の開館記念展である『魂の叙事詩 瑛九展』のカタログに掲載されているにもかかわらず、である。
なぜ、度々見ているカタログに、同じ型紙が使われている作品が掲載されているのに、そのことに、気がつくことができなかったのか。それは、前回詳しく書いたように、この連載に向けた集中的な調査の際は、湯浅コレクションの作品を抽象的なフォト・デッサンとして認識しており、円形の内側に接するような二人の人の形を、認識できていなかったからである。視野に入っていても見えていないことを、意識することは難しい。この経験は、改めて、先入観を持たずに「見る」ことの重要さを教えてくれる。
一点のフォト・デッサンでも、その作品をしっかり見ることができていなかった場合、その作品と何らかの関係がある作品を、見逃してしまうことになる。例えば、同じ型紙が使われているフォト・デッサンを見ているにも関わらず、そのことに気がつくことができない、という今回の経験のように。さらに言えば、気がつくことができるはずのことを見逃していると、フォト・デッサンの、その総体を把握するための調査や研究の重要なポイントにも、気がつくことができないままとなってしまう。
今回の事例に即して述べるならば、フォト・デッサンの制作年に関する問題が関わってくるのである。具体的に言えば、上記の fig.1 と fig.2 は、同じ《会話》というタイトルを持ち、制作年も、同じ「1951年」とされている。これに対して、fig.2 と同じ型紙が用いられている湯浅コレクションの作品は、「制作年不詳」とされている。型紙は保管することができるため、同じ型紙が用いられているフォト・デッサンを、同じ時に制作されたものと短絡的に断定することできないが、湯浅コレクションの作品の制作年を、「1951年に近い時期」と推測することは可能である。
制作年について、全く何の手がかりもない「制作年不詳」と、「1951年頃という可能性を含む制作年不詳」は、その内実が異なってくるのである。そのような、ささやかな「気づき」を丁寧に拾い集めてゆくことによって、より明確に、作品に関わる何らかの判断を示すことができるようになるかもしれない。このような「気づき」は、誰かが残した文字による記述を追うことからは、導くことができない。だからこそ、何度でも、時間をかけて、見方を変えて、様々な見方で、繰り返し、作品に向き合うことが、何よりも必要なのである。全ては、「見る」ことからしか始まらない。
重なり、ズレ、DUB
さらに、第14回で取り上げた湯浅コレクションの作品(第14回のfig.5、第15回のfig.7)については、二重写しのように、型紙がズレながら重なる効果についても、作品の魅力的な特徴として指摘した。この点については、すでに論じているので、以下では、同様に、型紙に由来する形が、ズレながら重なる効果が見られるフォト・デッサンを何点か、紹介しておきたい。

fig.3:フォト・デッサン 1936年 東京国立近代美術館蔵

fig.4:フォト・デッサン(その3) 1936年 東京国立近代美術館蔵

fig.5:フォト・デッサン 1936年 東京国立近代美術館蔵

fig.6:フォト・デッサン 1936年 東京国立近代美術館蔵
どうだろうか。このように、似たような効果が感じられるフォト・デッサンを複数並べることによって、モチーフ(主として型紙)がズレながら重なる感覚を、より感じ取りやすくなったのではないだろうか。ここで、この「ズレながら重なる感覚」は、音楽におけるダブ(=DUB)と近い感覚を湛えているように感じられる。この点に関連して、2011年の「生誕100年記念 瑛九展」の際に私が執筆した論考の一部を紹介したい。
「Wカセットという仕様のラジカセが登場したのはいつの頃だろうか。カセットデッキを2台搭載し、「ダビング」ができる夢のようなラジカセ。ダビングというアナログな転写は、連鎖的にイメージを生みだす瑛九の制作プロセスとシンクロする。例えば、フォト・デッサンの印画紙をもう一度転写することで生まれる、ポジ像のフォト・デッサン。版画を印画紙に転写したフォト・デッサン。コラージュのイメージをそのままトレースしたかのようなデッサン。それらは情報の劣化をともなわないデジタルな信号のコピーでは決してなく、ノイズまじりのアナログな転写の魅力に満ちている。
しかし、「ダビング」から「リミックス」までの距離は、そう遠くない。「装置としての瑛九」を、「リミックス」という視点から語りうる時代も、そう遠くないのかもしれない。」
(出典:梅津元「装置としての瑛九-PLAY, FOREWARD, REVIEW, PAUSE, REVERSE, STOP」『生誕100年記念 瑛九展』宮崎県立美術館ほか、2011年、246頁。)
この記述では、瑛九の制作における連鎖的な制作プロセスの特徴を、アナログな「ダビング」になぞらえている。つまり、この記述は、瑛九の複数の作品を想定して、「装置としての瑛九」から、次から次へと派生的に作品が生み出される局面を示している。だが、第14回で取り上げた作品と上記の4点の作品に共通するのは、一点の作品の画面から感じられる、型紙の形が重なりながらずれてゆくような効果であり、そこから、音楽におけるダブ=DUB が、想起されるのである。このことからわかることは、瑛九における連鎖的な制作プロセスは、そもそも、一点の作品の画像形成における、「重なり、ズレ、DUB」の感覚に由来するのではないか、ということなのである。
ペン・デッサンとフォト・デッサン
続いて、前回、第15回で取り上げた湯浅コレクションの作品である《(女)》を詳しく見てみよう(第15回のfig.9)。

