ときの忘れもの ギャラリー 版画
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佐藤研吾 Kengo SATO
《仮面と連担》  

2024年
鉄、木(クリ)、アルミ、柿渋、鉄媒染
各36.0×97.9×H170.0cm 5台組
サインあり
Photo by comuramai


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仮面と連担
 また木と鉄をイジりながら針穴写真機を作っています。カメラ作りは、我ながら良いお題を据えたなと思っています。もう5年くらいは作り続けていますが、まだまだやることがありそうです。私が普段取り組んでいる建築という領域はとても遅い文化で、何百年経とうがあまり変わり映えしません。けれどもそんな中でみんな何らかの”些細な新しさ”を探ってもいます。一方、私がやっているカメラ作りは、内部空間(空洞)を持つのは建築と同じですが、多分その建築よりもさらに遅い展開(あるいは転回)の径を辿っているようです。あえて遅く、そしてこれまでに自分が作ってきたものを振り返りながら、制作に取り組んでいます。
 ただ、今回の制作では別のきっかけも得ることができました。それは1918年にロシェが撮影したマルセル・デュシャンのNYのアトリエのスナップ写真。アトリエを兼ねたアパートの部屋の片隅に少し大きな箱が床に置かれていて、その箱におそらくはデュシャンが腰掛けています。ただ写真にはデュシャンの上半身は光で飛んで消え失せ、足を組んでいる下半身だけが写っています。その横には、タンスから洋服が吹き出して散らかった隣の部屋の欠片も見えます。この写真は当時のデュシャンの制作の様子を知る史料上も重要なものととされているようです。
 ただ、私はこの写真を見たとき、むしろ写真の中で消えてしまったデュシャンの姿に驚きました。そして残された彼の足と後ろの箱の唐突な複合をすごいと感じました。そしてこれもまた彼による制作の成果なのだと予感しました。デュシャンの上半身は映らなかったのではなく、むしろ光によって上半身が隠されたのだろうと。光の向こうに彼は変わらず居るはずです。上半分が光のヴェールに包まれ、下半分と椅子(箱)はそのままに。写真という媒体は、世界にヒラリと薄布を纏わせ、切って取り出すことができるようです。
 そんな改めての発見と印象を携えて、カメラの木箱と鉄の架台を5つ作っています。タイトルはひとまず、「仮面と連担」、あるいは「連なるためのハコと架台1,2,3,4,5」としています。
 少し高い架台の上にカメラの木箱を置きます。少し引いてみれば、高い鉄塔の上の物見小屋のように見えるかもしれません。ハコは架台の正面からは姿が見えず、小さく開けた丸い穴からこちらを覗いています。ハコからの視線の下に、小さな椅子が置かれ、人が腰掛ける事ができます。
 5つの椅子付きのカメラは円状に向かい合い、お互いに写真を撮り合います。ただし、5体が均等に円状に並ぶならばどのハコも正対はしません。ハコ、そして椅子に座るかもしれない誰かの視線は、多少の余白を持って交錯することになると思います。複数のモノが中心へ向かい、と同時にそのまますれ違い続けるかもしれませんが、一堂に会する一刻の場面(といっても撮影には室内だと10時間ほどかかるのですが)を、5つのハコの針穴から覗き見ようとしています。
 ちなみに、そんな形で撮影したいくつかの写真を、一つの小さな本にまとめておこうと考えています(タイトルは「窓がないわけではない」)。
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 このプロジェクトについて、別の言い表し方を試みてみます。
 実は今回のアートフェア東京への出展についてギャラリーときの忘れものさんから誘いを受けたときには、「茶室を作ってみませんか」ということを言われました。なるほどなるほど、と考えつつも、どうにも賑わい溢れるだろう会場の中で落ち着いてお茶を飲むことなどできるのだろうか、などと余計な懸念を抱いてもいました。そこで、お茶室からもう少し解きほぐして、喫茶の場所くらいを作ってみようと考えました。そしてさらに解して、何人かの人が一時の時間を過ごすきっかけとなる場所を作ろうと考えました。
 毎度のことなのですが、私は建築を生業としていながらも、実は建築を作ることに違和感を抱き続けています。こんな大きなハコが果たして必要なのかと。あるいはこんなに外の世界と閉じてしまって良いものかと。そこで、建築を作る前に、家具、つまり家の中に本来散らばっている部品あるいは装置、程度のモノたちを使って場所を作ることができないかと考えます。椅子への興味はそんなところからも来ています。
 とはいえ、もし5つの席があるからと言って、5人が座っていないといけないかといえばそうではありません。たった一人で街の喫茶店に行き、店内には自分の他に客は誰もいなくてガランとしていても、そのうち誰かお客さんは来るのだろうと、何となくカウンター席の端に座ってコーヒーをすすりながら、隣に並ぶ空席の椅子を眺めたりすることがあります。椅子というのはとても奇妙なもので、いまそこに誰も座っていなかったとしても、ちょっと前に誰からが座っていたのかもしれない、あるいは数分後には誰かが座り始めるかもしれない、という風に自分がその椅子の前にいない時の風景を想い起こさせてくれることがあります(もし、椅子の座面がちょっと凹んでいたりしたら、なおさらです)。椅子の上に誰も居ないことが、返って誰かのかつての/これからの存在を想起させます。ある場所にたった一人でいた時の、他の誰かの不在による複数性の予感。そんなふうに意識が少しだけ広がっていく様を、他者との「連帯」とまでは実感を持って言うことはできないとも思ったので、「連担」という言葉で言い表せないかと考えています。連担とは、主に都市計画などでの土地の連なりを示すときに使われる固そうな言葉ですが、連帯や連携、あるいはもしかすると連続といった言葉よりもよりモノゴトの関係を組み立てる上での嘘偽りのない実直な言葉な気がしているのです。
そして、そんな連担の気配を、いくらかの時間をかけて取り込むことを試みようとしています。(2024/02/08 佐藤研吾)


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