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荒井由泰のエッセイ「マイコレクション物語」
第4回 「アートフル勝山の会」活動とマイコレクション その1  2012年8月11日
1977年ニューヨークから福井県勝山市に舞い戻ったものの、ある程度覚悟はしていたが、アート環境のあまりの違いには愕然とした。もちろん画廊は無いし、地方の美術館の企画展にも限界がある。そこで、受け身の発想を変えて、自らアート環境を変えていく戦略を考えた。
1978年に「アートフル勝山の会」を設立し、活動を開始した。アートフル(Art-full)とは「アートがいっぱいの勝山を作りたい」という思いで作った造語である。アートフル勝山の会の活動の目的は地元で展覧会や音楽会を企画して、地域にアートを根づかせることにあった。最初の企画展は「池田満寿夫版画展」(1978)で勝山市のN氏がコレクションした池田の50年代、60年代の名品(「聖なる手」「タエコの朝食」など15点)をずらりと並べた展覧会となった。2回目が同じく1978年の「現代版画の巨匠6人展」(池田満寿夫菅井汲長谷川潔浜口陽三浜田知明駒井哲郎)で私のコレクションを含め、ほとんどをふるさとにあった作品で展示を構成した。(浜口陽三の名品を大阪のプチフォルムの青柳氏からお借りしたが・・・)
福井県勝山市は人口3万人足らずの小さな市であるが、何故、池田満寿夫の作品をはじめ、著名な作家の作品があるのか不思議に思われるかもしれない。その理由を明かせば、福井県は1950年代に栃木県の久保貞次郎氏が提唱し、全国に広がった「創造美育活動」(創美)の一大拠点であったからだ。創美の活動から「小コレクター運動」(3点の作品を持てば、あなたは立派なコレクター)が生まれ、運動が広まった。
この運動の意義は「本物の美術品を持つことでアートに対する理解・愛着が増す」、また、「美術品を買うことが無名のアーティストを支援・応援することにつながる」等の考え方にあり、福井県の「小コレクター運動」が一番盛んであったようだ。かくして福井県内に瑛九、北川民次、オノサトトシノブ、アイオー、池田満寿夫らの作品が版画を中心にして、コレクションされることになる。
一方、小コレクター会運動の一環として、50年代から様々な形で展覧会(企画展)が行われてきた。1958年にはふるさと勝山市で「現代版画3人展」(瑛九アイオー、池田満寿夫)や「泉茂展」が行われており、その後もお隣の大野市も含め、創美の推進メンバーを中心に何度も展覧会が開催されている。1970年には勝山市民会館にて「瑛九回顧展」が県内にある作品(油彩45点、フォトデッサン9点、その他版画、水彩を含め85点)を集め、展示された。
現代美術が庶民にひろがるには地域のアジテーター的存在が絶対必要だ。我がふるさとでは中村一郎、原田勇両先生や堀栄治先生(大野市)らの校長経験者が牽引役になった。また、小コレクター運動から地域に本格的なコレクターも育った。その一人がN氏であり、また、後にアートフル勝山の活動拠点となった「中上邸イソザキホール」の家主でもある中上光雄先生(ドクター)もしかりである。私が勝山市に戻った頃は、かつての創美活動への熱い情熱はピークをすぎていたものの、美術教育の一環として野外美術学校が継続して行われており、また、オノサトトシノブの版画エディションが企画されるなど、活動が続いていた。私が先輩達のかつての熱い思いを受け継ぎつつ、アートフル勝山の活動が開始した。この活動は結果として30年あまり続けることができたが、原田先生や中上先生がブレイン・スポンサーとしてバックアップしていただいたおかげと深く感謝している。
マイコレクションに関して言えば、最初はふるさとの先輩達が敬愛した作家達を中心に企画展を行ったこともあり、「アートフル勝山の会」活動と私のコレクションとは必ずしも連動はしなかった。しかし、アートフル活動を通じて、アートへの情熱が高まるとともに、私の好きな作家達・会いたい作家達の企画展を行うことで絶妙にシンクロナイズしながらコレクションの充実につながることになった。
アートフル勝山の会の活動の記録をひもといて、80年代までを振り返ると、1979年には「北川民次展」、1980年には「N氏コレクション展」、「レコードコンサート(アイオーの絵と第九を楽しむ会)」を皮切りに、その後は基本的には作家を迎え、レセプションを行い、販売活動をしてレセプションや広報費用をまかなう仕組みで運営してきた。
80年代に招聘した作家としては岡田露愁(1981)、オノサトトシノブ(1981、85)、木村利三郎(1982)、岡本太郎(1983)、野田哲也(1984)、元永定正(1986)、泉茂(1987)、吉原英里(1989)、関根伸夫(1989)等、そうそうたる顔ぶれである。

1981
オノサトトシノブ展

1985
オノサトトシノブ(芳名録に描く)

1984
野田哲也版画展
前列右から三人めが野田哲也先生、
その後のむさくるしい鬚面がときの忘れもの亭主。
左端の青年が荒井さんと前列が荒井さんの奥様。
その後がイソザキホールのオーナーの中上さんご夫妻。

1986
元永定正展
元永先生と握手する荒井さん、中上さんご夫妻たち。

1989
関根伸夫展
黒シャツの鬚面が関根伸夫先生

80年代におけるアートフルにおけるトピックスとしては、1983年に我がアートフルの活動のよき理解者であり、同志であり、スポンサーでもあった中上先生が当時の現代版画センターの綿貫氏のご縁で、磯崎新先生の設計のすてきなご自宅を完成させたことが挙げられる。われわれは「中上邸イソザキホール」と命名(磯崎先生の許可も得て)し、その後アートフル勝山の会の活動拠点として、フル回転することになる。
イソザキホールのオープン記念(1983)には磯崎先生ご夫妻が駆けつけてくださり、盛大なオープニングとなった。また、同年、我がふるさと出身の藤沢典明氏のご縁で、岡本太郎を迎えて、今となれば思い出に残る楽しい展覧会も同会場で開催した。

1983
中上邸イソザキホール
勝山は有数の豪雪地帯。

1983
大雪の中で行なわれた中上邸イソザキホールオープニング
右から二人めが磯崎新先生。
マイクを持つのがオーナーの中上さんと奥様。
柱を背にしているのが荒井さん。

私のコレクションについてはニューヨークからも戻った後、そして80年代においては、フィッチからモーリッツ(Philippe Mohlitz)、メクセペル(F. Meckseper)、そしてデマジエール(Erik Desmazie`res)の新作、さらにはブレスダン(Rodolphe Bresdin)の「死の喜劇」(1854)などを購入している。また、ニューヨークで購入した作品を一部手放して、ブレスダンの「良きサマリア人」(1861)もコレクションに加わった。また、今となればラッキーな出会いとなった作品とも遭遇している。リーウーハンの「項B」(木版、1979年の東京版画ビエンナーレで京都国立近代美術館賞受賞作 当時9万円)や有元利夫の「7つの音楽」(当時7.8万円 残念ながら下取りに出して今は手元に残っていないが)など貴重な作品達である。さらに、初期作品を手に入れ、たいへん気に入っていた柄澤齊が肖像シリーズを発表したこともあり、「全作品を買う」と宣言し、コレクションを始めたことも懐かしい思い出だ。肖像シリーズは現在48点になった。

Bresdin
「良きサマリア人」
1861

リーウーハン
項B
木版

地方においてはさほど変化を感じなかったが、時代はバブル期を迎え、そして崩壊への道をたどることになる。アートも大きな打撃を受けたが、新しい時代の到来でもあった。

(あらい よしやす)

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