fig.7:《(女)》 1951-1952年
この作品は、切り絵のようなくっきりとした輪郭の大きな白い人の形と、そこに重なるような、輪郭が黒みを帯びた二つの人の形が、基調を成している。このような構図は、型紙を用いることによって生み出されており、型紙以外の要素の導入が少ないことが、この作品のひとつの特徴となっている。逆にいえば、瑛九のフォト・デッサンにおいて、型紙が果たしている役割を検証する上で、典型的な事例となる作品といえる。輪郭が黒く縁取られている人の形には、大きさの差があり、左側の方が大きく、右側の方は小さい。どちらも、ダンスをしているような動きのある形を示している。
左側では、人の形の輪郭が黒く縁取られており、内側に向けてグラデーションが見られる。右側は、その形のほとんどの部分が黒になっており、白が見えるのは、腰から脚部にかけての一部分のみである。面白いのは、白く抜けている人の形が、平面的に、フラットに見えるのに対して、輪郭が黒く縁取られている人の形の方は、黒から白へのグラデーションが曖昧な空間を生むためか、わずかなヴォリューム、微かな奥行きを感じさせることである。しかも、そのヴォリュームは透明な感覚を湛えており、とても魅力的である。
型紙を用いた人の形は、切り絵のような平面的な印象になるため、瑛九は、様々な物体を組み合わせたり、セロファンなどの透明なシートに描画したものを組み合わせたりすることによって、複雑な効果を生むように様々な工夫を凝らしている。それに対して、この作品は、ほぼ型紙だけで作られているとみなして良いと思われるのだが、にも関わらず、透明なヴォリュームという魅力的な感覚を湛えているのである。また、構図の形成という点から見ると、複数の形が重なりあう構図が、瑛九と名乗る前の杉田秀夫によるペン・デッサンと似ているように思えてくる。
前回紹介した3点のペン・デッサン(第15回のfig.1, 2, 3)と、このフォト・デッサンを、ぜひ、見比べていただいきたい。このタイプのペン・デッサンにおいては、いくつかのモチーフが重なるように描画されており、イメージが透明に重なる感覚が、フォト・デッサンと共通している。また、黒と赤のインクの併用は、透明なイメージの重なりをより効果的に表現するために採用された方法なのではないだろうか。このように、杉田秀夫/瑛九においては、ペン・デッサンとフォト・デッサンが相互に関係しており、「デッサン」という技法の地平を開拓している。ペン・デッサンで鍛えられた描画は、型紙を作るための描画に確かに息づいており、フォト・デッサンにおけるイメージの形成と空間の生成を、豊かなものにしているとみなすことができる。
グラデーション、ヴォリューム、不透明性
それでは、今回取り上げる湯浅コレクションからの一点を見てみよう。

fig.8:《題不詳》 1953年
まず目をひくのは、人の横顔のようなイメージである。顔として見ようとすれば、確かに、目、耳、口に相当すると思われる部分があるが、人の顔をリアルに感じる訳ではなく、デフォルメされた顔として把握されるだろう。長い首、胸、手も確認することができるが、同様に、リアルな身体とはかけ離れた、デフォルメされた身体として把握される。瑛九の作品においては、頻繁に感じられる特徴であるが、コラージュにも通じる、やや奇異な感覚が漂っており、顔も身体も、抽象化ないし記号化している。
次に目をひくのは、矩形の反復や縦方向の黒い帯状の形の反復である。顔の背景を含め、おおよそ画面の上半分には、矩形がいくつも切り抜かれた、窓が反復するようなイメージが見えている。さらに、よく見れば、画面の下半分には、これよりも小さな窓が反復するようなイメージが見えている。さらに、黒い帯状の形の反復は、矩形の反復とも連動して、この作品に幾何学的なトーンをもたらしている。顔のイメージとの関連で言えば、首に相当する部分が縦に長く、直線的であることによって、身体のイメージと幾何学的な印象がオーバーラップしているように感じられる。
そして、最後に注目したいのは、顔や身体のイメージと、幾何学的なイメージが交錯する全体的な印象を、その背後から支えている、抽象的なパターンである。比喩的な言い方をすれば、その抽象的なパターンを持つ面は、「壁」のような印象をもたらしている。おそらく、この「壁」のような面を印画紙上に出現させているのは、凹凸のあるパターンを持つ磨りガラスなのではないかと推測される。本来、ガラスは透明であるが、フォトグラムの原理によって印画紙に定着されると、不透明な硬質な感覚をともなうことが多い。この作品においても、おそらく、そのような事態が起きていると思われる。
このように見てくることによって、この作品の大きな魅力となっている画面全体の空間構成が明らかになる。顔や身体のイメージと、幾何学的なイメージは、この作品の前面において重層的に絡み合っている。それに対して、不透明な硬質さを湛えた壁のような面は、少し後退している印象であり、画面全体に、「前」と「後」のような感覚が生じている。このような感覚は、画面を見ることによって体感されるものであるが、そこには、現実の世界を感覚するときの空間把握の経験が反映している。しかしながら、その感覚は、現実の世界を感覚するときの経験に収斂することはない。この作品に見られるイメージ形成と空間構成は、この作品においてのみ感覚される固有の質であり、他の作品によって代替することができない。芸術作品を見ることの豊かさが、眼前に広がっている。
Don’t give up the game
Don’t give up the game - Shellshock のフレーズが私を鼓舞してくれている。不思議なことだ。やる気とは無縁の、脱力ニュー・ウェイヴの代表格、演奏も歌唱も上手くないという烙印を押されたままでも、ニュー・オーダーの人気に翳りはなく、ピーター・フックとの決別というバンドの存続が危うくなる事態も、今や過ぎ去ってしまったようだ。来日のニュースに接して高揚したけれど、ピーター・フックがいないことを忘れていた、いや、忘れたフリをしていたのかもしれない。「続ける」ことに意味はないが、「続いている」ことには意味がありそうだ、そんな詭弁を弄したくもなる。
Shellshock、1986年にリリースされたシングルであるが、思い出されるのは、映画「プリティ・イン・ピンク」に提供された曲でもあるということだ。久しぶりにそのことを思い出したが、それにしても、まばゆい曲が並んでいた。アーティスト名だけでも、書き出してみよう。オーケストラル・マヌーヴァーズ・イン・ザ・ダーク、スザンヌ・ヴェガ、ジェシー・ジョンソン、INXS、サイケデリック・ファーズ、ニュー・オーダー、ベルイー・サム、ダニー・ハットン、エコー&ザ・バニーメン、ザ・スミス、これは痺れる、今も輝く80年代、なのだろうか。
(うめづ げん)
図版出典
fig.1, fig.2:『魂の叙事詩 瑛九展』宮崎県立美術館、1996年
fig.3, fig.4:『モダニズムの光跡:恩地孝四郎 椎原治 瑛九』東京国立近代美術館、1997年
fig.5, fig.6:『瑛九1935-1937 闇の中で「レアル」をさがす』東京国立近代美術館、2016年
fig.7, fig.8:「第33回瑛九展・湯浅コレクション」より
■梅津 元
1966年神奈川県生まれ。1991年多摩美術大学大学院美術研究科修了。専門は芸術学。美術、写真、映像、音楽に関わる批評やキュレーションを中心に領域横断的な活動を展開。主なキュレーション:「DE/construct: Updating Modernism」NADiff modern & SuperDeluxe(2014)、「トランス/リアル-非実体的美術の可能性」ギャラリーαM(2016-17)など。1991年から2021年まで埼玉県立近代美術館学芸員 。同館における主な企画(共同企画を含む):「1970年-物質と知覚 もの派と根源を問う作家たち」(1995)、「ドナルド・ジャッド 1960-1991」(1999)、「プラスチックの時代|美術とデザイン」(2000)、「アーティスト・プロジェクト:関根伸夫《位相-大地》が生まれるまで」(2005)、「生誕100年記念 瑛九展」(2011)、「版画の景色-現代版画センターの軌跡」(2018)、「DECODE/出来事と記録-ポスト工業化社会の美術」(2019)など。
・梅津元のエッセイ「瑛九-フォト・デッサンの射程」は毎月24日更新、次回は2025年1月24日です。どうぞお楽しみに。
ときの忘れものでは、1996年に『第1回瑛九展』を開催して以来、幾度にもわたってその作品を紹介してきました。これまでに弊ギャラリーが刊行したカタログやポスターをご紹介します。
●『奈良美智24歳×瑛九24歳 画家の出発』展カタログ(2010年)

『奈良美智24歳×瑛九24歳 画家の出発』展カタログ
発行日:2010年9月11日
発行:ときの忘れもの
25.6x18.1cm(B5判)
執筆:三上豊
図版:15点+参考図版:27点
価格:880円(税込)、送料:250円
●『第21回瑛九展 46の光のかけら/フォトデッサン型紙』ポスター(2011年)
※ポスターは限定200部のため、残部僅少です。

(表面)
2011年
発行:ときの忘れもの
デザイン:北澤敏彦+DIX-HOUSE
サイズ:84.1x59.4cm(A1)
限定200部(番号入り)
*全46点の型紙の裏表両面を掲載した大判のポスター

(裏面)
価格:2,200円(税込)、送料:1,000円
●『第23回 瑛九展』図録(2013年)

『第23回 瑛九展』図録
発行日:2013年5月17日
発行:ときの忘れもの
執筆:大谷省吾(東京国立近代美術館)
図版:約30点掲載
カラー 24ページ
25.6x18.1cm(B5判)
価格:880円(税込)、送料:250円
●『第28回 瑛九展』図録(2019年)

執筆:大谷省吾(東京国立近代美術館美術課長)
図版:約44点掲載
編集:尾立麗子(ときの忘れもの)
デザイン:岡本一宣デザイン事務所
翻訳:Polly Barton、勝見美生(ときの忘れもの)
価格:880円(税込)、送料:250円
●『生誕110年 第30回瑛九展 フォトデッサンと型紙』図録(2021年)

執筆:ワーグナー浅野智子(美術博士)、飯沢耕太郎(写真評論家)
図版:約26点掲載
編集:尾立麗子(ときの忘れもの)
デザイン:岡本一宣デザイン事務所
価格:880円(税込)、送料:250円
●『第32回 瑛九展』図録(2022年)

執筆:大谷省吾(東京国立近代美術館美術副館長)
図版:20点
編集:尾立麗子(ときの忘れもの)
デザイン:岡本一宣デザイン事務所
翻訳:小川紀久子、新澤悠(ときの忘れもの)、勝見美生(ときの忘れもの)
価格:880円(税込)、送料:250円
●「第33回瑛九展/湯浅コレクション」カタログ(2023年)

発行:ときの忘れもの
図版:40点
写真:15点
執筆:大谷省吾、小林美紀、工藤香澄
翻訳:小川紀久子、新澤悠(ときの忘れもの)
編集:Curio Editors Studio
デザイン:柴田卓
体裁:B5判、84頁、日本語・英語併記
価格:2,750円(税込)、送料:250円
●本日のお勧め作品は瑛九です。
《南風》
1954年
キャンバスに油彩
46.0×38.0cm(F8)
サイン・年記あり
こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください。
●パリのポンピドゥー・センターで始まったシュルレアリスム展にはときの忘れものも協力し瀧口修造のデカルコマニーを貸し出し出品しています。カタログ『SURREALISME』の仏語版は売り切れ、現在は英語版のみ特別頒布しています。
サイズ:32.8×22.8×3.5cm、344頁 22,000円(税込み)+送料1,500円

◆「生誕90年 倉俣史朗展 Cahier」
会期=2024年12月13日(金)~12月28日(土) ※日・月・祝日休廊
出品全作品の詳細は12月9日ブログに掲載しました。

(映像制作:WebマガジンColla:J 塩野哲也)
※クリックすると再生します。
※右下の「全画面」ボタンをクリックすると動画が大きくなります。
●ときの忘れものの建築空間についてはWEBマガジン<コラージ2017年12月号18~24頁>に特集されています。
〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531 E-mail:info@tokinowasuremono.com
http://www.tokinowasuremono.com/
営業時間=火曜~土曜の平日11時~19時。日・月・祝日は休廊。
JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。

第16回「Bizarre Love Triangle-第33回瑛九展・湯浅コレクション(その9)」
梅津 元
Bizarre Love Triangle-前回、勢い余って、まさかのニュー・オーダー来日について書いてしまったが、今回、ついにこの曲が登場したのも、8年振りのニュー・オーダーの来日というニュースに接したからに違いない。この曲が特別であるのは、楽曲の素晴らしさはもちろんのこと、ミュージック・ビデオの素晴らしさによるところが大きい。この曲のミュージック・ビデオは、ロバート・ロンゴが監督している。学生時代、この曲をはじめとして、ロンゴが監督したミュージック・ビデオに圧倒的な影響を受けた。
ロンゴが監督したその映像は、俗に「フレーム編集」と呼ばれる、極めて短いカットの集積によって構成されている。ビデオ映像は、1秒に30コマの画像で成り立っており、このコマをフレームと呼ぶことから、数フレーム単位の高速編集を「フレーム編集」と呼ぶのである。例えば、3フレームごとに映像を切り替える編集ならば、1秒間に10カットの映像が叩き込まれることになる。この曲のミュージック・ビデオに憧れて、フレーム編集に明け暮れた日々を思い出さずにはいられない。
フォト・デッサンを「見る」ことについて
3回にわたるスピンオフから湯浅コレクションの作品へと戻ったものの、第14回と第15回は、紹介する作品と、その作品についての記述がずれてしまい、この連載を読んでくださっている方々に申し訳なく思っている。今回は、そのズレを、本来の記述のペースへと戻すために、第14回で取り上げた作品についての補足から始めたい。まず、下記の2点のフォト・デッサンを見ていただきたい。

fig.1:会話 1951年 宮崎県立美術館蔵

fig.2:会話 1951年 福岡市美術館蔵
どちらのフォト・デッサンも、《会話》という同じ題名がつけられており、制作年は1951年とされている。見てわかる通り、同じ構図で、明暗が反転している。fig.1 は、二人の人の形が切り抜かれた型紙を用いている。二人の人の形が抜けており、その形の部分を光が透過するため、人の形の部分が露光し、黒となっている。逆に、fig.2 は、切り抜かれた二人の人の形の型紙を用いている。その形の部分が光を遮るため、人の形の部分が露光せず、白となっている。このように、ある形を紙から切り抜くことで生まれる二種の型紙の、その両方を用いる手法は、瑛九のフォト・デッサンの重要な特徴となっている。
さて、それはともかく、この2点を見ていて、思い当たることはないだろうか。そう、この2点の人の形は、第14回で紹介し、前回の第15回で詳しく論じた、湯浅コレクションの中の1点と、同じなのである。ぜひ、fig.1 とfig.2 を、湯浅コレクションの作品(第14回のfig.5、第15回のfig.7)と、じっくりと見比べていただきたい。湯浅コレクションの作品は、人の形が白く抜けているため、制作において、上記のfig.2 と同じ型紙が用いられたはずである。だが、これまで、そのことには、全く気が付いていなかった。fig.1 と fig.2 は、2点が並ぶ形で、宮崎県立美術館の開館記念展である『魂の叙事詩 瑛九展』のカタログに掲載されているにもかかわらず、である。
なぜ、度々見ているカタログに、同じ型紙が使われている作品が掲載されているのに、そのことに、気がつくことができなかったのか。それは、前回詳しく書いたように、この連載に向けた集中的な調査の際は、湯浅コレクションの作品を抽象的なフォト・デッサンとして認識しており、円形の内側に接するような二人の人の形を、認識できていなかったからである。視野に入っていても見えていないことを、意識することは難しい。この経験は、改めて、先入観を持たずに「見る」ことの重要さを教えてくれる。
一点のフォト・デッサンでも、その作品をしっかり見ることができていなかった場合、その作品と何らかの関係がある作品を、見逃してしまうことになる。例えば、同じ型紙が使われているフォト・デッサンを見ているにも関わらず、そのことに気がつくことができない、という今回の経験のように。さらに言えば、気がつくことができるはずのことを見逃していると、フォト・デッサンの、その総体を把握するための調査や研究の重要なポイントにも、気がつくことができないままとなってしまう。
今回の事例に即して述べるならば、フォト・デッサンの制作年に関する問題が関わってくるのである。具体的に言えば、上記の fig.1 と fig.2 は、同じ《会話》というタイトルを持ち、制作年も、同じ「1951年」とされている。これに対して、fig.2 と同じ型紙が用いられている湯浅コレクションの作品は、「制作年不詳」とされている。型紙は保管することができるため、同じ型紙が用いられているフォト・デッサンを、同じ時に制作されたものと短絡的に断定することできないが、湯浅コレクションの作品の制作年を、「1951年に近い時期」と推測することは可能である。
制作年について、全く何の手がかりもない「制作年不詳」と、「1951年頃という可能性を含む制作年不詳」は、その内実が異なってくるのである。そのような、ささやかな「気づき」を丁寧に拾い集めてゆくことによって、より明確に、作品に関わる何らかの判断を示すことができるようになるかもしれない。このような「気づき」は、誰かが残した文字による記述を追うことからは、導くことができない。だからこそ、何度でも、時間をかけて、見方を変えて、様々な見方で、繰り返し、作品に向き合うことが、何よりも必要なのである。全ては、「見る」ことからしか始まらない。
重なり、ズレ、DUB
さらに、第14回で取り上げた湯浅コレクションの作品(第14回のfig.5、第15回のfig.7)については、二重写しのように、型紙がズレながら重なる効果についても、作品の魅力的な特徴として指摘した。この点については、すでに論じているので、以下では、同様に、型紙に由来する形が、ズレながら重なる効果が見られるフォト・デッサンを何点か、紹介しておきたい。

fig.3:フォト・デッサン 1936年 東京国立近代美術館蔵

fig.4:フォト・デッサン(その3) 1936年 東京国立近代美術館蔵

fig.5:フォト・デッサン 1936年 東京国立近代美術館蔵

fig.6:フォト・デッサン 1936年 東京国立近代美術館蔵
どうだろうか。このように、似たような効果が感じられるフォト・デッサンを複数並べることによって、モチーフ(主として型紙)がズレながら重なる感覚を、より感じ取りやすくなったのではないだろうか。ここで、この「ズレながら重なる感覚」は、音楽におけるダブ(=DUB)と近い感覚を湛えているように感じられる。この点に関連して、2011年の「生誕100年記念 瑛九展」の際に私が執筆した論考の一部を紹介したい。
「Wカセットという仕様のラジカセが登場したのはいつの頃だろうか。カセットデッキを2台搭載し、「ダビング」ができる夢のようなラジカセ。ダビングというアナログな転写は、連鎖的にイメージを生みだす瑛九の制作プロセスとシンクロする。例えば、フォト・デッサンの印画紙をもう一度転写することで生まれる、ポジ像のフォト・デッサン。版画を印画紙に転写したフォト・デッサン。コラージュのイメージをそのままトレースしたかのようなデッサン。それらは情報の劣化をともなわないデジタルな信号のコピーでは決してなく、ノイズまじりのアナログな転写の魅力に満ちている。
しかし、「ダビング」から「リミックス」までの距離は、そう遠くない。「装置としての瑛九」を、「リミックス」という視点から語りうる時代も、そう遠くないのかもしれない。」
(出典:梅津元「装置としての瑛九-PLAY, FOREWARD, REVIEW, PAUSE, REVERSE, STOP」『生誕100年記念 瑛九展』宮崎県立美術館ほか、2011年、246頁。)
この記述では、瑛九の制作における連鎖的な制作プロセスの特徴を、アナログな「ダビング」になぞらえている。つまり、この記述は、瑛九の複数の作品を想定して、「装置としての瑛九」から、次から次へと派生的に作品が生み出される局面を示している。だが、第14回で取り上げた作品と上記の4点の作品に共通するのは、一点の作品の画面から感じられる、型紙の形が重なりながらずれてゆくような効果であり、そこから、音楽におけるダブ=DUB が、想起されるのである。このことからわかることは、瑛九における連鎖的な制作プロセスは、そもそも、一点の作品の画像形成における、「重なり、ズレ、DUB」の感覚に由来するのではないか、ということなのである。
ペン・デッサンとフォト・デッサン
続いて、前回、第15回で取り上げた湯浅コレクションの作品である《(女)》を詳しく見てみよう(第15回のfig.9)。

fig.7:《(女)》 1951-1952年
この作品は、切り絵のようなくっきりとした輪郭の大きな白い人の形と、そこに重なるような、輪郭が黒みを帯びた二つの人の形が、基調を成している。このような構図は、型紙を用いることによって生み出されており、型紙以外の要素の導入が少ないことが、この作品のひとつの特徴となっている。逆にいえば、瑛九のフォト・デッサンにおいて、型紙が果たしている役割を検証する上で、典型的な事例となる作品といえる。輪郭が黒く縁取られている人の形には、大きさの差があり、左側の方が大きく、右側の方は小さい。どちらも、ダンスをしているような動きのある形を示している。
左側では、人の形の輪郭が黒く縁取られており、内側に向けてグラデーションが見られる。右側は、その形のほとんどの部分が黒になっており、白が見えるのは、腰から脚部にかけての一部分のみである。面白いのは、白く抜けている人の形が、平面的に、フラットに見えるのに対して、輪郭が黒く縁取られている人の形の方は、黒から白へのグラデーションが曖昧な空間を生むためか、わずかなヴォリューム、微かな奥行きを感じさせることである。しかも、そのヴォリュームは透明な感覚を湛えており、とても魅力的である。
型紙を用いた人の形は、切り絵のような平面的な印象になるため、瑛九は、様々な物体を組み合わせたり、セロファンなどの透明なシートに描画したものを組み合わせたりすることによって、複雑な効果を生むように様々な工夫を凝らしている。それに対して、この作品は、ほぼ型紙だけで作られているとみなして良いと思われるのだが、にも関わらず、透明なヴォリュームという魅力的な感覚を湛えているのである。また、構図の形成という点から見ると、複数の形が重なりあう構図が、瑛九と名乗る前の杉田秀夫によるペン・デッサンと似ているように思えてくる。
前回紹介した3点のペン・デッサン(第15回のfig.1, 2, 3)と、このフォト・デッサンを、ぜひ、見比べていただいきたい。このタイプのペン・デッサンにおいては、いくつかのモチーフが重なるように描画されており、イメージが透明に重なる感覚が、フォト・デッサンと共通している。また、黒と赤のインクの併用は、透明なイメージの重なりをより効果的に表現するために採用された方法なのではないだろうか。このように、杉田秀夫/瑛九においては、ペン・デッサンとフォト・デッサンが相互に関係しており、「デッサン」という技法の地平を開拓している。ペン・デッサンで鍛えられた描画は、型紙を作るための描画に確かに息づいており、フォト・デッサンにおけるイメージの形成と空間の生成を、豊かなものにしているとみなすことができる。
グラデーション、ヴォリューム、不透明性
それでは、今回取り上げる湯浅コレクションからの一点を見てみよう。

fig.8:《題不詳》 1953年
まず目をひくのは、人の横顔のようなイメージである。顔として見ようとすれば、確かに、目、耳、口に相当すると思われる部分があるが、人の顔をリアルに感じる訳ではなく、デフォルメされた顔として把握されるだろう。長い首、胸、手も確認することができるが、同様に、リアルな身体とはかけ離れた、デフォルメされた身体として把握される。瑛九の作品においては、頻繁に感じられる特徴であるが、コラージュにも通じる、やや奇異な感覚が漂っており、顔も身体も、抽象化ないし記号化している。
次に目をひくのは、矩形の反復や縦方向の黒い帯状の形の反復である。顔の背景を含め、おおよそ画面の上半分には、矩形がいくつも切り抜かれた、窓が反復するようなイメージが見えている。さらに、よく見れば、画面の下半分には、これよりも小さな窓が反復するようなイメージが見えている。さらに、黒い帯状の形の反復は、矩形の反復とも連動して、この作品に幾何学的なトーンをもたらしている。顔のイメージとの関連で言えば、首に相当する部分が縦に長く、直線的であることによって、身体のイメージと幾何学的な印象がオーバーラップしているように感じられる。
そして、最後に注目したいのは、顔や身体のイメージと、幾何学的なイメージが交錯する全体的な印象を、その背後から支えている、抽象的なパターンである。比喩的な言い方をすれば、その抽象的なパターンを持つ面は、「壁」のような印象をもたらしている。おそらく、この「壁」のような面を印画紙上に出現させているのは、凹凸のあるパターンを持つ磨りガラスなのではないかと推測される。本来、ガラスは透明であるが、フォトグラムの原理によって印画紙に定着されると、不透明な硬質な感覚をともなうことが多い。この作品においても、おそらく、そのような事態が起きていると思われる。
このように見てくることによって、この作品の大きな魅力となっている画面全体の空間構成が明らかになる。顔や身体のイメージと、幾何学的なイメージは、この作品の前面において重層的に絡み合っている。それに対して、不透明な硬質さを湛えた壁のような面は、少し後退している印象であり、画面全体に、「前」と「後」のような感覚が生じている。このような感覚は、画面を見ることによって体感されるものであるが、そこには、現実の世界を感覚するときの空間把握の経験が反映している。しかしながら、その感覚は、現実の世界を感覚するときの経験に収斂することはない。この作品に見られるイメージ形成と空間構成は、この作品においてのみ感覚される固有の質であり、他の作品によって代替することができない。芸術作品を見ることの豊かさが、眼前に広がっている。
Don’t give up the game
Don’t give up the game - Shellshock のフレーズが私を鼓舞してくれている。不思議なことだ。やる気とは無縁の、脱力ニュー・ウェイヴの代表格、演奏も歌唱も上手くないという烙印を押されたままでも、ニュー・オーダーの人気に翳りはなく、ピーター・フックとの決別というバンドの存続が危うくなる事態も、今や過ぎ去ってしまったようだ。来日のニュースに接して高揚したけれど、ピーター・フックがいないことを忘れていた、いや、忘れたフリをしていたのかもしれない。「続ける」ことに意味はないが、「続いている」ことには意味がありそうだ、そんな詭弁を弄したくもなる。
Shellshock、1986年にリリースされたシングルであるが、思い出されるのは、映画「プリティ・イン・ピンク」に提供された曲でもあるということだ。久しぶりにそのことを思い出したが、それにしても、まばゆい曲が並んでいた。アーティスト名だけでも、書き出してみよう。オーケストラル・マヌーヴァーズ・イン・ザ・ダーク、スザンヌ・ヴェガ、ジェシー・ジョンソン、INXS、サイケデリック・ファーズ、ニュー・オーダー、ベルイー・サム、ダニー・ハットン、エコー&ザ・バニーメン、ザ・スミス、これは痺れる、今も輝く80年代、なのだろうか。
(うめづ げん)
図版出典
fig.1, fig.2:『魂の叙事詩 瑛九展』宮崎県立美術館、1996年
fig.3, fig.4:『モダニズムの光跡:恩地孝四郎 椎原治 瑛九』東京国立近代美術館、1997年
fig.5, fig.6:『瑛九1935-1937 闇の中で「レアル」をさがす』東京国立近代美術館、2016年
fig.7, fig.8:「第33回瑛九展・湯浅コレクション」より
■梅津 元
1966年神奈川県生まれ。1991年多摩美術大学大学院美術研究科修了。専門は芸術学。美術、写真、映像、音楽に関わる批評やキュレーションを中心に領域横断的な活動を展開。主なキュレーション:「DE/construct: Updating Modernism」NADiff modern & SuperDeluxe(2014)、「トランス/リアル-非実体的美術の可能性」ギャラリーαM(2016-17)など。1991年から2021年まで埼玉県立近代美術館学芸員 。同館における主な企画(共同企画を含む):「1970年-物質と知覚 もの派と根源を問う作家たち」(1995)、「ドナルド・ジャッド 1960-1991」(1999)、「プラスチックの時代|美術とデザイン」(2000)、「アーティスト・プロジェクト:関根伸夫《位相-大地》が生まれるまで」(2005)、「生誕100年記念 瑛九展」(2011)、「版画の景色-現代版画センターの軌跡」(2018)、「DECODE/出来事と記録-ポスト工業化社会の美術」(2019)など。
・梅津元のエッセイ「瑛九-フォト・デッサンの射程」は毎月24日更新、次回は2025年1月24日です。どうぞお楽しみに。
ときの忘れものでは、1996年に『第1回瑛九展』を開催して以来、幾度にもわたってその作品を紹介してきました。これまでに弊ギャラリーが刊行したカタログやポスターをご紹介します。
●『奈良美智24歳×瑛九24歳 画家の出発』展カタログ(2010年)

『奈良美智24歳×瑛九24歳 画家の出発』展カタログ
発行日:2010年9月11日
発行:ときの忘れもの
25.6x18.1cm(B5判)
執筆:三上豊
図版:15点+参考図版:27点
価格:880円(税込)、送料:250円
●『第21回瑛九展 46の光のかけら/フォトデッサン型紙』ポスター(2011年)
※ポスターは限定200部のため、残部僅少です。

(表面)
2011年
発行:ときの忘れもの
デザイン:北澤敏彦+DIX-HOUSE
サイズ:84.1x59.4cm(A1)
限定200部(番号入り)
*全46点の型紙の裏表両面を掲載した大判のポスター

(裏面)
価格:2,200円(税込)、送料:1,000円
●『第23回 瑛九展』図録(2013年)

『第23回 瑛九展』図録
発行日:2013年5月17日
発行:ときの忘れもの
執筆:大谷省吾(東京国立近代美術館)
図版:約30点掲載
カラー 24ページ
25.6x18.1cm(B5判)
価格:880円(税込)、送料:250円
●『第28回 瑛九展』図録(2019年)

執筆:大谷省吾(東京国立近代美術館美術課長)
図版:約44点掲載
編集:尾立麗子(ときの忘れもの)
デザイン:岡本一宣デザイン事務所
翻訳:Polly Barton、勝見美生(ときの忘れもの)
価格:880円(税込)、送料:250円
●『生誕110年 第30回瑛九展 フォトデッサンと型紙』図録(2021年)

執筆:ワーグナー浅野智子(美術博士)、飯沢耕太郎(写真評論家)
図版:約26点掲載
編集:尾立麗子(ときの忘れもの)
デザイン:岡本一宣デザイン事務所
価格:880円(税込)、送料:250円
●『第32回 瑛九展』図録(2022年)

執筆:大谷省吾(東京国立近代美術館美術副館長)
図版:20点
編集:尾立麗子(ときの忘れもの)
デザイン:岡本一宣デザイン事務所
翻訳:小川紀久子、新澤悠(ときの忘れもの)、勝見美生(ときの忘れもの)
価格:880円(税込)、送料:250円
●「第33回瑛九展/湯浅コレクション」カタログ(2023年)

発行:ときの忘れもの
図版:40点
写真:15点
執筆:大谷省吾、小林美紀、工藤香澄
翻訳:小川紀久子、新澤悠(ときの忘れもの)
編集:Curio Editors Studio
デザイン:柴田卓
体裁:B5判、84頁、日本語・英語併記
価格:2,750円(税込)、送料:250円
●本日のお勧め作品は瑛九です。
《南風》1954年
キャンバスに油彩
46.0×38.0cm(F8)
サイン・年記あり
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※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください。
●パリのポンピドゥー・センターで始まったシュルレアリスム展にはときの忘れものも協力し瀧口修造のデカルコマニーを貸し出し出品しています。カタログ『SURREALISME』の仏語版は売り切れ、現在は英語版のみ特別頒布しています。
サイズ:32.8×22.8×3.5cm、344頁 22,000円(税込み)+送料1,500円

◆「生誕90年 倉俣史朗展 Cahier」
会期=2024年12月13日(金)~12月28日(土) ※日・月・祝日休廊
出品全作品の詳細は12月9日ブログに掲載しました。

(映像制作:WebマガジンColla:J 塩野哲也)
※クリックすると再生します。
※右下の「全画面」ボタンをクリックすると動画が大きくなります。
●ときの忘れものの建築空間についてはWEBマガジン<コラージ2017年12月号18~24頁>に特集されています。
〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531 E-mail:info@tokinowasuremono.com
http://www.tokinowasuremono.com/
営業時間=火曜~土曜の平日11時~19時。日・月・祝日は休廊。
JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。

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